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Archive for 7月, 2012

バランス

21 7月

「プラスのバランス」と「マイナスのバランス」
 マイナスのバランス
 
「バランス」というと、「プラスのバランス」と「マイナスのバランス」を考えてしまいます。昨今の「いじめの問題」ですが、いじめる側の人間は、「自分の弱さ(惨めさ)など」と「弱者に対する攻撃(いじめなど)」でバランスをとっている場合があると思っています。

  親から虐待を受けたり、著しく経済的に恵まれていないなど家庭に問題がある場合、または、自分に自信を持つこと、納得できるものを持っていない場合に、その対抗処置として「弱者へのいじめ」によってバランスをとる場合もあると感じています。 

  往々にしてこの場合には、本人が自覚していない場合が多いのものです。無意識のうちに、いじめてしまう場合が少なくないのです。時には、「ねたみ」などがいじめにつながる場合もあるのではないかと考えています。

  クラスで学業もスポーツも優れた者がいて、自分はそうではない場合、自分も何かで頑張ろうと思えばいいのですが、それができない場合には、相手に対して攻撃的に出る場合があります。

  学校でのいじめの解決のためには、全ての児童・生徒に対して、いじめはよくないこと、時には犯罪になることを十分認識させることは必要ですが、それと同時に、全ての児童・生徒の生い立ちや家庭環境、学校における居場所や人間関係、種々の能力や性格など様々な部分に気を配らなければならないと考えています。

  それは、人は思わぬところで無意識にバランスをとろうとするからだと私は考えています。全ての人間がそうだというのではありませんが、一部の子どもの中には自分の弱点をカバーしようとして他者に対して攻撃的に出ることがあるからです。

  また、攻撃を受けても(いじめられても)、受け流せる子どもと重く受け止める子どもがいて、第三者がいじめであるかどうかを判断することが困難な場合が少なくありません。今回の大津の事件でも、関係者が「いじめはなかった」とか「いじめを認識していなかった」というのはそのためかもしれません。

  但し、今回の事件では、.アンケートを実施していますが、その中のいくつかの文言から「いじめがあったことを関知できない」ような感度の鈍さでは、今後もいじめを認識できないのではないかと心配になります。いじめはあるものだと考え、いじめの予兆をしっかり捉えるべきでしょう。

 私自身も今で言う「いじめ」を受けたことはあり、不愉快に思ったことは少なくありませんが、それが不登校につながることはありませんでした。それは自己満足できる部分を少しは持っていたからではなかったのかと考えています。

  自分の昔の自慢話をする人がいますが、これも無意識のバランスかもしれません。本人は無意識にバランスをとっているつもりでしょうが、これを何度も聞かされる者には、これほど無駄な時間がありません。こうならないように気をつけたいものです。人間とは難しい存在ですね。

プラスのバランス
  幅広く、心豊かな人間に成長するためには、バランスのとれた人間になることが必要ではないでしょうか。人間は一芸に秀でていることは大切ですが、バランスのとれた成長も大切ではないかと考えています。

  理科系の人間にも文科系の力が必要であると考えていますし、スポーツのできる人間も、文化的なことにも興味を持ってもらいたいと思います。デジタル時代ですが、アナログ的な部分も忘れてはいけないと考えています。

  自分自身や自己の所属する団体の利益を考えて行動することも大切ですが、他者のことも考えられる人間になってほしいものです。最近の政治の世界を見ていると、このバランスが欠けているように感じているのは私だけでしょうか。

  教師は教える立場と子どもの立場に立って指導しなければならないのではないでしょうか。結果を急ぎすぎると教える立場の力が強くなりすぎてしまいます。短期的な成果は出るでしょうが、社会へ出たときにも身についている力になっているかどうかは怪しいものです。

  多少テストの成績が劣っていても常に自らの頭で考えることを学んだ生徒と、ペーパーテストの成績がよくなるように答えの出し方(能率的な解法)を学んだ生徒とでは、社会へ出たときには大きな差が出るのではないでしょうか。

