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Archive for 7月, 2012

夏真っ盛り

31 7月

“夏休みの過ごし方”今昔
   暑い日が続いている。子ども達は夏休みの真っ最中。今日で7月も終わりだ。今の子ども(小学生)達の一般的な一日の過ごし方は、ラジオ体操、朝の学習、テレビなどを見て、午後は学校のプール。そして、家庭でテレビやゲームで過ごす。だいたいこんなところだろうか。

  私達の子どもの頃は、神社でラジオ体操の後、ソフトボールなどをして遊んだものだ。また、神社で石炭箱などを机にして学習をしたこともあった。泳ぎは、村の防火水槽や近くの川であった。大きくなると九頭竜川へ泳ぎに行った。

  また、泳ぎから帰った後、大師山の裏側へ出かけ、薪を担いで帰ってくるのが日課であった。この他、割り当て仕事があった。時には、木陰で将棋なども楽しんだ。また、道場(仏教)ヘ集まって遊ぶこともあった。道場は宗教の場でもあったが、集会所でもあり、巡回映画などを行う文化会館でもあった。

  私は、ここでギターなる楽器を知ったのだ。ギターは、年長者が弾いていた。その音色に魅力を感じて、中学校になったときに、母親に頼んで買ってもらったことを覚えている。こうした経験が、今でも音楽を続けている原点でもある。

  いずれにしても、夏休みは自宅で過ごすことはほとんどなかった。家には遊ぶものがなかったからである。先ず、水遊びは不可欠だった。友達と過ごすことも多かったし、仕事も多かった。

  考えてみると、完成されたゲームやテレビなどがなかったために、子ども達は、自らの創意と工夫で遊ぶしかなかった。みんなで集まって遊ぶことが多かったが、ここでいろんなことを学んだ。

  必要以上に、「モノ」があるということは、その分子ども達が創造性を発揮する機会を奪っていることになるのだ。今でもそうだが、発展途上国の子ども達は、モノがない分、いろいろ創意工夫を凝らしながら生き生き遊んでいるようだ。

  今は、もうけのために、子ども達をターゲットにしたビジネスが盛んである。 大人の手で作られたヒーローがテレビや漫画に登場し、そこで使われる様々な武器がおもちゃとして売りに出されるのである。

昭和初期の水遊び。九頭竜川は子どもから大人までの遊び場であり、漁場であった。(写真提供:朝日印刷)

  そのおもちゃもいろいろなバリエーションがあって、子どもがほしくなるように次から次へと種類を増やしているのだ。この手のヒーローは女児の場合も同じである。女児の場合、ヒロインの衣装まで売りに出されているのだ。

 結局の所、子ども達は大人の手の中で踊ることになる。大人達は、あの手この手で、子ども達を自然から遠ざけ、感受性の強い時期の子ども達を消費者として育ててしまうのだ。

   モノがなければ楽しめない人生とは悲しい。もっともっと創意工夫を凝らし、自然の中でのびのびと子ども達には育ってもらいたい。知恵は無限になるということを知ってほしい。おもちゃで遊ばなくても、いろんな遊びがあるということを知ってほしい。特に夏休みは。

(日記 午前中、孫の同級生といっしょに市営プールへ行く。私は、見守り役。午後は、ギターの練習。孫達は家の前で再び水遊び。私は、ポンプで家庭菜園へ川から水を入れた。ホースで水を撒いていたのでは追いつかない。今は一年で最も暑い季節だ。地面にひび割れができている。家庭菜園の隣に川があるのでありがたい。)

 
 

相手も進歩している

30 7月

オリンピック序盤戦
  マスコミの予想に反し、オリンピックの序盤戦で日本は苦戦しているように思う。オリンピックを盛り上げるためには、マスコミの過剰な報道もうなずけないことはないが、あまりにもメダルの数にこだわりすぎていなかったか。

