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Archive for 8月, 2010

銭太鼓振り付けと影絵展

31 8月

銭太鼓の振り付けは難しい
 今日は銭太鼓の練習日だ。午後7時半までには仮称『片瀬豊年囃子』の振り付けを考えなければならない。午前中、パソコンを使い、実際に銭太鼓のバチを振りながら振り付けを考えた。考え得ることは難しい。

 カセットで自作の音楽を流しながら、実際にバチを使って振り付けを考えた。といっても、銭太鼓の振り付けはある程度はパターンが決まっている。それらを組み合わせて、いかに楽しい振り付けを考えられるかだ。創作的なことについては、アイディアが枯渇してきているのではなかろうかと心配になる。

 この頃は、創作的なことでは苦労する。いつもの倍は時間がかかる。それでも、考えることは基本的には楽しいことだ。何とか楽しい振り付けにしたものだと思う。殆ど午前中いっぱいを使ってしまった。頭が疲れた。

藤城清治氏の『光と影の世界展』が開かれた福井市美術館(ポスターは同展のもの)

藤城清治展を見る
   午後は、産業支援センターへ寄ってDVDと本を返却し、新たにDVDと本を借りた。これからも、ここへ通うことになるだろうと思った。もっと早くこの産業支援センターの存在を知っていたらよかったのにと思った。

 その後、福井市美術館で開催されている藤城清治志の『光と影の世界展』を家内と2人で見に出かけた。数年前に、家内と2人で、山梨県の昇仙峡にある藤城氏の美術館へ行ったことがあった。これで2回目である。

  私も、切り絵をやるので、少し親近感を持って氏の作品を見ることができる。それと同時に、手の込んだ作業には感心する。また、85歳を過ぎても盛んな創作意欲には感心する。私も影絵にチャレンジしてみたいと思うが、できそうでできない世界である。

  できることなら、平泉寺物語りを影絵でできたらどんなにすばらしいことかと思う。しかし、時間的には無理であろう。擬似的に、CGで実験的にチャレンジしてみたいと思う。

F氏の詩集の挿絵に使った切り絵。本当は白黒だったがパソコンで着色した。

  私の欠点は、何でもかんでも興味を持ち、自分にできないかと考えてしまうところだ。能力的にも、時間的にも、できないことはいっぱいあるのに、もしかしたらやれるのではと思ってしまうところがこれまでは多すぎた。

  妻のアドバイスではないが、そろそろ的を絞ったらと自分でも思う。好奇心がありすぎるのも考えものだ。そんなことを考えながら、美術館を後にした。

 
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炎天下で稲刈り

30 8月

連日の猛暑
 今日は、「(法)かたせ」の稲刈り作業の動員の日だ。といっても、私の役目は、軽トラックを持って稲刈りの補助をするのだ。午前8時に法人の農舎前に集合し、二台のコンバインにそれぞれ2人ずつがつき、籾を運ぶのだ。

コンバインの籾がいっぱいになると、コンバインから直接軽トラックへ籾を移しかえるのである。普段は太鼓を運んだりする私の軽トラックも今日は農作業に活躍した。

 先ずは、コンバインが稲を刈り取り、同時に脱穀して籾をタンクに入れるのだ。そして、稲藁は細かく刻んで田圃にばらまくのだ。籾がコンバインのタンクにいっぱいになると、ブザーが鳴り、田圃の近くに待機している軽トラックの備えた専用の袋に籾を送り込むのだ。

 私はこの籾をカントリーへ運ぶのが仕事だ。籾を軽トラックの袋にいっぱい積んで、カントリーへ向かうと、入り口で籾のチェックを受けるのだ。あまりにもひどい籾はこの時点で持ち帰りとなるそうだ。他地区の籾も混ざってしまうので、不良品を持ち込ませないようにするということだろう。

上左:カントリー全景 上右:車ごと重量を量る受付 下左:リフトで籾袋をつり上げるカントリーの職員 下右:袋の底から籾を籾投入口へ流し込む。

 次に、トラックごと重量を量る。そして、籾袋をリフトでつり上げて専用の取り入れ口へ落とし込むのだ。この時、正式な検査を受けるための籾を提出することになっている。これが正式の検査だ。