  理論と実践のバランス、男女のバランス、自国の発展と他国の発展、世の中にはいろんなバランスが考えられます。私達は、より平和的に、より前向きに生きるためにもこのバランスを大切にしたいものです。

(日記 最初に、区の各種団体合同委員会の案内を書き、各種団体長に配って歩いた。その後、雨が降っているので部屋の片付け始めたが、途中からCDの整理になってしまった。捨ててもいいようなCDがたくさんあったが、わずかしか捨てられなかった。終日整理をしたが、部屋はほとんど変化はなかった。心を鬼にして捨てないと、モノを少なくできない。私のような「もったいない」型の人間には、捨てることは精神的に非常に疲れる。明日も作業を継続だ。夜は四十数年前に作った曲の編曲作業を行った。 ) 

 
 

『断捨離』と“もったいない”

20 7月

捨てられない世代
  悲しいかな、私は“モノを捨てられない世代”の人間だ。どんなモノを見ても、「いつか何かで間に合うのではないか」と思ってしまう。そこで捨てないで保存することになる。しかし、いざ使うとなると、それらが即座に出てこない場合がほとんどだ。

  図書館に走るかネットで調べれば出てくるものも多い。例えば、音楽関係の楽譜だ。「いつどこでどんな曲の楽譜が必要になるかわからない」と思う気持ちがあるので、なかなか捨てられない。演歌から、外国の曲、民謡、童謡・唱歌までいろんな本を保存することになる。

  バンドをするかもしれないと思うので、バンドの楽譜も捨てられない。ざっと本箱を覗くと『ビートルズ』、『サザンオールスターズ』、外国の『○○年代ヒットパレード』などがたくさんのバンド関係の楽譜(本)がある。ギターやピアノの他、サックスやフルート、オカリナなどの本も多数。

  滅多に使わないんだから、捨ててしまえばいいのに、捨てられない。じいちゃんバンドをやろうとすると、時々これらが役立つからだ。これに、パソコン関係のマニュアル……、これは使わないうちにバージョンが上がってしまって新しいのを買い換えなければならない。

  どうすればいいのだろうか。結論は出ない。はっきりしているのは、捨てられないモノに囲まれているとストレスがたまるということだ。上手く整理ができればいいのだが、次から次へといろんなことをやろうとするので、きちんと整理する時間をとることができない。

  片付ける時間があったら、他のことをやるという今までのやり方を改めなければならない。実は、パソコンの中も、同様にいろんなファイルを捨てられないでいる。いつかどこかで間に合うのではないかと思うからだ。

紙芝居に登場する歴史上の人物。いつでも呼び出すことができる。一度描いた絵は何度でも使えるようにパソコン内に保存してある。

  外から見えないだけに、よほど上手く整理しておかないと、情報はどんどん増えるばかりだ。一度時間を取って、検索しやすいように整理しなければ、使いたいときに使えない。これもストレスのかかることの一つだ。

  全部捨てて何にも無い部屋にあこがれる。何にもしないならそれでもいいだろうが、あれこれ使用という気持があるので、捨てられない。
私の中には、『断捨離』と“もったいない”が常に闘っている。

(日記 赤尾地区のFさんから頼まれた銭太鼓の曲の作曲作業。近々CDを作るまで進めなければならない。午前中いっぱいかかったが、詞と曲が噛み合っていなかったので、詞を書いたFさんに少し書き直してもらわなければならない。久々の雨だ。パソコンのファイル整理。結構時間がかかる。)

 
 

“人間とは自己の存在を認められたい生き物”

19 7月

自然体か無理をするか
  長い間、子ども達の様々な姿、直接接した多くの大人、テレビなどで見た大人の姿、……、様々な人達の姿を見てきて、私が思うことは、“人間は自己の存在を誰かに認めてもらいたい生き物”だと確信するにいたった。

  そのために、他から見ていると、奇異な行動に映ることでも本人は真剣である場合が多かった。自分の存在を他に認めさせるために、まっとうな行動をとる場合は、時には素晴らしい行動として賞賛される事も少なくない。

