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Archive for 5月, 2012

どこもかしこも後継者不足

31 5月

生産森林組合連絡協議会に参加して
  区長になると、充て職でいろんな役割が回ってくる。今日は、片瀬の生産森林組合長として『勝山市生産森林組合連絡協議会』に出席した。決算と予算の承認は短時間で終わった。

  その他のところで、林業を取り巻くいろんな問題を担当者から聞くことができた。今や、林業では食べていけない時代になってしまったようだ。それぞれの地区や個人が山を持っていて、立木を伐採し、売却し、さらに、植林するとなるとほとんど金にならないようだ。

  従って、農業と同じように後継者が育たなくなり、山を守ることができない状態になりつつあるようだ。以前は、木を伐採し、それらを売り、新たに植林をし、しばらくは下草刈りをしなければならず、山には種々の仕事があって、活気づいていたのだ。

  しかし、外国の安い木材に押されて、国産材をあまり売れなくなったというのだ。また、最近では安くて強度のある集成材も出回り、高価な木材は売れないということだ。補助金でどうにかなり立っている状況ではなかろうか。

 「売っても経済的に合わない→林業に携わる者が少なくなる→後継者が育たないの」という循環によって、今に日本の山は荒れるにまかせる時代が来るのでないかとのことだった。

  考えてみれば、これは林業の問題だけではない。農業もまったく同じなのだ。若者が継ぐだけの収入がなければ、仕事のある都会へ出てサラリーマンになるのを止めることはできない。

勝山市森林組合連絡協議会に参加した皆さん。

  そうなると、昨日の話ではないが、集落や、地方の都市さえ持続不可能になるのだ。そして、「限界集落」というありがたくない呼び名で呼ばれることになる。

  人口が減少すれば、医療機関も、ショッピングセンターも、貧弱なものになり、近隣の都市へ出かけなければならなくなる。若い人達は通勤だけのまちに魅力を感じるだろうか。

  林業に関係した話をしているうちに、そんな話まで出てきた。悲観ばかりしていても始まらない。それでは、次世代は益々悲観的になるからだ。それに、自分自身も情けない。

 こうなると、私達年配者の務めは、今住んでいるところで“納得した生き方”、“充実した生き方”をすることしかないのではないか。そんなことを思いながら、みんなの話を聞き、自分も話したりした。

  今、私達は,ライフスタイル全体を見つめ直し、幸せとは何かを自分自身に問わなければならないのではなかろうか。ブータンの生き方は、遅れているようで、案外先を進んでいるのかもしれない。学ぶ必要がある。

(日記 午前中、昨日に続いて竹スキー作り。その後、フラダンスのためのバンドカラオケ作り。午後は、『勝山市生産森林組合連絡協議会』に出席。いろんな話を聞けてよかった。村の山林の権利についても聞くことができた。また、今日会議があった九頭竜森林組合の勝山工場には、製材から出た半端な木材がたくさん積まれていた。4mの長さで1本150円とのことであった。雪囲い以外にもいろんな事に役立つような木材がたくさんあった。近いうちに買い求めたいと思った。夕方、明後日のフラダンスの会場となる市営プールで音響について打ち合わせをした。)

 
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10年前、そして10年後

30 5月

我が村は持続可能か
  自分経験から言えば、10年や20年はあっという間に過ぎてしまう。我が家を例にとれば、10年前は、高校生、大学生、社会人の3人の子どもがいた。20年前となると、小学生が2人、中学生一人と私達夫婦の5人だった。

  しかし、今は、それぞれが就職して、私達夫婦の二人だけになってしまった。10年後、20年ごとなるとまったく想像できない。私達の村では、一人、2人、あるいは3人暮らしの家庭が約3分の1ある。

 それこそ、10年後には村の総戸数は減少するだろうと思う。また、今は、小さな子どもが何人かいても、10年も経てば事態は一変する。20年も経てば、想像もできないような状況になる可能性がある。

