RSS
 

Archive for 2月 1st, 2013

横綱“千代ノ山”

01 2月

勝山ゆかりの横綱
  今日も、昨日ほどではなかったが、晴れていたので、家内と二人で勝山駅まで車で行き、そこから二人でウオーキングをすると決めた。そして、先ずは九頭竜川の対岸を遅羽公民館に向かって歩き始めた。

遅羽公民館に展示されている横綱「千代の山」の“横綱”。懐かしかった。

  遅羽公民館の職員は全員よく知っているので、家内と二人で立ち寄った。そして玄関へ入るとなんと、「横綱」が展示だれているではないか。勝山ゆかりの横綱「千代ノ山」のものだ。彼の奥さんが勝山市の I 家のお孫さんだったのだ。

  二人の出会いを作ったのは、これまた有名な「力道山」だったというのだ。私の子供時代から、「千代ノ山」は勝山市では人気があり、巡業で勝山を訪れた際には、「東方、勝山市出身、横綱・千代ノ山」」と場内アナウンスがあったように記憶している。

  そんなわけで、千代の山が勝山を訪問した写真がたくさん展示されていた。「千代ノ山」と言えば、同じく横綱の「栃錦」や「鏡里」などと並んで、とても有名な人気力士だった。

・・・・・・・・・・  ネットより「千代ノ山」の略歴・・・・・・・・・・

1926年・・・・・北海道松前郡福島町生まれ。
1942年・・・・・出羽海部屋へ入門。

土俵入りに向かう横綱千代の山。神明神社の会場は大歓声であふれかえり、一段と盛り上がった。(写真提供:勝山朝日印刷)

1945年・・・・・11月場所、新入幕で10戦全勝(横綱の羽黒山も10戦全勝だった。決定戦をせず、上位優勝制度でならず。)
1949年・・・・・10月場所、大関へ昇進。
1951年・・・・・5月場所、横綱昇進(14勝1敗で優勝)
1953年・・・・・1月場所、3月場所、連続途中休場(成績不振により自ら横綱を申し出たが協会はこれを認めず。)
1955年・・・・・1月場所、3月場所、連続優勝。
1957年・・・・・1月場所、全勝優勝。
1959年・・・・1月場所限りで引退。「九重」を襲名。

  得意技は「突っ張り」。その威力は「45日」と言われて相手に恐れられていた。相手を「一突き半」で土俵の外へ突き出したという。「一突き半」つまり「一月半」=「45日」というわけだ。

 引退後、「出羽海部屋」の師匠の「常ノ花(元横綱)」は、「九重(千代ノ山)」に名門「出羽海部屋」を継がせたかったが、「武蔵川(出羽ノ花:最高位前頭筆頭。しかし、その後相撲協会理事長になる。)」が後を継いだ。そして、次こそ「九重(千代ノ山)」と誰もが思ったが、実際には、同親方の娘婿になった「佐田の山」が跡を継ぐことになった。

横綱「千代ノ山」の土俵入り。観客の数がすごい。(於:勝山市神明神社)

  完全に、「出羽海部屋」を継承することができなくなった「九重(千代ノ山)」は、常陸山以来、分家も独立も許さない「出羽海部屋」の厳しい方針に悩みながら、独立を申し出ると、弟子もろともに「出羽海部屋」から破門された。

  その結果、弟子13名中10名までを連れて、髙砂一門へ身を寄せた。結果的には、独立したことになる。当時としては、異例の処置であった。相撲協会からは破門されなかったので、その後、有名力士が育つ基礎ができたと言えなくもない。

  独立後最初の場所だった1967年3月場所には、弟子の大関「北の富士」が初優勝を挙げたほか、十両でも弟子の「松前山」が優勝した。その後は「北の富士」を横綱に、独立時の弟子から「北瀬海」を関脇に育てあげた。

  特筆すべきは。出身地も卒業した小学校も同じである、後の大横綱「千代の富士」をスカウトしたことだろう。また、1976年には協会の役員待遇に昇格した。

  独立・破門時に委員への降格を余儀なくされたが、昇格は理事長として2期目を迎えたかつての稽古相手「春日野(横綱栃錦)」の温情によるものだと言われている。

  残念だったのは、「千代の富士」を幕内力士までは育て上げたが、この頃から急激に体調を崩し、入院後、「千代の富士」の新三役昇進を見ることなく1977年51歳でなくなった。

  「九重(千代ノ山)」の死後、「九重部屋」は独立し、「北の富士」が継承した。1981年1月場所後、「千代の富士」が大関昇進、同年7月場所後に横綱昇進を果たす。

横綱「千代ノ山」の土俵入りを見つめる大観衆。(於:勝山市神明神社)

  なお大関・横綱昇進伝達式の際、通常は力士本人と師匠夫妻が揃って出席するが、「千代の富士」の場合は「九重親方(元北の富士)」の配慮により、「千代の山」の未亡人が「北の富士」と共に同席していた。(これはいい話)。

 現在、「千代ノ山」と「千代の富士」の偉業は、二人の故郷である北海道福島町の「横綱千代ノ山・千代の富士記念館」で見ることができる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  私の子供の頃から、「千代ノ山」は勝山では有名人だった。当時は、出羽一問として、横綱「千代ノ山」と「栃錦」は巡業で何度か勝山へやって来た。私もよくそれを見に行ったものだ。

  そして、「千代ノ山」は、勝山市で私の1年先輩のMさんをスカウトした。Mさんは、「千代旭」の四股名で土俵へ上がり、幕下優勝を果たしたが、その後、廃業。いろいろ思いでのある横綱だった。綱を見ていろんなことが蘇ってきた。

(日記 午前中、区の会計事務処理。午後2時より家内と二人で九頭竜川の対岸(左岸)をウオーキング。途中で、遅羽公民館へ

散歩の途中で「はい、チーズ!」。九頭竜川の橋の上から我が村の背後にある大師山が望める。

立ち寄ると、そこには「横綱・千代ノ山」の「綱」が何枚かの写真と共に、展示されていた。勝山ゆかりの横綱だ。その後、橋を渡って右岸を通り、出発点の勝山駅へ戻った。だいたい8,000歩のコースだった。帰宅して、久々に紙芝居の絵を描く。楽しかった。)