  負け続けたアスリートが、一念発起して過酷なトレーニングに耐え、成果をおさめるということはよくある話で見習う点も多かろう。自分の存在をアピールすることは人が生きる馬力になることもある。しかし、度を過ぎると見苦しい。

 ところが、自分に他と勝負できるもの(特技、趣味、アイディア、包容力など)を持たない者が自分の存在を認めさせるとなると話は簡単ではない。どこかに無理が入ってしまう。そうなると、どこかで破綻してしまったり、信頼を失ってしまう時もある。

  かつて、学業でもスポーツでも文化的なことでも、何にも自己の存在を他に認めさせる者を持たない(と本人が思っている)子どもがいた。彼は、家の金を持ち出したり、時には他人の金を盗んだりして、金を手に入れていた。しかし、彼はそうして得た金を自分の飲食や遊びには使わなかった。

  そのお金で、毎日菓子や飲み物を購入して、友達に配ったのだ。彼が金を持っている限り、周りには仲間が集まり、その時間帯だけは彼が主人公になり得たのだ。そのポジションを維持するためには、彼は金を集め続けなければならなかった。

  別の話。親に対して「いっぱい働いてたくさんゲームを買って下さい。」と親への手紙に書いた子どもがいた。普段彼にはほとんど友達がいない。しかし、新しいゲームを買ったときだけは、彼の周りに友達が集まってくるのだ。

  しかし、ゲームに飽きると友達は彼の周りには集まらなくなるのだ。そこでまた、新しいゲームを買わなければならない。こうして、ようやく彼は仲間と遊ぶことができるというわけだ。いずれの例も実話であるが、子どもの世界では、いつまでもこのような話が通用するわけがない。どこかで行き詰まってしまうのだ。

  上記2例は子どもの話だが、大人の世界にこのような例はないだろうか。テレビで連日報道される政界の離党問題にも同じ要素がないとは言えない。常に金が必要であるという点では、構造は全く同じでではかろうか。常に政治には金がつきまとう。

  自然体で行動し、それを第三者が認めるというのであればそれはそれでいい。しかし、自分の存在を他に認めさせるために、無理な行動をとれば、当座はよくてもいつかは信頼を失うであろう。私もこうした気持がなかったと言えば嘘になる。

  しかし、今はそうした気持も薄らいできている。自分の存在を他人に無理に認めさせる必要もない。自分に納得のいく行動をすればそれでいい。今を生きていればそれでいいのだ。過去にしがみつくのは見苦しい。

  大人子どもの区別なく、意識する、しないの区別もなく、“人は自分の存在を周囲の者に認めてもらいたいと思うやっかいな生き物”だ。評価は第三者がするもの。自分の信ずる道を自然体で進みたいものだ。これって年をとったからか。

私の栽培している片瀬特産の里芋とショウガ。最後まで順調に育ってほしい。

(日記 午前中は、補助金申請など事務的な処理。その他自分の持っている各種資料の整理。午後2時半から、南小学校の『見守り隊感謝の集い』に出席した。見守り隊の皆さんにお世話になっていると言いことで学校側が開催したものだ。帰宅してから、家庭菜園へ行き、その後、里芋の余分な茎を切り、ショウガの畝の雑草を取り除いた。片瀬特産の里芋とショウガがうまくいくだろうか。夜は、例によってゲートボールの練習。最終ゲームは全くうまくいかなかった。年齢に関係なく上手な人はいるもんだ。今日も一日暑かった。)

いつも竹プランターにいる雨蛙君。朝夕水やりをするので居心地がいいのだろうか。

 
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「いじめはありません」!?

