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Archive for 2月, 2013

毛筆で書かれた文書のよさ

28 2月

軽い印刷文字
  私の周りには、役目柄、毛筆で書かれた古文書が沢山ある。区内の総会議事録から事件の顛末を書いた古文書など沢山ある。黒々とした墨の文字が今も鮮やかである。そして、押された判子の朱肉の色も鮮やかである。

  我が地区でも最近はパソコンで議事録を書いているが、有り難みは全く感じられない。しかし、両者にはそれぞれメリット・デメリットがあるように思う。

区の会議録。私にはやっと判読できる限界だ。

  毛筆の特長としては、簡単には改ざんできないような雰囲気がある。一字一句心を込めて書いているように思われる。しかし、書いている人間のくせが出て読み辛いのが欠点であろう。

  人にはそれぞれ字の崩し方に個性があるので、達筆になればなるほど素人には読みづらい。前後の文章や文意から判断しなければ判読できない。書き直し(校正)ができないので、時々、主述の関係が曖昧な場合も少なくない。

  パソコンの文字は、ほとんどくせがなく、文字は読みやすい。しかし、文章を何度も簡単に書き直すことができるので、読みやすい文章にすることは容易だが、どれが本物なのか分からないという欠点がある。

  達筆で書かれた記録などは、それ自体芸術的であり、ほれぼれすることもある。内容もさることながら文字の美しさには目を見張るものがあるからである。そして、そのような文字を読み下す人は学があるように思われる。

  パソコンの文字はそれに反して全く機械的である。パソコンで書かれた文字がどんな文字かは明白だが、知識が不足していると判読できない場合がある。しかし、会議録程度の場合にはそのようなことはあまり起こらないだろう。

 私も、筆で書いてみたいという願望は常に持っている。しかし、練習する時間がないので、筆を使うチャンスは最近激減している。自分の能力と偶然性から思わぬ効果のある文字が書けることを期待して毛筆を使ってみたい。

(日記 午前中は、区の広報誌『かたせ瓦版』の編集作業の詰め。午後は、区長代理に我が家へ来てもらって、区の決算総会に向けて帳簿整理を行った。その後、『かたせ瓦版』をコピーし、他の配布物と共に、班長宅へ配った。一月に二回瓦版を発行しているが、今日が一番ほっとする日だ。)

 
 

地区の子供との接点

27 2月

子供が興味を引くかどうか
  私は根本的には人間が大好きだ。それは自分の生い立ちに影響があるかもしれない。早くから両親をなくしたために、結婚するまでのある時期、一人暮らしとなった。

  頼りになるのは、信頼できる仲間や先輩だけだった。そんな中で、赤の他人でありながら、親父代わりになってくれそうな人、兄貴になってくれそうな人、姉になってくれそうな人が周りにたくさんいた。

  また、前向きに生きていれば誰とでも友達になれるとも思っていた。そんな中で、バンドをやっていたので、仲間は常に自分の周りにいた。音楽のおかげで救われたとも言える。

  さらに、和太鼓を始めたので、子どもたちとも接点ができた。最初は自分の集落で始めた太鼓が勝山に広がり、福井県に広がっていった。今私のところで太鼓を練習している一番小さい子供は、小学1年、2年生だ。この中には村の子はいない。

 村の子との接点は、先ずあいさつ運動からだと思っている。引っ込み思案であいさつできなかった子が、今では進んであいさつしてくれるようになった。花の水やりをほぼ毎日やっていたので、子どもたちと接する機会も増えた。

明日発行の『かたせ瓦版』に「七つの違い探し」として掲載予定の絵の一枚。正解の小学生には粗品進呈だ。

 また、月二回発行する『かたせ瓦版』のうち、第4木曜日のものには小学生対象に『七つの違い探し』を掲載している。そして、違いを見つけた子には、ささやかながらお菓子と学用品をプレゼントしている。子どもたちが瓦版片手にやって来る。

