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久々の大衆演劇

09 1月

思い出す45年前の出来事
  孫達もそれぞれ帰ってしまい、我が家も静かになった。その後は、パソコンにへばりついてばかりいた。眼や体にはよくない。今日はなんとしてもパソコンから離れなければならない。そこで、家内と二人で福井へ出てショッピングをすることにした。

  せっかく福井へ出るなら、大衆演劇でも見てみようということになった。おまけに、温泉へも入れるし、一石二鳥だ。そう思って、午前10時に家を出た。最初に風呂へ入り、午後1時からの大衆演劇を見ることになった。

  観客のほとんどは、50歳以上であった。第一部は、演劇で任侠物の時代劇。第二部は舞踏ショウと歌だった。伴奏の音楽は、重低音が効いていて腹に響き渡るほど迫力があった。私には心地よかった。

  踊りよりも、音楽が気になった。歌を作りたいと思うようになった。そういえば最近は歌を作っていない。総座長(とアナウンスしていた。二人の一座の合同公演からか)の歌を聴いたが、とても上手だった。

今から45年前に座長“三波貴志”氏の協力でできた簡易レコード盤のジャケット。この歌は、今でも歌い継がれている。

  こんな人に自分の作った歌を歌っていただけたら最高だと勝手に考えながら、聴いていた。実は、今から45年ほど前に、私はある村の秋祭りで当時小舟渡の釜風呂温泉へ来ていた大衆演技の座長「三波貴志」氏の芝居を見たり、歌を聴いたりしていた。

 日中は釜風呂温泉で定時に演劇などをやっているが、夜は近隣の秋祭り等に出演することもあったのだ。特に座長の歌を聴いているうちに、この人に私の作った歌を吹き込んでもらえたらありがたいと勝手に考えていた。

  当時、私は、勝山の民謡『勝山小唄』(作詞はS氏)を作っていたが、誰かに吹き込んでもらいたいと歌い手を捜していたのだ。そこで、自分の作った歌を吹き込んだテープを釜風呂温泉へ持って行き、全く面識のない座長に吹き込みを依頼したのだ。

  座長の三波氏は二つ返事で引き受けてくれることになった。程なくして、座長は派手なワゴン車に乗って私の勤務する学校へ練習に通ってくれた。ワゴン車の横には、カラフルな文字で『三波貴志ショウ』と大きく描かれていたので、当時の同僚達は誰が来たのかと窓から乗り出したくらいだった。

 そして、とある夜、バンドメンバーが学校は集まり、英語科の使っているテープレコーダーでたった一本のマイクを使ってレコーディングしたのだ。ピアノ、三味線、ギター、アコーデオン、……などのメンバーが集まったが、いつになく緊張感が漂っていた。

  誰か一人が間違えばそこでテープを止めて始めからやり直しという緊張感の中で録音を終えた。そのテープを音響会社へ持ち込み、500枚のソノシート(簡易レコード盤)にプレスしたのだった。500枚は市内の楽器店であっという間に売れてしまった。

 今なら、バンドメンバーなしに、自宅で雑音の入らないデジタル録音ができるが、当時は、たった一本のマイクで吹き込むので、楽器毎のボリュームは、試行錯誤しながら、マイクからの距離で決めなければならなかった。

  後に、FBCの技術者に、「ワンポイントレコーディングの腕はうちの社員よりも上手だ」と褒められた。昔は、恥も外聞もなく、直接座長の所へ押しかけてレコーディングを依頼したが、今なら恥ずかしくてとてもできないだろう。

  三波座長は、後に「全国座長大会」に出演しておられたのをテレビで見かけた。「1年後に石川県の温泉にいるから」と聞いていたので、そのときに、完成した「ソノシート」をお渡しした。

  懐かしい思い出だ。何はともあれ、歌を作ってみたいという気持ちが強くなった。久しぶりに音楽に対するわくわく感が心に湧き上がってきた。大衆演劇から勇気をもらった一日だった。

(日記 午前10時に自宅を出て、福井へ行く。最初に温泉に入り、大衆演劇を見た。その後、ショッピング、そして外食。大衆演劇から元気をいただいた一日だった。)

 
 

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