18 7月

人のいるところには“いじめ”あり
  「私の学校にはいじめはありません」という学校関係者がいますが、それは私には「原発は安全です」と言ってるのと同じに聞こえる。そういうことを言う人の言動は全く信用できません。

  今回の大津市の事件では、アンケートに出てきた言葉だけでを聞いても「ただことではない」と学校関係者は思うべきです。アンケートにあれほど様々な意見があったのにもかかわらず、いじめはなかったと断言する教育長の言動も真剣みにかけています。

  従って、マスコミに責められる度に「市長も教育長も学校関係者」も意見を変えています。悲しいことですね。文科省も、他人を責める立場にはありませんね。なぜなら、原発事故が起こった際に様々な事実の隠蔽に力を貸してきたのですから。

 そして、今また、今後の原発のあり方について国民に意見を求める公聴会で、電力会社の関係者が原発推進の意見を述べたり、「放射能で死んだ人は一人もいない」などと脳天気な言動を吐いているのは情けないですね。

  どちらも、自分に都合のよい発言しかしないという点では共通しています。当時の政府も電力会社の幹部も同じような思考回路ですね。ブログを書いている今、『ゼロ』のニュースで教育長が「家庭にも問題がある」というような発言をしています。この期に及んで何を言おうというのだろうか。

  即刻辞めた方がよいだろう。「値上げは権利だという東電の社長」と同じような“KYな人達”だ。結局、彼らは。自分や組織を守ろうとしていちばんかんじんな「信頼を失う」ことになるのだ。それが気がつかないのだろう。

  いじめに話を戻せば,学校にはいじめは存在するのだ。いじめによってしかバランスのとれない者が、子どもにも大人にもいるのだ。それをいじめはなかったと言い張る教職員の神経が理解できない。

大学の軽音楽部のOBで組織した「じいちゃんバンド」のメンバー。もちろん私が最年長だ。みんな音楽が大好きだ。

(日記 午前中は、バンド練習用のCDづくりのために家内にハワイアンソングを吹き込んでもらった。これを使ってバンドのメンバーもフラダンスのメンバーも自主練習ができるのだ。午後2時から、じいちゃんバンドの練習。福井、春江、三国、石川県からメンバーが集まってきた。私のスタジオで午後7時まで練習をした。楽しい時間を持つことができた。午後7時半過ぎから村のゲートボール練習に参加。第1ゲートがなかなか通らなかった。結構忙しい一日だった。)

 
 

最初に価値あり

17 7月

二番煎じでは情けない
  世の中アイディア勝負の時代だ。しかし、アイディアの世界では、最初に考えたものに一番価値があるように思う。近隣(近県)のアイディアを真似ても価値は半減どころか、ほとんどないであろう。

  考えることは無限にあるのだ。しかし、それを考え出そうとするかどうかが問題だ。あまりにも、“指示待ち”で生活していると、考えることなしに毎日を送ることができる。しかし、それでは、進歩はないであろう。

  かといって、どこかのまちのアイディアを真似ても本家以上にはなりにくい。仕組みや組織は真似ても、アイディアは自分たちで考えなければならない。考えて実践し、実践しながら考える事を続けていけば、いつかオリジナリティーの溢れるものになるのではなかろうか。

勝山ニューホテルのロビーで、『住みよいまちづくり(住教育)』について話し合う5人。(左から県職員二人、私、勝山市の建築士会の二人)

  今日、午前11時よりニューホテルのロビーで、県の土木部の二人の職員と、市の建築士会のMさんと、同会員でまちづくりに長年取り組んでいる I さんと私の五人で「住みよいまちづくり(住教育)」について話し合った。

  「住みよいまちづくり」と言うとソフト的な面とハード的な面があろう。住民の意見をいかに汲み上げ、それらを吟味しながらどのようにして実現していくのかということが問題だし、ハード的な面では、何か作ったものを区民の誇りや自信にどうつなげていくかが問題だ。

  そこで、問題は「何をするか」だ。取り組み甲斐のあること、少しでも多くの人が取り組めることを考えなければならない。そして、それらは、独創的であることが望まれる。時間がかかっても、少しずつ賛同する者が増えていくことが望ましい。

  5人でいろんなことを考えた。建築士会の会長さんが勝山で製材所を経営しておられるので、大きな木材を製材した際に出てくるコア(柱や板をとった残りの部分。木の表面部分が含まれてる。)を活用して何かができないかということだ。

  私も、コアを使ったプランターづくりを考えている。材料はそろっている。村の大工さんの協力も得ている。夏休みに子ども達の工作として木製のプランターづくりを企画している。

