RSS
 

Archive for 1月, 2013

もしも政治漫画が描けたなら

11 1月

風刺の効いた漫画を描くには
  最近の世相をみていると、「もしも政治漫画が描けたならこんな漫画を描きたい」と思うことがよくある。政権が代わるとこんなにも、何もかもが代わるのかと驚くばかりだ。

  新政権は、前の政権の政策がよい悪いに関わらず、全てを跡形もなく消してしまっているように思える。原発の再稼働、子ども手当や、高校の授業料の無償化、補正予算の額、経済政策、……、全てが変わりそうだ。

『親鸞聖人物語』に登場する法然上人。

  TPPは反対と言っていたが、交渉に入るだろうと思う。夏までは表だった動きが少ないだろうが、その後はどうなるか分からない。アメリカ一辺倒になると、押し切られる可能性が強い。

 これが政権交代かと驚いてしまう。果たして世の中が予想通りに動くのだろうか。朝テレビを見ていたら、やらせメール問題を起こした九州電力が役員の数を3人増やしていたことについて、電気料金の値上げを審査する委員会で問題になっていた。

  しかも、役員報酬の平均が3,000万円だということ、それでも報酬額を下げたとのことだった。いったいいくらもらっていたのかと気になるが、これらが、全て原価として値上げする電気料金に反映させるというのだ。これが総括原価方式という仕組みだ。

   もしも政治漫画を描くならば、材料はいくらでもあるような気がする。やはり、風刺を効かせなければ政治漫画にはならない。時間があれば遊びに描いてみたいと思うが、これ以上間口を広げるわけにもいかない。

  参院選まではどの党も当選第一で行くだろう。政治家の動きをよく見て、何が次の世代のためになるのか、信頼できる政策を実施できるのかをじっくり見なければならない。

 それにしても、政権の交代がこんなに大きく物事を変えるのかと感心する。今の政権の処方箋が正しいのかどうか、病んでいる「日本」の健康回復に役立つのかどうか、結果は二、三年後には出るのではなかろうか。よくなることを期待したい。

すずめの家族と少年の交流を描いた創作紙芝居『子すずめチュンチュン』の主人公。背景は借り置き。

(日記 今日は、特別なスケジュールはない。こうした日は創作三昧。同時並行的に二つの創作紙芝居の絵を描いた。といっても、一つは、『親鸞聖人物語』の親鸞聖人の幼年期、壮年期、老年期の顔を3種類、創作童話紙芝居の「すずめ」の絵を3枚描いた。眼が疲れたので、パソコンから離れるために、年末に枝打ちをしてもらった樫の木の枝の始末をした。のこぎりで細かく切った。雪が降らなければ近いうちに、軽トラでゴミ処分場へ運びたいと思う。)

 
 

大人の作る社会

10 1月

政権が代わって
  政権が代わって、「景気回復」、「円高是正」など経済対策が次々と打たれている。原発再稼働も同じ方向性にあるのだろう。果たして、日本はどうなるのだろうか。目を見張るばかりである。

  どのような政権になろうと、私たち大人がつくる社会は、子どもたちにとってはどのような影響を及ぼすのだろうか。一見快適そうに見えて、実は、子どもたちの考える機会を著しく奪っているように思えてならない。

 優秀な大の大人が考える種々のゲームは、確かに子どもたちや一部の大人を簡単に惹きつけることができるだろう。しかし、子どもたちは、そうしたものに多くの時間を奪われているのもまた事実である。

  一生に一度の多感な時期、人と人とが交わるよりも、これらを手にした子供たちをよく見かける。ゲーム機に夢中になっている間は、周囲の仲間と話したり遊んだりもしない。それぞれが、孤立しているように見える。

  景気回復のためには、不必要なものも買わなければならないような日本というのもどこか情けない。人が、物を中心に振り回されているように見える。子どもたちには、何もない時間、空間を与えることもまた大人の責任ではなかろうか。

  物がなくても、子どもたちは、不幸にはならない。それが当たり前になれば、子どもたちは大人が考える以上にいろんな遊びを考え、仲間と過ごすことになり、そこから多くの楽しみや生きるための知恵を手にするはずだ。

  ファイルを整理していたら、数年前に書いた詩らしきものが出てきた。『昭和の子供』と題して十数編、自分の思いを書いたものだ。たいした物ではないが、今の時代にも合うような気がするので紹介したい。

昭和の子どもたちには、プールがなくても魚の泳ぐ川があった。

何もなし
 何もない家  子にゃ宝
 ないから考え 湧いてくる
 物と思考の  シーソーだ
 物多ければ  思考減り
 物少なくば  思考増す
 何もないから  考える
 物溢れれば  創意なし
 