 最後に再びトラックの重さを量るのだ。軽くなった分が籾の重さということになる。これを何度も繰り返すのだが、今日はとても暑かった。それに助手の仕事は、運搬だけではない。コンバインが刈り残した稲を買ったり、ヒエや雑草を刈り取ったりと、炎天下の作業はかなりきつい。

 今日は正に肉体労働だ。しかし、私はいっぱい汗をかいたが、考えようによってはかなりハードな運動にっているのだ。作業終了時には心地よい疲れを感じた。しかし、夕食のビールがうまかったのはいうまでもない。

上:炎天下で作業の始まるのを待つサギたち。下:作業開始と同時にサギたちは一斉にコンバインの後で餌取りを始めた。

炎天下で辛抱して待つサギ
 話は変わるが、午後私は20分ほど早く現場へ行き、車の中でクーラーをつけて待っていた。ところが、コンバインの近くの道に、すでに小型のサギが待っているのである。炎天下でサギたちは、コンバインが動き出すまで動かずにじっと待っているのである。

 そして、コンバインが動き、稲をかり出すと一斉にコンバインの後で餌取りを始めるのである。落ち穂を拾っているのではないようだ。落ち穂なら、至る所に落ちているからコンバインの後ろへ行く必要はない。ところがサギたちはコンバインが稲を刈り取った直後の田圃へ群がるのである。たぶん、虫などの小動物がびっくりして飛び出すのではなかろうか。

 
 

帰って行った孫達

29 8月

 最後の思い出づくり
 先月の26日に、息子の嫁と共に2人の孫達が横浜(息子の勤務先は東京)から帰ってきた。そして、今日の午後9時半過ぎに車で横浜へ帰っていった。息子は、お盆休みもなく仕事で、先週の木曜日に帰省して3泊4日で帰って行った。

 この間、息子は友達と会ったり、嫁の実家へ行ったりして、4日間はあっという間に過ぎてしまった。この間、私も、試験的に作ったホームページ『いなかもんの演歌の広場』をアップしてもらったり、動作しないソフトを直してもらったり、いろいろIT関係の問題解決に力を貸してもらった。 

 昔は、息子や娘達を、旅行やキャンプや海や川へ連れて行ってやったものだ。息子にしたいくつかのことは、孫達にも関越的に影響を及ぼしている。私が息子達にしてやったことを、息子達は孫達にしているのである。 

  息子の希望で田舎暮らしの最後の思い出づくりは、勝原へ泳ぎに行くことになった。息子は、ゴムボートや浮き輪を持ち込み、午後1時頃に勝原へ出発した。たくさんの人達が泳ぎに来ていた。知り合いもいた。息子達は、2人の娘をゴムボートに乗せたり、水遊びの相手をしていた。 

勝原の河原。かなりの人達が、キャンプやバーベキューや水泳を楽しんでいた。

 

 私も、孫達のおかげで泳いだり、孫達とボートに乗ったりできた。大人だけなら、川へ泳ぎに行くことはなかっただろう。子供や孫達のおかげで海へ行ったり、川へ行ったり、いろんな所へ行くことができる。 

 泳いだ後、外食して帰宅した。最後にメールソフトが上手く作動しないので、息子に直してもらった。孫達が家にいる間は、上の孫娘といっしょに寝ていた。孫は寝ている間に、動き回り、時には逆さになっていることもあったし、足で私達を蹴飛ばすこともあった。それでもみんないい思い出になった。 

 「横浜ではパパやママとはいっしょに寝られるので、勝山ではばあちゃん達と寝たい。」
というのが孫に口癖であった。今晩から、また静かな生活に戻ることになる。 

午前中は新たなホームページづくり
 午前中は、事務所で、新しいソフトづくりの案を練った。今度は、ホームページを作るというよりも、『数学講座』をいかに展開するかが問題である。息子ともいろいろ相談した。『演歌のホームページ』を作って
いる時は、殆ど無関心だった息子が、今度の数学のホームページには多少なりとも関心を持っているようであった。

