RSS
 

Archive for 2月, 2012

『白山平泉寺物語』

29 2月

平泉寺の大きさ
  平泉寺の隣村の片瀬で暮らして、まもなく70年。しかし、私が、平泉寺に興味を持ったのは恥ずかしながら60歳を過ぎてからだ。それまでは、苔が有名であること、33年に1度の『御開帳』があること、発掘が進められていることぐらいだった。

  我が片瀬の背後にある山は「大師山」と言うが、大師とは誰のことかも長い間気に留めなかった。しかし、そういえば、登山口に当たる村の入り口には、子供の頃から「泰澄大師旧跡地登り口」と書かれた標柱が建っていたことを思い出す。

  また、大師山の中腹にあるのは神社か寺かということも曖昧だった。ある時までは神社扱いである時から寺扱いになったように思う。しかし、よく考えてみると神仏習合で寺であり神社であると考えてもよいのだ。

  小浜に神宮寺という寺がある。毎年3月2日に「お水送り」を行う寺だ。以前にこの寺を参拝(見学)したときに、「寺でありながら神も祀られている」とガイドの方がおっしゃった。私は、「寺の名前からして神と寺(仏)が同居していますね。」と申し上げると感心しておられた。この寺は、泰澄大師の弟子沙門滑元が創建したと言われている。

  教育委員会勤務になってから、少し平泉寺について知ろうということで、平泉寺について調べ始めた。調べれば調べるほど興味あることが次々と現れるのだ。そこで、これらの映像を作って「図書館祭り」に紹介したのが、平泉寺についての資料作りの始まりだ。

  しかし、この頃は、まだ「平泉寺時代」というのは、一向一揆による焼き討ちにあって、それらが顕海僧正によって再興される頃までだと考えていた。その後、いろんな書物を読んでいると、平泉寺時代は少なくとも「神仏分離令」の出された明治時代まで続いたと考えるようになった。

  北陸の山奥にあった平泉寺が常に中央と関わりを持っていたことが分かり、ますます興味が湧いてきた。また歴史上の有名な人物とも関係が深いのだ。そんじょそこらの寺とは訳が違うのだ。

図書館野方に作っていただいた紙芝居『白山平泉寺物語』のポスター。  徳川家康と平泉寺を結び付けるものは何か。それは、家康の次男の結城秀康だ。秀康の「秀」は秀吉の「秀(豊臣家へ養子(人質)に出され、後に結城家へ)」で、「康」は父である家康の「康」だ。2代将軍徳川秀忠の兄でありながら将軍になれなかった越前藩初代の藩主だ。

  この秀康が福井へ着任すると同時に、平泉寺へ毎年200石の寄進を申し出ている。今なら三千数百万円の価値があるとも言われている。いかなる経緯でこうなったのかは定かではないが、焼き討ちにあって弱体化したとはいえ、平泉寺の存在を無視できなかったからではなかろうか。

 豊臣秀吉と平泉寺、徳川幕府と平泉寺、歴代将軍と平泉寺、……、一見つながりがないようでも平泉寺は常に中央の政権、権力者と深いつながりがあったことが調べるにつれて分かってきた。まだまだ平泉寺ついては分からないことだらけだが、調べるに値する価値はあると思っている。

  難しい平泉寺の歴史を語るのは、専門家に任せるとして、私は素人なりに平泉寺について情報を発信したいと思っている。3月20日、大人向けに創作紙芝居『白山平泉寺物語』を演ずる機会を図書館からいただいた。光栄に思う。市民の皆さんに平泉寺に興味を持っていただけたらと思う。

(日記 午前中、「農事組合法人かたせ」のNさん宅で組合について話しをする。片瀬の農業についての話しだが、雑談も半分あった。楽しかった。私のノートパソコンが最近不具合になった。午後、私のパソコンの私設顧問(失礼)みたいな息子の友人Y君が来てくれた。修理を依頼した。)  

 
 

潜在能力

28 2月

「持てる力」を引き出す
  人は誰でも、いろんな力を持っている。しかし、一生の間にそれらを出すことなく、人生を終えてしまうかもしれない。本人も周りの人もその「隠れた能力」に気付かず過ぎてしまうのだ。

