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Archive for 2月, 2011

オカリナ教室に新しい仲間

28 2月

身近にオカリナファンが
 昨年の11月から、頼まれて『オカリナ教室』に関わっている。そして、今日、そのオカリナ教室に新しい仲間が加わった。同じ村(片瀬)の女性だ。まさか、同じ村の人がオカリナに興味を持っているとは想像もできなかった。

  彼女は、都会暮らしをしていたが、夫が村(片瀬)へ帰ってきたのを機会に5年前に勝山へ帰ってきたのだ。今日初めて知ったことだが、名古屋では5年間オカリナ教室に通っていたとのことだった。

  勝山へ来てからの5年間はブランクだったとのことだ。そして、我々のオカリナ教室を知って今日初めて私たちの仲間に加わったのだ。まさか、私の村にオカリナ好きがいたなんてこの5年間全く知らなかった。

  今日は、3月15日に子育て支援センターの幼児達の前で演奏する子ども向けの曲を練習した。二部に別れての練習だが、ハモると一人では味わえない満足感が生まれる。

  オカリナは単純な楽器だ。「たかがオカリナ、されどオカリナ」だ。宗次郎のオカリナを聴くと澄み切った音がしてさわやかの気分になれる。いろんな高さのオカリナで演奏すればもっと楽しくなるだろう。

  このオカリナは、私にとってはボケ防止になっているのではないかと思われる。ちょうど音読が脳にいいように、オカリナも脳の健康にはよいように思われる。

  楽譜を見る、定められた音を指で押さえ、リズムに乗って息を吹き込む、……強弱も考える、こうした一連の操作は脳をフル回転させなければならないだろう。脳にはきっと好影響を及ぼすだろう。

  同じ村に、楽器演奏に興味を持つ人がいるなんて本当にうれしい。1年後にこのグループがどうなっているだろうか。もし続いていたとしたら、かなり技術的にも向上しているだろうと思う。

  施設への慰問活動もできるようになるだろう。昔懐かしい童謡や唱歌、そして懐メロなどを演奏してみたいと思うし、映像とのコラボレ-ションもやってみたい。生の音楽に合わせて映像を流すのだ。

  そのためには、オカリナのオリジナル曲もつくってみたいと思う。自分が演奏してみると、曲を作るのにも参考になるような気がする。どうせやるなら仲間と楽しく活動したい。

(日記:午前、午後とも『数学のホームページ』作り。午後7時より『オカリナ教室』。新しい仲間が加わって楽しく演奏することができた。)

 
 

春を呼ぶ左義長

27 2月

大雪の思い出も遠くなる
  さすがに左義長の練習が始まると、冬のつらさを思い出すよりも、春が来る浮き浮き感の方が強い。どこまで雪が降るのかと心配していた一月前が懐かしい。

  一年に一度、思いっきり発散することができるイベントは大切かもしれない。阿波踊り、郡上おどり、やつお踊り、ねぶた、よさこい(高知)、だんじり、……日本各地には伝統の祭りがいろいろあるが、これらは祭りのために働いているのではないかと思われるくらいに「超発散型」の祭りだ。

2段の櫓で演技をする芳野地区の子供達。

  左義長も、それらに負けないくらいの祭りだろう。今年は、芳野区のOさんのおかげで左義長ばやしの練習から3回見学させていただいた。幼児や小学生低学年・小学生高学年、そして中高生や若者、おじさんやおばさん達、各階各層の人たちが、一つの目的に向かってがんばる姿は尊い。

現代人に必要な心のゆとり
  ともすれば、利益、効率等を追い求めすぎる現代社会においてこそ、こうした「精神的なゆとり」は大切だろう。とにかく、現代人は、先へ先へと先を急ぎすぎる嫌いがある。

 中学校へ入ると少しでもよい高校へ、そして高校へ入ると少しでもよい大学へ、そして大学に入れば3年生のうちからよりよい会社を求めて就職活動、就職できれば厳しい競争の中で昇進を目指す、……先へ先へと目標を設定し、ひたすら前進する。

左義長のフィナーレを飾るどんど焼き(勝山橋上より撮影)

  こうした生活には、「心のゆとり」は必要だ。一見非日常的な活動や、読書、様々な文化的活動、スポーツ活動などは、人の生き甲斐づくりやストレス解消に大いに役立つ。左義長の練習から見ていてそんなことを感じた。

