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Archive for 2月, 2023

衰退する村祭り

28 2月

祭りを待ち焦がれた子ども時代
 今日は猪野瀬地区活性化委員会。「ニコニコ地域づくり委員会」の活動、地区の行事、まちづくりなどについて、色々話し合った。

 その中で少しだけ「村の祭り」について話題にした。どの集落も祭りが低調になっているようだ。その上、コロナで尚更簡略化し、神事を行うのがやっとだ。提灯を吊ったり、幟をあげたりするなどの祭りの準備さえ簡略化している集落もあるらしい。

賑わった秋祭り
 かつては、村の祭りと言えば、露天の店が何軒か並んだり、大人の相撲があったり、民謡踊りがあったり、太鼓の野良打ちなどがあったりして、それは賑やかであった。家では、親類が集まり、泊まっていくのもごちそうだった。

 この日ばかりは、料理屋から祭りの料理を注文して客をもてなしたりしたものだ。当日は、神社へ出かけるのも、酒を酌み交わし、ごちそうを食べ、千鳥足になってからだ。

 家族はもてなしに忙しく、踊っている場合ではない。帰宅してからも、雑談をし、酒を飲み直すのが常だった。翌日の「後祭り」に、ようやく家族も神社で踊ったりしたものだ。子ども相撲は大概この「後祭り」に行われていた。

 子どもの頃は、祭りさえあれば楽しかったが、それなりの大人になると、秋は祭りで客を呼ぶのも大変だが、呼ばれるのも大変だった。秋は、週末になると祭りのために忙しかった。

衰退する村祭り
その後、秋祭りはすっかり衰退してしまった。いろんな娯楽が出てきたからだろうか。精神的に余裕をなくしたこともあるかもしれない。なぜならば、農家の忙しさと来たら、それこそ比べようのないくらい昔の方が忙しかったと思う。何しろ、家庭には車などはなく、農業機械もほとんどなかった。

 田んぼを耕すのは馬や牛で、後は全て人力であったし、煮炊きするのも全て薪で、その薪は農閑期に準備しなければならない。単調な農作業は、家族だけでは大変なので、近所が集まって作業をする「結い」で行ったりしたものだ。

 年柄年中働いていなければ食べていけないのだ。それでも、秋の祭りは、若い衆祭り(前々日)、弓矢(前日)、本祭り(当日)、後祭り(翌日)と、数日間はあった。精神的余裕がなければこんなことをできないだろう。

 その後、祭りはどんどん低調になっていった。抽選会やカラオケが精一杯だったが、それも下火になっていった。昔の盛んだった面影はない。祭りは当日だけで翌日は片付けてしまう。露天商はなし。太鼓もなし。音楽ばかりが鳴っている。近年そんな祭りになってしまった。

祭り復活を目指して
 そんな低調な祭りを何とかしたいと、あるとき区長が相談をかけてきた。私は、二つの提案をした。一つは、女の子には“浦安の舞”を取り入れたら。

 女の子達は、小学生の頃は子供会などで村の人も少しは顔を覚えているが、中高生になると、どこの誰だか分からなくなり、就職したり、お嫁に行ったりして知らぬ間にいなくなっている。

 そうではなく、村の祭りのヒロインになってほしいとの願いからだ。神社で厳かに“浦安の舞”を舞えば「どこの誰?」と注目され、拍手喝采、村の子としての存在感もあるだろう。単純な発想だが。

 もう一つ提案したのは、片瀬に大正時代、もしかしたら、もっと前から伝わる「銭太鼓の復活」だ。といっても、これまでは村の誰かが、島根県の「安来節」と「銭太鼓」と「ドジョウすくい」を伝えたものだ。「♪いずーもーー、めいーぶーーつー♪」では片瀬の郷土芸能にはならない。

 しかし、この「安来節」はある時期、片瀬の若い衆が勝山劇場でもやったというくらいこの地区ではちょっとした芸になっていたのだ。そして、私が結婚したときには、青年団がこれらを演じ、花婿もみんなといっしょに銭太鼓のバチを振るうことが伝統になっていたのだ。 