久々に会ったパパとボートを楽しむ孫達。

 

 そのために、私の考えに対してアドバイスもしてくれた。なるほどという面もあった。数学について考えているときは非情に楽しい。いろんなアイディアも浮かんでくる。果たして高校生達の役に立つのかどうかはわからないが、作っている私はとても楽しい。 

 ぜひとも、高校生諸君に見てもらいたいし、意見や提案を寄せてほしいと思う。今後、半日はこのホームページづくりに時間を費やしたい。今年いっぱいで、成果が上がったかどうかがわかるだろうと思う。結果はどうであれ、自分の生き甲斐として数学に関わりたい。 

(日記:午前中、数学のームページづくり。午後、息子の家族と勝原水泳場へ。外食して帰宅。午後、午後9時半、息子達は車で横浜へ帰る。) 

 
 
 
  

孫とボートを楽しむ私。久々に童心にかえることができた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

午後9時半、別れを惜しみながら孫達は横浜へ帰って行った。

 
 

一つの区切り

28 8月

『いなかもんの演歌の広場』ようやくアップ
 今回のホームページについてはだいたい自分でできることはやった。後は、アップだけだ。金曜日に息子が東京から帰って来たので、これ幸いとアップ作業をしてもらった。サーバーをどこにするのか、画像や音声データがあるので、かなり大きなホームページだ。

 事務所の回線は貧弱だ。しかし、全てのデータを事務所のパソコンに置いてあるので遅くてもやむを得ない。演歌のファイルも音質をある程度犠牲にしても仕方がないと容量を小さくした。それでも、アップ作業に時間がかかった。私は見ているだけだったが、いろいろ勉強もできたと思っている。技術もまだまだだ。

   とにかく、ホームページづくりは慣れるしかないと思った。もっと、若いときにやっておけばよかったと悔やまれるが仕方がない。歌を作りながら、全国の仲間と交流できたらと思っている。一緒に歌作りができたらと思っている。

http://song.inakamon.net

ネット上にアップした『演歌の広場』の表紙絵

 上記のアドレスを見ていただければ幸いです。  

念願の数学講座の制作開始 
 一番やりたかった数学講座をやるために、息子に ネット上に場所を作ってもらった。

 完全に作り上げてアップするのではなく、最低でも一週間に一、二度新しい講座を増やしていけばよいのだ。対象は高校生だ。果たしてこのページを訪れてくれるかどうかだが、それは全て私の力量にかかっている。誰も訪れてこなければ、それが私の実力だ。

 何とか、魅力ある講座にしたいと思っている。この講座のために、わざわざホームページ制作の講座まで受けてきたのだ。そして、『演歌の広場』で練習もしてみた。まだまだ、十分ではないが、最低限のことができる技術は身についたかなあと思っている。

  これからが、本命だ。勉強もしなければならないだろう。苦労は多いが、やりがいはあると思っている。

制作を開始した『いなかもんの数学講座~数学は読解だ~』の表紙絵

(日記:午前中は、息子にアップ作業を見ながらいろいろ教えてもらった。しかし残念ながら彼は明日東京へ帰ってしまう。
 午後、数学講座のホームページづくりの準備をする。
 午後7時半より、片瀬地区に伝わる銭太鼓を活かした新しい郷土芸能づくりの練習をする。)

片瀬地区の青年会・中年会・壮年会の有志による新しい郷土芸能づくりとその練習

 
 

「最近はまっていることは何ですか?」

27 8月

楽しい飲み会にするために
 午後7時から大野市のとある料理屋で『奥越春秋会』が開催された。この会は、奥越の出身者で、県内の高校の校長を務めて退職した者の親睦会で年一度開催されている。60歳過ぎから80歳過ぎまでの者が集まった。

 乾杯の後は、幹事が中心になって酒を注いで回り、その後、お互いが相手のお膳の前に座り、酒を注ぎながら雑談するのである。そして、時間を費やすのである。これだけではもったいないといつも思う。今日もこのままで終わってはさみしいと思った。