  今日、11時50分から芳野地区の子供ばやしコンクールを見に出かけた。練習中からずっと見ていたので、一人一人の顔もよくい覚えていて何となく親しみを感じた。

    周りにいるサポーターである保護者や地区の人たちも演技の間声をかけて盛り上げていた。まさに、地区民が一体となって子供達の演技を応援していた。特に、保護者は必死であったように思う。

  のぼり旗を下ろすところで始まったのぼり旗が上がったところで審査時間が終了した。15人の審査員達は終了時間とともに、櫓から去っていった。その後も、子供達の演技は続いていた。

(日記:昼頃、子供ばやしコンクールを見に行く。昨日から来ていた長女が福井へ帰る。午後、メロデー作り。オカリナ楽譜作り。夜、どんど焼きを見に弁天河原へ。どんど焼きの炎にに向かって家族の幸せを祈る。左義長関係者の皆さんご苦労さんでした。)

 
 

櫓で左義長体験

26 2月

やはり慣れが必要か
  芳野地区のOさんのお誘いで芳野区の練習を3度見学させていただいた。そして、今日は、芳野地区の櫓に登らせていただき、太鼓を叩くことができた。

 櫓の上で太鼓を叩くのは昨年に続き、これで二度目だ。でもまだぎこちない。音楽に自然に身体が乗るまでには時間がかかるかもしれない。いや、そんなことよりも私の歳で太鼓を叩く人など、ほとんどいないのではないかと思われる。

上長渕の櫓で左義長太鼓を叩く私の末娘。

  何とか、左義長太鼓を練習して、櫓のない地区の子ども達に伝えたいという願いを私は持っている。そのためには自分が体験しなければうまく教えられないだろうと思う。

  私の地区は、いなかで左義長太鼓を叩いた経験がない。左義長太鼓は旧町内の一部の地区に伝わる祭りだ。そのために、左義長太鼓は見るだけのものだった。

  しかし、高校で和太鼓野チームを創設したのを機会に、保存会の方に高校生に左義長太鼓を教えていただくようお願いをした。

  そんな経験から、私の娘は左義長太鼓に魅せられている。大学受験の時期を除いて高校時代から、社会人になった今日まで、左義長保存会のKさんのお誘いを受けて上長渕の櫓に登らせていただいている。今日も昼から夜まで太鼓を叩いていたのだ。

道路に賑わいを添える芳野地区の雪だるまの左義長。

  私の方は、芳野の櫓では高校生に混じって太鼓を叩かせていただいたが、高校生の側から私を見たら、「他地区のおじさんが年甲斐もなくようやるわ」というところかもしれない。幸い、芳野地区には知っている人がたくさんおられるので、心強くはあるが、迷惑であるかもしれない。

  とにかく、本格的な櫓の上で太鼓を叩かせていただいて満足できた一日だった。しかし、太鼓をもっと練習しなければならないとも思った。娘と親父が異なる地区の櫓の上で左義長太鼓を楽しむなんてそんなに経験できることではない。

  芳野地区の皆さんに感謝。もっとうまくなって恩返しをしたいものだ。未経験の子ども達に左義長太鼓の楽しさを伝えたいと思う。未熟ながら、北部中学校の生徒とアメリカのALTの皆さんには、今年も左義長太鼓を教えさせていただいた。

(日記:午前中、パソコンのファイル整理。午後、北部中学校で和太鼓の指導。今日は保護者の授業参観日でもあった。北部中学校の音楽室で左義長太鼓の授業を行った。午後は、左義長を見に出かけた。夜は、芳野地区の櫓で左義長太鼓を叩かせていただいた。感激。そして、芳野地区の皆さんに感謝。)

 
 

笑顔が一番

25 2月

暗い気持ちが晴れる
  娘の転勤に伴う引っ越しのために大阪へ行くことにした。のんびりドライブを兼ねているために、京都で一泊した。さて、いよいよ出発だと思って車のエンジンをかけようとしたらかからない。