 しかし、その後すっかり廃れてしまったので、これをリニューアルして片瀬の祭りの演し物として伝えようというものだ。「浦安の舞」は他の者に任せて私は「銭太鼓」のリニューアルに取り組んだ。

 そして、生まれたのが、「片瀬豊年囃子」である。ドジョウすくいからは完全に脱却したが、ユーモアだけはいただくことにしたのえだる。歌も伴奏もみんな生。これは,片瀬を飛び出して、市内はもちろん、市外でも演じることができるほどに育ってくれた。

【写真上】村の祭りで 【写真下】永平寺町上志比で
銭太鼓の合間に演ずる百姓芸。演技の間もこの『片瀬豊年囃子』が生で歌われる。
『片瀬豊年囃子』:三室祭りの野外ステージにて

コロナで全てが振り出しに
 しかし、コロナと共に、村の祭りは低調になってしまった。二つの芸も祭りでの出番を失ってしまった。そして、村の祭りは、抽選会だけのさみしいものになってしまった。昨年は、神社へお参りした者は抽選券を抽選箱へ入れるのだ。当たっていれば、後日、役員が商品を家庭に配ってくれるのだ。

 今後、秋祭りはどうなるだろう。今日、猪野瀬の活性化委員会に出席していて、「今の時代にあわせて何とかしたい」と改めて思った次第。昔はまだまだ忙しかった。余裕を失ってはいけない。そう思いながらこのブログを書いている。

 
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子どもの伸びる力を止めるのは誰?

27 2月

小規模中学校時代の思い出~子ども達の自主性を奪うのは誰?~
「我々は生徒達に手をかけすぎているのではないのか?」「生徒の自主性を奪っているんじゃないか?」
そんな話が、平泉寺小中学校の教員の間から出て、「校内運動会をなるべく、子ども達の手でやってもらおう」と決めた。教員は完全に脇役に回ると決めたのだ。

 運動会前日、私たち教員はグラウンドの端にある高台にのんびり座って、生徒達の準備状況を見守ることにした。誰もが、どちらかと言えば生徒達に何かアドバイスしたくて、うずうずしている。

 それでも、お互いに「言ったらあかん」、「行ったらあかん」と牽制し合って高台から生徒達の準備状況を見つめていた。といっても、生徒が聞きに来た場合だけは答えるという約束の元にだ。

 生徒達は、黙々と準備を続けてくれた。トラックの白線も引き、翌日に各競技で使うリレーのバトンや、綱引きの綱など様々な準備物も所定の位置に並べてくれた。何もかも自分たちの手で行ったのだ。

 運動会当日の朝、少し雨が降ったらしく、コースに水たまりができていた。 ところが、誰も指示しなくても、一輪車で砂を運び、ぬかるんだコースに砂を撒いてコース整備をしているではないか。

 もしも、教員が主導して運動会を行っていたのなら、「誰々、一輪車で砂場から砂を持ってこい!」と大きな声で指示を出していたことだろう。同じ作業をするにしても、子ども達の気づきや気分はずいぶん違ったものになっていたであろう。まかせればできるのだ。

上級生になれば何でもできるのだ。準備も、大会運営も。

子どもの考える時間を奪うのは誰?
 教員はせっかちであることが多い。子ども達に質問を投げかけてはいるが、十分に考える時間を与えなかったり、誰か一人でも答えると一見落着とばかりに、改めて懇切丁寧に説明を行うのだ。そんな授業を参観しことがある。

 最初はなぜだろうと、参観している大人も一緒に考えようとしたが、授業をしている教員が次々と丁寧に答えを言ってしまうのだ。こんなことを何度も繰り返すので、早くこの授業が終わらないかなと退屈をしたことを思い出す。

 子どもの、考える時間や機会を奪っていることになる。できる子が勝手に答えを言ってしまうのも、仲間の考える機会を奪うことになる。

子どもの能力を決めつけるのは誰?
 小さな子どもに「ぼく、いくつ?」と質問したとしよう。子どもがもじもじしていたり、小さな声で答えると、そばにいた大人がすかさず「三歳でしょ!三歳!」と余計なことを言う。今から答えようとしていてもお構いなしだ。

