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Archive for 6月, 2011

青春時代を思い出す

30 6月

音楽に夢中になったあの頃
  大学時代、私は入学するとまもなくバンドができないかを考え、寮の仲間とバンドを作る話ばかりしていた。そして、1学年上の先輩達と軽音楽同好会を創設した。

今から48年前のバンドメンバー。ドラムの私以外はみんな後輩達だ。ずいぶん月日が経ったものだ。

  卒業後、元のメンバーと近所の者やいとことバンドを組み、三国、福井、鯖江などのショッピングセンターへ出かけて演奏をしたこともあった。

  その当時は、高校の数学教師であったが、バンド活動にも夢中になっていた。さらに、高校生達ともバンドを組んだ時期もあった。それぞれが仕事に忙しくなったために、バンドは解散し、家族でバンドを組んだ時期もあった。

  その後は、コンピュータミュージックに夢中になった。そして、演歌や民謡をCDにして楽しんでいた。でも、いつかは再びバンドを組みたいというかすかな夢は持ち続けていた。

  何十年間かブランクがあったが、後輩達に勧められて、大学の軽音楽同好会のOB会が静岡で開かれるのを機会に、バンド活動を再開することになった。

  今日も、その練習があった。私の事務所のスタジオへ集まってきたのは、福井、春江、大野からのメンバーであった。知っているのは、ただ一人だけだったが、みんな旧知の間柄のごとく親しくなった。

  全部で5曲演奏することにした。1曲は、ハワイアンで「南国の夜」。1曲はラテンスタイルで「コーヒールンバ」。2曲はモダンジャズの「危険な関係」と「モーニン」だ。残りの1曲はハワイアンで未定。

  私の担当は、ハワイアンギター、クラシックギター、キーボードの予定。大学時代は軽音楽同好会の初代ドラマーだった。しかし、ドラムをする者が沢山いるので、後輩達に譲りたい。

  みんなで、合奏していると、本当に楽しい。青春時代がよみがえる感じだ。OB会が済んでもバンドは続けたいと今のメンバーは思っているようだ。私も、そのつもりでいる。

  そんなに上手ではない「おじさんバンド」だが、楽しむことにつけては誰にも負けないだろう。チームワークもよさそうだ。知り合った縁を大切にして音楽を楽しみたい。

(日記:午前中、抜糸のために福井のY整形外科へ行く。リハビリはとても痛いが、指のためには我慢しなければならない。指が動いての楽器だからだ。午後は、春江町中庄地区の「中庄小三郎音頭」の振り付け図を描いた。その後、ジャガイモ掘りを傍観する。手伝いたくても何もできない。午後7時より「おじさんバンド」の練習。練習したりだべったりで楽しかった。)

 
 

「我が家」あって「ふるさと」なし

29 6月

総会でミニ講演
  思いがけないことから、「勝山城博物館友の会」の総会の後、話をすることになった。タイトルは、懇談の中から生まれた。

勝山城博物館で行われたミニ講演会。

  今の子供や若い人たちを見ると、地域に溶け込んで過ごすことが非常に少なくなったように思う。特に、子供たちは地域をステージに遊び回ることが非常に少なくなった。地域で子供の遊んでいる姿を見ることがなくなってしまった。

  自宅は誰でも意識するが、自分の集落、町、市を意識して過ごすことが非常に少なくなったのではないか。そのうちに、無国籍の人たちが増えていくのではないか。

  人は、快楽中心に生きているように思う。そして、その結果、孤立し、無縁になり、いつの間にか周囲から取り残されて一生を終えることになりかねないのではないか。

パソコンを使ってのミニ講演。包帯は痛々しかったかもしれないが、楽しい時間を持つことができた。

  東日本震災では、それぞれが自分のライフスタイルを考え直しているのではないか。それと同時に誰かの何かに役立ちたいと思う人が増えたのではないか。

  自己中心的に生きているうちに、人との関わりが少なく、人から必要とされない人間になってしまい、そこからは、充実した人生が送れないことに気付き始めたいのではないか。

  好き勝手に生きる人が多くなった結果、満足した人生を送れるつもりが、必ずしもそうはならず、「無縁社会」という言葉まで生まれてしまったのではないか。

  煩わしくても、多少は地域とのつながりを持ちながら生きていくことが、最終的には充実した人生につながっていくのではないのか。少なくとも、私はそう信じている。

私の事務所のミニスタジオで担ぎ桶胴太鼓の練習をする春駒太鼓のメンバー。

(日記:午前中は、昨日の消毒とリハビリのため福井のY整形外科へ行く。午後2時から、「勝山城博物館友の会」の総会の後、「我が家あってふるさとなし」のタイトルでミニ講演を行う。午後7時半から、和太鼓の練習。「練習のたびに、1曲ずつマスターする」とメンバー。今日は“担ぎ桶胴太鼓”を使った曲「春馬」の練習に集中。)

