RSS
 

Archive for 10月, 2011

昨今の自然災害から学ぶこと

21 10月

想定の甘さに反省を
   近年、世界的に自然災害が頻発している。そのたびに、多くの人が犠牲になっている。大変嘆かわしいことである。災害に対する備えが実際に即しているかどうかをもっともっと検証しなければならないと思う。

   こんなとき、専門家と言われる学者の言も怪しい場合が少なくない。例えばゲリラ豪雨が起こった場合には、どのようなことが起こるのだろうか。想定の甘さが毎回指摘されている。

  例えば、災害が起こった場合の緊急連絡網1つを取り上げてみても、近年問題が少なくない。先ず、電話での連絡網はほとんど機能しなかった。それは、災害が起こったとき、電話の受け手が避難せずに電話の前で待っていることなどあり得ないからだ。

  それなら、携帯電話はどうか。緊急時にはことごとく通話不能になった。また、携帯電話を持っていない高齢者も少なくない。公的機関の者が広報車を出そうにも、道路は寸断されている場合が多かった。

  そんな理由から、各地で防災無線を利用し、スピーカーから直接住民に連絡する方法をとる自治体が少なくない。しかし、最近の豪雨では、雨や川の音にかき消されて全く聞こえなかったそうである。その結果、避難ができずに犠牲になった者も少なくない。

  ゲリラ豪雨では、何が起こるのか、もっともっと想像を巡らせて対応市ないと、毎回「想定外」ということになってしまう。晴れた日の避難訓練を、本当のゲリラ豪雨に生かすためには、もっともっと考え直さなければならないように思う。

  放射能の安全性を簡単に話す“専門家”がいるが、30年後、50年後にどのような結果を招くのか、簡単に言えるのだろうか。原発再開を一番最初に述べた知事や町長が、やらせに関係していたり、身内が原発関係の仕事に携わっていたのにはあきれる。

  私たちは、もっともっとあらゆる場合を想定し、形式的ではなく、実際に起こるであろうことを十分考え、災害に対処する方法を考えなければ、この災害の多い国では生きていけないのではないかと思われる。

  地震に対する対処の仕方に対しても、専門家だけに任せていては、「想定外」で片付けられてしまいそうである。避難の方法を考える場合でも、専門家だけではなく、一般人も加わって実際的な避難方法を考える必要がありそうだ。

(日記 午前中、「押し切り」を買いにホームセンターへ行く。帰宅して、田んぼを耕し、水菜とエンドウと一寸ソラマメを植える場所を作った。午後7時半より和太鼓の練習。本番が近いので週2回に増やした。また、今日から長女も和太鼓グループに加わることになった。そのため、福井から孫を連れて帰ってきた。)

 
 

里芋作りに初挑戦した年

20 10月

里芋はわが村の特産物
   週末にお寺へ供出するための里芋掘りを行った。村内の檀家は、毎年肥料袋(20kg入り)に一杯ずつ里芋を寺に納めることにしている。それが今週末なので、晴れているうちにと思って今日里芋掘りを行った。

里芋掘りは、先ずスコップで芋全体を掘り起こすことから始める。

  昨年まで、我が家は里芋を作ってこなかったので、代わりにお金で済ませていたのだ。今年は、堂々と自分で作った里芋を納めることができる。よかったと思っている。親がなくなってから初めてのことである。

   また、今年私が里芋作りを始めたのは、『芋と生姜と旨い米』が我が村の特産物であることと、個人的には、これらの作物を多くの人に知っていただき、できれば村の活性化につながればと思うからである。

   私は、自称『農事組合法人かたせ』の宣伝部長であると思っている。今後、新作郷土芸能『片瀬豊年ばやし』を通して、これらの作物を宣伝したいと思っている。この『片瀬豊年ばやし』は、法人のコマーシャルソングであり、地域の活性化を担った郷土芸能であるともいえる。

親芋から小芋をはずしている家内。

   今日は、お寺への供出分、友達に送る分、そして自家用の分の里芋を掘り取った。今年は思う存分里芋を食べることができる。ありがたいことだ。

   普通、里芋は、中心にある親芋は食べないで、その小芋を収穫して食べるのである。親芋を食べるのは、「八つ頭」である。この芋は、小芋がほとんどできないのである。そう親からも教わってきたのだある。