  いつも思うことだが、たまたまある選手がその年度の最高記録を出したからと言って、本番のオリンピックで金メダルを取るとは限らない。それ以外の人が最高記録を出さないということはありえないからだ。誰もが、オリンピックの頂点を目指して死にものぐるいで練習をしてきいたのだから、誰が優勝するかはわからない。

  過剰な期待を一身に受けて予想通りの成果を得られなかった選手は全く気の毒である。同じ銀でも晴れ晴れした銀もあれば、惨敗者のような悲痛な銀もある。いずれにしても、メダルを取ること自体が名誉なことなのに。そんな中で重量挙げの三宅選手の銀は、本人の喜びもさることながら、テレビを見ていた私もとても嬉しかった。

  オリンピック直前には日本人選手の科学的な分析を行っていた。非常に興味ある番組ではあった。ある意味では選手の技術を丸裸にしているようなものだった。そこまでしてもよいのかということと、結果的には本人に対してもかなりのプレッシャーを与えているのではないかと思う。

  相手の選手も、日々猛烈に練習しているので本番では、簡単にメダルの数を云々することができないはずだが、実際にはそうではない。従って、メダルを取っても、金でない場合には悪びれた態度を取らざるを得ないのだ。全く、気の毒だ。

  どの競技もメダル圏内にいる選手は10人前後はいるのではないだろうか。その中には、伸び盛りの想定外選手も混ざっている。中学生の岩崎選手が金メダルを取ったように。世界選手権だ勝ったから優勝というわけにもいかないだろう。

  そうした中で、予想通りの活躍ができるのはほんの一握りであって、あとはやってみなければわからないのではなかろうか。日本人選手の活躍を願うが、もっと冷静な目で応援したいと思う。世界は広い。相手も、日本人選手が伸びている以上に伸びている可能性は大である。

  銀や銅でがっかりしている選手もいるが、それらのメダルに届かない選手の方が遙かに数が多いのだ。メダルを取ったリ入賞した選手に対しては、諸手を挙げて賞賛したい。これからは、さらにいろんな競技が始まってオリンピックは盛り上がることだろう。

  選手の長年の努力を考えるとき、私も、小さな目標を掲げて日々精進してみたい気もする。目標に一歩でも近づけば、私にとっては、入賞ものだ。これからは、戦いの相手は他人ではなく、自分自身なのだ。勝っても負けても、一喜一憂する必要はない。健康な身体づくりや創作活動などにおいて、オリンピック出場選手のがんばりの1%でも見習いたいものだ。

『じいちゃん学習』の時間だ。「よく遊び、少しは学習」で夏休みを過ごしてほしい。

(日記 孫を連れてラジオ体操に行く。孫の同級生に紹介する。帰宅してから、勉強タイムを設ける。4歳の孫も机で時の練習をしている。姉のすることは何でもしたいのだ。最初に算数をやり、その後、「音楽」ということで『となりのトトロ』と『さんぽ』の練習。午後、孫達はプール遊び。そこへ朝会ったばかりの孫の同級生がばあちゃんと一緒に妹を連れて遊びに来る。明日はみんなでプールへ行くことを約束。私は、3月にハワイで買った楽譜を使ってギターの練習。久々にかなりの時間をギターの練習に費やした。10月の演奏会までには完全に弾けるようにしたい。夕方は、生姜の世話をするために畑へ行く。今年はなんとしても、『ウルトラしょう(NHK試してガッテンのネーミング。乾燥生姜のことで、低体温の改善には最高の食材)』を作ってみたい。いろいろ変化に富んだ一日だった。)

朝始めた会った孫の友達が遊びに来た。明日は一緒にプールへ行くのだ。仲良くしてほしい。

 

暑さ、病気、虫などに負けずに順調に育ってほしい。片瀬特産のしょうが達よ。

 
 