「お父さん何しているの?」と聞いたとき、子どもが少しでもモジモジしていたら、すかさず親が横から「会社でしょ?かいしゃ!」と、子どもに代わって答えてしまう。子どもの考える機会も時間も親が奪っているのだ。

 挙げ句の果てに「ウチの子どもは引っ込み思案で困ります」とか、「ウチの子どもは運動はからきしダメで」とか、「ウチの子どもは算数は全くダメなんです!」と自分のことを棚に上げて親が決めつけてしまう。

 子どもは将来どう伸びていくのか誰にも予想できない。子どものうちから、あれができない、これができないと決めつけるのは止めたいものだ。子育てマイスターとして、幼児の保護者にいつも言ってることの一つだ。「決めつけたり、けなしたりするのではなく、褒めてあげて下さい」と。

 

小規模校での経験

26 2月

小規模校での経験
 私は、教員生活3年目に、平泉寺小中学校の中学校1年(1学年1クラスのみ)の担任になった。自分はそれなりに、一生懸命生徒達の指導にあたってきたが、それでもこれでいいのだろうかという不安はあった。

 「井の中の蛙、大海を知らず」になってほしくない。山村の小さな中学校の子ども達のことだ。何とか、大きな中学校で、その様子を見て来て、クラスの他の生徒達の刺激になってほしいという願うようになった。

 そこで、当時の中村一郎校長先生(我が生涯で最も尊敬する先生)に、「子ども達を勝山中学校で一日過ごさせてもらえませんか」とお願いすると即座に「いいでしょう」という返事。

 私のクラスの希望する生徒4人は、1学年7クラス(だったと思う)の勝山中学校のT先生のクラスへお世話になることになった。とにかく、朝の会から、授業、帰りの会、そして、部活動まで、全て勝山中学校の生徒として過ごすのだ。

 そして、生徒達は、何事もなく楽しそうに帰ってきた。少しは勉強してくれただろうと思っていた。ところが、こちらが忘れかけた頃に、今度は、勝山中学校のT先生のクラスだけではなく、他のクラスからも、「平泉寺中学校で勉強させてほしい」という申し出があったのだ。

 事情を聞いてみると、驚くことに勝山中学校の生徒達が、4人の生徒の言動に刺激を受けたというのだ。T先生のクラスの成績は学年でも下位の方だったらしい。ところが、平泉寺の4人に刺激を受けて、急に勉強に励むようになり、クラスの成績が学年で上位になったというのだ。

 そのため、この話を聞いた他のクラスの先生方も、平泉寺中学校で勉強させたいということになったらしい。勝山中学校の各クラスから希望する生徒が平泉寺中学校の私のクラスにやって来て、平泉寺の子ども達と一緒に授業を受けることになったのだ。(当時、勝山中学校の先生方も心が広いなあと思ったものだ。)

4人のサムライ
 このことをT先生は当時の学校の新聞に『4人のサムライ』というタイトルで寄稿されたのだ。学校というのは、大きさだけが大切なのではない。何を学ぶかではないかと思う。

 前をしっかり向いた校長がいること。できれば数年は同じ学校で勤務すること。そこに、前を向いた教員が少なくとも、何名かはいること。そうすれば、学校はきっと、前に向かって進むことになる。生徒も先生も。

 同じような経験は、小規模校ではないが、高校教員になってからも、経験することになった。ある時期、成績低迷していた高校が一躍進学校に。そして、甲子園出場まで果たすことになったのだ。

 ちなみに、高校の校長は地元出身で5年間継続して勤務して下さった。生徒にも、先生にも檄を飛ばし続けられた。『事を為すのは人である』と考えるようになったのは、このようないくつかの経験から得た確信から来ている。

1学年1クラスの中学校。これで駅伝も、連合体育大会も、合唱コンクールも、スキー大会も出場するのだ。
令和5年 左義長まつり『どんど焼き』 皆さんの幸せをお祈りしてきました。
 