  エンジンの不調か、それともバッテリーが上がったのか?楽しい気分が一変した。JAFに入っているとはいえ、カードを持ってこなかった。このままでは、大阪へ行けない。

  電話帳で調べて最寄りのJAFに電話をかけた。名前を言うと、会員登録がしてあることがわかったようで「50分から1時間の間にそちらへ到着します」という返答。

  それならばと、時間待ちの間にオカリナの練習をしていると、JAFの車が到着。若いお兄さんが車から降りてきた。「まだ新しい車ですね。」と笑顔で話しかけてきた。そして、手際よく、機器を取り出し、あれこれ調べてくれた。

  調べた結果、バッテリーが上がったとわかり、充電器につないで、エンジンがかかった。「バッテリーの消耗具合も調べましょう」とチェックしてくれた。「バッテリーはしっかりしています。」との返事。エンジンがかかり、ほっとした。

  本人確認のために、「免許証をお貸し下さい。」と言うので、免許証を差し出すと、「勝山から来られたんですか。私はよく勝山へスキーに行くんですよ。先日もジャムに行ってきました。雁ケ原へ行ったこともあります。」とのこと。

  作業の間中、笑顔を絶やさず応対して下さった。そして、最後に、「お気をつけてお出かけ下さい。」とまた、笑顔で送ってくれた。一瞬暗くなりかかった気持ちが吹き飛んでしまった。

  私も家内も、その笑顔に引き込まれてしまった。てきぱきした作業。相手の気持ちに立った応対。そして、笑顔。そのさわやかな笑顔に送られて大阪へ向かいことができた。

  「笑顔が一番。」私たちは、果たして、笑顔を持って人に接しているだろうか。この笑顔によって気分のよい一日を送ることができた。「ありがとう!JAFのお兄さん」今日ほどJAFのユニフォームがとても頼もしく見えたことはなかった。

芳野区の低学年の左義長練習。後継者が次々と育っているようだ。

(日記:午前中、京都を出て娘の住むアパートへ。引っ越しの荷物を東京へ送る手伝いをし、いくつかは車に乗せて勝山へ運ぶ。午後1時半に娘を乗せて大阪を出て5時過ぎに勝山へ着いた。午後8時頃、芳野の左義長練習を見に出かけた。最終日ということでみんな気合いが入っていた。幼児から、壮年まで各階各層の男女が左義長によってつながっている。その活気を見てうらやましく思った。)

 
 

片瀬のショウガ

24 2月

里芋とショウガは村の特産物
  先日の「農事法人かたせ」の総会で、理事長は「今、片瀬の特産物は聞かれたら、これというものがない。かつては村の特産物だった里芋とショウガを村の特産物にしたい。」と挨拶した。

  例えばショウガだが、かつてはかなり有名な特産物だったと思っている。私の祖母も秋になると、背中にショウガを入れた籠を担いで、市内はもちろんのこと、大野方面(大野市内や上庄、美山)、福井方面は上志比、松岡辺りまで売りに歩いたものだ。

  昔は、NHKのど自慢の冒頭に地域の特産物を持って出て紹介しながら地域を紹介したものだ。勝山で行われたのど自慢では、「かたせの里芋とショウガ」を持って出て全国に紹介したのだ。

  それくらいのショウガが、種ショウガの高騰などで、採算が合わなくなってしまったのだ。どうしても、自前で種ショウガを保存することができないのだ。全国の産地では、それらをうまく保存して使っているのだ。

  このような状態なので、初めから勝負にならないのだ。それでも、私は期待している。村あげて取り組めば、農業試験場などが支援してくれるかもしれない。いや、支援を要請すべきかもしれない。

  ショウガは体温を上げることができる作物なので、低体温の多い現代人には非常に薬効のある作物だ。今日私は、ショウガ種を注文した。自分の家庭菜園ではなく、「農事法人かたせ」の畑を一畝借りて栽培実験しようと思っている。

  かつての特産物だったショウガを再び片瀬の特産物にするにはどうしたらよいのか、私は素人ながら、実験したいのだ。ただし、経営優先ではなく、生き甲斐農業としてだ。私は、春が来るのを楽しみにしている。

  農村の高齢者が生き甲斐のために畑に出るように、私も、自分の空いた時間を有効に使い、楽しみながらショウガを作ってみたいと思っている。強敵は、病原菌と害虫だ。天候も生育には影響するだろう。何とか、秋には収穫物を手に入れたい。

(日記:午前中、数学のホームページ作り。午後葉、家内と二人で車で久々の遠出。向かうは末の娘が働く大阪だ。PAなどで持参したオカリナを吹きながらのドライブだ。今、京都でこのブログを書いている。)