 そこで、例によって、私は次のように幹事に提案した。少しでも楽しい会にしてお互いが刺激し合うためにだ。

『奥越春秋会』で乾杯の発声をするH元大野校校長。今日の参加者の大部分は、私も含めて大野高校での勤務経験があり、かつてこのH校長の下で教員をしていたのだ。

「最近はまっているものは何ですか?」
  こんな質問をみんなにしたらどうかと提案したのだ。早速質問がきた。「はまっているとはどういうことか」と。「興味を持って取り組んでいること」、「夢中になって取り組んでいること」、「止められないくらい楽しいこと」と答えておいた。

  幹事が指名して、順番にみんなが自分の“はまっていること”を述べた。途中で質問が入ったりもした。一周するのにかなりの時間がかかった。しかし、退職者がそれぞれ何に興味を持ち、どんな生活をしているのかがよくわかった。

    実は、私は「ある程度自分の意見を述べることができる飲み会」などでは、このような提案を何度もしている。その結果、飲み会はいつも盛り上がるのだ。今日ももっと早くこのような提案をすべきだった。このような話の後、おたがいが酒を酌み交わせばもっと盛り上がるのだ。

 ある時の、公民館会長会の飲み会では、「こんな楽しい飲み会は生まれて初めてだ。」といわれたことがある。10数人の会で、一周するのに、2時間ほどかかったのだ。それは、発言に対して、仲間から次々と質問が出たからだ。今も思い出に残る飲み会であった。
 
 今日は帰りがけに、提案したので、その後、あまり時間がなかった。しかし、先輩や後輩達から、いろんな話を聞くことができた。それぞれに自分を生かすものを見つけて生活を楽しんでいるのだ。自分から言いたくても言えないことが、指名されることによって気楽に発言できるメリットもあるのだ。

 私は、ネット上で「高校数学講座」を開きたくて、ホームページの作り方を勉強している。そのために、産業支援センターへ通っていると話した。また、一日一回は思いっきり汗をかきたいと現役時代は思っていたが、今はそれができる。おかげで、毎日たっぷり汗をかくことができて、退職時よりも4kg痩せることができたとも話した。

(日記:午前中、試作のホームページの最終チェック。午後は、地元の新しい郷土芸能の振り付け研究。夕方6時より、大野市での『奥越春秋会』に参加。)

 
 

完成間近

26 8月

終日ホーム頁づくり
 昨日、Y君に教えてもらったおかげで作業はかなりはかどった。午前5時過ぎに起きて、午後10時過ぎまで、ほとんど休みなくホームページづくりの詰めを行った。今回のホームページは『いなかもんの演歌の広場』とした。

 ホームページづくりに一生懸命になっているが、本当の目標は、自分が作った歌(演歌が多い)の発表の場を作ることだ。ぞれにはホームページを作る技術が必要だ。また、ホームページをtくるためには絵を描いたり、写真を加工する技術も必要になる。かなり頭を使うことになり、脳のトレーニングにもなる。

 これまでも、自作の歌をホームページで単発的に発表していた。その結果、それらを見て大阪や奈良の人と友達になった。10曲近くいっしょに歌を作った。また、作詞の「華木かおるさん(ペンネーム)」は泊まりがけで勝山へ来られたり、行事があると来られたりして、何度か勝山で話をする機会があった。

 何かを前向きにやっていれば、いろんな人と友達になることができるのだ。自分の表現したいことを、よりよく表現するにはホームページは有効な手段であり、他人に頼んでいるのでは始まらないと思う。

 それにしても、今日は疲れた。途中で、三味線のSさんと尺八のUさんと会って話したことと、家庭菜園の水やり以外の時間はほとんどパソコンに向かってもっぱらホームページづくりの作業を行った。

孫も、息子や娘が和太鼓を始めたt年頃になった。私のスタジオで和太鼓をたたく孫。結構やるなあと思ったが、夏休みが終わると横浜へ帰ってしまう。

次回作にわくわく
 次の目標は、高校数学講座だ。アイディアはあるが、そのアイディアを発表し、全国の高校生が訪れるホームページを作るのは至難の業だろう。私の本職の数学が活かされると思うとわくわくする。そのためにも、もっともっとホームページづくりのワザを磨かなければならない。