現役の中・高生の声を聞きたい

25 2月

下図を見てどのような学校生活が始まるか、想像できますか?
 現在、市のホームページに示されている特別教棟の中高特別室(中・高音楽室、中・高各理科室、家庭科室など)の配置計画です。高校の特別教棟を中学校と高校が使うというもので、中学、高校の中間に位置しています。

 将来の中高生には想像しがたくても、現役の中高生には容易に想像できるでしょう。もしも、中高の授業でみんながこの配置図を見て、話し合いを持ったら、それこそいろんな意見が出てくるのではないでしょうか。

 校舎の中で、ことある毎に、中学校1年生から高校3年生までの生徒が出会うことになるのです。それだけではなく、勝高に進学すれば、中学校の先生にも常に出会うことになります。

 中学、高校にはいろんな生徒がいます。このような環境をよしとする生徒もいるでしょうが、耐えられないと感じる生徒もいることでしょう。後者の生徒はおそらく、他校への進学を希望することでしょう。

 これは特別室での授業だけではありません。体育の授業もそうです。勝山高校の二つの体育館やジオアリーナを共用するのですから、頻繁に年齢幅の大きな生徒達が出会うことになるのです。

 更に、登下校時のバスの中でも、バスを降りても、狭い地下通路を一緒に通らなければ学校へは入れないのですから、一緒に行動せざるを得ないのです。家庭の車送迎の場合にも、地下通路は同様です。

 私の、これまでの聞き取りでは、単独の中学校、高校の場合でも、上級生はかなり怖いとのことでしたから、中学校1年生と高校3年生では萎縮しないかと心配です。

 中高一貫校の生徒にも聞きましたが、高校生とあまり交わらない方がいい。教室が離れているだけでもありがたいとのことでした。朝の登校から、授業、そして、下校までこのような環境になった場合、果たして当事者達はどう思うでしょうか。今の子ども達に、想像してもらうしかないでしょう。

 0歳から15歳のお子様がいる保護者の皆様に対して説明会(各家庭1名限定)
 将来、再編した中学校へ入学する可能性のある子どもの保護者に対してできる説明とは、既定の方針を説明するしかないでしょう。市民の疑問には答える場にはならないでしょう。

 上記のような問題は話題にもならないでしょうし、誰も想像できないでしょう。しかし、子ども達は、大人の決めたこうした環境に飛び込んで行かざるを得ないのです。いろいろ想像してみて下さい。

 

中学校再編問題を単独で考えてよいか

24 2月

『流山がすごい』
 月曜日に病院の定期検診に出かけた。どうせ待ち時間があるだろうと、週刊誌を買った。
あちこちの記事を読んでいるうちに、ある広告が目についた。

 『今週の必読』と書かれた本の紹介だ。「人口増加率が日本一となった理由とは」のキャッチフレーズよりも、紹介文に書かれた『……本書には様々な「ひと」が登場する。そして地域の価値を上げるためにはいかに「ひと」の力が必要かを説いている。……』の部分に惹かれた。

 ここまで読んで決めた。この本を買おうと。思えば、22年前、市教委にお世話になることになった。そして、何かで自分の意見を表す機会があった。私は迷わず『事を為すのは人である』をベースに自分の意見を書いた。

 帰宅して早速本を注文。そして、ゲット。人が一番大切なんだ。人が活かされる「まち」かどうかで、人が集まりもするし、去っても行く。

 子どもも大人もみんな人。

 ・このまちに住んでいたら、何かができそうか?
 ・このまちに住んでいたら、夢が持てそうか?
 ・このまちに住んでいたら、面白い人に出会えそうか?
 ・このまちに住んでいたら、自分が活かされるか?