   収穫を終えた里芋畑を見ると、親芋が捨ててあるのである。私は、“もったいない世代”である。私は、親芋を持ち帰って家内に煮てもらって食べた。ところがとても美味しいのである。親芋を食べる「八つ頭」に決して負けない味である。

   みんな、先祖から教わったとおりに、親芋を食べないだけではなかろうか。誰に聞いても食べないという。家内の実家に聞いてもそうである。今日も、その親芋を食べてみた。美味しくて、お替りしたくなる味だった。

芋についている根などを取り除いている家内。

(日記 午前中、幼児のための紙芝居作り。午後は、先ず里芋ほり。続いて、トマト畑の後始末をして“勝山水菜”を植える場所を作った。苗は、村のNさんからいただくことになっている。法人から借りた畝の「にんにく」は順調に育ち、青々とした芽を出していた。)

 
 

愛着

19 10月

廃棄か買うか
   約50年前に購入したハワイアンギターの第6弦が切れてしまった。よりによって、静岡でのOB会の演奏会の2時間ほど前のできごとだった。弦を張り替えているうちに、弦を巻く金具までが壊れて修繕不能となってしまった。

   当日は、第6弦を使わずに演奏会に臨んだ。不幸中の幸いで第6弦は、メロデーを弾くときには使わなかったので、実害は少なかった。コード(和音)をならすときには、不都合だったが。

   静岡では、「もう新しいハワイアンギターを買うしかないない」と思っていたが、帰宅してからインターネットなどで調べてみると、安物はあるがどんな音がするか分からない。

  そこで、今日、済生会病院へ定期検診に行くついでに、福井の楽器屋へ壊れたハワイアンギターを持って行った。そして、直るかどうかを確かめてもらうつもりで出かけた。楽器屋の店員が言うには、「一度やってみましょう」と言うことになった。

50前に購入した私のハワイアンギターは、数日前まで現役だった。

  経済的なことよりも、自分と青春時代を共に過ごしたこの50年前のハワイアンギターを廃棄するのは忍びなかった。完全に修繕不能だったら、あきらめもつくが、それを確かめないで、廃棄はできないと考え直した。

  6弦の内、5弦は健在なのだから、何とか直して使いたい。“古いから捨てる”ではなく、使えるなら使い切ろうという考えだ。済生会で週刊誌を買って読んでいると、『男の老前整理入門』という記事があった。

   『老前整理』とは、「定年」「還暦」までに考えておきたい「第2の人生」を豊かにするための儀式ということだ。確かにいらないものはたくさんあ離整理しなければならないが、使えるものは残して置いて最後まで使いたい。ハワイアンギターはまだ使えると信じている。

   私の壊れたハワイアンギターは、まさに自分自身であるような気がする。青春時代を共にしただけではなく、今また何かの役に立とうとしている。しかし、一部が壊れてしまった。ちょうど私が病気になったように。

  私の場合は、何度か病気で入院したが、壊れた私のハワイアンギターも、今楽器店に預けてある(入院している)。再び元気になることを祈りたい。そして、この楽器で周囲の人たちにきれいな音色を届けたい。

(日記 午前中、紙芝居作り。その後、済生会病院へ定期検診に行くため、早めに福井へ向かった。そして、壊れたハワイアンギターを修繕のため、楽器店へ持ち込んだ。その後、済生会で血液検査、しばらくして診察。少し数値が改善してよかった。帰宅してから、紙芝居作りを継続。途中で資料収集のため市立図書館へ行く。)

 
 

久々の「組合」の農作業

18 10月

農作業にもいろいろある
   朝、「農事組合法人かたせ」理事長のNさんから、電話がかかってきた。「時間があったら里芋に糠をかけて土をする作業に出てもらえんやろうか」というものだった。

  「午前中は用事があるけど午後だけなら」ということで引き受けた。午前中は、他の者が、法人の農舎から糠を運び、法人が里芋を植える場所に糠をかけたのだ。

  午後は、鍬を使って畝の両側から土を寄せて畝をかまぼこ形にするのだ。来年の秋に、里芋を収穫するとき、土離れがよいからだ。しかし、鍬を使う作業は、最近の農作業では、重労働の部類に入る。一番疲れる作業だ。