 
 

普通が幸せ

28 6月

腱鞘炎で両手を手術
  指の痛みが限界。福井で左手の親指と右手の中指を手術した。右手は長い間放置しておいたために筋が痛んでいたようで手術にかなり時間がかかった。

左手の小指と薬指だけでは何にもできない。

  午後8時を過ぎても麻酔が効いていて使える指は左手の小指と薬指だけ。食事も大変だし、パソコンは1本指で書くしかない。普通であることの良さを実感している。

(日記:午前中は、算数の教材作り。午後は腱鞘炎の手術。ブログはここまで書くのが限界だ。)                 

 
 

有言実行

27 6月

片瀬の特産野菜作りにチャレンジ
  「芋とショウガとうまい米」刃、私たち片瀬の特産物だと思っている。特に、芋とショウガは昔から村の特産だった。私は、これらを復活させてほしいという願いを持っている。

  しかし、「芋とショウガを片瀬の特産として復活させて下さい」と言っても、そんなに説得力はない。そこで、私は、自分の家庭菜園とは別に法人の畝を2列借りてこれらの栽培に取り組んでいる。

芽が出始めた私の畝のショウガ(左側)と里芋(右側)。ショウガのむこうにはヤーコンが植えてある。勝山城も見える。

   今のところ、順調だと思っているが、いつ病気や虫によって突然枯れてしまうか分からない。私は、ショウガは毎年少しは作っているが、里芋を作るのは初めてだ。

  周囲の人に聞くと、青々とした芋の葉がある日突然枯れてしまうらしい。それはショックだろうと思う。虫や病気にならないように祈るばかりだ。

  先日の里芋の草取りの日のことだ。村のNさんの畝の里芋が所々枯れている。 モグラにやられたらしい。Nさんはショックだったらしい。何十列と畝のあるうち、Nさんの畝だけがやられているのだから、災難というほかない。

  先日の土寄せの日に分かったが、私の畝にもモグラが侵入したようだ。獣による害も少なくない。ハクビシンや狸なども出没して農家を悩ませている。法人の田んぼも、電気柵で囲っているが、猪の被害も予想される。

  子育てと同じで、一人前に育てるまでには、まだまだ何が起こるか分からない。豊作と言わないまでも、ほどほどの収穫を期待したいと思っているところである。

(日記:午前中、講演資料作り。その後、北部中学校で和太鼓指導。生徒達はかなり上手になってきた。午後も、資料作り。合間を見て、家庭菜園の作業。午後7時半よりオカリナ教室。楽しくも忙しい一日だった。)

 
 

結城秀康とはどんな人?

26 6月

『白山平泉寺物語』の登場人物
  午後は、29日の資料作り(パソコン)を行った。聞いている人が退屈しないような工夫が必要だと思った。話のタイトルは、「我が家あってふるさとなし」だが、先ずは、故郷を知ってほしいと思うからだ。

  勝山の人に勝山を知っていただくことによって、地域への関心を持ってもらえればと思う。  その一つとして、 「え?この人が平泉寺に関係しているの?」という驚きを持って貰いたいと思う。

  そこで、「豊臣秀吉」、「徳川家光」、「織田信長」、「後醍醐天皇」、「結城秀康」、「朝倉義景」などの絵を示して、平泉寺とどのような関係があるのかを考えていただきたいと思う。