 何にもない家  退屈だ
 表へ出よう  友がいる
 友集まれば  遊びあり
 遊びの中で  わかること
 我慢・生き甲斐  思いやり
 何もないなら  作りゃいい
 昭和の時代  物不足
 平成時代  物余り
 「何あり」「何なし」  考えて
 幸(しあわせ)探し  始めよう
 
物、物、物
 物があるから  考えぬ
 物あり過ぎて  考えぬ
 あるからなくて  なけりゃある
 
 考える暇  与えずに
 物を作って  儲けてる
 考える暇  ないほどに
 物を作って  売りまくる
 物に溺れて  物を買う
 物に流され  物を買う
 物を買うため  働いて
 働いてまた  物を買う
 
 気がつきゃ「時」が  流れてる
 買えない「時」が  減っていく
 貴重な「時」が  過ぎていく
  気がつきゃ子育て 終わってる
 後でどんなに 悔やんでも
 月日はただただ 進むだけ  

(日記 午前中、鹿谷公民館でおばさん達に『銭太鼓』の指導。私と年齢の近い人たちだ。午後は、『かたせ瓦版』を印刷し、市の広報紙と共に各班長へ配布。その後、次回の創作紙芝居の童話と親鸞聖人物語の下調べと絵の準備。)

 
 

久々の大衆演劇

09 1月

思い出す45年前の出来事
  孫達もそれぞれ帰ってしまい、我が家も静かになった。その後は、パソコンにへばりついてばかりいた。眼や体にはよくない。今日はなんとしてもパソコンから離れなければならない。そこで、家内と二人で福井へ出てショッピングをすることにした。

  せっかく福井へ出るなら、大衆演劇でも見てみようということになった。おまけに、温泉へも入れるし、一石二鳥だ。そう思って、午前10時に家を出た。最初に風呂へ入り、午後1時からの大衆演劇を見ることになった。

  観客のほとんどは、50歳以上であった。第一部は、演劇で任侠物の時代劇。第二部は舞踏ショウと歌だった。伴奏の音楽は、重低音が効いていて腹に響き渡るほど迫力があった。私には心地よかった。

  踊りよりも、音楽が気になった。歌を作りたいと思うようになった。そういえば最近は歌を作っていない。総座長(とアナウンスしていた。二人の一座の合同公演からか)の歌を聴いたが、とても上手だった。

今から45年前に座長“三波貴志”氏の協力でできた簡易レコード盤のジャケット。この歌は、今でも歌い継がれている。

  こんな人に自分の作った歌を歌っていただけたら最高だと勝手に考えながら、聴いていた。実は、今から45年ほど前に、私はある村の秋祭りで当時小舟渡の釜風呂温泉へ来ていた大衆演技の座長「三波貴志」氏の芝居を見たり、歌を聴いたりしていた。

 日中は釜風呂温泉で定時に演劇などをやっているが、夜は近隣の秋祭り等に出演することもあったのだ。特に座長の歌を聴いているうちに、この人に私の作った歌を吹き込んでもらえたらありがたいと勝手に考えていた。

  当時、私は、勝山の民謡『勝山小唄』(作詞はS氏)を作っていたが、誰かに吹き込んでもらいたいと歌い手を捜していたのだ。そこで、自分の作った歌を吹き込んだテープを釜風呂温泉へ持って行き、全く面識のない座長に吹き込みを依頼したのだ。

  座長の三波氏は二つ返事で引き受けてくれることになった。程なくして、座長は派手なワゴン車に乗って私の勤務する学校へ練習に通ってくれた。ワゴン車の横には、カラフルな文字で『三波貴志ショウ』と大きく描かれていたので、当時の同僚達は誰が来たのかと窓から乗り出したくらいだった。

 そして、とある夜、バンドメンバーが学校は集まり、英語科の使っているテープレコーダーでたった一本のマイクを使ってレコーディングしたのだ。ピアノ、三味線、ギター、アコーデオン、……などのメンバーが集まったが、いつになく緊張感が漂っていた。

  誰か一人が間違えばそこでテープを止めて始めからやり直しという緊張感の中で録音を終えた。そのテープを音響会社へ持ち込み、500枚のソノシート(簡易レコード盤)にプレスしたのだった。500枚は市内の楽器店であっという間に売れてしまった。

 今なら、バンドメンバーなしに、自宅で雑音の入らないデジタル録音ができるが、当時は、たった一本のマイクで吹き込むので、楽器毎のボリュームは、試行錯誤しながら、マイクからの距離で決めなければならなかった。