   まさに肉体労働だ。午後は、8人で作業をした。全員が、60歳代だ。時間が経つにつれて、腕力や握力がなくなっていく。鍛えられていると言ってもいいかもしれないが。

大師山や越前大仏が見える田んぼで里芋の土をする(来年植える場所の準備作業)。しばらく作業を続けると腕力と握力がなくなる。

   昨年の春、退職してから、ずいぶん腕は鍛えられたように思う。それまでは、文字を書くか、パソコンのキーを打つぐらいだったのが、今は、鍬やスコップ等を使うことが多くなったからだ。

   「農作業をさせられて疲れる」と考えるか、「手間賃をいただきながら、身体を鍛えることが出来る」と考えるかだ。自分一人では、これだけ腕に負荷のかかる運動はしないだろう。身体を鍛えるチャンスを与えられたと考えたい。

   里芋の土をする作業の後、収穫直前の里芋のマルチを留めているプラスチックの杭抜きを行った。単純作業だが、これは本当に腰が痛くなった。今晩は、腰にサロンパスを貼らなければ寝られないだろう。

   こうした地道な作業によって、「片瀬の里芋」は守られているのだ。テレビでは、上庄の里芋に関するニュースが放映されていた。私自身は、こちらがルーツだと言いたかった。

(日記 午前中、猪野瀬公民館祭に家内が属する“さわらび会(食生活改善員)”が踊りを発表するが、その振り付けを考えていた。このさわらび会のお陰で、私の作った新民謡『勝山よいとこ』が今でも市内で歌い踊られているのだ。午後は、「農事組合法

今日入った新型の除雪機。今年は、家の周囲や事務所の駐車場の除雪作業は楽になるだろう。

人かたせ」の来年の里芋植え付けの準備作業に出た。腕が疲れ、腰が痛くなった。しかし、鍛えられたと考えてもよだろう。帰宅する戸、今年買う予定だった「除雪機」が来ていた。中型機では上級の部に入る除雪機で、かなり高価だが、腕力だけでは、除雪できないだろうと思って買うことにしたものだ。ただ、屋根の雪だけはどうしようもないだろう。人力で雪下ろしをするしかない。)

 
 

3歳以下の幼児に通じるか!?

17 10月

幼児に向けて紙芝居作り
   オカリナ仲間の勧めで「子育てマイスター」になった。特別私が子育てに優れていたわけではないが、教員時代には、中学生、高校生をよく見てきたし、市教委に入ってからは、幼児や小学生の様子も見てきた。

   三人の子どもを育て、今、四人の孫とも接することがある。そんなわけで、これらの経験を元に、何か一つでも、幼児やその保護者にメッセージを送ることが出来たらと思っている。

   10月29日に開かれる『子育て支援センターまつり』に、何か発表するように依頼された。保護者には短時間に何かメッセージを送れればと思っているが、これは何とかなりそうだ。

   しかし、問題は、1・2・3歳児に対して何ができるかだ。これまで、他の「子育てマイスター」の活動に協力したことがあるので、幼児の状況はよく分かっているつもりだ。

   しかし、元高校野数学教員にはかなり難しい課題だ。最初から考えていたことだが、家内の応援を頼むつもりでいる。こんな時役立つのは、元漫画家志望だったのっで少しは絵を描くことができるというところだろうか。

  今日は早速、紙芝居に使う絵を描き始めた。ただ、紙芝居をやっただけでは、幼児には理解してもらえないだろう。どうしたら、幼児達を夢中にすることができるかだ。

  幸い、私には、小学生の孫もいるが、今度の支援センターまつりの対象となる三歳の孫が二人(男・女)、当日は2歳になっている孫(男)がいるので、何に興味を示すかはだいたい検討がついていることが救いか。

  紙芝居に対しては、一つだけ秘密兵器がある。軽音楽同好会OBのNさんが発明した特殊楽器だ。これを上手く使えるかどうかで、紙芝居のできはかなりかわる。鵜甘く使えるかどうか、自信がないが幼児達を夢中にさせてみたいものだ。

  紙芝居の他は、手遊びや歌などで、私はアコーデオン、家内が楽器を使うことになる。そして、最後に、簡単なメッセージを保護者に向けて発信できればと思っている。

  相手が、幼児とその保護者なので、不安はあるが、期待もある。やるからには一生懸命取り組みたいものだ。ここ数日は、準備物を作るために忙しくなりそうだ。来年に向けて、タマネギや水菜も植えなければならないしまだまだ慌ただしい日が続きそうだ。

