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Archive for the ‘今と昔’ Category

現代人の余裕のなさ

07 1月

昭和時代の忙しさ
 昭和の忙しさを考えたら、今と比べものにならなかっただろう。何を行うにもかなりの時間が必要だった。

かまどでご飯を炊く 主婦は早朝4時か5時起きて、前日かしいであった米を入れたお釜をかまどに設置し、火を付ける。最初は枯れた杉の葉など燃えやすいものに火を付け、次に割る木等やや太い木を入れて本格的に燃やす。
「初めチョロチョロ、中ぱっぱ、赤子泣いてもふた取るな」と言われるようにある程度の時間がかかる。炊き上がれば、さらにおひつなどにご飯を移すのだ。当然、ご飯を炊くための薪は農閑期に集めておかなければならない。

風呂を沸かす 風呂を沸かすのはある時期私の仕事だった。風呂を沸かす前に、風呂桶に水を張らなければならない。手押しポンプでバケツに水をくみ、それを五右衛門風呂の桶に運び入れるのだ。子供にはかなりハードな時間だった。五右衛門風呂から水が漏れて炊き口に水が落ちると、火が消えてしまう。煙がもうもうとする中で火吹き竹を使って懸命に火を消さないようにするのだ。これも、薪作りは夏の間の重労働だった。

米作り 春も早くから、田んぼに堆肥などの肥やしをまいておかなければならない。一方、籾を水につけ芽出しをして苗代に蒔くのだ。一方、田作りは人力と馬だ。
大きな田んぼの田作りは馬の出番だ。馬を使って鋤で田んぼを荒起しし、水を入れて輪車である程度土を細かくし、最後に、万鍬でさらに細かくしながら田んぼを水平にするのだ。

 そして、枠を回し、苗を植えるというわけだ。その後、除草機をかけたり、人力でヒエや雑草を取るのだ。こんな調子で、精米にするまでには、まだまだ手がかかる。米という時が八・十・八と書くのは手間暇かかるからだという。こんな調子であらゆる作業を行っていたのだ。
 今のように、軽トラなどの車がなかったので、その作業の大変さは言葉では表されない。1家族で手に負えない作業は近所の人たちのたすけによる共同作業「結い」で行われてきた。

冠婚葬祭は手間暇かけて丁寧に それでも、冠婚葬祭は時間をかけて行ってきた。祭りなども若い衆祭り、弓矢(祭り前日)、本祭り、跡祭りと四日以上はかけていたように思う。あらゆる行事が丁寧に時間をかけて行われていた。電気釜も冷蔵庫も、自動車もテレビも電話もない中で、私の子供時代の日本人の平均寿命は50歳代だったと思う。

現代人はなぜ忙しい 作業を効率よく行う車も機械もない中でも、昭和の前半までは、粗食に耐えて仕事もよくするが、種々の行事も時間をかけて行ってきた。 

 昔はなかった車やスマホを持てば、いくらぐらいお金がかかるだろうか。若い人なら、これだけで月に1週間は丸々これらの維持費などのためだけに働かなければならないだろう。スイッチ一つで風呂を沸かすエコキュートなどを持ち、冷暖房機を完備し、あれこれローンを組んだりすれば、さらに月に1週間以上はそのためにだけ働かなければならないことになる。働くではなく、働かざるを得ない状況ではゆとりは生まれない。

 のんびり冠婚葬祭に時間をかけている余裕などないのではないか。心の余裕を失っているように思えてならない。「もの」を買ったり維持するために働き、働いてまた「もの」を買う。

 今の若い人たちは、退職して悠々自適となったり、第二の人生を楽しむ余裕は70歳を超えなければ生まれないのでは。それどころか、少子高齢化により、年金では暮らせなくなるために、いつまでも働かなければならない。

 余裕は簡単に生まれない生活サイクルの中で、どこで、ゆとりを取り戻すことができるのだろうか。今の若人たちを気の毒に思う。

 私自身は、今の若い人たちよりは、余裕のある時代に仕事を終えたと思っている。昭和の人間らしく、ゆとりを持って地域のために、できることはがんばっていきたいと思っている。

昭和時代の風景。通学路の除雪は村の大人の仕事だった。
 
 

『じいじ達の子供時代』

25 3月

第3章 働くことは生きること
私たちの子供時代を一口で表せば、「働くこと」、「遊ぶこと」そして「食べること」ではなかっただろうか。この中の一番は「働くこと」ではなかっただろうか。
働いたから遊べる
働いたから食べられる
これが子供時代の私の体に染みついていた感覚ではなかっただろうか。

 

 
 

『じいじ達の子供時代』

24 3月

第2章 助け合いで成り立つ日々の生活

かつての田舎の暮らしは、何事も助け合いで成り立っていたと言っても過言ではない。その中の一つに「結」私の地区では「い」と言っていたように思う)がある。人手のほしいときにお互いが助け合う仕組みだ。また、仕事ばかりでなく、何事も隣近所の助け合いで成り立っていたのだ。