  コアの活用はまだまだいろいろあるだろうと思う。絵を描いたり、字を書いたり、彫刻したりして、活用できないかということだ。廃物にするのではなく、木の命を最後まで活かしきりたい。そして、それが地域の人に夢や勇気を与えることにつながれば最高である。

  5人であれこれ考えながら、最終的には試作品を作ろうということを約束して、解散した。楽しみながら、何ができるかを考えてみたい。雪囲いぐらいにしか役立たなかった、コアに新たな命を吹き込むことによって、森林の多い勝山をアピールすることができ、まちづくりにつながればと思う。

親を呼んでいるのかピーピーと鳴き続けていた。竹の先端に置いて親の助けを待ったが、駄目だった。そこで、屋根瓦の上に置いたらさっと親と思しき雀が飛んで来た。次の瞬間二羽は飛び去っていった。

(日記 午前中、ハワイアンソングの練習用CDづくり。午前11時より勝山ニューホテルで『住みよいまちづくり(住教育)』について話し合う。楽しい時間であった。昼過ぎにいったん別れた。午後2時半に再び県職員の二人がやって来た。そこで、奥越森林組合勝山工場へ出向き、製材した杉の端材であるコアを手に入れた。これで、絵か文字か彫刻を彫ってくることをお互いの課題とした。帰宅すると、家内が小雀を持ってどうすればよいかと思案していた。巣から落下して路上にいたらしい。自然保護センターに問い合わせると「落下した辺りに置いて下さい。親が助けにくるかもしれません。」とのことだった。竹の先端に置いたが、親が助けに来るような気配がしなかった。付近には親と見られる雀が鳴いていたので、小雀を屋根の瓦の上に置いた。ところが、間髪入れずに親と思われる雀が飛んできた。そして二羽は飛び去って行った。親が助けたのだろうか、そう信じたい。ほっとした。)

 
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許容範囲が狭くなる……

16 7月

想定外の異変に対応できるか
  現職(高校教員)時代、夏休み中の補習授業は本当に暑かった。教える側の教員も、授業を受ける生徒達も汗を流しながら頑張ったものだ。それが夏というものだと、誰もが疑いを持たずにいた。従って、涼しくなる秋は本当に気持ちがよかった。

   子ども時代は、家庭で暖をとるのは、炭の入ったこたつや火鉢だった。部屋にはすきま風が入ってきても、綿入れなどを着て対処したものだ。それが冬だったのだ。夏の部活動は、耐えがたい暑さであり、冬は逆に寒かった。しかし、春になれば暖かく、秋になれば」涼しくなったのだ。

 夏は、「♪アイスキャンデー~♪」と自転車でアイスキャンデーを売りに来るおじさんがいたし、池には、スイカやキンカン瓜が浮かんでいた。自然に逆らわず、受け入れていたのだ。そして旬のものを食べた。戸を開けて蚊帳の中で眠ればそれなりに涼しい風も入ってきたのだ。

  しかし、今はどうだろうか。学校にもエアコンが入る時代になった。教室も冷暖房が完備しつつある。こうした環境に慣れるとなると、外での部活動は過酷に思えるだろう。熱中症などで倒れる子どもが増加している。

  暑さ、寒さに耐えられないのだ。許容範囲が狭くなっているのだ。少し暑くても、少し寒くても、耐えられないのだ。何か想定外の異変が起こったらどうなるだろうか。

  許容範囲が狭くなっているのは、気温ばかりの話ではない。他人から、叱られたとき、叱られ慣れていないので極度に落ち込む子どもがいる。こうした面でも、許容範囲が狭くなっているのだ。上司が部下を叱るのに気をつけないと、即会社を止めたり、引きこもってしまう。

  温室育ちの子どもが増えるのは、温室で育つ野菜が増えるようなもので、自然に育ったものとは大きく異なる。野菜なら、本来持っている味が出ないだろう。こんな事では、病気にも抵抗力の無い人間が増えていくのではなかろうか。そのうちに野性味溢れる国々の人達に太刀打ちできなくなるのではなかろうか。