日々の変化は微々たるものだが……

29 7月

常に今は時代の最先端
   『変化は一日にしてならず』と思える。自分が生きてきた過程で、一日一日の変化は全く感ずることができなかったが、10年、20年、……、50年、60年というスパンで考えてみると、驚くほどの変化だ。

  公民館に置かれている猪野瀬地区のアルバムを見ていると、村の人達も、ずいぶん若かったんだなあと思ってしまう。自分自身もそうだ。鏡を見ると、やけに老けたおじさんがいるなあと思うが、それは自分の姿だ。

  写真の写りも同様だ。なんと老けて写るのだろうと思うが、それはカメラのせいではない。自分の精神年齢と自分の精神年齢に隔たりがあるだけだ。子供の頃から60年あまりの時間をかけて徐々に変化してきたのだ。

  これは、何も人間の変化だけではない。生活様式もずいぶん変わった。信じられないほどの変化だ。私のこども時代には、今なら当たり前の『洗濯機』も『冷蔵庫』も『テレビも』なかった。まちの電気屋で見たプロレスや大相撲は感動ものだった。

  テレビは白黒の映りの悪いものだったが、すごい電気製品が出てきたものだと、感動したものだ。それがカラーになり、白黒の番組は何となく興ざめしたものだ。そのうちに、全番組がカラー化し、さらにハイビジョンが出てきた。そうした移り変わりと共に私達は生きてきたのだ。

  自動車、電話の変化もめざましいものがある。どれをとっても、日々の変化はわずかで見えない。しかし、世の中は確実に変化しているのだ。そしていつの時代も、変化の最先端にいるのだが、しばらくすると過去になってしまう。

  逆の見方をすれば、日々の変化は目に見えないほどわずかでも、前へ進めば確実に進んでいくということだ。前へ進もうという気持がなくても、年月は絶え間なく進み、年齢という変化が確実に自分を襲ってくることになる。

  毎日の微々たる変化を信じ、目標を定めて行動すれば、誰でも自分の変化を実感できるはずだ。この力を私は“毎日パワー”と呼んでいる。やりたくても、できないと諦めている部分が自分にはある。今一度毎日パワーを信じて、自分の進みたい方向を定め、楽しく一日一日を過ごしたい。

孫達は家の前で水遊び。そのうちに、孫達と海水浴へ行きたい。長男は明日から仕事のために一人で横浜へ。

(日記 午前中は、じいちゃんバンドの編曲作業。楽譜を書き、練習用のCDを作成した。子ども達は、家の前で水遊び。小2の孫がスイスイとパパ(長男)のスケートボードを乗りこなしているのには驚いた。子どもの潜在は素晴らしい。周囲の人間、時には本人自身が潜在能力を引き出すことができるかどうかだ。わずか3週間ほどの帰省の間に、わずかなことでも、それまでできなかったことをできるようにしてやりたい。午後1時過ぎからじいちゃんバンドの練習会。三国、春江、大野からメンバーが集まってきた。みんな昨年の中頃からバンドを始めたメンバーだ。それでも、熱心なメンバーは音の出なかったトランペットの音が出るまでになってきた。10月の軽音楽部のOB演奏会までにはもう少し上達しておきたい。)

 
 

実物!?(孫達の帰省)

28 7月

「やっぱりそう言うと思った」
   息子の家族が5人 横浜から車で帰ってきた。これまでは、時々、WEBカムで顔を見ながら、孫達と話したり、歌を聴かせてもらったり、本を読んで聞かせてもらったりしてきたが、実際に会って話すのとはずいぶん違う。

  いつも、会った瞬間には「わー!実物」と言って抱きしめることにしていた。そのうちに、孫はこう返してきた。「やっぱりそう言うと思った」と。息子は明日新幹線で横浜へ帰り、東京の会社勤務となる。そして、お盆過ぎに迎えにくることになっている。