  後に、FBCの技術者に、「ワンポイントレコーディングの腕はうちの社員よりも上手だ」と褒められた。昔は、恥も外聞もなく、直接座長の所へ押しかけてレコーディングを依頼したが、今なら恥ずかしくてとてもできないだろう。

  三波座長は、後に「全国座長大会」に出演しておられたのをテレビで見かけた。「1年後に石川県の温泉にいるから」と聞いていたので、そのときに、完成した「ソノシート」をお渡しした。

  懐かしい思い出だ。何はともあれ、歌を作ってみたいという気持ちが強くなった。久しぶりに音楽に対するわくわく感が心に湧き上がってきた。大衆演劇から勇気をもらった一日だった。

(日記 午前10時に自宅を出て、福井へ行く。最初に温泉に入り、大衆演劇を見た。その後、ショッピング、そして外食。大衆演劇から元気をいただいた一日だった。)

 
 

1年ごとのサイクルでなくても

08 1月

2年を一区切りにしても
  米作りは、通常1年でワンサイクルだ。しかし、世の中の全ての行事やイベントのサイクルを必ずしも1年にしなくてもよいのではないか。オリンピックは4年に一度だ。我が村にある仏母寺の延命地蔵は33年に一度しか開帳しない。

  毎年やればいい行事やイベントもあるだろうが、時と場合によっては、2年に一度であってもよいのではなかろうか。この頃は、誰もが忙しい。働き方も、昔とは異なる。職場への通勤範囲も広がっている。朝出かけて夜遅く帰宅する人も少なくない。

  そんな中で、全ての行事やイベントを昔と同じペースでやったら、忙しくて、おざなりになるか、中止を余儀なくされてしまう。1年を730日(365日×2)と考えれば余裕を持って取り組むことができるだろうし、経済的な負担も少なくなり、充実した行事ができるだろう。

  毎年行える行事は、それでよいが、毎年実施するのが負担になるならものなら2年に一度、3年に一度で実施するだけでもよかろう。ある行事は奇数年に、ある行事は偶数年に行うように決めれば、負担感も少なくなり、中止する必要もないだろう。

 そして、一つ一つの行事を中身の充実したものにできるのではなかろうか。これは、地区でも、市町村でも、学校でも、どこでも当てはまる考え方だと思う。人によって忙しい時期が異なるからだ。

  退職した者と、子育て真っ最中の者では、時間的な余裕が全く異なる。私にも、夏休みの貴重な休みに、地区の行事が立て込み、子供を海水浴に連れて行くのも困難だったことを覚えている。最近、地域の行事に参加しない者が増えている。

 それは、行事が重なることが多いので、年代によって取捨選択するからだ。市の行事も秋になると、一日に三つか四つ重なっている。人の集まりもよくない。大人も子供も日々の生活が忙しくなっている。

 私の願いは、一つ一つを充実したものにするために、実施するペースを考え直してはどうかというものだ。そうでないと、せっかくの貴重な行事やイベントが中止に追い込まれてしまうと思うからだ。

人間に捨てられた子犬たち。(『のら犬物語』より)

(日記 今日は珍しく外へ出る用事はない。紙芝居作りに専念することに決めた。今は、子供の紙芝居と大人の紙芝居を並行して進めている。今日は、大人の紙芝居の下調べ、子供の紙芝居の方は登場する子犬を4匹描いた。終日、机にしがみついていたので、腰と眼が疲れた。休憩を取りながらやらなければならない。)

 
 

地域の衰退

07 1月

人口減少
  総じて地方の人口は減少している。当然、勝山市も例外ではない。昭和60年に30,416人であった人口が、約20年後の平成17年には26,961人に減っている。(国政調査より)

  ところが、さらに20年後の平成37年には20,568人に減少すると推定されている。市の人口が20,000人を切るのは時間の問題である。以前にこうした指摘をしたところ、某議員から「20,000人のまちでもしっかりと生き残っている」と言われた。

  30,416人(国勢調査)であった昭和60年と、人口が20,568人になると予想される平成37年とでは、単に人口が約1万人(9,858人)減っただけではない大きな違いがある。人口だけではない見えないところがある。

           昭和60年   平成17年   平成37年(予測) 平成37年/昭和60年(%)
 0歳~14歳   6,391人     3,486人   1,940人      30.4%
15歳~64歳  19,707人  15,896人  10,444人      53.0% 
65歳~       4,318人   7,579人   8,184人     189.5%

 正に、少子高齢化以外の何物でもない。このような状況を、各議員(市・県・国)の皆さんはどのように認識しておられるだろうか。過疎と過密の同時進行で将来国土はどのようになるのだろうか。

 先ずは、自分の身近なところから、この問題を真剣に考えなければならないだろう。「国は、地方の集まり」と発言する国会議員が少なくないが、ならば地方をどう振興していくのかというと説得性のある確たる答えを聞けない。

