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Archive for the ‘未分類’ Category

つくるということ

11 4月

作る・創る・造る
 “つくる”とは楽しい作業だ。それまでになかったものを形にするからだ。他人から見れば平凡に見えるものでも、つくった本人にとって新しいものであれば満足感に浸ることはできるというものだ。

 “モノ”のない時代に育った私は、“無ければつくる”という育ち方をしてきたように思う。最近『好奇高齢者』なる言葉を使う人がおられるが、私もその一人だと自認している。

 “つくる”といってもこの言葉の持つ意味は広い。
 ・創る(歌を創る、文章を書く、漫画を描く、紙芝居をつくるなどの創作活動)
 ・造る(日曜大工で造る様々なもの。今年も組み立て式雪囲いを考えている。これまでは車庫の中に部屋を造った   
  り旧宅の仏壇跡に床の間を造ったりした)
 ・作る(家庭菜園で野菜を作る、特に生姜の栽培を試行錯誤している)
などあり、夫々が私の生き甲斐になっている。
 
 ここしばらく、音楽活動にご無沙汰しているので無性に歌を作りたい。それに、自分で楽器を弾いたりもしたい。そんなわけでのんびりとテレビドラマを見ている時間が無い。朝ドラと大河ドラマ以外は、何かをしながらテレビを“”聴く“と言う感じだ。

 当然、日曜大工(だいく)場にも,聴くための小型テレビを置いている。つくりたいことはまだまだあるが、時間をつくれないでいる今日この頃である。したいこととせざるを得ないことが入り交じって毎日を過ごしている。  
 

 

子どもの伸びる力を止めるのは誰?

27 2月

小規模中学校時代の思い出~子ども達の自主性を奪うのは誰?~
「我々は生徒達に手をかけすぎているのではないのか?」「生徒の自主性を奪っているんじゃないか?」
そんな話が、平泉寺小中学校の教員の間から出て、「校内運動会をなるべく、子ども達の手でやってもらおう」と決めた。教員は完全に脇役に回ると決めたのだ。

 運動会前日、私たち教員はグラウンドの端にある高台にのんびり座って、生徒達の準備状況を見守ることにした。誰もが、どちらかと言えば生徒達に何かアドバイスしたくて、うずうずしている。

 それでも、お互いに「言ったらあかん」、「行ったらあかん」と牽制し合って高台から生徒達の準備状況を見つめていた。といっても、生徒が聞きに来た場合だけは答えるという約束の元にだ。

 生徒達は、黙々と準備を続けてくれた。トラックの白線も引き、翌日に各競技で使うリレーのバトンや、綱引きの綱など様々な準備物も所定の位置に並べてくれた。何もかも自分たちの手で行ったのだ。

 運動会当日の朝、少し雨が降ったらしく、コースに水たまりができていた。 ところが、誰も指示しなくても、一輪車で砂を運び、ぬかるんだコースに砂を撒いてコース整備をしているではないか。

 もしも、教員が主導して運動会を行っていたのなら、「誰々、一輪車で砂場から砂を持ってこい!」と大きな声で指示を出していたことだろう。同じ作業をするにしても、子ども達の気づきや気分はずいぶん違ったものになっていたであろう。まかせればできるのだ。

上級生になれば何でもできるのだ。準備も、大会運営も。

子どもの考える時間を奪うのは誰?
 教員はせっかちであることが多い。子ども達に質問を投げかけてはいるが、十分に考える時間を与えなかったり、誰か一人でも答えると一見落着とばかりに、改めて懇切丁寧に説明を行うのだ。そんな授業を参観しことがある。

 最初はなぜだろうと、参観している大人も一緒に考えようとしたが、授業をしている教員が次々と丁寧に答えを言ってしまうのだ。こんなことを何度も繰り返すので、早くこの授業が終わらないかなと退屈をしたことを思い出す。