北部中学校3年生の後期の選択音楽『和太鼓』の授業。どの子も熱心に取り組んでくれた。

(日記 午前中、紙芝居の下絵描き。午後11時30分より北部中学校で、後期の選択授業『和太鼓』が始まった。人数は前回と同じ男女それぞれ7人の14人だ。前期からの継続は、男子が1人、女子は5人だ。どの生徒も意欲的に見えた。早速、前期とは異なる曲の練習を始めた。帰宅後、続けて、紙芝居の絵を描いた。午後7時半より、オカリナ教室。今日は、村岡町の文化祭で演奏する曲を中心に練習した。いつものように、最後にお茶を飲んで解散した。)

 
 

「総踊り」で盛り上がる“平泉寺町民運会”

16 10月

小学校も全面協力
   今日は市内で町民運動会が開かれている。私は軽音のOB会に出席したので浜松にいたが、午前中の観光を止めて帰宅すると決めた。午前5時過ぎに起床。先ずは温泉に入り、荷物を車に積み込んでから、午前6時半に食堂へ。

「総踊り」の前のに全体練習。

  食後ホテルを出て一路勝山へ。白鳥経由で午前11時過ぎに猪野瀬町民運動会の会場へ到着。雨が降りそうだというので南部中学校の体育館で行われていた。会場はかなり狭く、座る場所も非常に狭かった。

   昼食時に、予てから依頼されていた平泉寺町民運動会の総踊りを応援するために、平泉寺へ向かった。総踊りの時間は、午後12時半から30分間だ。体協や壮年会が中心になっての企画だという。

   「最初に簡単に指導してから始めて下さい」と体協会長のSさんから依頼された。小学生は先週すでに指導してあり、その後学校でも練習しているので、指導日に出張で不在だった校長先生もすでに踊れるという。先生方の協力もあった。

中心になって踊ってくれた小学生の皆さん。

  中学生や子どもの保護者、そして地区の年配の方々は、踊れない人が多そうだったので、Sさんのおっしゃるように、マイクを持って簡単に指導してから総踊りを始めた。皆さんが協力的に踊って下さった。続いて、子ども達のためにとリズミカルな「氷川のきよしの“ときめきのルンバ”」を指導した。

 30分の総踊りの時間では2曲が限度だった。練習後にそれぞれ1回CDに合わせて踊り、最後に、練習したそれぞれの曲を1回踊って、総踊りは終わった。子どもからお年寄りまで、男女を問わず一つの輪になって踊ることが出来た。

  他に、地域のイベントでこのように老若男女が一緒に一つのことを出来る機会はあるだろうか。出来ることはほとんどないであろう。「たかが盆踊り、されど盆踊り」であろう。 

今日初めて踊る中学生の皆さん。

   すごいなあと思ったことは、体協や関係者の一部の方が浴衣を着て踊って下さったことだ。地域作りの第一歩を踏み出したという感じがした。こうした地道な取り組みが、次への新たな取り組みに発展していくのではなかろうか。地域活性化に向かって。

  まちづくりには、それらを引っ張るリーダーが必要である。これまで約半年間の取り組みを見ていると、平泉寺町の体協や壮年会の方々、一部の婦人会の方々、館長以下平泉寺公民館の職員の皆さん、そして、校長以下平泉寺小学校の児童と教職員の皆さん、これらの方々の努力が実を結んだと思っている。

   自分の地域を考えるとうらやましい気もする。平泉寺の皆さんのこれからのますますの発展を祈りながら、平泉寺小学校を後にして南部中学校へ戻った。改めて、“事を成すのは人である”と思った。こうした人たちがいる限り地域は発展していくであろう。

全体を引っ張った体協会長のSさん。後ろは、一緒に踊って下さった校長先生。

きをして競技に参加した。その後、村の集会所で行われた反省会にも参加した。

(日記 浜松より車で自宅へ帰り猪野瀬町民運動会に参加。昼食時に、平泉寺町民運動会で「総踊り」の支援。再び南部中学校へ戻り競技に参加。慌ただしい一日だったが、充実していた。)

浴衣で踊る体協のTさん(左)、踊り指導の助手を務めてくれた 平泉寺小のI 先生(中)、そして私(右)。

浴衣姿で「総踊り」を盛り上げた体協のみなさん。

グランドに広がる大きな踊りの輪。平泉寺町の皆さんの協力の輪でもある。

 