  城の石垣ではないが、一つ一つの石垣が崩れ始めると全体は持ちこたえられないだろう。石垣の上に建つ建物は崩壊してしまうだろう。私はたまたま小さな集落のまとめ役をしている。

 こんな小さな集落でも、「持続可能か?」と問われると、自信を持って返答できない。10年もすれば集落の様相はかなり変わってしまうだろう。一人では何もできないが、勝山で生活する0歳から高校年生までの子ども達をいかに育てるかが今問われているように思う。

  全ての市民が、この問題に真剣に向かい合わなければならない。貧しい地域にたくさん作られた原発。原発銀座の我が県も今のうちに、少しずつ他の産業に転換できるように全県民が知恵を出し合い、がんばらなければならないのではないか。

  知恵は無限にある。その知恵を出し合う仕組み、知恵を生かす仕組みをつくり、この難局を乗り切っていかなければならない。今夏参議院選挙が行われる。候補者はこのような問題にどう取り組もうとしているのか、しっかり、見守りたい。大いに期待もしたい。

(日記 午前中、区の補助金申請事務。午後葉、親鸞研究。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。(歎異抄)」(悪人正機説)を平易に説明できるだろうか。難しいがやりがいのある仕事だ。)

 
 

いよいよ新年が始まる

06 1月

いつもの日々に戻る
  午後0時半の列車で横浜に住む孫達と東京で務めている次女が戻っていった。我が家はいつもの我が家になった。早速図書館へ行き本を借りた。ほとんどが親鸞聖人に関するものにした。

  今まで、何となく理解していた親鸞聖人と、今改めていろんな伝記を読んで少し分かりかけた親鸞聖人との間には大きな隔たりがある。これらをもとに『親鸞聖人物語』を大人向けの紙芝居にしたいと思っている。

またしばらく会えなくなる。横浜の孫達。

  しかし、親鸞聖人を理解するのは単純ではない。一つ、思うことは当時の時代が親鸞聖人を生み出したのだということだ。争いが続き、病気が蔓延し、正に世も末と思われると世情の中で、宗教界も乱れに乱れていたようである。

 そして、最も置き去りにされていたのが一般大衆であった。そうした人たちを救うべく既存の宗教から独立して立ち上がったのが親鸞や法然、道元、日蓮などの僧侶でなかったのか。

 私の、今年のやりたいことの一つがこの創作紙芝居『親鸞聖人物語』であるが、実は、この紙芝居の完成を待っていられる市内のお寺もあるのだ。たぶん、そちらとは絵の大部分は共通するだろうけれども脚本は別のものになるだろうと思っている。

  もう一つは、子供向けの紙芝居だ。ここ1ヶ月ほどで完成させたい。これは、新しい童話をつくって紙芝居にしたいと思うが、まだ構想の段階だ。今の調子だと、これまでの自作童話を紙芝居化するしかないかもしれない。

いよいよ改札。さみしくなる一瞬。

  毎日、これらの制作に向けて、一歩でも前進したいと思う。そうすれば、時が経つにつれて完成した絵が増えて紙芝居の完成に近づくはずだから。これが私の言う「毎日パワー」だ。

  私個人の時間は、しなければならないことを少なくして、したいことを増やしたいと思う。今年も、地域のため、家族のため、自分のために時間を使ってマイペースで生きていきたい。

(日記 横浜に住む孫達と次女を福井駅まで送った。我が家は急に静かになり、いつもの日々に戻った。早速図書館で、親鸞聖人に関する本を10冊借り、それらを読んでみた。興味はあるが難しかった。今年中に創作紙芝居『親鸞聖人物語』を完成させ、道場やお寺で演じられたらというのが今年の夢の一つだ。) 

改札の向こうへ小さくなる姿。元気で暮らせ!孫達!

 
 

雪に思う

05 1月

雪が降るから春が楽しみ
  雪のマイナス面を数え上げればいくつかはあるだろう。しかし、雪のプラス面に目を向けられる人はそんなに多くないのではなかろうか。雪も度を越すと「魔」が付く。恐怖になる。

ばあちゃんと二人の孫。ソリが気に入ったらしく、何時間も飽きずに滑っていた。

  豪雪時には、恐怖心を感ずる。自宅の下屋の雪下ろし、大屋根の雪下ろし。車庫の雪下ろし、小屋の雪下ろし、事務所の雪下ろし、……、一周した頃には、また最初から雪下ろし。2度目以降は、屋根を掘り出さなければならない。