 子どもの、考える時間や機会を奪っていることになる。できる子が勝手に答えを言ってしまうのも、仲間の考える機会を奪うことになる。

子どもの能力を決めつけるのは誰?
 小さな子どもに「ぼく、いくつ?」と質問したとしよう。子どもがもじもじしていたり、小さな声で答えると、そばにいた大人がすかさず「三歳でしょ!三歳!」と余計なことを言う。今から答えようとしていてもお構いなしだ。

「お父さん何しているの?」と聞いたとき、子どもが少しでもモジモジしていたら、すかさず親が横から「会社でしょ?かいしゃ!」と、子どもに代わって答えてしまう。子どもの考える機会も時間も親が奪っているのだ。

 挙げ句の果てに「ウチの子どもは引っ込み思案で困ります」とか、「ウチの子どもは運動はからきしダメで」とか、「ウチの子どもは算数は全くダメなんです!」と自分のことを棚に上げて親が決めつけてしまう。

 子どもは将来どう伸びていくのか誰にも予想できない。子どものうちから、あれができない、これができないと決めつけるのは止めたいものだ。子育てマイスターとして、幼児の保護者にいつも言ってることの一つだ。「決めつけたり、けなしたりするのではなく、褒めてあげて下さい」と。

 

友来る。それって当たり前?

22 2月

 午後1時半に友と会うことになった。といっても、彼は30代。私との年の差はかなりのものだ。それでも、いろんなことが話せるから嬉しいし、楽しい。

 政治のこと、保守、革新、まちづくり、起業、ビジネス、これまでのこと、これからのこと、そして、勉強(広義の勉強)の大切さ、学校問題、……。話題は尽きない。いつもとは全く異なる頭の使い方だ。時間の経つのがとても早い。

 この年になってこんなに話し込むことができる相手がいるなんて、とても嬉しい。時間があったら、まだまだ話していたかもしれない。これは当たり前ではない。とてもありがたいことだ。

 両方が、聞く耳を持ち、話すことがあったからではなかろうか。お互いに前を向いていたからだろうか。この関係を大切にしたい。午後7時頃まで話した。(5時間半だ)


 話の途中で時々、横浜の長男宅にいる家内からLINEが入る。孫とイチゴ大福を作っている写真や、犬と戯れている楽しそうな写真が送られてくる。動画もある。私も行けばよかったかなと思ったりもする。

 私の若い頃は、スマホなどはなかった。新幹線もなかった。途中で家内から送られてくる富士山の写真、長男宅での楽しい動画や写真を受け取ることなどは想像もできなかった。メッセージのやりとりも、かつてはできなかった。

 今の子ども達には、こうした環境は当たり前だろう。そうでなかった時代に生まれた私にとっては、これは目を見張る変化だ。決して当たり前ではない。電話でもしようものなら、チャリン、チャリン、……と落ち着かないだろう。

 便利さの行き届いた時代は、ともすれば人間の出番を少なくする可能性がある。人間を受け身的にする。人間をもっぱら消費者にする。1ヶ月の家庭の通信費を考えたら、驚くだろう。

冬の晴れ間は、雪国に住む私たちに取ったはありがたいが、表日本に住む者にとっては当たり前かもしれない。
10cmぐらいの雪は私たちには当たり前だが、都会人にとっては、大騒ぎだろう。

新幹線から(家内撮影)

 

 

 

 

 
 

余興万歳

12 1月

どうせやるなら楽しく 地域や団体でいろんな会合があるが、時々それらの新年会や文化祭などに余興をすることがある。そんなとき、もしも私が所属している団体なら、なるべく楽しくやりたいと思う。

いやいややってお茶を濁すか、それとも真剣にやってうけるか、どちらを取っても、短時間の出来事だ。しかし私はどうせやるなら、真剣にやる方を取る。

 終わった後の満足感があり、みんなの喜ぶ顔があり、何よりも「またやりたい」と次に対する意気込みが違うからだ。そんなわけで今日も役員でもないのに猪瀨地区の余興の指導を引き受ける羽目になった。過去にも何度かはやっているが。