 
 

一寸先は闇

23 2月

災害は忘れた頃に
  最近の災害は天災や異常気象によるものが多い。ニュージーランドの地震は人ごとではない。まさか自分に災害が及ぶことはないだろうと思って暮らしているが、やはり安全には普段から備えておかなければならない。

  もしも地震が起きたらどうなるだろう。走行中の車は、高いビルの下を歩いている人は、本箱やタンスなどに囲まれて生活している人は、ひとたまりもないだろう。寝静まった時間帯に地震が起きても困る。

  せめて、普段から、どう対処すればよいかを考えておかなければならない。地震による火災や停電にどう動けばよいのだろうか。我が家では火災報知器を5個つけた。非常灯も所々に置いてある。しかし、地震に対しては無力だろう。

  まだまだ考えなければならないことはあるだろう。テレビによれば、携帯電話もいざとなると役立つツールだ。しかし、私は必ずしも電話を携帯していない。持っているいないが、時には生死の境目になるかもしれない。

  ニュージーランドのような地震が自分の地域で起きたらどうすればよいのか、何も起きないときに考えておかなければならない。防災グッズを今のうちから再チェックして準備しておかなければならない。

  それにしても、がれきの下で助けを待っている人たちは地獄だろう。助かる人と助からない人の差は偶然によるところが大きい。一日も早く、救助してあげてほしい。

  それにしても、日本の緊急救助隊ももっと早くニュージーランドに向けて出発できないのかとやきもきしてしまう。映像で見るクライストチャーチは目を覆うばかりだ。水も電気も止まっている。道路もずたずただ。
 
  まだ、所在の明らかになっていない人たちが300人あまりもいるのだ。「もしも地震がこの地で起こったら」との想定のもとに、私たちも、もう一度「天災は忘れた頃にやってくる」を肝に銘じてできる限りの備えをしておきたい。

今日の昼食はお好み焼き。NHK朝ドラ『てっぱん』で覚えた「尾道焼き」。焼きそば・豚肉・シーフードが入って結構美味しい。

  海外旅行に行きたいと思っているが、このような天災が起こると引いてしまう。普段から、見知らぬ場所へ出かけた場合には最低でも非常口などは確認しておかなければならない。

(日記:午前中、数学のホームページ作り。夕食は「尾道焼き」。午後も継続。夜8時頃から芳野地区の左義長練習会場へ出かけた。皆さんと一緒に打たせていただいた。高校生も来ていたがとても楽しそうに太鼓を打っていた。地域の人たちはノリノリだった。本番ではわずかな時間でも櫓に登らせていただきたいなあと思う。練習しなくっちゃ。)

 
 

農業の役目

22 2月

農業をビジネスと考えると
  今農業は岐路に立たされている。後継者がいない地区が多いからだ。後継者がいない理由の一つに農業で食べていくことが困難だからだ。農業をそろばん勘定で考えると、成り立たないだろう。

  私の集落では、農業の後継者不足や高齢化から自分で田畑を守っていくことが困難である。そこで、会社組織にして集団で農業に取り組んでいるのだ。それが「農事法人かたせ」なのだ。しかし、米以外は、簡単に利益を生み出せないでいる。

  と言うよりよりも、補助金がなかったらその米作りさえも経営的には成り立たないのだ。もしも、広大な外国で米作りを行ったら、一俵(60kg)15,000円あまりの米が数千円でできるのだ。

  我が「農事法人かたせ」では、里芋も作ったが大幅な赤字であった。総会では、「里芋作りは止めた方がよい」という意見が多く出た。一番金がかかるのが人件費だ。経営となると、全ての作業に時給いくらかで賃金を払わなければならないからだ。

  ところで米作りだが、本当に「農事法人かたせ」で作っているのかとよく考えてみると必ずしもそうではない。

  というのは、苗はJAで買い、田植えは自分で行うが、実った稲はコンバインで刈り取り、脱穀し、籾は田んぼからJAのカントリーへ直送するのだ。ここから先もJAが請け負うのだ。そこで乾燥し、臼すりを行って玄米にするのだ