   この間、我が家は、2人暮らしから6人家族となる。孫達に勝山で何かをつかんで帰ってほしい戸願う。横浜ではできないことを経験して帰ってほしい。
夏祭りに歌か踊りで共演したいと思っているし、絵本を作って『手製のお土産』にしたいと思うし、プールや海へも行きたいと思う。 

二人の孫が、楽しそうに水やりを手伝ってくれた。

  孫のお陰で、こちらも、元気が出る。『貴重なモノのお土産』、『経験というお土産』、『体験というお土産』を持たせて横浜へ返したいと思う。久々に、20数年前に戻った気持で今日から過ごしたいと思う。ラジオ体操にも行けると思うと、ワクワクする。  

  こちらは『孫と過ごせる』という大切なお土産をもらった。感謝感激。いつも、朝晩竹プランターの花に水をやっている。

   学校のある日は、たまに子ども達が応援してくれるが、今は夏休みで一人で水やりをしていた。しかし、今日は、二人の孫が小さなジョウロを使って水まきを手伝ってくれた。ありがたい。  

(日記 午前中は、家庭菜園にポンプで川の水を上げた。畑の畝がひび割れするぐらい乾燥していた。その後、法人で借りている畝の生姜にも水を与えた。午後3時頃、息子の家族5人が車で帰省した。今日から、孫の一人とは毎日一緒に寝ることになる。家内と三人で川の字になって寝るのだ。“実物”と一緒に過ごせるなんてありがたいことだ。) 

「お帰り!」息子家族が帰省。いよいよ我が家も本格的な夏休みだ。

「お疲れさん」今日から二人は遊び友達。

 
 

居場所

27 7月

人は誰でも居場所があるだろうか
  
私の定義では、「居場所」とは、「自分が必要とされているところ(自分が役割を持っているところ)」か、「自分の存在が認められているところ」か、それとも、「自分が生(活)かされているところ」か、「自分が心地よく感じることができるところ」だと思っている。

  少なくとも、「ただ居るだけのところ」ではなさそうだ。この「居場所」を持たない者は少なくないと思っている。家庭で、職場で、地域で何となく存在しているだけではさみしい。居場所は周囲の配慮でできることもあるし、自分の言動によって作ることもできると思っている。

 子どもにとっては、居場所は不可欠であると思っている。そしてその第一番目の居場所は家庭であろう。そして、次が学校であろうか。そして地域や自分の所属する団体へと続くのだろうか。

  家庭での居場所を作るには保護者の配慮が必要である。客人として扱っているうちは本当の居場所はつくれないであろう。そういう意味では、私は「手伝い」と「役割分担」を区別して考えている。

  子どもといえども、家庭ではそのレベルに合わせた「役割」を担わせるよう配慮してはどうかと思っている。自分のことを少しずつできるようにすることは、当然のことであって、ここで言う役割とは、家族のために役に立っていることである。

 今なら、「花に水をやる」でも、「玄関の掃除をする」でも、「読み終わった新聞や広告を整理する」でも、「食後の食器を片付ける、または洗う」でも、何でもいいのではないか。どんな小さなことでもよい。

  「手伝い」との違いは大きい。手伝いには、本来は誰かがやるべきことを“応援(支援)する”というイメージがある。やらなくても、自分の役割ではないので責任は軽い。逆に言えば、家族の一員としての役割を担っていないとも言える。

  子どもと家庭の関係で考えるよりも、個人と会社の関係で考えてみるとわかりやすいのではなかろうか。ある若者が会社では、「上司の人の手伝いだけをやっている」のと、「自分に任された役割がある」のとの違いは大きい。

  前者は、会社にいるだけというイメージが強く、後者は会社の一員であるというイメージがある。当然、「居場所がある」のは、後者の方だろう。前者は、たとえ辞めても会社に対するダメージは少ない。その分「軽い存在だった」ということであろう。