 遡ると、青年団時代からいろんな活動をやってきた。個人的なバンド活動のみならず、イベントも自分たちで作ったりして。

余興と郷土芸能 時には余興と郷土芸能の区別が付かなくなるときもある。でも、私の考えは、郷土芸能は余興になるが、余興は郷土芸能になるとは限らない。

 そんなわけで、今年も、「盆踊り復活」のための活動や余興などにも真剣に取り組み、仲間と楽しく過ごしたい。コロナに負けないでいたいが、……。

 さしあたって来月の勝山市の『高齢者ふれあい祭り』を乗りきらなければならない。猪瀨地区の皆さんと楽しく、取り組みたいものだ。

平泉寺鍬踊り(踊りも鍬も手作り)
『片瀬豊年ばやし』の挿入芸(これは片瀬オリジナルで郷土芸能のつもり)
これは余興か(高齢者ふれあい祭り)
 
 

見ています あなたの姿 子や孫が

04 1月

証拠裁判主義とは
 『証拠裁判主義 とは、 事実認定 は 証拠 によって行われなければならないという 刑事訴訟法 上の原則をいう。 』とある。

 証拠がなければ有罪とは決めつけられないと言うことである。となると、その証拠をなかったことにするには、証拠物品を廃棄処分にするか、隠蔽すればよいと考える人が出てこないとは限らない。

 明らかに証拠がある場合には、それらを書き換えてしまう証拠改ざんを行う者が出ないとも限らない。それもできない場合には裁判官そのものにプレッシャーを与えるか、代えることを考える人がいるかもしれない。

本人が知っているはず
 本当はよくないことをしたかどうかは当の本人が知っているはずである。本人に倫理観がなければこのようなことは日常茶飯事に行われてしまうことになる。凡人ならば裁判所で徹底的に調べ上げられるだろう。

 もしも、こんなことが、国家の命運を左右する人たちがやっていたとしたら国民は不幸であろう。

道徳教育の必要性
 一頃盛んに道徳教育の必要性が国のおえら方から叫ばれていた。今の若者や子供たちの言動からそう考えたのだろうか?しかし、最もそれが必要なのはそれを言い張る人たちではなかろうか。

 国会で見え透いた嘘をつき通す人たちを見ていると、これは私たち一般国民の側にその責任の一端があると思わなければならない。そうした人たちを選んだのは紛れもなく私たちなのだから。

 若者たちは大人の姿を見て育つのだと言うことを忘れてはならないと思う今日この頃である。

 
 

毎日パワー

03 1月

一日はわずかでも
 『継続は力なり』、『点滴岩を穿つ』,『ちりも積もれば山となる』、『千里の道も一歩から』……小さなことでも続けていけば、いつか大きなことが成し遂げられるということなど、日々の努力の大切さ,特に継続することの大切さを説いた言葉はたくさんあろう。

 私は、子供たちには、これらの言葉ではなしに『毎日パワー』といって継続することや日々の努力の大切さを伝えている。正月には野球をやっている孫も自分の目標に『毎日パワーで何々をがんばりたい』と言ってくれた。

時間をかけて物事をやる大切さ
 他人に言うまでもなく、『毎日パワー』の大切さを自分が一番自覚している。毎日やることはとても大変だが、習慣化するとさほど苦にはならない。少しでもやったらその日はやめてもいいのである。明日があるからである。

 30年がかりで一冊の絵入り本を作った。3年がかりで『アメリカの高校生』なる本を作ったこともある。これは全く同じものを自費出版で一回、東京の出版社で2回(一回は文庫本サイズ)作ることができた。

 毎年2~3ヶ月ほどかけて日曜大工にも取り組んできた。今年は何を作るか楽しみでもある。小さなことでは「ラジオ体操第1と2、スクワット」、「新聞小説の切り抜き(数年間、新聞が紛失したときには販売店で購入、1部100円)」、「日記」と「ブログ」、「プログラミングの漫画と数学の漫画(これはほぼ毎日)」……。