 そんな中で、何か一言は話すことができる。こうして話すことができる子供が少しずつ増えている。まだ、一つ奥の手があると思っている。それは紙芝居だ。これはまだ自分の集落では披露していない。今年は、自分の集落でもできたらと思っている。

  それに、算数や高校数学を仲立ちにして、子どもたちと接点ができないかを考えている。そのために、子どもたちが年齢を超えて興味を持ってくれる何かを提供したいと思っている。

  少しずつ、それができていると思っている。会えば、あいさつだけではなく、立ち話ができる関係になりたいと思う。そんな子が小・中・高校生にできつつあると思っている。こうした子供が増えれば人生は楽しくなる。

(日記 午前10時より、まちづくりの話し合いのために、公民館へ行った。前向きの人間とまちづくりに関する話をするのは楽しい。昼までに終わるつもりが飯も食べずに午後2時近くまで話し込んだ。今年は、猪野瀬地区でもまちづくりのアクションを開始したい。家内が昨晩から福井へ行っていないので昼はソバ屋で外食。ソバ屋の奥さんから私の作った『勝山よいとこ』の踊りを教えてほしいと頼まれた。この民謡だけは、見(魅)せる民謡のつもりで作ったものだ。ありがたいことだ。午後は、もっぱら『かたせ瓦版』作り。夜は、『七つの違い探し』の絵を描いているだけで終わってしまった。)

 
 

恐竜はなぜ滅んだのか?

26 2月

自分の身体をコントロール不能
  最近、ロシアに隕石が落下し、大きな被害を与えた。その隕石によって恐竜が絶滅したと言われている。隕石の衝突は想像を絶する破壊力があるという。恐竜を絶滅させた隕石は、直径が10キロを超え、重さ1兆トン、地球に衝突するときの秒速30キロメートルで、衝突時の温度は百万度以上にもなったそうだ。

   このとき、ほとんどの恐竜は絶滅したが、全ての生物が絶滅したわけではない。ここで生き延びた動物の中から人間が進化してきたのだから。大きな身体の恐竜は、自分の身体をコントロールできなかったのだろうか。

我が勝山郷土研究会のホームページ『恐竜博士になろう』。

  さて、ここまでは恐竜の話。これを国家に置き換えてみるとどうなるだろうか。大きな国家が自国を生き延びさせるのは簡単ではない。恐竜が少しの温度変化で絶滅したように、国家もどこかそのようなところがあるように思えてならない。

  大きな身体の恐竜(国家)が生き延びるために、餌を食べなければならない。恐竜同士は、常に餌の奪い合いをしているのだ。少しでも良質な餌を獲得しようとしてうろつき回っているようだ。

   しかし、ギリシャ恐竜は、生きるのに四苦八苦している。中国恐竜は、餌があるかもしれないが、餌場の環境が悪化している。それと同時に身体が大きいのでさらに餌場を広げようとして隣近所の恐竜と常に争いを繰り広げている。

  我が富士山恐竜はどうにか生き延びているが、アメリカ恐竜がTPPという餌場を求めて我が冨士山恐竜の餌場場へ侵入してきそうだ。富士山恐竜は、今のところ体力が弱っているが、元気を回復できるだろうか。阿倍調教師の思うように冨士山恐竜は生き延びられるのだろうか。

ホームページ『恐竜博士になろう』は http://dino.iexam.jp/ をクリック。

  三種類の餌を食べて、TPPという餌場でアメリカ恐竜と共存していけるのだろうか。本物の恐竜が絶滅したように我が冨士山恐竜がそうならないように祈るばかりだ。ここが正念場だ。

中年会と『役員との語る会』でアンケートを書く会員。

(日記 午前中、大正4年以来の区の総会会議録を読んだ。そして、午後から『かたせ瓦版』の編集を始めた。午後7時から、中年会と『役員との語る会』に出席。楽しく話し合うことができた。いい話も聞けた。)

