想定の甘さに反省を
近年、世界的に自然災害が頻発している。そのたびに、多くの人が犠牲になっている。大変嘆かわしいことである。災害に対する備えが実際に即しているかどうかをもっともっと検証しなければならないと思う。
こんなとき、専門家と言われる学者の言も怪しい場合が少なくない。例えばゲリラ豪雨が起こった場合には、どのようなことが起こるのだろうか。想定の甘さが毎回指摘されている。
例えば、災害が起こった場合の緊急連絡網1つを取り上げてみても、近年問題が少なくない。先ず、電話での連絡網はほとんど機能しなかった。それは、災害が起こったとき、電話の受け手が避難せずに電話の前で待っていることなどあり得ないからだ。
それなら、携帯電話はどうか。緊急時にはことごとく通話不能になった。また、携帯電話を持っていない高齢者も少なくない。公的機関の者が広報車を出そうにも、道路は寸断されている場合が多かった。
そんな理由から、各地で防災無線を利用し、スピーカーから直接住民に連絡する方法をとる自治体が少なくない。しかし、最近の豪雨では、雨や川の音にかき消されて全く聞こえなかったそうである。その結果、避難ができずに犠牲になった者も少なくない。
ゲリラ豪雨では、何が起こるのか、もっともっと想像を巡らせて対応市ないと、毎回「想定外」ということになってしまう。晴れた日の避難訓練を、本当のゲリラ豪雨に生かすためには、もっともっと考え直さなければならないように思う。
放射能の安全性を簡単に話す“専門家”がいるが、30年後、50年後にどのような結果を招くのか、簡単に言えるのだろうか。原発再開を一番最初に述べた知事や町長が、やらせに関係していたり、身内が原発関係の仕事に携わっていたのにはあきれる。
私たちは、もっともっとあらゆる場合を想定し、形式的ではなく、実際に起こるであろうことを十分考え、災害に対処する方法を考えなければ、この災害の多い国では生きていけないのではないかと思われる。
地震に対する対処の仕方に対しても、専門家だけに任せていては、「想定外」で片付けられてしまいそうである。避難の方法を考える場合でも、専門家だけではなく、一般人も加わって実際的な避難方法を考える必要がありそうだ。
(日記 午前中、「押し切り」を買いにホームセンターへ行く。帰宅して、田んぼを耕し、水菜とエンドウと一寸ソラマメを植える場所を作った。午後7時半より和太鼓の練習。本番が近いので週2回に増やした。また、今日から長女も和太鼓グループに加わることになった。そのため、福井から孫を連れて帰ってきた。)