終日余った竹を使った作業。合って方の新型プランター作りにチャレンジした。

(日記 今日は、終日、竹プランターづくりで余った竹を使って、花壇の囲いを作ったり、新型の竹プランターづくりにチャレンジしたりした。竹を縦に使ってのプランターだ。三階建てのプランターなのだ。これで、夕方まで時間を費やした。夜、7時半からゲートボールの練習。といっても、私は普段はゲートボールをやらないが、地区対抗ということで、付き合いで参加している。我がチームのキャプテンは93歳の男性だ。ゲームに参加しているだけでも、感心する。彼の長生きの秘訣である「胃袋を休める」と「友達を作って語る」を地でいっているような生き方だ。ある意味では手本になる。)

ナイターでのゲートボール練習。昼の暑さが嘘のようだった。円内は私。半ズボンで立っているのは93歳の監督。

 
 

いつどこで何が……

15 7月

災害は“想定外”でやってくる
  最近の自然災害を見ていると、共通した部分が見られる。それは、被災地の高齢者の方々が“異口同音”に「長いこと生きてきたが、こんなことは初めてだ」という発言だ。今回の九州の豪雨災害にしてもそうだ。近年の“福井大豪雨”の際にも同様だった。

  昔から言い古された言葉に“災害は忘れた頃にやって来る”があるが、最近はそうではないのだ。それまで全く被害に遭わなかった地域が、あるとき突然大災害に遭うのだ。それまでは、雨が降っても河川が氾濫したことのない地域に、突然大雨が降るのだ。

  いつ何時、何が起こるかわからないのだ。現代は、“想定外”の事が起こりうるのだということを私達は肝に銘じておかなければならない。自然災害のに対して普段からどう対処すべきかを考えておかなければならない。

  災害に対して備えることはとても大切だ。先の福井豪雨では携帯電話や普通電話や車での連絡網はほとんど機能しなかったという。その後、我が町でも防災無線が設置され、電柱に取り付けられた拡声器によって情報を得られるようになった。

  しかし、これらも、今回の豪雨の場合には氾濫した川の水音や雨音によってほとんど聞き取れなかったっという。そうなると、自力で避難することも頭に入れておかなければならないだろう。他に頼るのも大切だが、それらが機能しなかったときには自分で判断しなければならないのだ。

  自然災害ばかりでなく、事故もどこで遭遇するかわからない。交通事故は、被害者にも加害者にもなる可能性があるので注意しなければならない。気の毒なのは、通り魔などの被害に遭うことだ。

  今、日本は、災害に打ちのめされている。いつどこで何が起こっても不思議ではない状態が続いている。他の地区の出来事を「他人事」だと思わないで、いつ自分の周辺で起こるかわからないということを、常に考えておかなければならない。

水路点検。取水口の砂利を除去した。

(日記 午前8時より、農事法人の依頼により、田んぼの水の取り入れ口の砂利の除去作業。帰宅してからはハワイアンバンドの編曲作業。東京から帰省している次女の助けを借りて、楽譜づくり。午後も、作業を継続。トウモロコシの初採り。午後8時半より横浜の長男家族とウェブカム。孫に、国語の朗読と歌を聴かせてもらった。夏休みに会うのが楽しみだ。)

横浜に住む長男の家族とウェブカム。夏休みに会えるのが楽しみだ。

 

トウモロコシの初採り。植えておいてよかった。

 
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年月をかけて仕上げること

14 7月

インスタント時代に
  この頃は何でも手に入る。金さえ出せば即座に手に入るモノが多い。しかし、金で手に入れたモノには価値がない。こんな時代だからこそ、時間をかけてじっくり手に入れた『モノ』に価値があるのではないか。

  特に、子ども達に願う。「一週間かけて仕上げる」、「一ヶ月間かけて仕上げる」、「1年間かけて仕上げる」、「3年かけて仕上げる」、「10年かけて仕上げる」……、こんな経験をしてほしい。

  ここで仕上げるとは、「モノを作ること」のみならず、「何か(技術など)を身につける」、「何かを育てる」など、“それまでできなかったことをできるようにする”ことでもよいのだ。目標を定め、時間をかけてチャレンジするということだ。