孫たちとコラボ
 おかげ楽器練習は時々になってしまっている。歌作りもできずにいる。アニメ作りも中断している。そんな中でなんとか孫たちとのコラボでダンス入りのポップスだけは作りたいと思っている。

毎日パワーから生まれた冊子
 
 

健康第一~人体の不思議~

02 1月

健康維持も大切な仕事
 身体って不思議だ。NHKの「ためしてガッテン」を録画しておいて、自分の関心のある番組だけ見ることにしている。雑誌「ためしてガッテン」も購読している。そんな中で、そういうものかと感心することがある。

 例えば、前屈だ。歳を取ると身体が硬くなるのか、前へ屈んでも指先がやっと床に着くぐらいだ。ところが、ゴルフボール(私はゴルフをやらない)を足の裏で短時間グリグリさせると楽々と指先が床に着く。筋膜が緩むからだ。

 また、握力を鍛えるのに、スクワットがいいという。全く無関係の場所を鍛えることによって握力が強化されるらしい。脳が関係しているそうだ。ちなみに私は毎日、ラジオ体操第一・第二のほかスクワットをしている。

 ある程度の年齢になったら、田畑で働いたり、仕事をするのも大切だが、もっと大切なことは、自分の健康を維持することではなかろうか。健康維持のためのレクリエージョンも高齢者にとっては大切な仕事だ。健康でなければ周りに迷惑をかけるだろうし、自分のやりたいこともできなくなるからである。

自分の身体を自分で破壊
 あるとき、テレビ「驚異の小宇宙人体」なる番組を見ていたら、若いうちは、自分の身体を守るためにある細胞が育てられる(番組では学校と説明されていた)そうだ。

 しかし、まもなく、学校は閉鎖されるという。そして、歳をとると自分で自分の細胞を痛めつけるのだという。そんな馬鹿なと思ったが、それが老化だと聞いて少し納得した。老化は人体に埋め込まれた時限装置だろうか。

 私の予想では、将来、誰かが遺伝子を操作して学校を再開し、この時限装置を除去し、老化のメカニズムを破壊して長寿を実現できるようにするのではないかと思ってしまう。

盆踊りは健康づくり(頭と身体)とまちづくりにつながると信じて……。(勝山ふるさと祭り)
 
 

ブログ再開

01 1月

日記とブログ
 2008年4月1日~2010年3月31日(この2年間、毎日日記を書く)
 2010年4月1日~2015年3月31日(この5年間、毎日ブログを書く)
 2015年4月1日~2022年1月1日(この7年間、毎日日記を書いている)
 2022年1月1日よりブログ再開

少しなれてきた無職生活
 日々作業をしながら、パソコンを動かしながら、テレビやビデオ、YOUTUBE、ラジオなどの主に音声を聞いいている。あるときは、感動したり、あるときは腹が立ったり、悲しくなったりと気分はいろいろ変わる。

 そんなとき、その思いをブログに書いて誰かと共有できたらと思う。私は山や谷間に向かって叫んでいるようなもので、こだまが返ってくることを期待している。

今年の目標 
 とにかくつくること。家庭菜園で野菜を作ること。ただしこれはどちらかというと、主と言うよりも、従である。私は、畑を耕したり、支柱を立てたり、鳥獣害を防ぐために網を張ったりすることが主な仕事である。ただ、村伝統の生姜作りだけは、栽培、収穫、種の保存まで研究しながら(少しオーバーか)取り組んでいる。

 日曜大工でものを作ること。3年前は車庫に物置部屋、2年前は旧宅の仏壇跡に床の間、そして座敷の床の張り替え、そして昨年は組み立て式の雪囲い(5カ所)作りと防草を兼ねた庭造りとそれぞれ2~3ヶ月間取り組んできた。今年も、日曜大工にがんばりたいと思う。

 創作活動。プログラミングの漫画を描くこと、数学の漫画を描くこと、紙芝居を作ること、簡易アニメを作ること、童話も作りたい。そして福井と横浜の孫と私とでダンス入りの楽曲を作れたらと思っている。孫たちとのコラボができたらと思っている。