 誰かが勝手につくったまちに「住まわせてもらう」のではなく、「私たちがまちをつくっていくんだ」
という雰囲気が流山にはあるという。

DINKsかDEWKsか
 DINKsは以前によく流行った言葉だ。Double Income No Kids(つまり,子どもを持たない夫婦)。
子どもをもうけず人生を楽しもうという人たちだ。

 一方のDEWKs。 Double Employed With Kids (つまり、子どものいる共働き世代)。働きながらの子育て。一番大変な世代だ。しかし、この世代がいなければ少子高齢化が進みやがて過疎になる。

 流山は DEWKsにターゲットを絞っている。その第1が、子育て世代の支援。保育士の厚遇。
2010年に17カ所しかなかった保育園が100カ所に。

 これは序の口。あまり書きすぎると、かえって邪魔になる。買っても読みたくなるかどうかです。読んでいると、ついつい比較したくなるのでここまで。

中学校再編問題は地域の浮沈を懸けた重要な問題
 私の持論。中学校再編問題を単なる学校問題として捉えてもダメだと思う。中学校の再編問題は、このまちをどうするかの大問題。保育施設、小学校、そして、高校さえも一緒に考えなければ意味がないと思う。

 さらに、少子高齢化問題、都市計画(まちづくり・交通問題・道路・水路・積雪時の問題……)、雇用問題、経済問題、観光問題、起業問題、公と私の棲み分けと協働、生き甲斐・やり甲斐、各年齢層の団体、学び直しの問題、……、あらゆる角度から考えなければならないと思う。もったいない。どれにも繫がっていく問題だからだ。

 行政は、ともすれば都合のよい部分から理屈をつけてやろうとする。そして、後からあまり効果のなかったとしても、そのことには触れずに次を目指す。今、何が必要か?今後何が必要になるかと前ばかりを見ている。

 現実には、狭い範囲で考えているように思えてならない。今のままでは、所期の目的さえ達成できそうにない、と私は思う。もう少し考え直してほしいと思うが、こんなブログだけじゃ、声は届かないだろうなあ。残念無念。よそのまちのこととして傍観もしていられないし……。 

興味のある方は是非とも読んでみて下さい。

ついでにこの本も宣伝させて下さい。


 

令和10年2月23日 杞憂に終わればいいが

23 2月

 一台、また一台とスクールバスがジオアリーナを回って地下通路の入り口へ向かっていく。バスの中からは、中学生、高校生が次々と降り、無口で地下通路を降りていく。

 時間に遅れまいとするが、先を急ぐことはできない。通路の土足帯は二人が並んで歩くだけの幅しかない。何か用事で先を急ぎたい生徒は、ついつい土足のまま上履き帯を歩いて、先を行く者を追い越さなければならない。

 みな、無口で地下通路を通り校舎へ急ぐ。中学校1,2年生の生徒達は時々駆け足を交えながら、前を行く高校生に遅れまいと先を急ぐ。毎日、通学時間帯に起こる登校風景である。

 地下通路入り口では、次々とバスが地下通路へ到着するが、先行するバスが全ての生徒を下ろさなければ、次のバ                スは停車位置へはたどり着けない。バス通学生だけでも、約300名ほどの生徒がいるので、混雑は避けれれない。

 一方、保護者の車で送られてきた生徒も大変である。ジオアリーナの駐車場へ入るためには、交差点で信号待ちをしなければならない。一度の青信号でジオアリーナ方向へ曲がれればラッキーである。大概は、走破できない。

 そして、なんとか駐車場へ入れれば、車を降りるやいなやジオアリーナの横を通って、地下通路の入り口まで足早に地下通路へ向かって急がなければならない。

 バスが入ってきたり、保護者送迎の車を避けながらの移動は毎朝大変である。その上、雨や雪が降ったら大変である。地下通路へ入るまでに身体や靴が濡れると、いきなり階段を降りるときに滑ったりする危険があるからだ。

 バスを降りた生徒達と、保護者に送ってもらった約200名あまりの生徒が、毎朝地下通路で出会うので、どちらが先に通路へ入るかでも気を遣う。誰も通行整理をしてくれないので、中学生はどうしても高校生に先をゆずりがちになる。