  56豪雪のときには、確か、12月30日頃から1月15日まで連日雪下ろしでくたくたになった。白魔は恐怖である。しかし、雪が一段落し、日が経つにつれた積雪も少なくなり、春に向かう。

 春一番の南風が吹くと雪が目に見えて減っていき、路面が見え、田畑が顔を出し、土手のあちこちから草が芽吹き始めるのである。そして、桜のつぼみが膨らみ、桜が咲くとようやく春が来たことを実感するのである。春は雪国に住む者の喜びでもある。

 雪の楽しみは何だろうか。子供の頃はスキーが楽しみだった。今のように娯楽の少なかった時代には冬のスキーは楽しみだった。それもスキー場へ出かけてスキーをするのではなかった。

雪を集めた雪山で遊ぶ子どもたち。子供は遊びの天才だ。

 村の中の坂道で、一組のスキーに4、5人が乗って滑り降りたり、村はずれの段々畑で滑ったり、山際の斜面で滑ったりしたものだ。いずれも短いが急な坂さえあれば子どもたちはスキーを楽しんだものだ。

 そんな思い出があるので、自分の子どもたちをスキーに連れて行ったし、今は勝山に住んでいない孫達にも同じように雪に親しんでほしいと願う。雪のほとんど積もらないところに住んでいる子どもたちにとっては、雪はとても魅力的に映るようだ。

  昨日は福井に住む長女の孫達を、今日は横浜に住む長男の孫達を自宅から3kmほどしか離れていない雁ケ原スキー場へ連れて行った。特に、今日は、スキー場の圧雪機などで集めた雪で数メートルの高さの雪山ができていた。

 子どもたちは、この雪山が非常に気に入ったらしく、ソリと交互に遊んでいた。ただ、雪を積んだだけの雪山だが、登ったり尻で滑り降りたりしながら、飽きずに遊んでいた。

去年始めたスキー。もう少し孫に教えたいと思うが年に一度では……。

 しかし、今は、スキー人口が減少しているという。遊びが多様化したのと同時に、寒い時期や暑い時期に外へ出て遊ぶことが苦手な子供が増えたようだ。ゲームの全てが悪いとは言わないが、子どもたちの自由時間を必要以上に奪っているように思えてならない。

  子供は風の子、冬はやっぱり昔の子どもたちと同じように、雪に親しみ思い切って外で遊んでほしい。一方で、大人達は、これ以上、子供の自由時間を奪ってはならないとも思う。

(日記 午前中は、区の事務処理。午前11時から午後3時半まで横浜に住む孫達と雁が原スキー場へ行き、ソリを楽しむ。その後、再び区の事務。そして、午後7時より今年最初の定例役員会。今日は、区の活性化、住みよいまちづくりなどについて話し合った。)

食堂でくつろぐ3人の孫達とそのママ。

 

孫と「はい、チーズ」。今日はスキー場がかなり賑わっていた。

 
 

「昭和の田舎」を疑似体験

04 1月

田舎は観光地になるか
  今回も、滋賀県米原市上丹生のTさんのブログへの感想をもとに、思いついたことを述べたいと思います。

 現在日本に住んでおられる50歳、60歳以上の方は、昔の田舎の温かさをかなり知っておられるのではないでしょうか。だからといって、今、帰省しても、田舎には「昭和の田舎」は特別な地域を除いてほとんど残っていないのではないでしょうか。

  里帰りをするにも、近くのホテルに泊まって過ごす人もいるぐらいの時代なのだから。今風の家では、何人もが長期に渡って泊まるだけの家屋のスペースがない場合も少なくない。

  逆に、そうした「昭和の田舎」を疑似体験できる「田舎の観光地」があれば、そこへ行きたくなる人は少なくないのではないでしょうか。それぞれの季節に行きたくなる、リピーターの客をつくることができるのではないでしょうか。

  100%昭和を再現するのは無理でしょうが、来訪者をお客として扱うばかりでなく、住民としての体験もできるような仕組みができないかということです。

  いかに“温かさ”を感じるようなもてなしができるかということではないでしょうか。それには、「もてなす側」と「もてなされる側」がはっきり区別されているよりは曖昧な方が好ましいのではないでしょうか。要は、アットホームな雰囲気を作り出すことです。

  ただし、ホテルなどは、別で、快適に泊まれればホテルの従業員との関わりは緊急の場合を除いて皆無でも客は不満を感じることがないでしょう。

 しかし、民宿『昭和いなか館(?!)』は、逆で、来訪者は家族の一員であるというスタンスで、付き合うことが基本であってもいいのではないでしょうか。有名人の講演のように一方的に話すのではなく、双方向で、世間話でも、相談事でも話せる関係になることが望ましいと思っています。

