RSS
 

“人間とは自己の存在を認められたい生き物”

19 7月

自然体か無理をするか
  長い間、子ども達の様々な姿、直接接した多くの大人、テレビなどで見た大人の姿、……、様々な人達の姿を見てきて、私が思うことは、“人間は自己の存在を誰かに認めてもらいたい生き物”だと確信するにいたった。

  そのために、他から見ていると、奇異な行動に映ることでも本人は真剣である場合が多かった。自分の存在を他に認めさせるために、まっとうな行動をとる場合は、時には素晴らしい行動として賞賛される事も少なくない。

  負け続けたアスリートが、一念発起して過酷なトレーニングに耐え、成果をおさめるということはよくある話で見習う点も多かろう。自分の存在をアピールすることは人が生きる馬力になることもある。しかし、度を過ぎると見苦しい。

 ところが、自分に他と勝負できるもの(特技、趣味、アイディア、包容力など)を持たない者が自分の存在を認めさせるとなると話は簡単ではない。どこかに無理が入ってしまう。そうなると、どこかで破綻してしまったり、信頼を失ってしまう時もある。

  かつて、学業でもスポーツでも文化的なことでも、何にも自己の存在を他に認めさせる者を持たない(と本人が思っている)子どもがいた。彼は、家の金を持ち出したり、時には他人の金を盗んだりして、金を手に入れていた。しかし、彼はそうして得た金を自分の飲食や遊びには使わなかった。

  そのお金で、毎日菓子や飲み物を購入して、友達に配ったのだ。彼が金を持っている限り、周りには仲間が集まり、その時間帯だけは彼が主人公になり得たのだ。そのポジションを維持するためには、彼は金を集め続けなければならなかった。

  別の話。親に対して「いっぱい働いてたくさんゲームを買って下さい。」と親への手紙に書いた子どもがいた。普段彼にはほとんど友達がいない。しかし、新しいゲームを買ったときだけは、彼の周りに友達が集まってくるのだ。

  しかし、ゲームに飽きると友達は彼の周りには集まらなくなるのだ。そこでまた、新しいゲームを買わなければならない。こうして、ようやく彼は仲間と遊ぶことができるというわけだ。いずれの例も実話であるが、子どもの世界では、いつまでもこのような話が通用するわけがない。どこかで行き詰まってしまうのだ。

  上記2例は子どもの話だが、大人の世界にこのような例はないだろうか。テレビで連日報道される政界の離党問題にも同じ要素がないとは言えない。常に金が必要であるという点では、構造は全く同じでではかろうか。常に政治には金がつきまとう。

  自然体で行動し、それを第三者が認めるというのであればそれはそれでいい。しかし、自分の存在を他に認めさせるために、無理な行動をとれば、当座はよくてもいつかは信頼を失うであろう。私もこうした気持がなかったと言えば嘘になる。

  しかし、今はそうした気持も薄らいできている。自分の存在を他人に無理に認めさせる必要もない。自分に納得のいく行動をすればそれでいい。今を生きていればそれでいいのだ。過去にしがみつくのは見苦しい。

  大人子どもの区別なく、意識する、しないの区別もなく、“人は自分の存在を周囲の者に認めてもらいたいと思うやっかいな生き物”だ。評価は第三者がするもの。自分の信ずる道を自然体で進みたいものだ。これって年をとったからか。

私の栽培している片瀬特産の里芋とショウガ。最後まで順調に育ってほしい。

(日記 午前中は、補助金申請など事務的な処理。その他自分の持っている各種資料の整理。午後2時半から、南小学校の『見守り隊感謝の集い』に出席した。見守り隊の皆さんにお世話になっていると言いことで学校側が開催したものだ。帰宅してから、家庭菜園へ行き、その後、里芋の余分な茎を切り、ショウガの畝の雑草を取り除いた。片瀬特産の里芋とショウガがうまくいくだろうか。夜は、例によってゲートボールの練習。最終ゲームは全くうまくいかなかった。年齢に関係なく上手な人はいるもんだ。今日も一日暑かった。)

いつも竹プランターにいる雨蛙君。朝夕水やりをするので居心地がいいのだろうか。

 
2 Comments

Posted in 未分類

 

Leave a Reply

 

 
  1. やまもとゆきこ

    2012年7月20日 at 9:19 AM

    昨日の福井新聞に、先生のことか掲載されていましたね。
    イクジイの記事です。

    福井新聞⇒福井のニュース⇒社会⇒イクメンならぬ「イクジイ」

    http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/society/35813.html

    うちの息子の小学校ではNIE(教育に新聞を)を推進していて、うちでもよく親子で新聞を読んでいます。
    で、先生の記事を見つけて、「この人、ママの先生だった人だよ!」と自慢げに息子に言いました。ますますご活躍下さい!

    そう言えば、1ヵ月ほど前に、その時も息子と新聞を見ていたら、「大人社会でのいじめ」、「職場でのいじめ」のことが載っていました。テレビでは今、大津の事件のこと、津のいじめを気に病んだ校長が自殺をしたことを盛んに報道していますが、大人の社会でもこんなことがあるのに、子どもにだけ「いじめはいけない」って言えるのかと、親子で新聞を読みながら、息子に対して、一人の大人として恥ずかしくなりました。

    子どもに恥ずかしくない生き方を、親が、地域の大人が責任を持って示していかなくてはいけないと。

    自分の子どもが被害者になるのも、加害者になるのも、想像したくありません。子どもに対して自分にできることは限られているかもしれませんが頑張って生きていきたいです。

     
  2. Norio Yama

    2012年7月21日 at 5:32 PM

     「いじめ」は、子どもの世界でも大人の世界でもありますね。始末が悪いのは、本人がいじめていると気がつかない場合ですね。
     最近のいじめ問題では、加害者はほとんどいじめではなく「遊び」と認識していることですね。しかし、被害者の方は、いじめられていると感じています。

     間に入る大人は、よほど気をつけないと、いじめを見つけることはできないだろうと思っています。一見遊びにも見えるからです。また、同じ言葉を発しても、人によっていじめと感じる場合とそうでない場合がありますね。
     
     そういう意味では、私達も自分の言動には気をつけなければなりませんね。自分ではそんな気持がなくても、相手が「いじめ」と感じたら「いじめ」なんですからね。