 
 

今も昔も、虫や鳥獣の害に苦労

25 2月

市の『鳥獣害対策研修会』に参加して
  午後七時より、勝山市の『鳥獣害対策研修会』に参加した。県の鳥獣害対策室の主任N氏が、『正しく進める獣害対策』として、主に猪やニホンザルの獣害対策について話をしてくれた。勝山でも、他人事ではない。

  我が集落でも、『農事組合法人かたせ』の山際の田んぼには電気柵を張って被害を少しでも減らそうと努めている。また、山際の集落は獣害に相当悩まされているようだ。

  「猪については、数を減らせばよいというものではない」という話があったが、なるほどと思った。銃や檻などを作って個体を減らしても、残った個体の餌がかえって豊富になり、繁殖力の旺盛な猪はどんどん子供を産んで個体はかえって増えるということだった。

  これは嶺南での経験で分かったことらしい。それよりも、餌を提供しないことが大切だということだった。餌を与えるということは、猪の繁殖を手伝っているようなものだとのことだった。

 ところで、こうした鳥や獣による農業被害は何も今に始まったことではないようだ。今、今週、発刊の瓦版の参考にと、区の議事録を読んでいるのだが、その中には次のようなものがあった。

今日の『鳥獣害対策研修会』のテキスト。

◆イナゴの卵採集の件◆(大正14年の初寄り合いでの決議事項)
・イナゴの卵、一戸当たり1升(1.8㍑)を義務採集とする。一升当たり四十銭で区が買い取る。
・最終期限は、6月15日とする。
・義務数量を採集しない者に対しては、区が1円を徴収する。
・採集した卵は、煮え湯に浸し十分殺し、区長宅へ持参すること。
 
◆モグラ捕獲の件◆(昭和3年の初寄り合いの決議事項)
・モグラは一匹十銭で区が買い取る。

  確かに、私の子供時代、「イナゴ」は、ありとあらゆるものを食い荒らしていたように思う。トウモロコシの葉にもたくさん捕まって葉を食い荒らしていたし、稲にもたくさんのイナゴが群がっていた。その被害たるや半端ではなかったと思う。

  私たちの子供時代には、イナゴを捕まえるノルマがあった。一升瓶にいっぱい捕まえたのだ。焼いて人間が直接食べることもあったが、多くは、鶏の餌にしたものだ。

  私たちの集落では、イナゴの害を少しでも減らそうと、卵を取ることを義務としたのだ。今も昔も、こうした悩みは同じようだ。ところが、イナゴに関しては、「ホリドール」という強力な農薬が出てあっという間に激減してしまった。しかし、人間にも大きな被害があって後に使用禁止になった。このことは今も覚えている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「ホリドール」とは(ネットより)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  「ホリドール」は、無色・無臭の油状物質で、きわめて強力な殺虫作用を示し、稲作害虫に対する効果が大きい。1951年にバイエル社から「ホリドール」という商品名で日本に輸入され、多量に使用されたが、人畜に対する急性毒性と著しく高い欠点を有し、さらにその後の開発研究によって低毒性の有機リン酸エステル類が続々と開発されたため、日本では1969年にその製造が中止され、1971年には使用禁止となった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

区長と農家組合長を対象に開催された『鳥獣害対策研修会』(於:すこやか)

(日記 午前中、『瓦版』発行のために、大正12年からの村の初寄り合いの議事録を読んでいた。いろいろ興味のあることが書かれていた。昔も今も、区の運営には苦労していたようだ。今と異なるのは、年に何度も総会を開催していたことだ。午後も作業を継続。午後7時より、勝山市の『鳥獣害対策研修会』に参加した。)

 
 

快晴の横浜から雪の左義長・勝山へ

24 2月

春の来ない冬はない
  横浜は快晴。午前9時過ぎに息子の車で「あざみ野」駅へ送ってもらった。駅で孫達と別れることになったが、次女が泣き始めて長女も泣き、みんなもらい泣き。別れは本当につらかった。車が見えなくなるまで息子の家族を見送って新横浜へ電車で移動。