  最初と最後は、JAで行い、途中の作業だけを法人が請け負っているのだ。そのために、JAにはかなりの金を払うことになる。これが今の米作りだ。片瀬では、乾燥から後の作業も、自前でやろうとしている。

  そこで、里芋作りを、始めと終わりだけJAではなく「農事法人かたせ」が行い、途中の軽作業は希望者が行ってはどうかということだ。全てを法人が請け負うと、赤字になるかもしれないが、個人が途中を請け負った場合には、「時給はいくら」という考えではなく、自分の生き甲斐として自分のペースで空いた時間にのんびり作業を行えばよいのだ。

  どうせ家でのんびりと過ごしている人たちが、自分の健康のためや生き甲斐のために、空いた時間に田んぼに出て里芋やショウガを育てることはそんなに大変ではないように思われる。

  結果的に、それが時給300円であろうと、500円であろうと何にもしていない時間なら、健康的な生き甲斐作業だと思えば収入があるだけでもよいのだ。年金ももらっている人ならなおさらだ。

 何とかこのような発想で法人では経営に成り立たないという里芋やショウガ作りを維持できないかと考えている。そして、片瀬の特産物作りを行えたらと思っている。今年、私はこの方法を試行しいと考えている。

(日記:午前中、メロディー作り。たいしたメロディーではないが、少しずつ増えている。午後は、事務所に区長が尋ねてきた。2時間ほど話し込んだ。その後、「数学のホームページ」づくり。余り能率が上がらなかった。夜、7時よりALT3人が和太鼓の練習にやってきた。左義長太鼓を教えた。今日で2回目だ。本番で少しでも左義長太鼓をたたいてもらいたいと思う。)

 
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「左義長ばやし」の練習を見学して

21 2月

子どもから大人までが参加して
  芳野地区のOさんに誘われて、練習会を見学させてもらった。昨日と今日の二日間続けて練習を見させてていただいた。昨年初めて芳野地区の櫓に乗せていただいた。全くの初体験であった。

  その縁で誘って下さったのだと思う。地域に根付く伝統芸能のほとんどは子ども時代から始めているようである。芳野地区の子ども達も、地域の大人の指導を受けて左義長ばやしに頑張っている。

  小学校時代に頑張って練習すれば、中学生になっても高校生になっても参加することができるのだ。その結果、若者達も頑張る。おじさん達も頑張る。

 一方、この地区に嫁に来た女性達も三味線や笛などのお囃子で頑張っているのだ。この熱気を見ていてうらやましくなる。太鼓を叩かない人たちは、あんどん作りなどで連日頑張っているのだ。まさに地区は、左義長一色だ。

「左義長子どもばやしコンクール」の練習をする芳野区子供会の皆さん。

  このような熱気を我が村で何に求めればよいのだろうか。今年度から始めた村の伝統芸能から産み出した『片瀬豊年ばやし』が、このような活気ある芸能に育ってくれるとありがたいのだが、簡単ではなかろう。

  私は、わくわくしながら、なるほどそういう風に太鼓を叩くのかと、夢中になって練習に見入っていた。時々、近くにいる人達に話しかけ、色々教わりながら見学させてもらった。

  今年も、一度は櫓にあげていただきたいと思う。ただ、私のような年齢の者は太鼓を叩かないで伴奏にまわることが多い。でも、太鼓に関しては、なるべく長い間、関わっていたいものである。

(日記:午前中、歯医者へ行き、その帰りに、作曲の仕方と、Jpopの本を買った。これまでは、演歌を中心に歌を作ってきたので今度は若い人たちのための歌を作れないかと思っている。午後、北部中学校で和太鼓の指導。今日は左義長の練習を行った。その後、帰宅して少しばかり、『数学のホームページ』づくり。その後、孫娘の誕生祝いを買いに大野へ行く。夜は、芳野区の左義長の練習を見学しに行く。)

 
 

ちょっと悲しき“誕生日”

20 2月

気持ちを若く持ちたい
 2月20日は私の誕生日。(歳は異なるが長嶋監督も月日は同じだ。)ちょうど、長女と二人の息子が来ていたので、一緒に祝ってくれた。一昨日は、長女の息子の誕生日だった。

  昨日は普通のケーキを食べたので、今日は家内に頼んでゼリーのケーキを作ってもらった。孫達も喜んで食べていた。横浜から、息子の二人の娘からも「じいちゃん、誕生日おめでとう」と電話がかかってきた。息子からも祝いの言葉があった。