 こうした、事態を避けるため、中学生や高校生の一部が、決められたジオアリーナの駐車場で保護者の車を降りるのではなく、併設前のように、長山付近で車を降りたり、特別支援学校周辺で車を降りることが当たり前になっている。

 そのため、学校周辺に住む人たちの車と出くわすことが多くなり、危険だと指摘される。結局、学校の先生や保護者がそうした生徒の指導をしなければならない。また、交通整理をしなければならない事態が生じている。

 とにかく中高生徒の半数あまりが、国道を横断して地下通路を通らなければ学校へ入れないというのが、今の再編計画だ。高校生には、それまでよりも、登校がかなり大変になってしまうというのが中高併設による大きな変化だ。

 この先もずっと、このような事態が生じるのかとうんざりしてくる。……と、こんなことが起こらなければよいのだが……。まだまだ、課題の多い中学校再編計画ではある。

西(左)側から半数、東(右)側から半分の生徒が登校する新しい中学校と高校
 

友来る。それって当たり前?

22 2月

 午後1時半に友と会うことになった。といっても、彼は30代。私との年の差はかなりのものだ。それでも、いろんなことが話せるから嬉しいし、楽しい。

 政治のこと、保守、革新、まちづくり、起業、ビジネス、これまでのこと、これからのこと、そして、勉強(広義の勉強)の大切さ、学校問題、……。話題は尽きない。いつもとは全く異なる頭の使い方だ。時間の経つのがとても早い。

 この年になってこんなに話し込むことができる相手がいるなんて、とても嬉しい。時間があったら、まだまだ話していたかもしれない。これは当たり前ではない。とてもありがたいことだ。

 両方が、聞く耳を持ち、話すことがあったからではなかろうか。お互いに前を向いていたからだろうか。この関係を大切にしたい。午後7時頃まで話した。(5時間半だ)


 話の途中で時々、横浜の長男宅にいる家内からLINEが入る。孫とイチゴ大福を作っている写真や、犬と戯れている楽しそうな写真が送られてくる。動画もある。私も行けばよかったかなと思ったりもする。

 私の若い頃は、スマホなどはなかった。新幹線もなかった。途中で家内から送られてくる富士山の写真、長男宅での楽しい動画や写真を受け取ることなどは想像もできなかった。メッセージのやりとりも、かつてはできなかった。

 今の子ども達には、こうした環境は当たり前だろう。そうでなかった時代に生まれた私にとっては、これは目を見張る変化だ。決して当たり前ではない。電話でもしようものなら、チャリン、チャリン、……と落ち着かないだろう。

 便利さの行き届いた時代は、ともすれば人間の出番を少なくする可能性がある。人間を受け身的にする。人間をもっぱら消費者にする。1ヶ月の家庭の通信費を考えたら、驚くだろう。

冬の晴れ間は、雪国に住む私たちに取ったはありがたいが、表日本に住む者にとっては当たり前かもしれない。
10cmぐらいの雪は私たちには当たり前だが、都会人にとっては、大騒ぎだろう。

新幹線から(家内撮影)

 

 

 

 

 
 

第5回 中学校再編準備委員会を傍聴

21 2月
第5回再編準備委員会

 午後7時から市の教育会館で行われた中学校再編準備委員会を傍聴。冒頭、委員長の挨拶。「県内では、あちこちで探究学習が進み、成果を上げている」と。それならば、なぜ、勝山だけが無理矢理中高併設にして探究学習を目指すのか。他の所では、中高別々でもちゃんとやっているのではないかとの素朴な疑問が湧く。

そして、教育長から先日行われたパブリックコメントの意見が紹介された。(以下写真で)

 今、勝山市では中学校再編に関して市民の意見が二分している。この案を推し進めたい市ともう一度考え直してほしいという市民の意見がなかなか収束しないでいる。

 最も市民が疑問に感じているのは、勝山高校の敷地の中にグラウンドも体育館も持たず、音楽室や理科室、家庭科室などは全て高校の校舎の中に作り、体育館やグラウンドは共用するという「勝高併設案」に対してだ。