 今年も、健康に気をつけながら、こうした活動に時間を費やすことができたらと思う。傘寿目前。一番の難題は、体力が持つかである。

早くこの絵を動かしたい。絵も曲もできているが時間が……

 
 

30年がかりでようやく完成!  『じいじ達の子供時代』

05 5月

『お父さん達の子供時代』がいつの間にか 私は、戦後の「もの」の少ない時期に子供時代を送った。そんな子供時代のあれこれを子供達に伝えたいと思うようになった。   そこで、今から三十年あまり前に我が子達に向けて『お父さんの子供時代』として自分達の子供時代のことを少しずつ書き始めたが、当時はあまりにも忙しく、やらなければならないことがたくさんあって長い間中断していた。 そのうちに子供達は大きくなってしまった。

ようやく完成した『じいじ達の子供時代』の上巻下巻が完成した。

『じいじ達の子供時代』に変更  退職後、少し時間ができたので、今度は『じいじ達の子供時代』として冊子作りを再開した。本格的に取り組み始めたのはここ4、5年のことである。
 ここに書いた事柄は、私の個人的な記録というのではなく、私の集落の人なら誰もが経験したことを中心に書いたつもりである。

学校生活より

孫や周囲の人たちと話すきっかけに 文章は、長々と説明するよりも字数を少なくした方が読みやすいのではと考え、七五調(詩というよりも定型文)にしたが、結果的には字数に制限があるために、自分の言いたいことを表現するのにはとても苦労した。
   そのため、全ての項目に挿し絵(一部当時の写真)を入れることにした。挿絵や写真を見ることによって昔のことを鮮明に思い出していただいたり、周囲の人たちに話すときに役立てていただけるのではないかと考えたからである。

孫や周囲の人たちと話すしきっかけけに  あれこれ書いているうちに、項目が増え、一冊には納めきれなくなり、上巻、下巻に分割しなければならなくなってしまった。  最初は子供を対象にと思っていたが、今はやはり同世代あるいはそれ以上の人たちに先ず読んでいただきたいと思っている。そして、各々自分の経験を加えて、次の世代に語っていただければと思う。

様々な遊び

脳トレを考慮して文章は7七五調に  また、文章は、長々と説明するよりも字数を少なくした方が読みやすいのではと考え、七五調(詩というよりも定型文)にしたが、結果的には字数に制限があるために、自分の言いたいことを表現するのにはとても苦労した。しかし、リズムに乗って読んでいただければ脳のトレーニングになるのではないかと思っている。  

女の子たちの遊び
食べ亜tべ物の思い出

ようやく完成  『じいじたちの子供時代』の上巻を出してから2年ほどの歳月が流れた。この間、書店や個人の方々から「下巻はまだか?」との催促の電話をいただいた。原稿はできていたが、あれこれ手直しをしているうちに時間がかかってしまった。そして今日5月5日にようやく下巻を出すことができた。

五日に

⑤月

の最速の『』ss樹夫館を

 
 

2019『勝山ふるさと祭』ふるさとステージ 野良打ち

02 9月

  祭りはやはり太鼓だ。それも大がかりな団体打ちではなく、どこの神社でも気軽に太鼓を楽しむことのできる野良打ちだ。
  たまたまその場に居合わせたものが即興で打ち合う野良打ちだ。太鼓一つあればそれでいい。昔はどこの神社でも盛んに太鼓の音を聞くことができた。今は皆無である。何とか、準備の入らない野良打ちを復活させたい。
  今年も越前野良打ち衆の野尻さん達が駆けつけて下さった。少しずつ盛り上げていきたいと思う。
   今年は声をかけて置いた勝山高校の生徒諸君も数名参加してくれた。見知らぬ人とバチを交える楽しさを味わってほしいと願う。

 

世の中に太鼓好きはいるものだ。もっともっと増やして各地区の神社の祭りを盛り上げたいと思う。