 充実したる講座を展開するには、静止画像、動画、映像、音楽など様々な要素が必要になるだろう。何よりも構成が大切だと思う。演歌づくりも、数学も共通した部分は多いと思う。

 それにしても、こうした技術は若い時に身に付けておくべきだったとつくづく思う。理解度は若いときの数倍はかかる。ただ、自由時間も数倍あるので、諦めなければ何かはできるだろうと考えている。できたものが不十分であっても、努力する過程が何にもまして充実している。

(日記:午前5時より、午後10時までホームページづくり。午前と午後、それぞれ1時間弱、三味線、尺八の仲間と会う。今日は、深夜に息子が東京から帰ってくる。福井着は午前0時頃だという。久々の再会が待ち遠しい。ITの分野で息子は私のライバルだと言うと、現役の息子は怒るだろう。いや、怒るどころか、相手にもならないと笑うだろう。こちらは、内心、何かをやってやるぞと思っているのだが、前途は多難だ。)

 
 

持つべきものは……

25 8月

勝山ソバ会のリーダーNさん
 今年の夏祭りの8月15日の盆踊りは私が担当することになった。実施に当たっては、ずいぶん多くの人達のお世話になった。踊り指導の皆さんや歌や伴奏隊の皆さんだ。

 これらとは全く別の立場でお世話になった人がいる。残念ながら、勝山では盆踊りだけでは人は呼べないだろうということで、いろいろ考えることにした。一つは、郷土芸能発表会である。踊りや歌や和太鼓がそれである。

 それと、祭りには食がつきものだろうということで“手打ちそば”の模擬店を出せないかということであった。ある人に打診してみると、
「お盆はみんな忙しいから、無理やろな。ソバを打つにはお盆の頃は暑すぎるし。頑張っても1、2時間が限度やろな。」
ということだった。

 食がないとさみしい。しかし、お盆に盆踊りの会場でソバを打ってほしいと頼む方が無理かも知れない。迷っていたが、もうこの人しかいないと「弁天ソバの会」のリーダーで勝山のアマチュアソバ会を束ねるNさんの家を訪ねた。

 「盆踊りを盛り上げるためにも、お盆で帰ってきた人達に勝山のソバを味わってもらいたい。そこで、当日(8月15日)の夕方だけでも手打ちそばを出してもらえないでしょうか。」

 Nさんは二つ返事で快諾してくださった。おまけに、どうせやるならと、午前11時から夜までやるというのだ。Nさんお厚意に感謝するためにも、盆踊りと共催の形で、「手打ちそば祭り」と銘打ってポスターには掲載してもらった。

 当日の暑い中、黙々と弁天ソバの会の皆さんは「ゆめおーれ広場」のテントの中で、ソバを打ってくださった。私も味わったが、ひんやりとしたおろしソバはとても美味しかった。

 今日は、Nさんの自宅を訪ねて改めてお礼を言わせていただいた。

 私の現役時代(高校教員)には、NさんにPTA会長をしていただき、2人でPTAの全国大会に出た思い出がある。人望があって、誰もが尊敬の眼差しを持って接することのできる人物である。見習いたいところの多い人である。

 そして、「持つべきものは……」という感を強くした次第である。

 Nさんの自宅の前にあるソバ道場で写真を撮らせていただいた。

Y君のおかげで1時間が10日分の値打ちに
 ここ数日間、一生懸命にホームページづくりの勉強をしている。DVDやマニュアル片手に必死で勉強している。わかることも増えたが、わからぬことも増えてきた。

 今日も、夜、事務所で勉強していた。息子の友人のY君に他の用事で電話をすると今家へ帰る途中だという。

 「今から事務所へ寄りましょうか」

ということになった。用事は数分で済んだが、ホームページづくりのわからない点を彼に話した。

 約1時間いろんなことを教えてもらった。今晩の1時間は独習の10日分に匹敵するぐらいの値打ちがあった。

 つい先日も、自宅のパソコンが動作不能になって彼に来てもらったが、真剣に対処してくれた。

 この時もなんとお礼を言っていいのかわからないくらい有り難かった。

 彼も、Nさんに似て謙虚な人間である。人柄のよい人は謙虚である場合が多い。しかし、周りの人達はちゃんと評価しているのである。力のない人ほど、自慢話を氏、自分の力を誇示するのであるが、逆効果になる場合が多い。