「結城秀康と平泉寺の関係は?」

  その一人、「結城秀康」は、どんな人で、どこで平泉寺に繋がっているのかを考えていただきたいと思う。色々調べてみると、興味あることが次々と明らかになってきた。

  結城秀康は、越前国、北の庄藩(福井藩)の初代藩主である。
  結城秀康は、徳川家康の次男である。長男が織田信長により切腹させらられたために、家康の後継者として将軍になるはずであった。
  結城秀康は、秀吉と家康の和解のために、秀吉の養子(人質)に出された。
    結城秀康は、養父「秀吉」と実父「家康」からそれぞれ一字ずつ取り「秀康」と名乗った。
  結城秀康は、豊臣家の養子にはなれずに(秀吉に鶴松誕生)、結城家へ再度養子に出される。
  結城秀康は、関ヶ原の後、家康より、結城10万千石から越前北の庄67万石に加増移封。

  結城秀康は、福井へ着任すると直ちに「平泉寺」に対して毎年200石(今の金額にして三千数百万円の価値)を寄進を約束。

  これだけの人物が、なぜこれだけの寄進を申し出たのだろうか?一揆に破れ弱体化した平泉寺に対して。過去の歴史から考えて、平泉寺を味方につけなければ、福井を治めきれなかったのだろうか。

   いろんな有名人が平泉寺に関係しているのだ。平泉寺にはそれほどの存在感があったのだ。そのことを知ってもらえればと思う。平泉寺には、苔以外にも興味のあることがたくさんあるのだ。

林道の草刈り。草の中に石がたくさんあって困った。

(日記:午前中、林道の草刈り。 その後、開墾した畝に自宅で育てていたトマトの脇芽を植えた。午後は、パソコンで資料作り。夕方、妹夫婦が九州からやって来た。話が弾んだ。)

 
 

親子太鼓教室

25 6月

初めての練習日
  私は人にものを頼まれた場合には、よほどでない限り引き受けることにしている。幼稚園の年長組の子供に太鼓を教えてほしいとそれぞれのおばあちゃんから頼まれた。

  引き受けることにした。今日はその最初の練習だ。私の事務所(山児童館)へ集まってきたのは、太鼓を練習したいという子供と、その保護者や弟妹立ち合わせて10人あまりが集まった。

春駒太鼓初期の頃。長山公園で太鼓を叩く長男と長女と私。

  大人の中には、太鼓をやりたいという人もいて、うれしかった。6歳の子供と一人の男性が太鼓を使って練習した。30歳過ぎの男性と6歳の子供が一緒に練習している姿はほほえましい。

  他の人たちも見学しながら、膝を叩いて練習していた。次回から、希望者全員に太鼓を使って練習してもらいたいと思う。

  幼児に太鼓を教えるのは久々だ。果たして、この子供や大人は太鼓を続けることができるだろうか。多少気になるが、教えているととても楽しい。

全国高校文化祭で太鼓を叩く次女達。

  何とか、親子太鼓を一人前にして、人前で太鼓を打てるようにしてしてあげたい。そんな気持ちになった。小さな子供が和太鼓を叩く姿って本当に可愛い。

  春駒太鼓の次世代を育てるためにもう少し頑張りたいと思う。5歳児がもう2、3人いるとチームができるかもしれない。また、保護者でも1チームできると楽しいだろうな。

(日記:午前中は、林道の草刈り。本当は、来週の日曜日が村の林道の草刈り日だ。しかし、私は、腱鞘炎の手術の直後なので出られない。そこで、今日は一人で林道へ出かけて草刈りを始めた。調子の出たところで、草刈り機が止まってしまった。やむなく自宅へ帰り、家内と二人で草刈り機を買いに大野へ出かけた。どうせ2台はほしいところだったので、新しいのを買うことにした。そして、「故障した草刈り機を持っている」と話すと、「見てあげましょう」と言うことになった。運良く簡単な部品を交換するだけで故障した草刈り機を直してもらうことができた。自宅へ帰って再び林道へ出かけ、草刈りを継続した。午後は、親父バンドの楽譜を書いた。午後4時から子供とその親に太鼓を教えた。午後5時から親父バンドの練習。とても楽しかった。何となく慌ただしい一日だった。)

 
 

気持ちのよい“肉体労働”