   ある意味では、恐ろしいことかもしれない。子ども達は学校へ入ると「教科」という枠の中で力を出すよう求められる。そして、知識を詰め込むよう求められる。

  知識の量は、「ペ-パ-テスト」などで測られる。ところが、この「教科」という“物差し”で、子ども達の持つ能力を測ることができるのだろうか。

  人の能力は、「教科」という“物差し”で測るほど狭くはない。人の能力はもっともっと多様なものだ。特に、ものを考え出す想像力や創造力は、狭義の「学力」とは別のものだろう。

   学校というシステムには馴染めなかったエジソンが数々のもの発明したのは、彼自身の能力とそれらを発揮する環境があったからではなかろうか。

   少なくとも、同年齢が同程度のことを学ぶ「学校」といいシステムではエジソンは自分の持つ能力を発揮できなかったであろう。

  自分の能力を発揮するには学校では十分でないからといって学校というシステムを否定するものではない。学校関係者は、「教科」以外の“物差し”があるということだけは認識していなければならない。
 
  25歳にしてフォーブスの長者番付、27歳でタイムの表紙を飾ったマックの創始者の一人であるスティ-ブ・ジョブズもある意味では学校というシステムには合わなかった一人かもしれない。

  大学時代の彼はヒッピー思想・禅・サイケデリックドラッグに心酔し、裸足で校内を歩き、一時は風呂に入らない時期もあったという。またかなりの音楽ファンで、ビートルズなどを聴きまくっていたという。これらの全てがジョブズにとっての「教科」であったのだろうか。

  ジョブズは大学に半年間通ったが、興味のない必修科目を履修することを嫌い、「両親が一生をかけて貯めた学費を意味のない教育に使うのに罪悪感を感じた」という理由で中退してしまうのだ。

 彼は、シリア人の父とアメリカ人の母(大学院生)の間に生まれたが、結婚を許さない母方の親の意見でジョブズ夫妻のもとに養子に出されてしまう。養子先の両親は大学卒業でなかったために母親は養子をしぶったという。

 彼の偉業は今更私ごときが述べるまでもない。オバマ大統領の言葉を引用しよう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   スティーブ・ジョブズは米国のイノベーターの中で最も偉大な一人でした。違う考えを持つことに勇敢で、世界を変えられるという信念に大胆で、そしてそれを成し遂げることに十分優秀でした。この星で最も成功した会社の1つをガレージから作り上げることで、彼は米国の独創性の精神を実証した。スティーブは毎日が最後の日であるかのように生き、私たちの生活を変え、全産業を再定義し、私たち一人一人が世界を見る方法を変えました。
           —バラク・オバマ、 The White House Blog, 2011年10月5日
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  1つの分野の能力が劣っているからと言って、嘆く必要がない。人は、誰でも「潜在能力」を持っているのだ。本人はもとより、周りの人達はそれらを引き出す努力をしたり、環境を整えることに力を入れたいものだ。

  また、この「潜在能力」というのは、肉体的な面でもあるのだと思う。人生のどこかの時期で自分の潜在能力を信じ、これを引き出す努力をしたら、人生はもっと楽しいものになるのではなかろうか。

(日記 米国に入国する、ビザ免除プログラム対象国(日本を含む)の渡航者は、米国行きの航空機の搭乗手続きを行なう前に、電子渡航認証システム (ESTA:Electronic  System
  for  Travel  Authorization)のホームページで、オンライン申請を行ない、渡航認証を取得することが必須となっているのだ。午前中、少し時間がかかったが、この手続きを済ませた。その後、創作紙芝居の2枚目の絵を描いた。午後3時過ぎに、股関節の治療(ズレを直す)のために大野のY整骨院へ行く。12日間の泊まり込みで滋賀県の実業団(野球)の投手が治療を受けていた。)

 
 

最後の『選択和太鼓』授業

27 2月

「あかおやま」と「D&A」
   今日は、今年最後の選択『和太鼓』授業だ。来年から、3年生の選択授業がなくなるということで、今年最後の授業であり、今後もこのような授業はないのだ。