 NさんとY君のおかげで今日一日とても気分がよかった。まさに、“持つべきものは……”と感じた一日だった。

(日記:午前中、暑い中、大根を植える場所を耕す。汗だくになった。その後、ホームページづくりの研究。午後も、継続。午後3時頃、太陽が雲に隠れたので、家庭菜園作業を継続。ところが、再び太陽が出て暑くなり、汗だくになった。その後、事務所でパソコン作業。夜、Nさん宅へ盆踊りの時のお礼に行く。そして、午後10時まで事務所でホームページづくり。)

 
 

芸能デー

24 8月

『津軽じょんから節』に悪戦苦闘
 私も最近『津軽じょんから節』の練習を始めた。娘達のピアノを思い出す。私の娘達はずっとピアノを習っていた。特に姉の方は、練習に苦労していたようだ。妹の方はあまり言わなくいても、自ら練習していた。その娘達がピアノを習うように、私も、先々週から、月に2回三味線の先生に無理なお願いをして『津軽じょんから節』を教えていただくことになった。

 三味線もろくに弾けない私が、いきなり『津軽じょんから節』を教えていただくなんて、我ながら厚かましいにもほどがあると思った。それだけに、娘達のピアノではないが、ここ一週間、多少まじめに練習をしたつもりだ。

 そして、今日が2回目の個人レッスンがあった。独学では無理だと思った。通販で安物の三味線も買ったし、教則本も手に入れたが、途中で投げ出していたのだ。先生に指導をお願いしてから、少しずつ奏法を教えていただくことができるようになった。

 やはり基本は、しっかりした人に習うべきだと思った。ギターと違って楽譜を見ながら弾くことができない。手元が見えないからだ。かといって、なかなか曲を覚えられない。正に、年齢との戦いである。昔なら、1、2日あれば覚えられる曲の長さだが、今はそれが覚えられない。

 果たして、短いこの曲を覚えられるのだろうかという不安が頭をよぎる。しかし、覚えられないからこそ脳のためになっているんだと自分に言い聞かせている。後は練習あるのみだ。

 来月始めのレッスンまでには、少なくとも、今日よりは進歩していたい。練習は大変だが、面白い。

 私には、『津軽じょんから節』を学ぶ理由が二つある。一つは、和太鼓の伴奏に三味線を使いたいからだ。そして、『津軽じょんから節』をヒントにメロディーを
考えたいからだ。もう一つは、じょんから節を活かした演歌を作りたいからだ。

 以上の二つの理由のために始めた『津軽じょんから節』だが、最近では三味線そのものが面白くなり始めている。少なくとも、この一曲だけはマスターしたい。できればひと前で弾けるぐらいに。

新しい郷土芸能づくり
 夜、7時半から集会所で郷土芸能づくりのための会合があった。区長の説明の後、様々な意見が飛び交った。全て想定内である。これまで伝わっていたものを新しいものにする必要があるのかという意見が多い。

 私の意見はこうである。

「確かに片瀬に伝わる銭太鼓は、かなりの伝統があるが、“安木節”に合わせてとじょうすくいを入れて飾りバチを振るのである。他県の郷土芸能のコピーである。いくら頑張っても、物まね芸であって郷土芸能にはなり得ない。それくらいなら、これらを使って新しいものを作ったほうがよい。」

 安木節をのメロディーを活かして詩を変えたらという意見もあった。それでは、替え歌である。いっそのこと新しいものを作った方がよいと思う。とにかく、試験的にやってみようといいことで話が落ち着いた。そして、基本的なバチの振り方を練習した。