長女、家内と福井の二人の孫。最初はすごい雪だった。

  名所旧跡を見て歩く物見遊山の旅行や、単純に温泉に入って美味しいものを食べるだけの旅行では満足できない人が増えているのではないでしょうか。 そういう意味では、宿や風景や名勝旧跡が売りではなく、人が観光資源であってもいいと思っています。

 「あの人と会いたいから、あの民宿へ行く」、「あの人と一緒に何かしたいからあの民宿へ行く」、「あの人と話していると心地よくなるのであそこへ行く」、……と、人に魅力を感じて出かけるそんな宿があってもよいと思っています。

  そうなるためには、ホテルでは物理的に無理です。やはり、田舎の民宿がその役割を担うのにふさわしいと思っています。子どもたちにとっては、「川で泳ぐ」、「川で魚を捕ったり釣ったりする」、「トウモロコシを採って炭火で焼いて食べる」、……などの体験ができるでしょう。

ソリ専用のゲレンデでばあちゃんと娘と孫のそり滑り。

 また、「練習して地元の祭りに参加する」、「地元の特産物を地元の人に習って作る」、「年に何度か通って作物を栽培し収穫する」、……などいろいろあるのではないでしょうか。

  何かをマスターしたい人には、それを指導できる人がいるとありがたいかもしれない。私なら、元気のあり余る小・中学生か高校生を一週間ほど特訓して「和太鼓」を指導し、祭りか何かに発表してもらうこともできるだろうと思っている。

  田舎体験をしながら、一日に1~2時間はパソコンを勉強する(ワープロ機能をマスターする・ネットを自由に使えるようにする)のも、よいかもしれない。私もパソコンによる歌作りなら少し指導できるかもしれない。

  こんな事を考えているだけでも楽しい。我々は人間として育っているので、人間らしさが発揮できる場所を無意識に望んでいる。そんな場所が今の時代にあってもよいのではなかろうか。

  「孤食」、「孤独死」等の言葉が出てきた。「お一人様食材」、「お一人様専用レストラン」、「お一人様カラオケ店」、……と一人専用の店が増えている。人と人との関わりを好まない人がどんどん増えている。なおさら、人の温かさを感じる場所が必要であるように思う。

地元の白山神社の本殿の片づけをする宮番のメンバー。私も宮番の一員だ。

(日記 午前9時より,神社で初詣の後片付け。本殿や拝殿の鍵を閉め、お賽銭を計算し、供え物や幕の片づけ等を行った。その後、宮番の者3人でしばらく雑談。午後は、福井の孫のそり遊びに付き合い、地元の雁ケ原スキー場へ行く。最初は雪が降っていたが、急に太陽が出て目映いぐらいだった。)

 
2 Comments

Posted in 未分類

 

昭和の暮らし

03 1月

滋賀県米原市上丹生の「かるたづくり」
  私の昨日のブログ「カルタの力」に対して、上丹生のメル友Tさんから返事をいただいた。その中で、上丹生では『心象絵図』を作られ、そこからカルタ作りが始まったと書いてありました。

  心象絵図とは、地域に暮らす長老たちから聞き取った、昭和時代の地域での暮らし振りが、様々なエピソードと共に描かれた「地域の歴史絵図」だそうです。私も、昨年、勝山市のエコミュージアム協議会主催の「上丹生チューリップ祭り」研修ツアーに参加し、その心象絵図を拝見しました。

 その絵図をもとにして制作しておられる「カルタ」の一節を紹介します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・メールの中に書かれた滋賀県米原市上丹生のカルタの一部です・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
○産婆さん 産湯は家の タライです
○竹スキー 竹馬タコも 手作りで
○妹を 背中に背負い 遊ぶ兄
○お供えは 大根かぼちゃ 地蔵盆
○屋根を葺く 結で互いが 助け合う
○警官に 見つからないよう 柴売りに
○山菜の ネドコは誰にも 内緒です
○プロレスを 初めて見たのは 他所の家
○飲み代が 払えず山を 売る人も
○もらい風呂 最後の人は 垢まみれ
○彫刻の ノミをたたく音(ね) 響く村
○熱がでた 焼き梅干を コベに貼る
○水汲みは 子どもの仕事 風呂に入れ
○映画会 ええもん出てくりゃ 皆拍手
○台風に 橋ごと流し 自衛する
○葬式の 輿にも見える 職人技
○蚊帳の 中ホタル飛び交う 初夏の夜
○炭焼きで 苦しい時代を 乗り越えた
○嫁入りで 子どもが待ってる 土産菓子
○丹生川で ふんどし姿の 河童たち
○祭り前 飼ってる鶏が いけにえに
○棟上の 祝い饅頭 人だかり
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 話は変わって、私は今パソコンのファイルの中を整理している。その中でも、十年ほど前に書いた『昭和の子供』があった。どことなく似通っているのでそのうちのいくつかを紹介したい。懐かしいと共に、昭和時代は貧しかったが子育て環境としてはよかったのではないかと今更ながら思う。