  新年度は、2年生の「総合的な学習の時間」に和太鼓を入れたいという先生の考えのようだ。「全てお任せします」と返答しておいた。

  今日は、最後なので、まず最初に、いつものようにミニスピ-チを行い、その後新しいリズムを練習した。同時に2つの太鼓を叩くリズムだ。練習している間にだんだんと盛り上がってきた。

  最後に全員で記念写真を撮り、授業を終えた。3年生に対しては、2年間の和太鼓授業だった。そして、この2年とも、文化祭には和太鼓演奏を披露した。

  今日の授業の冒頭、彼らに話したのは、「あかおやま」と「D&A」だ。この2つだけは、和太鼓以上に若い彼らに伝えたかったことだ。

 あ:あいさつ
 か:感謝
 お:思いやり
 や:約束
 ま:マナ-

 DREAM & ACTION

の2つだ。前者は人としての基本だと思っている。後者は、生き方だ。若い彼らにいつまでも覚えておいてほしい。「夢をもち、それに向かって行動すること」だ。私の経験から、どのような状況に置かれようとも、夢さえ持っていれば生きる力が湧いてくるからだ。

最後の授業で記念写真。誰か一人にでもメッセ-ジが届いて欲しい。(日記 午前9時過ぎより、創作紙芝居の絵描き。午前11時過ぎに家内と二人で家を出た。まず最初に、北部中学校で最後の和太鼓授業。そして、昼食。その後、国際交流会館で「パスポト」を受け取った。私は、退職して間もなく2年になる。国内旅行は夫婦で何度かしたが、二人での海外旅行は初めてだ。来週末に、家内と二人で私の退職記念旅行でハワイへ行くことにしている。私は、一度だけ、ヨ-ロッパやアメリカへ出かけたことがあるが、家内は初めての海外旅行だ。パスポ-トを受け取った後、本屋へ寄り、旅行ガイドを買った。色々基礎知識を身につけなければならない。)

 
 

自己管理能力

26 2月

病気は自分で作る
   プロのスポーツ選手は身体が元手だ。そのために、自分の健康管理に万全を期している選手は少なくない。しかし、そのようなことを余り気にしない選手もまた少なくない。

  しかし、病気の多くは、生活習慣によるものが多い。かく言う私もそうだ。いつも自分の誘惑に負けてしまう。そして、「今度こそ!」、「今度こそ!」を繰り返して今日に至っている。

  「体質」というものはあるももの、多くは、自分の不摂生によって病気を招いているように思えてならない。若い頃は、そのつけがいつ来るのか分からないが、この年になると、つけがすぐ回ってくる。

  健康に関してこうすればいいと思うことはいくつもある。また、ストレッチなどもやればよいというのは分かっているが、長続きがしない。最近、腰痛が出て困っていたが、一昨日たった一度だが治療をしていただいて、かなり改善したと思っている。

  自宅でするストレッチもあるのだ。今度こそ、これを続けたいと思う。自分の今ある身体能力を十分発揮するためにもこのストレッチは続けなければと思うのだが。自分の意志の弱さに自分が負けている。

 滋賀県の高校球児ではないが、下半身の強化が上半身の力を引き出すのだ。この年になると柔軟度を失ったらあちこちの痛みに繋がりかねない。今年こそしっかり「自己管理」をして快適な一年にしたいと思う。

創作紙芝居『ナマズのテツ』。小川を我が物顔にのさばっているナマズのテツと子分のドジョウのジョー。ところがある日……。

(日記 午前・午後とも合間をみて、創作紙芝居「ナマズのテツ」の絵を1枚描いた。毎日1枚を日課にすれば3月中に、また新しい紙芝居が出来るはずだ。午後、3時過ぎに長女が二人の子ども(孫)と共に福井へ帰っていった。少しずつ会話が出来るようになったので可愛さも増してくる。午後9時にどんど焼きを見るために弁天河原へ出かけた。家族の健康と幸せを祈った。いよいよ奥越も春だ。) 

左義長のフィナーレを飾るどんど焼き。いよいよ奥越も春だ。

 
1 Comment

Posted in 未分類

 

テレビで知った「整骨院」

25 2月

「股関節理論」を信じて
  昨年の雪下ろしで右側の腰の近くに鈍痛があり、これが一年続いた。時々、左足全体に痛みが走るときもある。そこで、湿布をすることにしたが、なかなか痛みは治まらない。