  地域では、居場所をどのように考えればいいだろうか。特に、高齢者の場合、ある時期まで地域を支えてきた存在だった。それが、年齢と共に存在が軽くなっていくのは好ましいことではない。敬われる存在であろう。若者にはない豊富な経験や知恵があるからだ。

 それらを次代を担う若者達に伝えてほしいのだ。 しかし、このことは簡単ではない。区民の理解がないと、単なる弱者に扱われて仕舞いかねない。私達は、「高齢者は豊富な知恵や経験を持つ“地域の宝”であり」、「子ども達は次代を担う地域の宝である」との認識を持つ必要がありそうだ。

  そして、これらの宝を生かしたときこそ、地域が活性化されるのかもしれない。「居場所」は本人の努力で作ることができるものであり、周囲の配慮によってもできるものであると思っている。

  これらを引き出す鍵は、言葉であり、コミュケーションであるかもしれない。そして、誰もが気軽に話せることができれば、区民の間に「絆」が生まれるのではなかろうか。たまたま、同時に同じ場所に居合わせた者同士が、自然に心を通わせることができる地域になってほしい。

  最近の「いじめ問題」も、「居場所」と無縁ではないと思っている。いじめられる側にも、いじめる側にも本当の「居場所」がほしい。居場所がない人間は、想定外の行動を起こす可能性あるからだ。

銭太鼓の練習をする鹿谷町のおばさん達。

(日記 午前中、部屋の整理。午前10時より、鹿谷町のおばさん達の銭太鼓指導のために鹿谷公民館へ出かけた。少し、振りを変えてリズミカルにすれば、とてもよくなるはずだと思ってこれまで練習につきあってきた。70歳前後の人達が一生懸命練習する姿に頭が下がる。午後は、資料や紙芝居などの整理。この頃、やや『断捨離』疲れ。思っているほどモノを捨てられない。「もったいない」が身体に沁みついているからだ。夜メールを見ていたら、高校時代に教えた生徒の子どもが高校生になったと書いてあった。「昔の数学ノートがあったらほしい」とのことだった。山オリジナルノートだ。何かの役に立てたらと思う。)

 
 

情報発信

26 7月

受信と発信のバランス
 生きていくためには、いろんなバランスが必要だ。そして、昨今のような情報化社会では、「受信」と「発信」のバランスも必要だと思う。ちょうどコミュニケーションが双方向である(と私は思っている)ように、両者が必要だ。

  私の情報の「受信源」は、本・ネット・メール・新聞・テレビ、そして生身の人間などである。特に、テレビの場合、気に入った番組はDVDにして保存している。いつかどこかで何かの役に立つかもしれないと思うからだ。たぶん、使うことは少ないだろう。それでも、保存しておかないと気がすまないのだ。

  発信の方は、インターネットを使っている場合が多い。ホームページやブログが中心だ。しかし、発信においても、また「デジタル」と「アナログ」のバランスは必要だと思う。アナログでの発信と言えば、私にとっては「紙芝居」や直接話すことだろう。

  時間と能力があれば、本にしてみたいのだが、これは簡単ではない。しかし、自分勝手に原稿を書き、それらを製本するだけならできないことでもない。もしこれが叶うなら、私はいくつかのテーマで書いてみたいと思う。

  子ども達のために、『私は何を伝えたかったか』という題名で本を書いてみたい気がする。社会人になってから、いろんなところでいろんな原稿を書いてきた。その原稿をそのまま掲載するのだ。「私は○○をやってどんな成果を得られた」という自慢話ではない。

  人の自慢話など、我が子達でも読みたくないだろう。自分のそれぞれの年代に「何を伝えたかったのか」を当時の原稿を使って書き表してみるだけなのだ。結果や成果については、自分では判断すべきではないので、一切書かない。

  9月4日(火)には勝山市の『市民大学』で「想いは歌で伝えたい~自作の演歌・民謡でまちづくり~』というタイトルで話すことになっている。話をしながら、演歌や民謡や踊りを実演する予定でいる。歌を作るのにも、自分の思いがあったからだ。これも私にとっては、情報発信だと思っている。