                      【写真提供は平泉寺公民館主事 K氏】

 
 

福井大学軽音楽部創部50周年記念OB大会in浜松

15 10月

懐かしき先輩との再会
昭和37年福井大学軽音楽同好会が発足。私は当時1年生。それから、アルバイトとバンドに明け 

トップバッターで登場した東京バンド。東京在住の者で作ったバンドだ。年齢幅も広い。

 

ロックでドラム担当。曲が速くて困った。

 

暮れる毎日。金などなかったが、アルバイトをすればどうにかなる時代でもあった。 

範男、ジャズでキーボード。

 

先輩から譲り受けた家庭教師のアルバイト。競輪のアルバイト。暮れにはケーキ屋でケーキ作り。土工。坂井繊維テトロン工場にはある休みは毎日夜勤。 

全員で記念写真(家内も一緒に写っている)。

 

その金でギターやステールギターを買った。先輩のSさんのステールギターにあこがれていたのと和田弘とマヒナスターズのステールギターにもあこがれていた。 

宴会で飛び入りで新式のコンガを叩く。今回気に入った打楽器だ。

 

レギュラーとしてはドラムであった。これは石原裕次郎にあこがれていたからだ。バンドではドラムが中心。そのときのリーダーは1年先輩のSさんであった。 

宴会でも活躍する浜松バンド。お世話になった中山さん夫妻のバンドだ。

 

今日、久しぶりにお会いした。とても懐かしかった。ステージでは往年のようにステールギターを弾いておられた。「いつまでもステールギターを続けてください。」とすすめた。 

私たちの目標になるからだ。例えば、80歳の人が頑張れば「自分もあの年齢まで頑張りたい」と目標にできる。逆に、自分も後輩達の目標になれるよういつでも夢を追いかけていたい。 

ステージでは、「関東バンド」、私たちの「福井バンド」、「奈良バンド」、個人が二人、そして「浜松バンド」が出演して午後1時半から5時過ぎまでOB会演奏会が行われた。 

私たちのバンドには、今日初めて参加した人が二人いた。“チームのできは練習時の7割程度”か。まだまだ練習しなければと思った。 

大学時代に買った愛用のステールギターが本番直前に壊れてしまった。不幸中の幸いで壊れたのは第6弦限だった。メロディーにはあまり影響のない弦だったからだ。しかし、あるに越したことはない。 

とにかく、ステージでの本番は終わった。多少不完全燃焼ではあった。でも、今始まったばかりだ。かえって闘志がわいてきた。無理のないようにこれからも楽しみながらチャレンジしたいと思う。 

音楽ずくめの宴会
午後6時半より宴会開始。宴会でもバンドあり、歌のコーナーあり。私は、自分の自作の演歌を前奏を短くし、歌は1番にし,数曲を画像入りでDVDにして流した。 

そして、最後の歌は、今回のOB会のために制作した『足羽川慕情』だった。これは、画像入りのカラオケを流し、家内に歌って貰った。参加した皆さんも、お世辞かもしれないが、喜んでくれた。 

私には、最後の挨拶が回ってきた。この宴会では、誰かが言い出したことだが、「第二の人生に音楽を」という合い言葉ができたようだ。 

私も最後の締めの挨拶では、少し話した後、「みなさん!第二の人生に」と言ってマイクを参加者に向けた。みんなは、一斉に「音楽を!」と答えてくれた。 

家内を同伴したが、自分ではこんなに楽しい思い出をしたことがないと思った。充実したOB会であった。来年以降も続くらしい。 

壊れたステーィルギターだが、「買うべきか、諦めるべきか、買うなら6弦か、8弦か」と、色々迷っている。家内も、キーボードで迷っているようだ。 

(日記 午前中は、福井大学軽音楽同好会OB会のリハーサル、午後は本番、夜は宴会と楽しい一日だった。)

 
2 Comments

Posted in 未分類

 

旧友とセッション

14 10月

浜名湖を見ながら楽しい語らい
明日は、いよいよ福井大学軽音楽同好会の創立50周年記念のOB会が浜名湖にある舘山寺温泉のホテルで行われるのだ。

中山夫妻とセッション。楽しかった。

そこで、我々夫婦は午前4時に起床し、外はまだ薄暗い午前5時半に自宅を出発。一路最寄りのインターのある東名高速自動車道の「三ヶ日インター」へ車で向かった。

湖畔のレストランで浜名湖を見ながらNさん夫妻と昼食。

そして、三ヶ日インターに最も近いPAで昔のバンド仲間のNさんに電話をした。ほどなくして、三ヶ日インターを下りて彼と出会った。そして、彼のリゾートマンションにお邪魔した。