 今後、年長者からもいろんな意見が出るだろうと思う。それらを説き伏せられるかどうかは、試験的にやった芸能が受け入れられるかどうかだ。そのためには、試験的とはいえ、真剣にやらなければならないと思う。責任重大でもある。

 非難覚悟でやらなければならないだろう。とにかく、始まった。後は、少しでもよいものを作るしかない。またまた忙しい日々が始まる。それが済んでからが、本当の夏休み、いや秋休みになるのかも知れない。

(日記:午前中、三味線練習とホームページ研究。午後は新民謡のCD作り。夕方、『津軽じょんから節(三味線)』の個人レッスン。そして、家庭菜園の水やり。午後7時半よ利、片瀬地区の郷土芸能を考える会に出席。銭太鼓の練習。)

 
 

伝統を活かしながら新しさに挑戦

23 8月

これでいいのだろうか?
 今、私の村では、秋の祭りを見直そうとしている。祭りの中身が非常に薄いものになっている。神主さんを呼んでの式典はあるものの、祭りそのものは、さみしいものになっている。少しでも祭りを盛り上げようと、子供会育成会や青年団などが、模擬店をやっているが、人はあまり集まらない。

 最終的には、抽選会を行って人集めをしている。「これは次の世代に伝えなければならない」というものがほとんど見られない。各家庭で必ず行っていた報恩講のように、やがてはなくなってしまうのだろうか。
 
   そこで、子供や大人のために、奉納のための芸能を考えようということになった。子ども達(特に女の子達)は、「浦安の舞」を始めようとしている。福井市のK神社にお願いして舞を教えてもらうよう話がついている。片瀬の女の子は、大人になるまでに一度は神前で「浦安の舞」を舞うことを伝統にしたいのだ。

 一方、大人の方はどうか?私の村には銭太鼓やどじょうすくいが大正時代(もしかしたら明治末期)から伝わっている。一時廃れたが復活させ、祝儀があるとこれらを披露してきた。しかしそれも最近廃れかかっている。

 それは、音楽が島根県の「安木節」であり、オリジナリティーがないからだ。従って、いつまで経っても郷土芸能にならないのだ。それで、これはこれとして、新しい歌と共に、新しい郷土芸能(銭太鼓入り)を作り出そうとしている。

 その歌作りを私は頼まれたのである。新しい郷土芸能を作るのはよいが、たとえ他県の郷土芸能でも村に伝えてきたのだから、これを簡単になくすることはできない。私としては、やるからには、「安木節」に合わせた銭太鼓はこのままにしておいて、全く新しい郷土芸能を作り出した方がよいと思っている。

 新しくても、例えば、私の作った「勝山小唄」はすでに40数年の歴史があり、今も踊り伝えられている。また、私の創設した『越前勝山春駒太鼓』も、すでに25年の歴史がある。「ものまね」はいつまで経って「ものまね」であるが、新しいものは、5年経てば5年の歴史が、30年経てば30年の歴史ができる。

 そうは言うものの、村の郷土芸能(民謡)を作ることは簡単ではない。個人の趣味なら、簡単だが、村の人が歌い踊るとなると簡単ではない。

祝儀で銭太鼓を披露する片瀬青年会のメンバー

四苦八苦
 チャレンジしてを始めてすでに5曲作ったが、どれも気に入らない。今日は、自分の趣味に時間を費やすことはやめて、朝5時に起床して、歌作りを始めた。午前中いっぱいかかってようやくメロディーができた。まだまだ十分ではない。しかし、明日の練習会までには何らかの形を示さなければならない。

 メロディーを作ったら、次は歌詞作り、銭太鼓の振り付け、女踊りの振り付け、そして、男踊りの振り付けと、完成までにはまだまだすることがたくさんある。頼まれ仕事は本当に苦しい。出来不出来があるからだ。

 それから、年配者に文句を言われる可能性もある。「よけいなことをしなくてもいい」と。一所懸命苦労して、文句を言われるのは苦しいが、すでに、実行委員会もでき、走り出している。