 子ども達へ尾情報発信としては『じいちゃんの子ども時代』というタイトルで、昔、私達の年代が、遊び、働き、泣き笑いしたいろんな思い出を次の世代に伝えたいと思っている。自分で書き、印刷して、自分または印刷屋さんでで製本すればいいのだ。出版ではないので、数冊ならアナログ的に本にできるだろう。

  いずれにしても、「受信」と「発信」のバランスは必要であると私は思っている。このブログを通しても「発信」と「受信」が少しできているので、、私としては、脳の運動だと思ってこれからも、書き続けていきたい。

暑さにも負けずに元気に育つ竹プランターの中の花々。水のやり甲斐がある。

(日記  午前中、福井の済生会病院へ行き、CT検査と定期検診。数値的にはまあまあだった。午後は、『かたせ瓦版』の最終校正と印刷(コピー)。夕方市の広報誌などと共に班長に配った。昨日一日で作り上げた広報誌だ。これも区民への情報発信だ。受信として、区民の生活アンケートを実施するつもりでいる。)

 
 

温故知新

25 7月

時代の流れから読み解く
  今日は、終日『かたせ瓦版』づくり。今日は農業について、約百年前の村の先人が作った『片瀬誌』を見ながら、記事を書いた。この冊子は明治と大正の境目の時期に出版されたものだ。コン赤から、農業の部分だけを取り出し、読みやすいように対談形式にした。

  それを読んでいて、驚いたことがある。それは、百年前の農業の記事の中にも、参考になること、新しい見方のできることが含まれていたからだ。当時の農業と言えば、馬や牛で田んぼを耕したり、田んぼに堆肥を入れたり、化成肥料もあまりなくて使わなかった時代だ。

  そんな時代のことでも参考になることがあったのだ。先ずその一つは、有機肥料である堆肥や山草をあまり使わず、石灰を多用する者が出てきたことだ。これでは地力が落ちて、いずれは問題になる可能性があるので、特記して区民の熟考を促すというものだった。

  もう一つは、40数年前まで、当区の特産物であった「生姜」について書かれた部分だ。当時は、「水菜」と共に「生姜」は、勝山市や大野市はもちろんのこと、福井市までに知られた存在だったのだ。

  私の子供の頃は、まだ生姜は当区の特産物だった。その生姜を「切り干し」にして販売すべきであると書かれていたことだった。そしてこれを特産物発展策として大いに一考すべきだとも書かれていたことである。

去年の生姜。今年は『乾燥生姜』を作りたい。

 『NHKためしてガッテン』では、乾燥生姜は『ウルトラしょうが』として推奨している。生姜は現代人に多い低体温症の改善には最良の作物である。しかし、生の生姜は一時的に体温を上げても、後には体温を下げてしまうらしい。

  ところが、低体温の改善には『乾燥生姜』がよいとのことだ。この『乾燥生姜』を『ウルトラ生姜』と言って健康には最高によいらしい。私も生姜を作っているのだが、今年は是非とも『乾燥生姜(ウルトラしょうが)を作りたいと思っている。

  このように、今の農業にも通用することがいろいろ書かれているのだ。まさに『温故知新』である。『温故知新』とは、「昔のことをよく学び、そこから新しい知識や道理を得ること」、「過去の事柄を研究して、現在の事態に対処すること」とあるが、」まさにその通りだと思った。先人から学ぶことはどんな世界でも多い。

(日記 朝からずっと『かたせ瓦版』づくり。何を記事にするか、作りながら考えた。ずっと机(椅子)に座りっぱなしで腰が疲れた。毎週第2木曜日は、A4裏表1枚、第4木曜日は、A3裏表1枚(A4換算で4ページ)の瓦版を発行するつもりでいる。見やすい紙面を作るために苦労する。夜は、和太鼓の練習だが、メンバーは今はフラダンスに挑戦している。私達の『じいちゃんバンド』との共演を目指している。3月にハワイで買ったアロハとレイを使ってみたい。)