横浜を発つ前に家族全員で記念写真。

  新幹線で名古屋を過ぎると雪が見えた。そして米原で乗り換え。鯖江あたりは全く雪がなかったが、「えち鉄」で勝山に近づくにつれて雪が見え始めた。左義長にしては多い雪だった。

 そして、午後3時半に帰宅した。早速、正月の締め飾りを集めて左義長の行われている本町へ持って行った。その後、家内と二人で、少し左義長を見て回り帰宅した。

  夕方、芳野の櫓のリーダーであるOさんに誘われて、芳野の櫓へ出かけた。そこで、Oさんが指示して、私が40数年前に作曲した『勝山小唄』の左義長バージョンを披露してくれた。

 演奏を始めるに当たって、今から新曲『勝山小唄』を演奏すること、そしてこの歌を私が作ったことを紹介してくれた。私も、デジカメで動画を撮ることにした。

 そして、さらに、  「芳野地区からこの『勝山小唄』を勝山全体に広げたい」と紹介してくれた。皆さんがとても楽しそうに演奏してくれた。非常に盛り上がっていた。ありがたかった。

『勝山小唄』を踊ってくださった芳野区の皆さん。「ありがとうございました。」

(日記 横浜の息子の家を午前9時過ぎに出て、自宅に午後3時半過ぎに着いた。その後『左義長まつり』見学。そして、どんど焼きを見て午後10時に帰宅。今日は、本格的に雪が降った。)

春を呼ぶどんど焼き。いよいよ勝山にも春が来る。

 
 

孫の誕生会

23 2月

ついでに私もお相伴
  今日は、最初の孫(息子の長女)の誕生日。私の誕生日とは3日違い。どうしても横浜で祝いたかったので、この日に合わせて東京旅行を企画した。今日は旅行の4日目めだ。昨日は、息子の次女が「爺ちゃんと一緒に風呂に入ろう」ということで、一緒に風呂へ入ったが、きょうは、「爺ちゃんと一緒に寝よう」ということになっている。

側面に「70(歳)」と描かれたケーキのロウソクの火を消す八歳の誕生日を迎えた孫(長女)。

  誕生日は、子どもたちの成長を見る機会でもある。ろうそくに火をつけたケーキが登場。そこには、70の文字と8の文字が並んでいる。ケーキにはそれぞれ二人に対して「たんじょうび、おめでとう」とあった。三日前の私の誕生日も祝ってくれたのだ。

  古希祝として、長女の家族、次女から、そして、今日、長男の家族にそれぞれ祝ってもらったことになった。その後、パパ・ママから孫へのプレゼント。私達も、孫にプレゼントを送った。 最後に、妹からの折り紙のプレゼント。長女はとても嬉しそうだった。そして、私にも長男族からのプレゼントがあった。

  その後、会食。久々に賑やかな食事だった。子どもたちは、どんどん健やかに成長する。かわって私たちは、年を取っていく。時間だけは誰にも平等に進んでいくのだ。今、私のできることは、子どもたち、孫達に何ができるかを考えながら、自分のやりたいこと、地域のためにすることをやっていきたいと思う。

(日記 午前中は、子どもたちは、次女の新体操の体験会に出て行った。留守番は、私達と息子の3人。息子の仕事のことや、自分の夢などを話し合った。まだ、私にはすることがあると思っている。今年の私のキーワードは「算数・数学」だ。昼は全員で買い物に出て外食。夕方

プレゼントに囲まれてうれしそうな孫とプレゼントされたジャケットを着て喜ぶ私。「これを来て歩くぞ!」

は、孫の誕生会。私もお相伴に預かる。色々話せたし、息子の仕事の一部を見ることができたし、孫の誕生会に出席することもできた。福井では、長女家族と温泉へ、そして東京では、次女に会えたし、横浜では、長男家族とも会えた。思い出深い東京旅行となった。) 