 そうなると、村そのものが持続可能かどうかが問題になる。となると、村の過疎化は、今、子どもがいるかどうかではなく。根本的に、住みたくなる村、戻りたくなる村にしなければならない。地域の子どもを地域が育てる気持ちでなければ地域は「ふるさと」になり得ないであろう。

 何か、行事をやるにしても、心を込めて取り組まなければならないだろう。誰もが参加したくなり、楽しめるように努めるべきではなかろうか。ただ、こなしているだけでは、どうしようもない。

 次の日曜日は、私達の地区の運動会だ。昼食はバーベキュー。田植えも終わり、一日のんびりと楽しもうというわけで、毎年5月の末か、6月初めに行っている。

 私には、「たかが運動会、されど運動会」だ。これを機会に、区民が楽しい一日を過ごすことができるように準備する者は考えなければならない。たとえ種目を考えるにしても、適当に考えるのではなく、少しでも楽しいものにできないかを考えるべきだ。

『竹げたムカデ競争』につかうスキー場の竹げた作り。

  このようなことを関係者にお願いしておいた。私も、何か子どもが喜びそうな種目をやろうと思って、図書館へ出かけ、「竹げたムカデ競争」をやってみることにした。この種目だけは、全て私が段取りをすることにした。

 竹を割り、スキーのようにして、一度に3人が足を入れて息を合わせて前進するのだ。これを小学生にやってもらうことにした。果たして、楽しい競技になるだろうか。子ども達の楽しい思い出になれば、いつか大人になった時、今度は次の世代を楽しませてくれるのではなかろうか。

  また、バーベキュー直後に、竹のプランター作りを行う予定だ。親子で、あるいは祖父母と孫が力を合わせて、独自のプランターを作り、家に持ち帰ってもらえればと思う。そしてそれらを各家庭で飾ってもらうのだ。できれば道路に面した部分に飾ってもらいたいと思う。

  村の中を歩いたとき。あちこちできれいな花を見ることができるのは、楽しいだろうし、自分の住む地区に、愛着が持てるのではなかろうか。楽しい一日を過ごしながら、次につながる何かをスタートさせることができればと思っている。

 こうして、ふるさとに愛着を持ってもらうことで、持続可能なまちづくりができればと思う。こんなことを考えていると、私自身も運動会が待ち遠しくなる。村の3役の一人が大工さんであるので、当日は、子ども達の応援団として活躍してもらうことになっている。る。

衣装とレイを着けてのフラダンスの練習。誰にも習わず、パソコンでYouTubeを見ながらの練習だった。

(日記 午前中、区の仕事。金の出し入れなどで、JAへ行き、記帳してもらったりした。その後、「竹げたムカデ競争」に使う竹げた作りなどを行った。続いて、フラダンス用のCD作り。午後7時半より太鼓のメンバーで『フラダンス』の練習。2曲覚えた。次の土曜日に初めての発表があるのだ。今日はTシャツの上からではあるが、衣装を着けて練習した。少し様になったようだ。私は、ハワイアンギターの練習。)

 
 

身体によくないこと

29 5月

好きなことでもストレス
  若い頃は「ストレス」というと、何か自分に不都合なことや好ましくないことが起こった場合に心身に感じる不都合さを想定していたが、60歳を過ぎると好きとか嫌いとか関係なく、良いこととか悪いこととか関係なく、ストレスになるように感じる。

  特に、パソコンで何かをする場合に、やり直しがきくだけに、とことんやろうとする。何度も、何度も、繰り返すのだ。そんな中で、私にとって一番苦労するのは、音楽だ。ああでもない、こうでもないと考えているうちに、一日があっという間に終わってしまう。

  今日もそうだ。自分で好きなこと、やりたいことをやっているとは言え、食事とトイレ以外はパソコンの画面を見ている状態が続くと身体にはかなりストレスになるようだ。

  「適当にやっておこう」と思うが、作品となると少しでもよくしようと手をかけるために、どんどん時間が経ってしまう。これからの生き方として、適当に手抜きすることを考えなければ身体は持たないだろう。若い頃は一週間ぐらい午前様でも身体は持ったのだがこの頃はそうはいかない。