昭和の子どもたち
      【昭和二四年~三〇年頃】

映 画
  映画館なら 二つあり
 『鞍馬天狗』に  『紅孔雀』… 
 ひばり・嵐寛   錦之助
 巡回映画が  やって<る
 無声映画て  弁士付き
 楽しいアドリブ  大笑い
 便所へ立つ人  幕に影
 大事な場面が 「見えんぞ、おっさーん!」
 映画の中は  大ピンチ
 ヒーロー白馬で  それ急げ
 館内子供の  拍手沸<
 終われば寂し  夢覚める

風 呂
 風呂を沸かすは  子の仕事
 手押しポンプで  水汲んで
 バケツに入れて  水運び
 胸まで差し上げ  風呂ヘジャー
 小学生には  重労働
 五回・十回   くーたくた
 おまけに釜から  水漏れだ
 火が消え煙が  もーくもく
 目痛い涙が  ポーロポロ
 薪持った手で  涙拭きゃ
 顔中炭で  インディアン
 笑い事では  済まされぬ
 外へ突進  二度三度
 新鮮空気で  元気つけ
 またまた煙の  中へ行く
 風呂が沸いたら  お隣へ
 「湯、入んに来とくんねんしぇー」
 当然ふれ事  子の仕事
 同じ湯再度 沸かした日
 「古湯ですけど、入んに来とくねんしぇー」
 またまた近所を  一回り

伝承技術
 遊びに技術は  不可欠だ
 鳥かご作りは  難しい
 割竹作って  ひご抜けば
 準備作業は  八分目
 できた籠には  ヒワ・目白
 山雀・ウソに  尾長など
 まだまだできる  ヤス〈魚突道具)・ほうき
 片瀬自慢の  特殊ソリ(ハンドル付き)
 遊 び
 衣服は上から  お下がりだ
 破れて継ぎあり  我慢しろ
 姿・形は 惨めでも
 いつもお腹を  空かしても
 心は錦  光ってる
 生きてる証(証)  遊ぶんだ
 先輩達に  しごかれて
 泣く日もあれば  笑う日も
 遊びまくるは  いいことだ
 缶けり・陣取り  八けんけん
 瓦倒しに  鬼ごっご
 ビー玉・ぱんや(めんこ) 木登りだ
 竹のバットと  テニス球
 三角べースの  草野球
 チャンバラごっこ  村回り
 漆の木の剣  災難だ
 顔はもちろん  あそこまで
 漆にかぶれて  さあ大変
 かゆいのなんの  驚いた
 「晩御飯だ」と  母の声
 渋々家へ  戻される

水 泳
 泳ぎはもちろん  九頭竜だ
 汗出し歩く  炎天下
 高島河原  もうすぐだ
 歩きながらも  シャツを脱ぐ
 もっこへんどし(褌)  キリリ締め
 準備体操  そこそこに
 ざぶんと飛び込む  川の中
 鮎・鱒泳ぐ  別世界
 雨の後なら  濁り水
 川幅倍でも  渡るんだ
 命をかけて  泳ぎ切る
 これが男と  いうもんだ
御裾分け
 結婚式だ ご馳走だ
 おっとどっこい  ちょっと待て
 隣近所へ  御裾分け
 せっかく貰った ご馳走が
 羽を生やして  逃げていく
 回り回って  お返しが
 忘れた頃に  やってくる

 
何もなし
 何もない家  子にゃ宝
 ないから考え 湧いてくる
 物と思考の  シーソーだ
 物多ければ  思考減り
 物少なくば  思考増す
 何もないから  考える
 物溢れれば  創意なし
 
 何にもない家  退屈だ
 表へ出よう  友がいる
 友集まれば  遊びあり
 遊びの中で  わかること
 我慢・生き甲斐  思いやり
 何もないなら  作りゃいい
 昭和の時代  物不足
 平成時代  物余り
 「何あり」「何なし」  考えて
 幸(しあわせ)探し  始めよう
 
物、物、物
 物があるから  考えぬ
 物あり過ぎて  考えぬ
 あるからなくて  なけりゃある
 
 考える暇  与えずに
 物を作って  儲けてる
 考える暇  ないほどに
 物を作って  売りまくる
 物に溺れて  物を買う
 物に流され  物を買う
 物を買うため  働いて
 働いてまた  物を買う
 