 
 

人と人とのつながり

22 2月

電車内で思うこと
  今日は次女のアパートを出てまず電車で渋谷へ移動する。都内では、電車網が発達している。それらをうまくつないで目的地へ移動するのだ。田舎のように待ち時間を気にする必要はない。

渋谷をぶらぶら。

 電車の中で、思うことは、まず多くの者がイヤフォーンをして音楽を聴いていることだ。そして、器用にアイフォーンを使っている。互いに、挨拶を交わすこともない。ひたすら、画面に夢中になっている。

  多くの人が行き交っているが、互いに挨拶などを交わすことはない。みな目的地に向かってひたすら移動しているだけようだ。自分の世界に浸っているように見える。音楽を聴き、アイフォーンでゲームをしている高校生もいる。

  電車の中では、それぞれが積荷のごとく関わることはない。これが、都会の暮らしやすさなのだろう。表へ出ても、知らぬもの同士で、それらの目を気にすることはない。

  年がら年中、“”旅の恥はかき捨て”の心境だろうか。そんな気持ちで、ここ二日間過ごしてきた。しかし、電車の中では、いくつかの親切な人に出会った。
  二人がそろって乗車し、家内だけが座ると、さっと私に席を渦ってくれる若者がいた。男性もいたし、女性もいた。渋谷から新宿への電車の中でも、家内は席を譲られた。こうした人が入る限り、都会もまだ捨てたものじゃないと思う。

  横浜への移動中、事故が発生して電車が途中の駅で運転停止になった。私は、後3駅を残して電車から下ろされた。いつ、電車が動くのだろうかと心配になった。

  次から次へと電車が到着し、すべての人が電車から、降ろされ、多くの人たちが構内にあふれ、自動改札はストップし、ホームと外との出入りが自由になってしまった。このような中でも、親切な人がいて、いろいろ親身になって心配してくれたりした。代行バスなどの切符も配布されたが、私たちは、事故処理が終わるまで、駅で待つことにした。再開の時間を聞きつけて、知らせてくれる人もいた。

長男宅で孫達と。クリスマスプレゼントのドレスを着てくれた孫(次女)。

  冷たそうに感ずる都会の人の動きの中でも、親切な人はいて、いざというときには、言葉をかけてくれたり、親身になって心配してくれたりするものだと感心した。 これが都会での生き方かもしれないとも思った。普段は無関係で過ごしているが、時には、親切な者がいて、他者を助ける。しかし、都会では老後はどうなるのだろうかと少し気にもなった。
息子の家でテレビを見ていると、NHK特集で、少子高齢化社会の問題点を取り上げていた。特に、問題となっている地区は、田舎から都会へ出、都心から離れた郊外で一戸建てを買った人たちの集っている地区だ。

 その人たちの子供たちが、都心へ移り、空き家がどんどん増えている問題が取り上げられていた。田舎が過疎化するのとほとんど同じ問題だった。他界の中心部以外はすべて過疎化するのだろうか。いまこそ、知恵の働かせどころだ。

(次女のアパートで目を覚まし、電車で渋谷へ移動。あちこち見て回り、横浜へ。今日は長男のアパートへ泊まるのだ。しばらく休んで、5時から始まる長女の新体操を見学に行く。前から思っていることだが、身体の柔軟性や、ほかの競技の基礎力を養うにはとてもよい運動だと思っている。)

 
 

東京二日目

21 2月
 
スカイツリーで考える 
   次女のアパートで目を覚まし、朝食後、電車を乗り継いでスカイツリー駅へ。今日は運よく快晴。空を見上げたところ、天に向かって直立するスカイツリーが目に入った。これが第一印象。そして、日本の技術に関心する。  
 