  日々の変化は微々たるもので進歩を実感できないかもしれない。短期間では、進歩どころか後退しているかもしれない。しかし、目標を定めて毎日地道な努力を続ければ、一定期間では進歩が可能だと信じたい。

  この地道な努力を私は『毎日パワー』と呼んでいる。子ども達にも理解してもらえるようにするために在職中は意識して使っていることばだ。これは何も子ども達のためばかりではない。自分自身にも当てはまるのだ。

  私も、1ヶ月、3ヶ月、今年中、今年度中の目標を密かに定めている。後は、欲張らずに毎日少しずつでも実行することでよい。目標を定めたら『毎日パワー』を信じて、その日のことさえ考えればよい。先のことを考えすぎると重荷になるからだ。

  「桃栗3年柿8年」という言葉がある。8年がかりで立派な実のなる柿の木を育てることができるのだろうか。柿の実をたくさん実らせるのは時間のかかることかもしれないが、柿の木を植えなければ収穫は期待できない。

  子ども達には、「農」に親しんでほしい。多くの作物は数ヶ月から半年はかかるのだ。時間をかけて手に入れることの「尊さ」を経験してほしい。インスタント時代の今だからこそ価値あることなのだから。

竹プランターづくり。必要な人に差し上げたい。

(午前中、「花咲くまちづくり」の一区切りとして「竹プランターづくり」を行った。三つのうち二つは村の人に差し上げたい。昼頃、家内がイチジクを収穫してきた。いよいよイチジクシーズン開幕だ。今は実が着き過ぎている。かなり摘果したがそれでも実が多すぎる。去年は、完熟できなかった実が冬まであった。木の能力と実の数のバランスが大切だ。午後も竹プランターづくり作業を継続した。午後4時から「親子太鼓教室」。保護者にとってはかなりハードなトレーニングになっているらしい。まさに“太鼓ビックス”だ。)

初採りの大きなイチジク。早速、初物は仏壇にお供えし、味わった。いよいよいイチジクシーズン開幕だ。10月いっぱいは収穫できる。

 
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バランス

13 7月

人はパンのみで生きられるのか
  NHKの午後7時半からの番組『退院後が変わる▽遠隔医療 カルテ共有で介護』を見ていた。医療費抑制のためか、最近は、長期入院が許されない状況になっている。テレビで、 I Tを活用して、“家庭にいながら病院にいるかのごとく、看護師や医師と顔を見ながら話すことができ、心電図などのデータも病院で把握できるシステム”についての番組だった。

  患者は、まるで病院にいるかのごとく、I T技術によって、体調を管理してもらえるシステムだ。寝ている間に異常があっても、病院側ではそれがキャッチし、対応できるというわけだ。一人暮らしの高齢者には安心できるシステムだろう。

  自分もこのようなシステムにお世話になるかもしれない。体調管理や、病状の突然の悪化に対しては、データが病院と直結しているために、いろいろ指示を受けることができ、安心だろう。しかし、健康管理だけでは、人は生きてはいけないのではないか。

 健康維持だけでは孤独な一人暮らしを乗り切り難いのではないかと思った。体と心のバランスが必要ではないのか。身体の健康は、こうした I T技術の進歩によって保たれるだろうが、生き甲斐や精神面での満足感は別の次元の話であろう。

  どうせ I Tを活用するならば、こうした高齢者こそ、遠隔地にいても顔を見ながら話せるシステムも必要ではないかと思った。長年の人生経験で得たものを次世代に伝えるのは生き甲斐につながり楽しいことではなかろうか。いつまでもどこか小さな部分でも現役でいたいのだ。

  心電図や脈拍、血圧、などのデータを病院のパソコンに送り健康維持に努めると同様に、いつでも話せる仲間がいて、子ども、若者、同年代の者と情報交換ができるシステムも必要ではないのだろうか。I T関係者の活躍を期待したい。

  そんなことを、番組を見ながら考えていた。健康作りは何よりも大切だ。しかし、それだけでは人は生きてはいけないと思う。生き甲斐づくりにも I Tを活用できないかを考えてみたい。医者とI T関係者のコラボで一人暮らしになっても、人とつながることのできる社会出会ってほしい。