 気がつきゃ「時」が  流れてる
 買えない「時」が  減っていく
 貴重な「時」が  過ぎていく
  気がつきゃ子育て 終わってる
 後でどんなに 悔やんでも
 月日はただただ 進むだけ            
 

子供時代の親鸞。現在思案中。

(日記 まだ、正月。ゆっくり一日を始める。午後は、創作紙芝居『親鸞聖人』の準備を始める。先ずは、親鸞の簡略な伝記を詠んでみた。時代背景を知らなければならないことと、時代が親鸞を呼び寄せたと言えなくもない。幕末の時代が龍馬をこのように出現させたように。 その後、親鸞の子供時代と青年期の顔を描いてみた。この顔をベースに壮年期、老年期の顔を描くつもりだ。完成までには1年かかりそうだ。来月中旬までに、別の童話紙芝居を作りたいので忙しくなりそうだ。)成人の親鸞聖人。昨日より表情を少し変えた。

 
 

『かるた』の力

02 1月

今も覚えているカルタの一文
  人は、一生のうちで記憶力のよい時期があるのではないかと思う。この時期に覚えたものは、一生覚えているような気がする。小・中・高の時期がそれに当たるのだろうか。私は、その頃に覚えたことや、あったことを今でも鮮明に覚えている。「いろはかるた」もその一つだ。

「いろはかるた」
 ・犬も歩けば棒にあたる
 ・論より証拠
 ・花より団子

平泉寺カルタ い

 ・憎まれっ子世にはばかる
 ・骨折り損のくたびれ儲け
 ・下手の長談義
   ……
 ・安物買いの銭失い
   …… 
 ・門前の小僧習わぬ経を読む
  ……
 ・京の夢大阪の夢

 今、考えるといろんな「ことわざ」が含まれていたことが分かる。落語の一節も覚えたことのことの一つだ。

「柳亭痴楽の落語の冒頭の一節」
     「東京娘の言うことにゃ サノ言うことにゃ
     柳亭痴楽はいい男 鶴田浩二や錦之助
     あれより ぐーーんといい男
     痴楽とならば何処までも 水平線の果てまでも
        とこいとやせぬ てなことを夢に見て 
          しみじみ泣いた 夜ばかり
     私も人の子 男の子 ピーチクパーチク喋れども
     失恋ばかりで 夢去りぬ
     彼女ほしいと来てみれば ここはトルコのまち外れ
     男のもてるウシュクダラ 二枚目気取りで歩いたら

平泉寺カルタ ろ

       ベッサメムーチョでアイラブユウ
     ホイ来たチョーさん待ってたと グッと彼女を抱き締めりゃ
     とたんにポロポロ籾の殻 枕を抱いていたのです    痴楽つづりかた狂室 」

 浪曲師「寿々木米若」の「佐渡情話」の冒頭
    佐渡へ佐渡へと草木もなびく 
     佐渡は居よいか住みよいか……

と共に、その美声がよみがえる。特に、親父が米若の大ファンだったので私も浪曲を好きになったものだ。この他、島崎藤村の「千曲川旅情の歌」やいくつかの漢詩も自然に口から出ることがある。

  また、何かの雑誌の付録だった「理科の学習カルタ」でコペルニクスが「地動説」を説いたことなども記憶に残った。「いろはかるた」で覚えたことがその後もずっと記憶に残り、学習にも役だった。

  そんなことを考えると、カルタにすることは意味のあることかもしれない。とくに、言葉にリズムを付けると記憶を再現しやすいのだ。特に、若いときほどいつまでも記憶に残るのだということが自分の経験からよく分かる。

  さて、私は何をカルタにできるだろうか。米原市のTさんの年賀状を見て、何でもカルタになるなあと思った。私は、子供の学習的なことも、健康に関することも、高校の数学さえも「カルタ」にできるのではと思った。

 試しに、平泉寺物語の絵を何枚かカルタ風に編集してみた。絵は、たくさんストックしているので材料に事欠かない。問題は、いかにリズミカルな言葉を付けるかだ。何とかなるだろう。その気になれば。今年もまた忙しくなりそうだ。

(日記 今日は正月。朝寝から一日は始まった。息子は、仕事の都合で家族4人を勝山へ残して一人で横浜へ帰っていった。入れ替わりに、長女の家族4人がや

平泉寺カルタ は

って来た。いっしょに食事。その後、長男の娘のA(小2)が仕切って学習発表会のようなことをした。のんびりとした時間が過ぎていく。正に正月だ。)

平泉寺カルタ に

子どもたちの余興大会で踊り付き新体操を発表。妹は姉を見習って必死。そのうちに上手くできるようになるかもしれない。

 
3 Comments

Posted in 未分類