スカイツリーはとにかくでかかった。

 おまけにこのスカイツリーには、昔の建築法が応用されているのだという。それは地震に対する備えだ。五重塔に使われている昔の宮大工の「心柱」がスカイツリーでも設置されているのだという。昔の技術に感服。

 
  早速、入場券を買い求めるために家内と二人で列に並ぶ。切符を買うまでに40分待ちだという。後ろに並んでいる人と人といろいろ話しながら待って、ようやくチケットをてに入れた。さらに、エレベーターに並ぶために、数分ほど待った。 

  そして、ようやく、350m地点の第一展望台へ到着。ここで、さらに第二展望台のチケットを入手するために、列に並ぶこと20分。そして、エレベータの前に並んで、ようやく第二展望台へ到着。  

 ここからようやく自由になった。展望回廊をゆっくりと回りながら東京のまちを眼下に眺めた。全体が俯瞰でき、東京がこういう形になっているのかと納得できた。  

  450m地点からは、動くものといえば、自動車と遠くの飛行機だけ。まるで箱庭の中の大小のマッチ箱のような風景だった。これらの建物の中で、さまざまな人たちが働いているのだろう。  

  一人ひとりは、何千というミツバチの大群の中の一匹の働き蜂のような存在であるようにも思える。私が、眼下を眺めていた時間帯には、私の長男と次女もどこかの建物の中で、働いているのだろう。 

  一人ひとりには、それぞれの人生がある。遠くから見れば、小さな存在であるように思えるが、かけがえのない存在でもあるのだ。それぞれが自分の人生に納得し、向上するために、それぞれのやり方で、前へ進んでほしいと願う。  

地上450mの展望台から眺めた東京。スカイツリーの影も見える。

 スカイツリー見学の後、家内のリクエストにより、浅草寺へ。これ殻も東京へは何度もこれるだろうと思い、次女のアパートへ戻った。  

(日記 スカイツリー見学と浅草の浅草寺参拝。そのご、次女宅へ宿泊。)

家内のリクエストで参拝した浅草寺。

 
 

「さあ、古希だ!」あわてずに

20 2月

招待券をもらって東京へ
  今日は私の70回目の誕生日。世間でいうところの古希だ。さすがに、「思えば遠くへ来たもんだ」という気持ちだ。古希を過ぎた先輩たちも、多方面で頑張っておられる。私も、無理せず、自分のやりたいことを選択し、優先順位をつけて頑張りたいと思う。

展覧会の会場となった「21_21デザインサイト」前で記念撮影。

  今回の東京行のきっかけは、東京で仕事をする長男から六本木の東京ミッドタウン・ガーデンデ内の21_21デザインサイトで行われる『デザインあ』展(主催:21_21DESIGN SIGHT、三宅一生デザイン文化財団、NHKエデュケーショナル 後援:文化庁、経済産業省)の招待券を送ってくれたからだ。

  この展覧会は、NHK教育テレビで放映中の『デザインあ』を、展覧会という形で発展させた企画とのことだ。息子の勤める会社(tha ltd)の社長中村勇吾氏が他の二人と共に展覧会ディレクターを務めていて、同社が作品を展示しているからだ。
 
  それならば、ついでに次女のところへ2泊して、次は横浜の息子のところへ2泊するつもりで勝山を出てきた。都内の山手線などを乗り継ぎ、ようやく会場へたどり着いた。

  会場には、デザインに関する様々な展示がなされていた。入場者と映像が一体となった遊べる作品や、様々な体験が出来る作品などが展示されていて、平日の日中にもかかわらず、子供や若者達でにぎわっていた。

四つの壁面に映された映像と音楽のコラボ作品。

  デザインの重要性を改めて確認した次第である。どんなものにも、デザインは必要である。デザインは、ファッションや広告などばかりでなく、日常品から、機械、自動車、食品、衣類、・・・・・など、世の中にあるすべてのものに深くかかわっている。