  そういえば、大リーグで頑張っているダルビッシュ投手も、先発の場合、手抜き(力を抜く)しながら、長いイニングを投げるのだということを聞いたことがある。ダルビッシュ投手と比べること自体が相手に失礼になる話だが、私としてはやることの間口を狭めなければならない。

  今日は完全に身体の限界を超えているように感じた。夜は完全休養といきたい。ところで今日やったことは、区長の仕事と、音楽の編曲作業だ。特に、後者に膨大な時間を要した。これからは、適当にやることを考えたい。そして、ここぞと言うときに力を出せるように体力の貯金をしておきたい。

(日記 終日、パソコンで創作作業。晴れていれば外へ行くつもりだったが、天気も悪いのでついついパソコンにかじりついていた。不健康な一日だった。原点に返って“晴耕雨パソ”でいきたい。) 

 
 

労働と農薬

28 5月

能率を追い求めた農業
  かつての米作りにはとてつもなくたくさんの手間がかかっていた。米という字を「八十八」と読むとき、米作りにはたくさんの(八十八の)工程があったと言われてきたものだ。

馬による農耕作業。(写真提供:朝日印刷)

  そのかなりの部分に子ども達も関わってきた。馬で田んぼを耕すとき、時には馬の口を引いたりしたものだ。その馬の餌を作るのもほとんどが子どもの仕事だった。我が家では私の仕事だった。

 田んぼの肥料と言えば、堆肥だった。それは馬小屋に敷かれた藁と馬の糞尿で重く湿り気を持った堆積物で作るのだ。これを荷車で田んぼまで運んで堆肥枠で高く積み上げ、保存しておいて使ったのだ。それより以前は、山の草なども田んぼの肥料として使ったらしい。

  田植えや苗運び、田植えにも子ども達がかり出された。これら全てが農家の子どもなら誰もがする当然の仕事だった。田植えが終わると、除草機を回すのは子どもの仕事だった。大人達(特に女性)は、素手で田んぼの草を取ったものだ。

素手による除草作業。腰の痛い重労働だった。腰にはカンコが下がっている。(写真提供:朝日印刷)

  大人達は、稲の葉先で目を痛めないように、野球のキャッチャーのように細かい網の面を顔につけていた。また、田んぼにいるブト(ブヨ)に身体を刺されないように腰にはカンコ(ぼろ切れを細縄などで縛り、それに草などを巻き付けて火をつけ、腰にぶらさげて作業をしたのだ。

 実りの秋には、イナゴが稲に群がっていたが、それらを素手で取って一升瓶に詰めるのも子どもの仕事だった。とったイナゴは自宅で飼育しているニワトリの餌にしたり、食用にしたものだ。ヒエ取りももちろん人の手だ。

  稲を乾燥させるのは、「はさ」と言われる、竹と丸太で作ったものにつるしたものだ。その後の、脱穀も最初は足踏み式の脱穀機、その後、動力式に変わったのだ。

  また、脱穀した籾は、むしろの上に広げて乾燥させた。籾から出る埃は細かく、身体につくととても痒かったのを覚えている。乾燥も一度や二度ではなく、何度も行った。雨が降れば慌てて小屋の中へ籾を仕舞わなければならなかった。

「はさ」による稲の乾燥。手渡しで稲束を上の人に渡すのだ。(写真提供:朝日印刷)

  また、脱穀した後の藁は馬の餌や藁製品の素材となった。米を農協に供出するときには、米俵に入れたために、俵を編むのもこれらの藁を使ったが、農家にとってはかなり大切な仕事だった。

 かつては、イナゴもいたが蛍もたくさん飛び交っていた。ツバメもたくさんいたし、赤とんぼも空を埋めるくらいにたくさん飛んでいた。

 こうして振り返ると、私の子ども時代には、現在使われている農機具や肥料、農薬はほとんどなかった。かつては、全てが農家の手間暇かけた努力で為されてきたのだ。

  ところが、こうした農業では能率が上がらず、重労働であるために、手作業が機械に、堆肥などの有機肥料が化学肥料に、手で行っていた虫などの駆除には農薬が使われるようになっていった。