最上階の14階にNさん夫妻は住んでおられるのだ。ベランダでコーヒーとケーキをいただきしばし歓談。その後、Nさん夫妻の演奏を聴かせていただいた。

ホテルの一室で明日の準備。5人部屋に2人で泊まるのだ。和室がついているのが嬉しい。浜名湖が一望できる。

Nさんはスティールギター、奥様はキーボードでハワイアンを演奏して下さった。家内は、奥様の演奏をじっと聞き入っていた。引き込まれているようだった。

軽快な曲に変わったので、私は思わず部屋の片隅にあったコンガ(と言っても、従来のものとはかなり小さい近代的なコンガだが音は抜群によい)で二人の演奏に加わった。楽しい。

昼になったので、昼食を取るために三ヶ日から舘山寺温泉街へ向かった。途中で、明日の演奏会場を下見した。そして、湖畔のデッキで湖を見ながら4人で昼食。

景色もいいし、話も楽しい。Nさんは、大学時代にいっしょにバンドをした仲間で私と同年生まれ。どことなく私に似たところのある人だ。ただし音楽の技術ははるかに彼の方が上。

至福の時を過ごすことができた。そして、私たちはNさん夫妻と別れて、舘山寺を見学、その後、ロープウェイで浜名湖が360°見渡せる小山に上った。そこで、オルゴールミュージアムを見学して今晩泊まるホテルへ。

Nさんのマンションと今晩泊まるホテルは車で5分ほどしか離れていない。「遊びに来ませんか」と誘われたが、今日はホテルで練習しなければならない曲があるのだ。

OB会のために、作った曲だが、明日披露することにしている。まだ完全に完成しているわけではない。ホテルで練習しなければならない。明日のサプライズにしたい。誰も知らないだろう。

やむなく、今晩の誘いは断った。そして、ホテルの部屋へ楽器を持ち込んで明日のバンドのための復習。その後、新曲の譜面作り。ホテルへ来ても忙しい。でも、いやではない。

昨日は睡眠4時間だったので、今日は7時間は眠りたい。明日のOB会はどのような会になるだろうか。大いに、楽しみである。

舘山寺ロープウェイで360°見渡せる山頂へ。湖に突き出た山頂にいるようだ。

(日記 午前4時起床。午前5時23分自宅出発。白鳥で東海北陸自動車道に乗り、東海環状線を経て豊田で東名高速に乗り、三ヶ日インターで高速を下りる。そこで、昔のバンド仲間であるNさん夫妻と再会。マンションへお邪魔し、その後、外でいっしょに昼食。そこでお二人と別れて、湖畔を観光してホテルへ。少しバンド練習。)

 
 

あと一日あれば

13 10月

春から分かっていたのに
   どうも、私は自分の性分で気に入らないところがある。それは、切羽詰まらないと物事を実行しないということだ。懇親会で「創作の歌を披露してくれ」と言われた。

   時間は10分ちょっとだ。素人の作ったCDを前奏から聞いているととても退屈だろうし、歌で何を訴えたいのかも分からないだろう。そこで、DVDを作ることにした。映像を入れ、歌詞を入れ、前奏はなるべく途中から入れ、歌は一番だけにする。

  こうすれば、10分ちょっとで、数曲は入るだろう。そう思って、一昨日からDVD作りを始めた。しかし、映像編集の技術がない。所々は分かるが、完全に初めから終わりまで出来る自信はない。

  そこで、一昨日、南小学校のS先生に弱いところだけを教えていただいた。しかし、いざ自分一人でやってみると新たな疑問が湧いてくる。授業中のS先生に聞くわけにもいかない。そこで、昨日は、市内の本屋へマニュアルを買いに行ったがない。福井の産業支援センターにもない。

娘の幸せを願って作った『越前祝い太鼓』に挿入した写真。娘が嫁ぐ日のものだ。面と向かって挨拶されるこちらもじーんと来る。

   さらに、足を伸ばして、福井の「100万ボルト」まで出かけた。そこには、自分のソフトより一つバージョンが上の物があった。仕方なくそれを買い、読んでみた。昨日の夜、今度はSさんが心配になって我が家へ来てくれた。