  そんなとき、テレビで腰痛体操を知った。それを指導しているのが大野市の整骨院ということだった。しかし、しばらくしてその整骨院の名前を忘れてしまった。しかし、腰の痛みは去らない。そこで、昔の仲間のTさんにそのことを伝えて、整骨院の名前を知ることが出来た。

  そこで、今日、そのY整骨院へ出かけた。待っている間に、壁面を見ると、高校球児に指導していることなどの記事が掲載されていた。元巨人の桑田選手とも面識があり、Y先生の「股関節理論」が理解されているようだった。

  自分の診察の番になり、診察台に横になった。開口一番、Y先生から最初に伝えられたことは「股関節がずれていて足の長さが違う」ということだった。そして、初回の治療を受けた。

  しばらくは、この先生の理論を信じて治療を受けようと決め、次回の予約をした。治療中、隣の診察台の若者と目があった。にこっと笑顔が返ってきた。彼は、滋賀県の高校球児で仲間と一緒に、泊まりがけで治療を受けているのだという。

  股関節の可動範囲を広げることによって、運動能力をアップさせるのだという。この意見に私は大賛成だ。このY先生と話しをしていると、今世界中で話題になっているダルビッシュ投手も「股関節理論を通してこのY先生に繋がっているのだ。驚いた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・Y整骨院のホームページより・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

           九州国際大付属高等学校野球部 若生正廣 監督 (談)

  (東北(宮城)で選手として1度、コーチとして3度、監督として東北と九州国際大附属高校で合わせて9回、甲子園(選抜大会を含む)に行った名物監督。)

胸がつくまで野球はやらせない

  高校球児の指導を30年近く努めていますが、私が彼らに伝えていることは基本のみ。中でも、彼らに必ず実践させているのが柔軟体操、“胸がつくまで野球をやらせない!”です。その理由はただ一つ、下半身の力を上半身に伝えるには、柔軟な股関節が重要だからと考えているからでこの点はY院長と同意見です。

  教え子であり、現在プロで活躍中のダルビッシュ選手も同じ。むしろ彼にはかなり強く柔軟を指導したかもしれません。というのも、彼は高校入学時、両ひざに成長痛があり、無理をすると疲労骨折しやすい状態でした。そこで私は、彼には1年間、何もさせないでおこうかと考えました。事実、1年目は柔軟体操とプールトレーニングしかさせていません。下半身をしっかり使えれば、肩や肘を傷めることはないと考えてのことです。

 その後も彼には、下半身に負担のかかる陸上的なメニューは回避していました。しかしそのおかげで、彼の下半身は柔軟性を手に入れ、皆さんご存知の通り、選抜をはじめとする数々の試合で素晴らしい結果を残してきました。そして、プロ入り後も、目立った故障もありません。むしろ、大人の体、プロの体になったこれからこそ、彼の素晴らしさが発揮されていくと確信しているくらいです。

 私のピッチャー育成法は、柔軟体操に始まり、柔軟体操で終わる。これにより柔軟な下半身を手に入れる事ができるのです。つまり、一流のアスリートは、柔らかな股関節を手に入れる事が重要なのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  ダルビッシュの東北高校で監督だった若松監督は、九州国際大附属高校の監督になって、生徒を大野のY整骨院まで股関節の可動範囲を広げるために送り込んでいるのだという。

  とにかく、私も、運動不足で凝り固まった身体の柔軟度を回復し、腰の痛みをとってもらいたいと思う。早速、今日は、治療前の身体の固さを写真に撮られた。足の開脚度も計測された。半年後にどうなっているかが楽しみだ。ただ、保険がきかないのは少し苦しいが……。

福井の孫とこたつでポーズ。

(日記 午前中、新たな紙芝居の絵を描く。ナマズとドジョウの絵だ。毎日少しずつ絵を描き貯めたいと思う。午後3時40分より、大野市のY整骨院で腰の治療を受ける。帰宅すると福井から長女が孫達を連れて来ていた。夕食後、一緒に左義長まつりを見に出かけた。)