24 6月

デスクワークとは違う充実感
  来週の火曜日に両手の指(腱鞘炎)を手術するので、“今のうちに身体を使う仕事をやっておかなければ”と朝から忙しい。

  先ず朝一番に、田んぼの畦の草刈りだ。田んぼは法人に預けてはあるが、今年から畦の草刈りは自分ですると決めた。作年までは、水管理も草刈りも全て法人に丸投げだった。

  今年は、草刈りだけは自分ですることにした。もちろん会社組織なので、その分、手当は出るのだが。今日は、紐ではなく、回転刃で草刈りを行った。

  回転刃は、草はよく切れるが、石に当たるとキーンといやな音がするのと刃が痛むのが難点だ。また、用水のコンクリート枠の際もうまく切れない。

  畦の草刈りは、土手があって平地ではないので、足腰に負担がかかる。汗だくになった。毎日2回はシャワーをしなければならない。体重はどんどん減って、標準体重になった。

  ピーク時と比べると、約20kg痩せたことになる。これ以上痩せると健康にもよくないのではと心配になった。とにかく汗のかく量は半端ではない。デスクワークとは全く異なる充実感がある。昔の人はよく言ったものだ。「晴耕雨読」と。

 午後は、開墾をすることにした。田んぼの畦際にかなりのスペースがあって、ただ雑草が生えているだけの所があった。ここを開墾して、作物や花を植えない手はない。

全て買ったトマト苗の脇芽で育てたトマト苗。全ての鉢の底から、白い根が顔を出している。

  自宅には、買ったトマトの苗の脇芽で育てたとトマト達が出番を待っているのだ。鉢植えで育てようと思ったが、トマトの根は勢いよく下へ伸びて、全ての苗の根が鉢の底から白い根を出しているのだ。

  鉢で育てるのは無理だ。そこで、この開墾した畑にトマトを植えることに決めた。開墾した場所には、雑草が生えていたので、草の根がいっぱいあり、石もたくさん出てきた。

  トマトにとっては条件はよくないだろう。今日は畑を耕し、堆肥を入れ、石灰をまいておいた。2、3日このままにしておいて、マルチを掛け、家のトマト達を植えたいと思う。果たしておいしい実をつけるだろうか。

  6時過ぎまで、開墾作業をした。予想通り、近くの人が「何してるん?」と、近寄ってきて、立ち話をすることになった。今は余裕を持って立ち話をすることができる。

  肉体労働で、身体は疲れたが、気分は爽快だ。思いっきり、働いて汗を流せば、無理にダイエットをしなくても、自然に痩せることができる。気持ちのいい一日だった。

(日記:午前中、田んぼの畦の草刈り。午後も、草刈り。その後、開墾作業。家内はニンニクの保存作業とニンニクの醤油漬けを作っている。夜は、ニンニクを油で揚げた。とてもおいしい。家内も喜んで食べた。思いっきり汗をかいたのでビールがうまい。夜は、明日の「おじさんバンド」の練習に合わせて編曲作業。 )

 
 

前を向いていれば

23 6月

会話が弾む前向きの人
  家内が「今からリハビリでプールへ行ってきます」と言うので、一緒に行くことにした。例によって、プールの中を歩き、少し泳ぎ、ジャグジープール、そしてサウナといつものコース。

   プールの中で、女性から声を掛けられた。「あら、先生。私、Kです」と。かつて、Kさんの息子さんのクラスの数学を担当したことがあるのだ。Kさんは、今、ヘルパーの資格を取り、音楽療法をやってみたいという。

  次々といろんな話題が飛び出す。サウナを出てプールを歩くときも、隣のコースになり再び話が弾む。私と似たところもあるようだ。

  童話を書き始めたという。私はプールの中を歩き、彼女はビート板でバタ足をしながら、話が続く。紙芝居をやりたいと言う。絵本も作りたいという。

  施設への慰問も考えているという。紙芝居や読み聞かせや音楽を使って楽しい時間を持ちたいという。私も同じようなことを考えているので話が弾む。

  2回目にサウナへ入ったら、今度はTさん夫婦に会った。夫婦は、都会から勝山へ戻ってきたのだ。勝山の豊かな自然の中で趣味や仕事ができるのが楽しいらしい。

  彼女は、特技があり、教室を開き、生徒さんに教えているのだ。一人でいるときは、音楽を聴きながら、仕事をしているという。私は、ラジオを聞きながらだが。彼女は、どんどん話しかけてくるのだ。

  他にも、Mさんと会った。コースを歩きながら、ジャグジープールに入りながら、いろいろ話をした。みんな話したがっているのだろうか。

  特に、前向きの人とは話が弾む。話が弾む条件は、双方向でなければならないと思う。話すこと半分、聞くこと半分だ。

  誰もが、話を聞いてほしいと思っているのではなかろうか。しかし、他人の自慢話を聞くのは退屈だ。やはり、前向きに生きている人の話を聞きたいものだ。そんな人とは、どこであっても、話が弾むものだ。