   今日は、朝6時から編集作業を初め、午後9時半過ぎに終わった。そして、最終コースのDVDへの書き出しを行った。今まで一度もうまくいったためしがない。DVDに焼く作業をしたまま風呂に入った。

   風呂から上がってみると、出来ているではないか。感謝感激!午後10時過ぎに完成。この調子ならもう少し映像編集を勉強してしっかりした作品を作り、YOUTUBEへアップできるかもしれない。それにしても、もう少し早く取りかかればよかった。

  いつもこうなってしまう。土壇場にならなければやらないという自分の悪い癖を直したい。そうしなければよい物は出来ない。分かっていながら、こうなる自分が情けない。これからはあと一日、早くできるように心がけたい。

(日記 朝早くから夜遅くまで椅子に座ったまま、軽音楽同好会OB会で発表するDVD作り。腰と肩と目が疲れた一日だった。でもまだ寝られない。明日の準備がある。)

 
 

高校出てから50年

12 10月

とうとうやってきた軽音楽同好会のOB会
  まだまだ日にちがあると思っているうちに、どんどん本番の近づいてきた。今度の、OB会はだべって飲んでいるというよりも、午後はみっちり演奏会だ。出演バンドは、関東、福井、奈良、浜松の4バンドと二人のソロプレイがあるのだ。

  夜の懇親会でも、二つのバンドと個人がピアノを演奏したりするので、なかなか賑やかだ。しかし、我々「福井バンドは、来る者は大歓迎」というスタンスを取っているので、メンバーがどんどん増えている。

   会場で初めて会う者もいるのだ。エレキと、ウクレレの二人とは一度も練習をしたことがないのだ。練習用のCDを渡したきりだ。残りの者は、練習だけはかなりしたが、年が年だけに、思うように手が動かない。

探していたら出てきた写真。中央Sさん(初代部長)、右が私(2代目部長)、左はNさん(3代目部長)だ。この3人を含むバンドは一番思い出深い。

   私もその一人だ。両手の指を腱鞘炎で手術した上に、ギターやピアノ、そして急にやり始めたドラ、さらに農作業のために、手が悲鳴を上げている。一番こたえたのはとても速い曲のドラムを急に長時間叩いたことだ。これが一番ダメージが大きい。

   でも、70歳目前に再開したバンドのおもしろさはたとえようがない。仲間と演奏するのは快感である。名ばかりのジャズでアドリブをやるのも面白い。急に自分の番が来ると心地よい緊張感がある。

   それから、私は懇親会では自作のCDをかけてくれと言われた。しかし、CDをかけてもどうしようもない。そこでDVDを作ることにしたが、映像編集を忘れてしまって、四苦八苦だ。昨日、南小学校のSさんに教えてもらったが、そう簡単にできるものではない。

   まだ、半分ほどしかできていない。明日の夕方までには仕上げたい。今晩は遅くなりそうだ。OB会と同窓会とは気分が全く異なる。サークルは、自ら入って仲間と同じ目標に向かって頑張るのだ。クラスは、必ずしも自分の希望で入ったものではない。

   このOB会を機会に私達のメンバーは「これからもバンドをやろう」と言い合っている。私も大賛成だ。実質は、じいちゃんバンドだが、気持ちは若かりし昔と全く変わらない。

(日記 朝からDVD作り。自作の歌を一番ずつ写真と歌詞を入れながらつなぐのだ。そして、今回のために作った最後の曲だけは生で歌ってもらうのだ。どうなることやら。しかし、ソフト(アドビプレミアプロ)が新しくなって音声の編集ができない。マニュアルもあるが、さらに別のソフトを使えという。とてもやってられない。習おうにもS先生は授業中だ。そこで、マニュアルを買いに市内の「カボス」へ走るがない。次に、福井の産業支援センターの資料室へ行ったが、そこにもない。続いて100万ボルトへ行く。店員に「映像編集ソフトのプレミアありますか」って尋ねると聞いたことがないという。その店員は他の店員に聞いて見つけてくれた。バージョンが異なるがそれを買って帰宅した。3時間のロスだ。しかし、どうにかこうにか少しずつ作業が進み始めた。途中で、明日修学旅行だというS先生が訪ねてくれた。そして最後の詰めを習った。上手くできればいいが。)