 

 
 

『じいじ達の子供時代』

23 3月

退職プロジェクト

私も退職後にいろいろやりたいことがある。そこでそれらを称して『退職プロジェクト』と呼んでいる。いくつかを挙げると、《音読絵本『じいじ達の子供時代』》、《高校数学参考書》、《歌作り(演歌・ポップス・ボーカロイド曲)》、《楽器練習(ウインドシンセサイザーほか)》、《盆踊りの復活》・・・・・などがある。

今日はその中の一つ『じいじ達の子供時代』の一部を紹介したい(以後、時々その一部を紹介したい)。これは大人のための音読絵本である。そのため文章は全て七五調にしてあり、拙い自作の挿絵が添えてある。リズムよく読んでいただければと思う。子供達にはじいじと孫の対談調の冊子ができればと思う。高齢者の任意症予防のための《回想療法》の一助になれば幸いである。(後日、冊子にできればと思っている)

第1章 私の生まれた頃

第1章にもいくつかの項目がありますが、その中から今回は3つだけ紹介させていただきます。(全部で10章あります)

 

 
 

崩壊する地域社会

20 2月

自分勝手に生きられると思う人が増えていく社会
今、私はある会合のために昭和時代の写真を編集している。「パワーポイント」で会場に移すつもりで写真を選んでいる。

昭和時代の田植え風景

昭和時代の田植え風景

右の写真は、田植えの写真である。この写真からないが読み取れるだろうか。これは家族が田植えをしている写真ではない。

間違いなく、近所の女性が集まって田植えをしているところである。家族だけで田植えをしていたのでは、捗らない。そこで、近所の人がお互いに、助け合って田植えをしているのである。

「結(ゆい)」である。私の集落では「い」と呼んでいた。近所に人が一つの田んぼに集まって集中的に田植えを行うのである。こうすれば、作業も能率的に行うことができ、田植えをしながらでも世間話もでき、単調な作業もさほど苦にならない。

このような作業の方法「結」は、田植えばかりでなく、田の草取り、稲刈り、屋根の葺き替えなど様々なところに及んでいた。常に、隣近所が助け合って暮らしていたのである。不便なところもあるが、人の結びつきはしっかりしていたのである。誰かが病気にでもなれば、いつでも助け合えたのである。

そして、休憩時間には田んぼの持ち主が軽食を振る舞うのである。田んぼの畦に座り、語らいながら食べる「大きな黄な粉のおにぎり」「たくわん」「山菜の煮物」の味は格別である。まさに至福のひとときである。

茅葺き屋根の葺き替え作業

茅葺き屋根の葺き替え作業

今、農家からこのような作業方法はすっかりなくなってしまった。農作業が機械化されたり、瓦屋根が普及したからである。隣近所が助け合う場は、皆無に近い状況になってしまったのである。

そして、近所が交流する諸行事もほとんどなくなってしまったのである。世の中は面倒くさいことはすべて止める方向に動いている。

しかし、ひとたび災害でも起こったら、このような社会は非常にもろいのではなかろうか。災害が起こらなくても、人の交流の少なくなった社会は年をとるにつれて生きづらさを感ずるのではなかろうか。

「結」などの言葉の代わりに、「無縁社会」「格差社会」「などの言葉が生まれてきている。私たちは、今の世をどのように生きていけばよいのか、問われているように感ずる。(写真提供は朝日印刷株式会社)

 
 

大相撲の思い出……昭和は遠くなりにけり

30 1月

神明神社で横綱の土俵入り
最近、相撲人気が高まってきているように思う。久々に日本人の大関・琴奨菊が幕内優勝を飾り、おまけに可愛い奥様もマスコミに登場して話題に欠かないようだ。

思えば、私たちの子供時代には、たびたび巡業で大相撲の一行が勝山の神明神社へやってきたものだ。当時は、一門別に行動していたように思う。

神明神社で土俵入りを披露する横綱千代の山

神明神社で土俵入りを披露する横綱千代の山

私の子供時代は、横綱では千代の山、栃錦、鏡里、羽黒山、東富士、吉葉山等が活躍した時代だ。他にも、個性のある力士がいて子供達には人気があったものだ。

千代の山は、奥様が勝山(遅羽)にゆかりのある人だったので、特に勝山へはよく来たように思う。ちなみに千代の山は出羽一門であった。

得意技は、突っ張りで「45日」(一月半)とも言われたものだ。写真でも、わかるように、大相撲の一行が来ると神明神社の境内は超満員であった。また、神社の周囲をちょんまげ姿のお相撲さんが歩く姿も子供ながらに興味のあるものだった。