 こんなことを考えていたら、「人はパンのみで生きられるか?」という問いかけを思い出した。

・・・・・・・・  マザーテレサの言葉 ・・・・・・・・

  貧しい人たちは、私たちが彼らに与えるよりはるかに多くを、私たちに与えてくれます。富の中から分かち合うのではなく、ないものを分かち合うのです。貧しい人たちは、私たちが彼らに与えるよりはるかに多くを、私たちに与えてくれます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

倉庫を改装した集会所で、高校生の指導を受けてヨサコイ風のパフォーマンスをする若い衆。今から今から三十年余り前のこと。

(日記 午前中は、居間と自分の机の周りを片付けた。また、公民館から借りてきたアルバムから「片瀬区民が活動している場面の写真」をスキャンした。いつか『かたせ瓦版』で紹介できるだろう。 アルバムを見ていて、「みんな青春があったんだ」ということを発見した。30年、50年前の写真を見ていると、それぞれの団体が公民館祭や防災などで頑張っていたことがよくわかる。午後は、バンドカラオケづくり。かなり時間がかかった。昨晩最終電車で帰省した次女がいて少し賑やかだ。特に、家内は喜々としている。)

AKB48風に踊る若妻達。今やみんなおばあさんだ。

 
 

モノ探し

12 7月

時間の無駄
   今朝は、大切な鞄を紛失し、かなりの時間探し続けた。自分勝手に忙しくしているために、使ったモノを元へ戻さないからだ。家内の入院で一時期一人暮らしをしたが、このとき、一番恐怖だったのは、モノの紛失だった。誰にも聞くことができないからだ。

  常に、携帯、免許証、車のキー、デジカメは、定位置に置くよう心がけた。いつ何時、緊急事態が発生してもすぐ動けるようにするためだ。しかし、今朝は、完全に見失ってしまい、一時間ぐらいは「モノ探し」に時間を費やした。

  モノを探さなくてもよいように、定位置に置くと言うことで、専用の鞄まで買った。「バンド」、「和太鼓」、「オカリナ」、「民謡」、そして、「子育てマイスター専用のグッズ(紙芝居の箱、絵と脚本)」などを個別の鞄に入れるようにしている。鞄には入りきらないモノもあるが。

  しかし、バンド一つとっても、一つの鞄の中へ収まるような量ではない。ギターだけでも、予備の弦、ピック、エフェクター、アンプ、コード、そして楽譜などがあるからだ。楽器が異なればまたいろんなものが必要になる。

  考えてみると、いろんな事をやり過ぎるからだ。しかし、「どれかを止めろ」と言われても、簡単にどれを止めればいいのか決めきれない。結局、あれこれやり過ぎてモノが多くなり、どこに何があるのか、忘れてしまって、長時間探す羽目になるのだ。

  時々、自己嫌悪に陥ることがある。「急がば回れ」ではないが、次に使うことを考えて所定の位置に使ったモノを戻すしかない。今日は、失ったモノがもう出てこないだろうと諦めかかった。昼過ぎに家内が見つけてくれた。出てこなかったら大変なことになるところだった。

初共演。果たして成功するか、少し心配だ。

  だんだん、記憶力が悪くなり、物忘れも多くなっていくだろう。これからは、加齢と戦いながら、何でもやっていくのだろうか。寂しくはある。しかし、百歳過ぎても絵を描き続ける画家・豊田三郎さんや九十歳をこえてなお創作し続けるアンパンマンの作者・やなせたかしさんのような方がおられると勇気が湧いてくる。

 今後は、貴重な時間をモノ探しに費やすことのないように、何か具体的な対策を考えてみたい。これまで何度同じことを考えただろうか。今度こそ本気で考えたい。

(日記 午前十時半より市役所に於いて開催された『平成24年度勝山市林道愛護組合連絡協議会』の総会に出席。午後は、家庭菜園作業。久しぶりにのんびりした一日になった。夜は、ハワイアンバンドの編曲作業。フラダンスとの共演が楽しみ。)