 その結果、いろんな弊害が出てくるようになった。それらを農家のせいにするのは簡単だが、それは酷な話しだ。こうした社会になった背景をよく理解し、今後どうすればよいかを全ての人間が考えなければならない。

足踏み式の脱穀機。(写真提供:朝日印刷)

  利益を追求し、能率や効率を重視する今の社会の仕組みがこうした結果をもたらしたのだ。このような流れはまだまだ続くだろう。果てしない欲望が原発を生んだと考えられなくもない。私達は、どこへどう流れていくのだろうか。考えてみるときだ。

(日記 午前中、エンドウとイチジクのネット張り。午後も作業を継続。その後、観葉植物の植え替え作業。帰宅して、オカリナの伴奏のためのギターの楽譜を作る。午後7時半より、オカリナの練習。今度の日曜日の自然観察会では、大師山山頂でオカリナを演奏するのだ。私は、オカリナではなく、今回はギターで伴奏するのだ。晴れれば気持ちがよいだろうなと思う。)

大師山山頂で演奏するためのオカリナの練習。今回、私はギターで伴奏するつもりだ。

 
 

これからが大切

27 5月
一人ひとりの行動に結びつくか
  今日は、『環境自治体会議』の最終日(三日目)。家内と二人で参加。今日は全体会だ。8時過ぎに家を出た。8時45分からアトラクションとしてミュージカル『この川のほとりで』がドラゴンファミリーによって演じられた。

閉会式のアトラクションで行われたミュージカル『この川のほとりで』の一場面。

  その後、分科会報告があった。続いて、鹿谷学校の児童が「子どもたちからのメッセージ『自分の住んでいる地域が好きですか?』と題して、赤とんぼの調査や環境問題について発表し、大人達に問題を投げかけた。

  その後、日本環境教育学会・立教大学教授・阿部治氏が『日本発:地域・日本・世界を元気にする教育とは?』と題して、記念講演を行った。環境教育の大切さをいろんな観点から話した。

  そして、『かつやま会議宣言採択』、『環境自治体をめざすちっご委員会経過報告』、『環境自治体会議総会報告』、『次期開催地あいさつ(鹿児島県日置市)』、『閉会の挨拶』と続いて全ての日程を終えた。

 参加者の多くは、高揚感を持ってこの会の閉会を迎えたことだろう。しかし、問題はこれからだ。それぞれの分野で、一人一人がどう行動するかだ。帰宅する頃には平常に戻っているかもしれない。

  さて、私達は何から行動を始めるかだ。人と同じことをしていても、同じ効果が出るとは限らない。自分の考えを自分の言葉で語れなければ人を誘ったり、理解してもらうことはできない。

鹿谷小学校の発表『自分の住んでいる地域が好きですか?』の発表。

  環境問題の入り口はいろいろあると思う。赤とんぼから入る人もあれば、有機農業から入る人もある。アレルギーや食育から入る人もあれば、「売れる米」から入る人があるかもしれない。発表を聞いてそう思った。

  今日の環境問題講演で講師が指摘した国内的課題の中にある『孤立化・関係性の希薄化・無縁社会』や『自然体験の減少』、『少子・高齢化、過疎化』、『経済格差の拡大』、『低い食料自給率』などは我が地区でも例外ではない。

  しかし、これだけの問題を一度に解決しようと思っても簡単ではない。村の人達に、いきなりこれだけの難しい問題の解決法を考えましょうと言っても、無理だろう。

  私は、一つの入り口として、『きれいなまちづくり』を目標に、親子や家族による『竹プランター作り』から、始めたいと思っている。この中で、親子のコミュニケーションを図り、地域全体の連帯感、そして、地域をきれいにすることの快適さと重要性を実感してもらえればと思う。

閉会式の記念講演を行った立教大学の阿部治教授。

  一方では地域の世代間交流を図り、それらが地域のつながり、絆につながればと思っている。果たしてどうなることやら。子ども達に大いに期待したいところである。

 もう一つのアプローチは、後継者不足の我が村の建て直しを図って組織された『農業組合法人かたせ』の発展だ。昨年乾燥施設も備えて最終工程も自分の村でできるようになった。