露天でボールすくいをする孫達。

左義長祭り。

 
 

衣装の整理

24 2月

郷土芸能関係衣装
  我が家には、郷土芸能関係の衣装がたくさん保管してある。時々整理しないと、必要なときに必要なものを取り出せない。いくつもの衣装ケースがあり、いろんなものが入っているが、それらが混ざり合うことがある。今日は、それらの整理をした。

  先ず、和太鼓関係の衣装。家内手作りの法被が百数十枚はある。種類もいろいろだ。かなり手の込んだものもある。たくさんの法被がある理由は、メンバー全員の法被があるからだ。法被によっては、30数枚が一セットになっているものが数種類ある。

 法被があれば、ズボン、前掛け、帯、はちまき、ゴム付き足袋などもある。足袋以外は、ほとんどが家内の手作りだ。よくぞこんなに作ったものだと感心してしまう。

手作り法被で熱演する春駒太鼓のメンバー。

  左義長の衣装もたくさんある。襦袢から法被まで何種類かはある。子供用のものもある。そして、民謡の浴衣、帯、編み笠などもたくさんあるのだ。他にも手作りの幟旗などが我が家に保管してあるので縁側はこれらでいっぱいだ。

  事務所にも和太鼓関係の備品がたくさんあり、一番大きな太鼓は、我が家の車庫に保管してあるのだ。今も、少しずつものが増えている。捨てる訳にはいかないので増える一方だ。

  私が使う衣装だけでも、一ケースあるのだ。片瀬豊年ばやし、和太鼓、左義長、民謡などの衣装だ。それに、お面、杖、腹巻き、ズボン、足袋、地下足袋、バチなどもある。いざ出番というときのために整理しておかないと、慌てることになる。

  時々整理すると、今まで忘れていたものが出てくることも多い。練習用に作った新品のTシャツが何枚も出てきた。チーム名がカラーで印刷してあるのだ。法被の印刷は、全てシルクスクリーンで印刷してあるのだが、これは、教員になって初めて受け持ったS君に依頼したものだ。

手作り法被で活動する春駒太鼓の高校生達。

  これからも、細々と和太鼓を続けていきたいと思う。そして、家内の手作りのこれらの衣装を生かしていきたいと思う。保育園児や小学1年生のメンバーが、どこまで上手になるかも楽しみだ。

(日記 午前中、芸能関係の衣装整理。午後、自作童話「ナマズのテツ」と「野良猫ニャオ太の日記帳-ブル吉参ったかの巻」の紙芝居化のための脚本づくり。いかに生き生きした会話を入れるか、文章をいかに短くするかが問題だ。夕方、家内と散歩。お日様が出ていて気持ちがよかった。)

 
 

出前左義長に動向

23 2月

前座で手遊び歌と紙芝居
   女性だけの左義長ばやしグループ「ほほえみ太鼓」の松文保育園慰問に同行した。というよりも、メンバーのほとんどは何らかの関わりがあり、「仕事や怪我などでメンバーが足りないので応援して」ということで、同行することにした。

左義長の衣装で家内と二人で手遊び歌。

   午前9時に松文保育園へ同行して、衣装替え。私の役割は、先ず、家内と二人で手遊び歌と紙芝居を演じることだ。今日のように、年齢幅が広いとストーリーのある紙芝居は無理だろうということで、ストーリーのない「かくれんぼ」を演ずることにした。

  木や草や雲や車や飛行機の後ろにアニメのキャラクターを隠してそれを当てるものだ。年長組の子ども達は、ほんの一部を見ただけでも隠れているキャラクターを当てることができるのだ。会場はかなり盛り上がった。

 もう一つの役目は、「おかめ」に扮して「ひょっとこ」役の女性と左義長ばやしを打つことだ。女性が「ひょっとこ」で男性の私が「おかめ」を演じるのだ。これは、「おかめ」役が不在だったからだろう。練習は一昨日ほんの少しやっただけで、ぶっつけ本番だ。

  女性に扮して色気たっぷりに左義長ばやしを披露することは、大変だがいい経験でもあった。自分の出番が終わった後は三味線を弾いた。また、左義長囃子が終わった後、松文の子ども達も全員、我々の伴奏で左義長太鼓を叩いた。