 事の起こりは、勝山高校の定員割れが続き、何とか存続させたいと。(その後、小規模校でも残すとの高問協の答申あり)。それには、中学校を勝山高校にくっつければ連携が進み、少しは勝高進学者が増えるだろうとの一市議の発想が発端だとか。(議会議事録参照)

 「勝高併設だけは止めてくれ!共倒れになる、どちらにも良くない」と、この一点について、多くに市民から考え直してほしいと必死で訴えているのだ。しかし、この方向で着々と計画は進められつつある。一度は4,000筆あまりの署名、2度目の署名は現在7,000筆を越えている。それでも、この案を強行されようとしている。

 「勝山高校に併設すれば、全国に誇れるジオアリーナがあり、長山グラウンドもあ理、部活動の選択肢も増えるる」と、ことあるごとに説明するが、中学校に与えられたスペースはジオアリーナ半分と長山グラウンドだけ。勝山高校の敷地の中に校舎を建てて併設しても、結局は元の中学校を使わなければ部活動はできないと、再編準備委員も述べている。(全て市のホームページで閲覧可能)

 なぜ考え直してほしいか、私の意見を今後少しずつ述べたいと思うが、紙面の関係で今日は速報のみ。

 

残日録再開 日は残りて 昏るるに未だ遠し

20 2月

とうとう80歳になった。藤沢周平先生の『三屋清左衛門残日録』の中の言葉をお借りしている。
《日は残りて昏るるに未だ遠し》の心境である。もう時間は残り少ないと考えるよりも、まだまだ時間は
あるとプラス思考で生きたいものである。

『 傘寿来て 目出度さ・さみしさ そろい踏み 』

よくぞここまで生き延びることができたという感謝の気持ち。
人生は無限ではないという一抹のさみしさ。

はっきりしていることは、大きな節目であるということだ。
ただ、《八》という字の末広がりの縁起の良さ、これはありがたいと思う。

今日から、一服していた『いなかもん残日録』を再開したいと思う。
むかしの自分はかなぐり捨てて、思ったことは書いてもよいのではと思う。

どういうわけか、一月元旦よりも改まった気持ちになれるから不思議である。
それは、正月はこれまで80回経験したが、80歳の誕生日は初めてだからだろうか。

ここから先は、自分が元気で過ごせるように節制するのも大切な仕事の一つだと思う。

67歳で退職したときには、《退職グッズ》と称してほしいものをある程度揃えた。
そして、《退職プロジェクト》と称して少しだけやりたいことをやった。
〇 まあまあの速度のデスクトップパソコン
〇 種々のソフト(音楽ソフト、描画ソフト、文章作成ソフトなど)
〇 アコーディオン
〇 ウインドシンセサイザー、
〇 車の買い換え
などだ。

今度は、何にするかと考えていたモノのいくつかは、プレゼントされた。
それは、少し前に喜寿があったからだ。
 〇 最新のデスクトップパソコン
 〇 電子ドラム(買いたいと思っていたものよりはるかに効果)
 ※実は楽器屋さんにリアルドラムの中古が出ていたので買おうかなと迷っているうちに
  消えてしまっていた。でも、電子ドラムが手に入ったのでひとまず安心。
〇 車は喜寿の後に購入済み

そうなると、《傘寿グッズ》よりも、《傘寿プロジェクト》といった方がよいかもしれない。
 〇 描き終えたマンガ『マンガで学ぶプログラミング』の出版作業
 〇 できれば、続編マンガ『ゲームで学ぶプログラミング』を描き始めること
 〇 執筆中の冊子『中学校再編物語』の完成(これは手製の印刷製本冊子)
  ※ なんとしても記録しておきたい。なんでこうなるのか……。
 〇 童話
 〇 演歌などの歌作り
 〇 日曜大工(組み立て式雪囲い、未だ旧宅の半分しか完成していない)

そして、盆踊り復活にも取り組めたらと思うが、どうなることやら……。手を広げすぎて
右往左往。家内には、いつも「手を広げ過ぎて何でも中途半端」とたしなめられている。 

A5版 204ページ