麦わらを敷きキンカン瓜を植えた家庭菜園。手前はイチゴの苗場。

(日記:午前中、自宅で育てていたキンカン瓜の苗を家庭菜園に植えた。その後、先日、法人の麦刈りでもらってきた麦わらを敷いた。小雨の中なので、うまく根付いてくれるだろう。早く、冷えた真っ黄色のキンカン瓜を食べたいものだ。メロンよりも、昔っぽくてあっさりした甘さで大好きだ。その後、自宅の植木の剪定などを行った。午後は、黒田節の三味線譜を書く準備をした。その後、家内と一緒に市営プールへ。楽しい時間を持つことができた。)

 
 

“我が家あってふるさとなし”

22 6月

伝えたいこと
  来週の29日に「勝山城友の会」の総会の後、話をしてほしいと依頼された。打ち合わせの際、「私は造語が好きです。例えば、“我が家あってふるさとなし”とか……。」と話したところ、それが話のタイトルになってしまった。

  でも、私の「今、伝えたいこと」と、そんなに外れてはいないと思っている。今日の午後、話の中身を考えた。先ず、唱歌『ふるさと』の歌を聴いてもらってから話を始めたいと思っている。

          ふるさと

1.兎追ひし かの山
    小鮒(こぶな)釣りし かの川
    夢は今も めぐりて
    忘れがたき 故郷(ふるさと)

2.如何(いか)にいます 父母
      恙(つつが)なしや 友がき
      雨に風に つけても
      思ひ出(い)づる 故郷

3.志(こころざし)を はたして
    いつの日にか 帰らん
     山は靑き 故郷
     水は淸き 故郷                            (恙:病気や災難を意味する)
  私流の解釈で、今なぜ“ふるさと”がなくなったと私が考えているかを考えてみたい。先ずは、唱歌「ふるさと」の歌詞を参考にしながら私見を述べたい。

  1番では、自分が遊んだり関わりを持った山や川などの自然について述べている。漫然とそれらが“ある”のではなく、自分が関わりを持っていた地域の自然や神社や公園などがあり、そこにはいろいろな思い出があると言うことだろう。

  今の子供達には、関わりを持った自然や場所がどれだけあるだろうか。私の場合は、村の背後にある大師山(泰澄大師ゆかりの山)は、中学生時代に子供だけでキャンプをした思い出の山である。

  栗を拾い、アケビを取り、山菜を採った山でもあり、何度も足を運んだ山であるのだ。麓では、まっすぐな木をのこぎりで切り、それを剣にしてチャンバラごっこをした山でもある。薪を取りに何度も足を運んだ山でもあるのだ。

 村の神社にも多くの思い出がある。毎年夏休みには、ラジオ体操をし、ソフトボールをし、箱を並べて勉強をした思い出がある。

  祭りには、太鼓を叩き、秋祭りなどには、民謡やフォークダンスを踊った思い出の場所でもある。また、子供を背負う帯をまわしにして相撲を取った場所でもある。

孫にとっては、豪雪もふるさとの思い出になるのだろうか。

 村の中も思い出の場所である。村中を舞台に大がかりな“鬼ごっこ”や“缶蹴り”、“ポコペン”、“瓦倒し”など様々な遊びを行ってきた。防火用水は、泳ぎの場であ離、魚を釣った場所でもあった。

  季節季節に、どこにどんな果実が実るのかを知っていて、拾いに出かけたところでもある。柿、梅、桑の実、銀杏等を拾いに回ったところでもあるのだ。

  村の付近を流れる川は魚を釣った場所であり、九頭竜川も水泳や魚を捕まえた思い出の詰まったところである。自分が関わった思い出の場所なのだ。

  2番目では、父母や友達が出てくる。父母は、凛としていた。怖い存在でもあったが、よき理解者でもあった。また、遊んだ仲間も地域には多かった。また、いろんな遊びや道具の使い方を教わった先輩達がいる。将棋などを教わった大人や先輩がいる。

  私がギターに興味を持ったのも、村の先輩達が弾いているのを見て興味を持ったことがきっかけだった。このようにいろんな人たちと多くの関わりを持った自分の地域は、ここを離れても思い出すであろう。