低年齢の園児を意識して自作紙芝居「かくれんぼ」を演じた。

  園児の中に、私が和太鼓を教えている園児が二人いた。目を合わせて手を振ったりした。終わったと、二人が控え室へ顔を出してくれた。園児といえども、知り合いがいることは楽しいものだ。助っ人という予期せぬスケジュールで午前中が過ぎた。でも、楽しかった。

(日記 午前中、女性の左義長囃子グループ「ほほえみ太鼓」に同行し、松文保育園で家内と二人で紙芝居を演じ、「左義長ばやし」に参加して太鼓を叩く。楽しかった。午後は、冷蔵庫入れ替えのために、台所を清掃し、食器棚などを移動し、冷蔵庫の中身も整理した。そして、午後2時過ぎに新しい冷蔵庫を台所に入れてもらった。かなり省エネの冷蔵庫だ。げんぱつ事故以来、私達に出来ることは省エネだ。そのために、今、少し井ずつ、省エネ家電に入れ替えるつもりでいる。電気料金がどれくらい減るかが楽しみだ。午後7時、現区長のTさんが来て、引き継ぎ等の話しをする。)

女性左義長グループ「ほほえみ太鼓」の皆さんの左義長ばやし。

ぶっつけ本番で「おかめ」姿の左義長ばやしを披露する私。

 
 

春近し

22 2月

「除雪機」使い納め
   今日は日が差す好天。そして、各町内では左義長の練習もラストスパート。あんどん制作のニュースもテレビや新聞で報じられ、左義長本番ももうすぐだ。ようやく、奥越にも待望の春がやってくる。

  年がら年中好天に恵まれた表日本との違いだろう。田畑には、まだまだ雪があるが、屋根の雪は確実に溶けている。春の息吹が感じられる。

  今日は先ず、家の前の雪を除雪機で飛ばした。いつもなら雪下ろしで高く積もった雪が家の周囲にあるのだが、今年は除雪機のおかげで玄関先は地面が見えている。

  家の前の除雪を終えた後、軽トラックに除雪機を積んで事務所(山児童館)まで運び、道路から駐車場に入る歩道などの除雪を行った。その後、お隣さん(坂電気)の駐車場の除雪も行った。時々車を止めさせていただくからだ。

  作業を終えて、除雪機を車庫に入れた。たぶん、今年はもう除雪機を使うことはないだろうと思う。今年は、大屋根の雪下ろしを三度行った。どこまで雪が降るのだろうと不安になっ多時期もあったが、平年より少し多い程度で終わったと思っている。

春の味覚“タラの芽”と“蕗の薹”を味わえるのももうすぐだ。

  日本各地では、相当の大雪だったようだ。新潟や長野県などでは、平年の倍以上の雪が降ったところもあるそうだ。冬を終えてみると、克雪の苦しさよりも、春も待つ期待の方が大きい。

   雪の下から現れる勝山水菜、あの独特の苦みと甘みがたまらない。まさに、春の来ない冬はないのだ。蕗の薹に始まって、ワラビ、ゼンマイ、ふき、タラの芽など山菜のシーズンが始まるのだ。

  今日は、私にとって除雪機の使い納めの一日だった。除雪機を動かすことは本当に楽しい。家内に言わせれば除雪機は私の“おもちゃ”だと言う。そうかもしれない。

(日記 午前10時より、「さわやか大学」の事務局のIさんと図書館で待ち合わせた。市民大学で、何か講義をしてほしいとのことで打ち合わせを行った。その後、図書館のMさんと3月20日の歴史紙芝居「白山平泉寺物語」の上演について打ち合わせ。二つも出番の依頼があるということはありがたいことだ。午前11時半より、北部中学校で和太鼓の授業。今日も、左義長太鼓の練習。授業の終わりに3人ずつ発表してもらった。午後は台所の片付けと除雪作業。春が一歩ずつ確実に近づいているようだ。)

 
 

「しょうが」の効能

21 2月

 低体温症に「しょうが」
   私は、かねてから「しょうが」と「にんにく」と「朝鮮人参」の3つを作ってみたいと思っていた。健康三大作物だと思っている。そして、これらを地元の特産物にしたいという夢を持っている。