幕内力士による土俵入り

幕内力士による土俵入り

しばらくして、一学年上のMさんが大相撲の「出羽の海部屋」へ入門し、確か幕下まで進んだように思う。また、優勝もしたように思う。

この千代の山から北の富士、千代の富士、北勝海などへとつながっていったのであるが、特に、自身の出身地である北海道から千代の富士をスカウトしたのは有名な話である。

しかし、千代の山は横綱にはなったが、出羽の海部屋の後継者にはなれなかった。そこで、独立を申し出て、弟子を連れて部屋を出ることになった。

弟子もろとも一門から破門されるかたちとなったため、髙砂一門へ移籍することになったのだ。独立当初は部屋経営に苦しんだようである。千代の山は、千代の富士の横綱昇進を見ることなくなくなった。

勝山市遅羽町のIさん宅には、千代の山の本物の「横綱」が保管されている。先日、遅羽公民館でこの「横綱」を見かけたが、懐かしい思いがこみ上げてきた。私は、千代の山の大ファンだった。

(写真は「朝日印刷」提供)

 
 

10年前に考えたこと① 二極化 

06 1月

変わる社会① 二極化 2006-01-04
(今の社会を考えるために10年前に書いたブログを時々掲載します。)
自由な競争が激化すると、勝者と敗者が生まれる。これに勝負に加わらない者も出てきて世の中は複雑な様相を呈する。

・金を持っている者と持たないもの者
・学ぼうとする者と学びを放棄した者
・人を使う者と使われる者
・人付き合いの出来る者と出来ない者
・働こうとする者と働かない者
・成功した者と失敗した者
・差別する者と差別される者……。

勝者であろうと敗者であろうと、人は誰でも、“自分の存在を認められたい”と思っている。こうした気持ちは意識するしないにかかわらず、誰もが持っていると確信している。

そのために、自分の存在感を他人に認められない敗者の行動が気がかりである。敗者がそれをバネにして自分を向上させるよう努力する場合はよいが、より弱者に攻撃的に向かったり、反社会的な方向に向かう場合も少なくないからである。

フランスでの暴動(※)のように、抑えられていた感情が何かのきっかけで、いつどこでどのように爆発するかも分からない。最近起こる異常な事件にもこうした傾向は見られる。社会はどんどん大きなリスクを抱えていくようで心配である。
(※ 2005年パリ郊外暴動事件:2005年10月27日にフランス・パリ郊外で北アフリカ出身の3人の若者が警察に追われ逃げ込んだ変電所で感電し、死傷したことをきっかけにフランスの若者たちが起こした暴動。暴動はフランス全土の都市郊外へ拡大した。)

グローバル社会とは何か、グローバルスタンダードとは何か、本当の豊かさとは何か。南の島の住人、砂漠の民をも巻き込んだ大競争時代。自国中心主義。

持たなくてもよいモノまで持たされたり買わされたり、時間に縛られたり、必要以上の労働を強いられたり、マスコミに踊らされたり、他人に縛られたりして生きていくことが現代では当たり前になってきている。

「本当の豊かさとは何か?」、「幸せとは何か?」
その答えは、自分の中にある。他人と比べるのではなく、他人の基準で動くのでもなく、繰り返される単調な日々の生活の中で、些細なことにでも幸せを感じることができる受信機を持つことではなかろうか?人生は日々の積み重ねなのだから。

(メモ 午前中 バンド練習カラオケ作り。午後。数学の問題を解く。)

 

 
 

モノは無くても心は豊か

15 4月

たくましく育つ子ども達

15 昭和の子ども

川で泳ぐことは子ども達にとって大きな喜びだった。

川で泳ぐことは子ども達にとって大きな喜びだった。

託児所の子ども達。子ども達の衣服は今とはずいぶん異なるようだ。

託児所の子ども達。子ども達の衣服は今とはずいぶん異なるようだ。

家の前で雪遊びをする子ども達。

家の前で雪遊びをする子ども達。

春が近づくと男児は「凧揚げ」に夢中になった。寒さなど気にならないようだ。

春が近づくと男児は「凧揚げ」に夢中になった。寒さなど気にならないようだ。

 
 

神明神社の賑わい

09 4月

境内にあふれる人、人、人

1.街中の賑わい

上から2枚:勝山ゆかりの横綱千代の山の巡業風景。中:今も続く「地区対抗相撲大会」。上から4枚目:神明神社の神輿。最下段:盆踊りの賑わい。

上から2枚:勝山ゆかりの横綱千代の山の巡業風景。中:今も続く「地区対抗相撲大会」。上から4枚目:神明神社の神輿。最下段:盆踊りの賑わい。

 

 
 

賑わう昭和の勝山

08 4月

たくさんの人達が街中で生活していた・・・・・

1.街中の賑わい

様々な行事で街中は賑わっていた。

様々な行事で街中は賑わっていた。