  3番では、いつかは帰りたいと思う。それだけ、自分の居場所のあった地域と言うことになるのだろう。それが“ふるさと”と言うことではないか。

  今の子供達は、自宅と学校または習い事をする場所を行き来していることが多い・大人も、職場と自宅を行き来するだけのことが多い。家がどこかへ移っても、そんなに困らないのではないか。

  昔に比べると、地域とも、周囲の人とも、関わることが非常に少なくなっている。これでは、“我が家あってふるさとなし”と言われても仕方がないであろう。

  それなら、どうすればよいのか、ここらか持論を展開したいと思う。理屈だけではなく、自分のやってきたことをまじえて話すことができればと思っている。

太鼓のバチの振り方を練習する春駒太鼓のメンバー。

(日記:午前中、里芋の土寄せ。マルチを半分外して於いて、溝を作りそこに少し蔬菜肥料を入れ、鍬で里芋の根本に土を寄せた。非常に熱く、汗はだらだらと出て、体重も減ったようだった。その後、シャワーをして休憩し、今度は事務所横の家庭菜園を耕した。そして、ニンニクを収穫した後に黒瓜を植えるための場所を作った。とにかく今日は熱かった。午後は、パソコンで「我が家あってふるさとなし」の原稿作りをした。午後7時半から和太鼓の練習。今日も事務所の机を叩いてイメージトレーニング。新しいポジションの者だけ太鼓を使って腕の振りを練習。)

 
 

「断捨離」から思うこと

21 6月
どこで金を使うか
  最近、「断捨離」という言葉をよく聞く。「断捨離」とは、“ヨガの「断業」、「捨行」、「離行」という考え方を応用して、人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考え”だそうだ。単なる片づけとは一線を引くという。
断=入ってくる要らない物を断つ
捨=家にずっとある要らない物を捨てる
離=物への執着から離れる

  私には、「断」も「捨」も「離」も難しい。ただ、モノに対する執着は、そんなにないと思っている。ブランド品を持ちたいとは夢にも思わない。

  モノに関して言えば、毎日使うモノにはケチケチしたくないという想いはある。滅多に使わないモノは買わないか、買っても安価なものにする。そのように気持ちは変化してきている。

  午前中、家の片付けをした。温風ヒーターがたくさんあるのだ。それと昔型の電気を使わないストーブもある。もしも、冬に何かの事故で停電になってしまったら、いくら灯油があっても温風ヒーターは使うことはできないから、昔型のストーブも捨てられないことになる。

  こんなことを考えていると、捨てられそうで捨てられないものが、物置を占領してしまう。そろそろ捨ててもいいようなドラムの部品が物置にある。

数日前に買ったドラムの教則本。これではいつまで経っても、古ぼけたドラムは捨てられない。

  大学時代は石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」でのドラマー姿にあこがれて、ドラムをたたいていたが、今後、ドラムを叩くことがあるだろうか。

  70歳を目前にして、ドラムを叩くことは先ずないだろう。ところが、1週間前に、楽器店へ寄った際、ハワイアンギターの弦を2セット注文してきたが(最近では楽器店でも売っていない)、ついでにドラムスティックとドラム教則本を買ってしまったのだ。

  これでは、車庫の二階にあるドラムセットは当分の間、捨てられない。キーボードも、ギターも、ウクレレも、当分の間持ち続けることになるだろう。

  断捨離は、いつまでもあこがれのままで、人生を送ることになりそうだ。何もない、今、座敷にあこがれるが、私にはまだまだ先のことになるかもしれない。

(日記:午前中、部屋の片付け。予想以上に時間がかかった。午後は、先ず、人前で話す資料をパソコンで作る。パワーポイントと互換性のあるジャストシステムの「アグリー」というソフトで作り始めた。来週、人前で話すための資料だ。午後、3時から午後6時半過ぎまで、畑でニンニクを収穫した。家内は収穫を終えたエンドウを取り去った。今シーズンは、これまでになく何度もエンドウを食べることができた。まだ収穫したエンドウがあるので、2、3回は食べられそうだ。ニンニクとエンドウの後に、家で待機しているキンカン瓜の苗を早く植えたい。明日は、畑を耕さなければならない。取り木をしておいたイチジクを自宅の植木鉢に植えた。今日は、たくさん汗を出した。こんな日はビールに限る。)