   昨年は、自分としては大々的に「ショウガ」を作ってみた。まあまあだったと思う。「にんにく」もかなり作ってみた。「朝鮮人参」はまだ栽培経験がない。

  「ニンニク」は今も栽培中だ。販売するわけではないが、村で一番沢山植え付けをしたと思っている。昨年暮れにそれぞ立派に芽を出してくれた。今は雪の下で春を待っている。

  さて、この生姜だが、改めて効能を見てみると、素晴らしいことがわかる。冷えをとって免疫力アップやダイエットに大きな効果があるのだ。

  我が家では今、生姜は、梅干しと一緒にしてある「紅ショウガ」、味噌の中に入れてある「味噌ショウガ」、そして冷凍庫には、「きざみショウガ」、すりおろした「おろしショウガ」が保存してある。

  「おろしショウガ」は、板チョコのようにして保存してあるのだ。来年は、これを沢山作って保存しておきたいと思う。水炊きなどに入れれば、簡単に解けてすりおろしたショウガになるのだ。 それから、お湯と蜂蜜を注げばただちに本物の「ショウガ湯」になるのだ。

  今日買った本には、簡単なショウガレシピが62種類載っている。ショウガドリンク数種、ショウガスープ、ショウガの天ぷら、ショウガスイーツ、ショウガ味噌、ショウガライス数種、……などおいしそうな料理の作り方が並んでいる。

  今年は、健康によいショウガを昨年より多く栽培したい。春が待ち遠しい。昨日とうとう69歳になった。健康を最優先した生活をしたい。まだまだやりたいことがあるのだから。 

(日記 午前中、済生会病院へ行く。昨日から、24時間心臓の様子をチェックしたのだ。今日はその機器を外して解析し、検診して貰うためだ。治療するほどではないが、多少気になるところもあるので、半年後にももう一度検査すると言うことになった。例によって本屋で本を買った。今日は、「生姜健康法」だ。午後は、「赤尾の銭太鼓曲」を持って依頼者のFさんと平泉寺公民館であった。夜は、「ほほえみ太鼓」の皆さんの練習に参加した。明後日、松文保育園で左義長囃子を披露するためだ。)

 
 

数十年前の思いつき

20 2月

「血管縫合(医)師」
  30年ほど前の現役時代のことだ。私が担任したクラスの中からの何人もの医師が生まれた。成績優秀な者の多くは、医学を目指すことが多かった。そんな中でも、外科医を目指す者は、手術を行うので手が器用でなければならないと思っていた。

  医学が進歩し、専門的になっていくので、いろんな技術を持つ者を特別に育てることが必要ではないかと考えていた。例えば、誰にも負けない器用さを持つ者を「血管縫合(医)師」として養成するのはどうかということだった。

 医療技術の専門家を育てるということだ。職人的な技術だ。「神の手」と呼んでもよい。そんなことをぼんやり考えていたが、そのことを急に思い出した。天皇陛下のバイパス手術を行ったのは、順天堂大学の天野医師だ。

 東大チームから呼ばれて、日大出身の天野医師が「神の手」と呼ぶべき技術で見事手術を終えたのだ。民間でも、NHKでも天野医師の医師としての歩みを報道していた。まさに、アウェイの状況でやり遂げたのだ。

  この話を聞いたときに。30年ほど前に考えていたことを思い出したのだ。日本人は元々職人的な人が育ちやすい。オールマイティーの人も必要だが、オンリーワンの「神の手(スーパー的な技術を持つ人)」を持つ人を育てることも必要ではなかろうか。

 今回、天皇陛下の心臓手術を受け持ったのは、そのような人たちの混成チームだったのだろう。特に、今回の手術では、大きく動く心臓を止めないで手術しているのだ。0.01mmの糸で血管を縫い合わせる技術は、目を見張るばかりであった。感動者であった。

(日記 午前中、家内と二人で写真店、市役所へ寄り、済生会病院へ向かった。私の、検診の途中に、国際交流会館でパスポートを申請した。海外旅行の準備のためだ。その後、病院へ戻り再検診。そして帰宅。午後は、赤尾の銭太鼓曲のCDづくり。)