  そのことを強く感じた。息子は会社に勤めているというよりも、中村勇吾氏(NHKプロフェッショナルに登場)に弟子入りして修行をしているという感じだ。奥の深い道だが、ただただ成長を祈るばかりだ。

  東京へ出てきたついでに、『ビックロ』の入口にある「動くポスター(私は勝手に呼んでいる)」を見るために新宿へ向かった。これも息子が制作にかかわったというので、この目で見ておかなければと思って出かけたものだ。

  この「ポスター」の前で次女と待ち合わせをした。その後、外食をし、娘の下宿先へ向かった。今晩と明日はここをベースにして都内を見学するつもりだ。

身体の動きに合わせて「あ」の字がいろいろ変形する作品で「100点ゲット!」。

  私が若いころ憧れていた東京で、長男と次女が働いている。私は、子供たちが健康で東京で頑張ることを祈るばかりである。家内は風気味でいつものようには元気がなかった。それでも次女に会えてうれしそうだった。

(日記 午前9時に自宅を出て東京へ向かう。東京・六本木の東京ミッドタウンで、息子たちの会社が出品する『デザインあ』展を見学。続いて新宿の『ビックロ』入口の「動くポスター」を見る。ここで次女と合流し、食事をとって、娘の下宿先へ向かう。ミニミニケーキで私の70歳の誕生日を祝う。長嶋監督は、今日、盛大に誕生日を祝っていることでしょう。)

ビックロ前で次女と再会。

ビックロのポスターの前で動いてみると、映像の中に映り込んだ自分も一緒に動いた。

 
 

暖冬に思う

19 2月

このまま春になるのか
  二月も下旬になった。本当に雪の少ない冬だった。かといって、スキー場には雪がなかったわけではない。今年は、これまで一度も雪下ろしのために屋根に上がることがなかった。勝山には珍しいことだ。

  毎年こんな冬なら、勝山に住む者にはありがたい。しかし、商売をしている人たちにとっては、明暗が分かれたようだ。先日ホームセンターへ行ったら、スコップやスノッパーなど雪を扱う器具があまり売れなかったという。

  除雪を請け負っている人たち、雪下ろしを請け負っている人たちもあまり仕事がなかったのではなかろうか。先日、市長にうかがったところ除雪費が例年に比べて少なくて済んでいるとのことだった。

 いよいよ来週は勝山の左義長。勝山の人間には左義長までが冬だという感覚がある。左義長は春を呼ぶ奇祭だと誰もが信じている。あと一週間でその左義長だ。いつもなら、この時期は、ブルが寄せ集めた雪の山を崩してダンプで河原などに雪を運んでいる時期だが今年はその必要もない。

  今年は、「勝山水菜」を育てている人たちにとっても、楽な冬ではなかったか。水菜の畝の雪を取り除いてビニールがけをするのだが、今年は、除雪の手間が省けたのではなかろうか。

 そろそろ農家の人たちにとっては落ち着かない春が来るのだ。することがいっぱいある。私の方は、まだしばらくのんびりと過ごすことができる。今のうちに、創作活動を進めたい。贅沢な悩みだが、やっぱり冬はほどほどに雪が降ってほしい。

(日記 朝は先ず区の会計処理。続いて『かたせ瓦版』の編集作業。こつこつ続けているうちに4月以来第23号になった。作業中、ずっと、「参議院予算委員会質疑」を聞いていた。攻守交代して野党は勢いづき、与党は静かになった。常に前政権の取り組みが話題になっていた。今日もTPPが問題になり、「農業が自動車の犠牲になるのか」と質問する議員もいた。ところで、パソコンは指を酷使する。そこで、どうしようか迷っていたが、「音声入力ソフト」を買うことに決めて注文した。これまでも、購入したことがあるが、実用的ではなかった。今度こそ、上手く使えることを期待したい。ソフトの性能とこちらの使う能力が必要だが、話すだけで、文章が作れるとしたら、そんな素晴らしいことはない。)