 やっと、盆踊りが終わったと思ったら、次は祭りの郷土芸能づくりだ。パッと消えてなくなるか、それとも、村に定着するか、どうなるかだ。自分もやってみたいと村の人達が思えるような、魅力あるものを作ることは簡単ではないが、乗り出した船だ。後戻りはできない。とにかく、頑張ってみよう。

祝儀の銭太鼓にはつきものの「どじょうすくい」のメンバーも含めて記念撮影

(日記:早朝より、午前中いっぱい新民謡づくり。午後は、ホームページに掲載する童話の整理。夕方は家内と2人で孫の守。いっしょに外食する。朝から、時々「津軽じょんから節」の練習。明日は個人レッスンがあるからだ。指が動かない。前途多難だ。)

 
 

素人の気楽さで童話を書こう!

22 8月

書くことは生きること
 私は書くことが大好きだ。ここ9年間、教育委員会勤めであったので、様々な式典や、大会などでは挨拶を考え、年度末に発刊されtる様々な機関誌や新聞などには巻頭言や挨拶文を書いてきた。どんなにたくさんの原稿依頼があっても、苦にはならなかった。

 また、市民大学では童話講座を企画し、福井新聞『お話トントン』の選者藤井先生に講師をお願いしてきた。そして、初回の講座から、現在もずっと受講し続けている。さらに、退職の少し前から若い先生方に向けてメッセージを発したいということで、全く自信はないが小説の形で書き続けている。

 8割は完成しているが、全体としてはまだ仕上がっていないので、冊子にはできないでいる。「書く」ということは、「考えること」であり、「生きること」でもあると私は考えている。これは、私が国語の教員でなかった気楽さがあるからかも知れない。多少拙い文章でも、自分さえ合点すれば恥を忍んで発表できる。

 国語の教員だと、文章を書き、それを発表することは簡単ではないだろう。同様に、私は音楽の教員でもなかったので、下手な演歌を作ってCDにしたり、BGMを作って映像作品に挿入しているが、素人だからこの程度でもいいだろうと気楽に作品を発表できる。

 今から、40数年前、青年部に属していた頃、部会誌に原稿を書くことになった。私は、言いたいことがあったが、それを童話の形で発表したことがある。言いたいことがストレートでない分、場合によっては意図したことが伝わらないかも知れないがそれはそれでいいと思っている。

 市民大学で書いた童話の主人公は、人間もあったが、童話を主役にすることが多かった。犬や猫なら「野良犬」や「野良猫」が主役である。それは、自分に染みついた考えから来ているのかも知れない。組織の中で安閑としているのは自分の生き方としては向いていない。

 組織を離れ、自力で行動したいという願望がどこかにあって、童話の主人公はいつもこうした動物になる。独立して生きることは厳しいが、喜びは大きいと思う。そんなたくましさが表現できればと思って書いている。でも主張がストレート過ぎたら童話としてはよくないかも知れない。ここが難しいところだ。

 実際の社会では、誰もが独立して生きられるわけではない。組織にいても、独立心だけは失わないでもらいたい。これは私から若者達へのメッセージでもある。演歌のホームページに童話のコーナーを設けたいと思って今日は童話を整理した。

 演歌と童話をつなぐものとしては、私の頭の中には「童謡」がある。近々「童謡」にもチャレンジしてみたいと思っている。することはいっぱいあるが、意欲がどこまで続くかが最大の問題である。

今回の同窓会の幹事(45年前に担任下生徒達)が事務所へ来てくれた。2時間ほど話し込んだ。過去の話もしたが、今の話、今後の話もたくさんできた。充実した時間だった。右は幹事長のNさん、左は同じく幹事のKさんでベテランのオウレン栽培家。

(日記:午前中、45年前に上小中学校で担任をした生徒2人が事務所へやって来た。45年お互いにいろいろなことがあったのだ。特に女性のKさんは日本一のオウレン畑を守ってきたという。テレビにも出演したらしい。製薬会社でも講演したという。一度、オウレン畑を見せてほしいとお願いした。秋がよいという。楽しみだ。その後、ホームページづくり。かなり形ができてきた。これまで書いた童話をパソコンから探し出して一まとめにした。パッソコンの中はまだまだ整理しなければならない。)