 
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ふるさとへ戻れない人

24 7月

原発の恐ろしさ
  福島県の浪江町から越前大仏の門前町に避難して来られたWさんの家族がこの25日に福島県へお帰りになるとのことだ。そこで、区と私個人のささやかな餞別をお渡しするために、今朝、滞在先を尋ねた。

  奥さんが出て来られた。しばらく玄関先でお話をさせていただいた。それによると、福島県へ戻ると言っても、、自宅は当分の間、立ち入り禁止なので、仮設住宅へ移るとのことだった。

  仮設住宅では、全く知らない人ばかりが暮らすことになるので、不安だとのことだった。当分は自宅へは帰れないので土地や住宅を買いたいそうだが、買うことのできる物件は全くないとのことだった。

  小さなお子さんもおられるのだが、そのお子さん達は子ども時代を仮設住宅で過ごさなければならない。狭い仮設受託で、どこの誰かもわからない人達と生活を始めなければならないそうだ。

  東京電力は、こうした人達の今後について真剣に考えているのだろうか。原発事故の詳細が明らかになるにつれて「まさか大きな災害が起こることはないだろう」と甘く見ていたことがはっきりしてきている。

  多くの方々が帰りたくても帰れない「ふるさと」、いつまで続くかわからない不安の中でこれから先、生活していかなければならないのだ。先の見通しのつかない中で、働き、子育てをしていかなければならない。

  そのストレスは、私達には想像もつかないだろう。Wさんの話を聞いていて、慰めの言葉も見つからなかった。こうした人達の気持を政治家や東電の関係者は理解しているのだろうか。また、改めて、私に何ができるのかを考えた。

  昨今の日本を見ていると、いつどこでどんな災害が発生するかわからない。今日安全だと思っていても、明日何が起こるかわからない。同時代を居合わせた私達は、他人事と思わないで被災地に対して自分には何ができるか、そして災害に対してどう備えたらいいのかを考えなければならない。

花が取り持つ縁で地域の人との会話が増えた。

(日記 午前中は、資料整理。ほぼ一日かかった。これまで探していて見つからなかったモノが見つかったりした。家内も衣装を整理していた。心を鬼にしなければモノは少なくならないことを実感した。第1次、第2次、第3次……と、断捨離を実行しなければすっきりした気持にはなれないだろう。午後は、「じいちゃんバンド」の編曲作業。同じ曲でも編曲次第では少しは聞けるものになるからだ。夕方、花に水をやっていたら村の高校1年生のK君が近づいてきた。しばらく、高校生活などについて話を聞かせてもらった。授業のこと、部活動のこと、数学のこと、将来の進路などについても聞かせてもらった。村の子と話をできるなんて幸せなことだ。これも、花が取り持つ縁かもしれない。花を植えたり、花に水をやったりしているなかで子ども達や村の人達との接点ができつつある。花のお陰だ。)

 
 

東北への道

23 7月

祭りと震災
   震災までは、「東北」と言えば私の中では、日本の原風景が残る「祭りの宝庫」というイメージがあり、いつかは全県を巡りたいと思っていた。ところが、大震災。観光することによって東北に貢献できるということもないではないが、私は、お年寄りや子ども達の役立つことはないかを考えてみた。

  高齢者の皆さんに対しては、話を聞かせていただくことを目指している。何かをしてあげるではなく、一緒に考えさせていただいたり、聞かせていただくことができればと思っている。しかし、簡単なことではない。

  子ども達に対しては、話すきっかけとして「自作の紙芝居」を披露できればと思っている。後は、子ども達と一緒に何かを作ってみたい。子ども達の持ち味を引き出すことができればと思っている。本職の数学を活用できればと思っているし、創作活動を一緒にできればとも思う。