二人の孫に囲まれて誕生日を祝う。ゼリーのケーキを前に、「ハッピーバースデー」を歌う。

  しかし、誕生日がうれしくない歳になってきた。後2年で70歳だ。だんだんできないことが増えていくだろう。しかし、これからは、その日にできることを少しずつやっていきたいと思う。

  特に、創造的なことは継続して行きたいと思う。一昨日から、毎日メロデーを作っているが、これはずっと続けていきたい。身体の方は、時々痛みが出てくる。誕生日を機会に、今まで以上に健康には気をつけたい。

  自分が年齢を気にする時があるとすれば、それは鏡の前に立ったときだ。いやに、老けたおじさんがいるなあとがっかりしてしまう。気持ちからは老けないようにしたい。

(日記:午前中は、農事法人『かたせ』の総会に参加。昼過ぎまでかかった。いろんな意見が出

左義長太鼓の練習をしたALTのみなさん(山児童館スタジオ)。た。私個人としては、「かたせ」をブランドにして、独自に米を売り出すこと、かつては片瀬の特産物であった里芋とショウガを再び特産物にしたいという願いがある。  午後は、少し孫と遊ぶ。夕方4時より外国人女性(ALT)に和太鼓を教えた。特に、今日は左義長太鼓を教えた。夜8時過ぎに芳野区の左義長の練習を見に出かけた。芳野区のOさんから声がかかったからだ。今年も、一度ぐらいは櫓に登って太鼓を叩きたいと思う。) 本番に向けて左義長太鼓の練習に励む芳野区子供会の皆さん。

 
 

平尾正晃さんのテレビを見て

19 2月

刺激を受ける
  昨日、テレビのチャンネルを回したら、「平尾正晃さんの番組」をやっていた。私より6歳上だが、我が青春時代のあこがれの存在だった。最初はウェスタンミュージック、そして、ロカビリーと当時は音楽の世界では流行の先端を走っていたのではなかろうか。

 特に、ロカビリーでは、山下敬二郎とミッキーカーチスの3人が当時の若者音楽のスターであった。今考えてみると、私の若い時には、二通りの音楽が同時にはやっていた。

  一方では三橋三智也、春日八郎、美空ひばりなどの日本の演歌が、他方ではポールアンカやプレスリーなどの外国の音楽が流行していたようだ。私は、両方の音楽に興味があった。そして、大学に入ってからバンドを組んで主に外国の音楽を楽しんだ。

  昨日の平尾正晃さんだが、歌手としての絶頂期に不祥事から音楽活動の表舞台から身を引かなければならなかったのだ。しかしながら、歌作りは休まず続け、布施明の数々の歌を提供し、作曲家として蘇ったのだ。

  鳴かず飛ばずだった福井県の「五木ひろし」さんも、平尾正晃さんの『横浜たそがれ』で歌手として蘇ったのだ。宝塚から転身し多「小柳ルミ子」さんも、平尾さんの『私の城下町』で歌手としてスタートしたのだ。

  このように、いろんな歌手に素晴らしい歌を提供し続け、」作曲家としての絶頂期に今度は病魔(肺結核)におそわれ、肋骨を6本も切る大手術をして再び蘇ったのだ。入院中も、ギターと持ち込み、作曲を続けたという。

  ずっと感動しながら、この番組を見た。そして、私も趣味として歌を作っているが、今日から、毎日、一節はメロディーを作ってみようと決めた。明日からでは遅い。今日からだとの想いでギターと五線紙を用意してメロディーを作った。

家の前でソリに興ずる長女の息子。一人でできるようになった。

  そして今日。平凡ではあったが、2曲のメロディーを作った。16ビートの歌とロック調の歌だ。メロディー日記とでも名付けてなるべく毎日続けたい。そして、日を改めて聴いてみると、おそらくそのほとんどは平凡でつまらないメロディだと思う。

  100のうち一つでも少しまともなメロディができればそれでいいのだ。とにかく、行動しなければなにも始まらない。昨日は本当にいい番組を見たと思っている。

(日記:午前中は、自宅で孫達を触れ合う。午後は、メロディー作りと孫との雪遊び。午後4時頃事務所の駐車場の排雪作業。数学のホームページを作りながらの作業だった。)