   一緒にできる何かを身につけて、東北へ出かけたい。今は、観光は2番目になった。ここ1、2年のいちに、実現できればと思っている。この旅は、相手のためになることを目指すのではなく、自分を活かしてもらうために出かける旅かもしれない。

   そんなことを思いながら、絵を描き貯めている。実現するかどうかはわからないが、東北への道を一歩ずつ歩みたいと思っている。今の私の生き甲斐の一つである。祭りを巡る旅はその次でいいと思っている。

(日記 午前6時より、家内と二人で「にんにく」と「タマネギ」を収穫した後の畑の草取り。すでに村の二人の人が作業をしていた。「涼しいうちに仕事をしたい」ということで午前6時前から作業をしているのだ。この畑には8月末に「秋じゃがいも」を植えるつもりでいる。それまでの間は草取りをしておかなければならない。帰宅してから、朝食。その後、夕方まで部屋の資料整理。今日も、捨てるか捨てないかで悩む。午前7時半より、オカリナ練習。丸岡から新しいメンバーが加わった。夏祭りの練習をした。オカリナを何とか譜面通りに吹ける段階から、きれいな音で吹ける段階へ、そして表現豊かに吹ける段階へと先は果てしない。楽しみながらみんなで練習していきたい。)

 
 

“貯筋”しなければ

22 7月

残高ゼロ
  最近、足腰や腕の筋力が落ちたなあと思う。30歳代、40歳代には腕力はあった方だと思っている。ベンチプレスでは高校生には負けなかったと思うし、ハンドボール投げでも、野球部以外の者には負けなかったと思っている。

  しかし、最近は、自分でも腕力がなくなったと実感するようになった。腕の力を使うのは、年に10回程度だ。法人の農作業でモノを運ぶときぐらいだろう。後は軽作業かパソコンがほとんどだ。

  このままでは将来きっと苦労することだろう。最近危機感を持っている。キン肉マンにはなれないが、とっさの時に踏ん張ったり、力を入れたりできるだけの筋力なければならないだろう。放っておけば衰えてしまう年齢だ。

  ラジオ体操や簡単な屈伸運動などをやってはいるが、これでは足りないような気がする。動ける今のうちに、筋力を貯えておかなければならない。お金と同じように『貯筋』が必要だ。しかし、筋力は短期間ではつくものではない。

力比べのこの余興も後輩に譲る日が近いかも……。

  そんなことから、ウオーキングや腕力を鍛える運動を復活しなければならないと思うようになった。昨年頃までは痩せたい、痩せたいと思っていたが、いざ痩せてみるとやっぱりほどほどに太っていた方がよいと思うようになった。

  若い頃はスポーツをする機会が多かったが、少しずつ選手として地域からも呼ばれなくなり、運動の機会は激減した。それでも、十数年は筋力が持ったように思う。しかし、今はその筋力を使い果たしてしまったように思う。貯金残高は0に近いだろう。

 今日からいつもの運動に加えてウオーキングを加えると決めた。三日坊主にならないようにしたい。雨の日も居間にウオーキングマシーンが置いてあるので歩くことはできる。問題は、持続しようとする意欲だ。手遅れにならないように、少しずつ“貯筋”していきたい。

(日記 終日、断捨離実行。といっても、思うようには進まなかった。まだまだ心を鬼にしなければならない。ここしばらく、やりたいことをストップしてモノの整理をしている。しかしまだまだモノが溢れている。夕食後、家内と二人で散歩をかねて、法人から畝を借りて栽培しているショウガや里芋の出来具合を見て来た。まあまあ順調という所だろうか。法人から借りて栽培していたニンニくとタマネギを収穫した後に、八月になったらジャガイモを植えるつもりで放置しておいたが、かなり草が生えていた。明日は早朝から草取りをしなければならない。一日室内にいたので、散歩は気持ちがよかった。)