  後継者不足を改善するだけではなく、「売れる米」を作るために、安全で美味しい米を生産することから、環境問題にアプローチできるのではなかろうかと思っている。これまでと同様に大いに提案を続けたいと思っている。

(日記 午前6時より婦人会の公園の草取りに参加。草刈り機で応援した。来週の運動会の会場となる場所だ。午後8時に家を出て、『環境自治体会議かつやま会議』に家内と二人で参加。会議が少し延びて昼を過ぎた。帰宅してすぐ昼食。昼食後、役員の一人に応援してもらって来週の日曜日に行われる区民運動会後に行う『竹プランター』作りの材料となる竹を切って運んだ。

婦人会による早朝の草取り。ご苦労さんでした。

子ども達がどんなプランターを作るかが楽しみだ。午後3時頃から、月に一度の親父バンドの練習。今日は、3曲練習した。三国、春江、大野などから4人が私の事務所へ集まってきた。楽しい時間を過ごすことができた。)

 
 

農業について考えた日

26 5月

『環境自治体会議かつやま会議』に参加して
  環境自治体会議野二日目。私は、平泉寺公民館で行われる第5分科会の『コシヒカリ発祥の地福井から~環境にやさしい農業の発信~』に参加した。出席者は約80人。

雑草管理のために買われているヤギ。

  午前中はフィールドワークということで、午前9時、2台のバスで平泉寺公民館を出発し、最初は『ヤギによる雑草管理放牧の実験』をしている施設を見学、続いて『安全で美味い米作り』をしている地元平泉寺のM作業場や田んぼを見学、最後に『史跡白山平泉寺旧境内』を見学。

  そして、公民館へ戻って昼食。この間、市内で熱心に農業に取り組んでいるH君と同じバスになったために、いろいろ話しをする。彼は、農業について自分なりのビジョンを持っていた。

 多少熱心に農業をしていても、補助金頼みであったり、場当たり的である場合が多く、農業に対してビジョンを持っている者はそんなに多くない。彼は、農業を総合的に捕らえており、今後も話してみたいと思った。

 午後は、6人の発表があった。
 ……福井県越前市産業環境部長 S氏
(農家・行政・JAの三者が協力して高額でも売れる米作りを行っていた。消費者への理解画すすんでいると感じた。)

『ヤギによる雑草管理放牧の実験』
 ……勝山農業公社 S氏
(まさに実験という感じであった。ヤギの持つ癒やし的な部分は何かに使えるのではないかと思った。)

『赤トンぼと共に生きるための水田農業』 ……石川県立大学生物資源環境学部教授 U氏
(赤とんぼの増減と農薬についての考察があった。赤とんぼに悪い農薬が人間によいはずがないのではなかろうか。農薬の種類とその使い方に一考の余地があると思った。)

『安全で美味い米作りを目指して』
 ……(財)自然農法国際研究開発センター M氏
(地元平泉寺のM氏は親子二代にわたって徹底した有機農法で米作りをしているのに感心した。M氏の作る米は口コミで全て売れて自分の飯米もないくらいだという。価格も、1表30,000円ぐらいで普通の倍はするのだが。)

 ……たかしま有機農法研究会会長 U氏
(U氏もかなり徹底した有機農法で米作りをしておられるのだ。生き物全てに気を配り、共生を目指しているのだという。そうした取り組みが、テレビで放映されたのだ。放送直後から電話がかかり、注文が殺到したという。彼が言うには、テレビの威力は絶大だという。テレビも取り上げたくなるような本物作りが大切だということだろう。)

『自然と共存する農業のあり方(鳥獣対策への取り組み)』
 ……福井県奥越農林総合事務所 N氏
(猪や熊屋カモシカなどの被害は江戸時代からあったのだという。鳥獣被害の発生要因にはいろいろあるが、林業の衰退、狩猟人口の減少、過疎化、越冬個体数の増加などが上げられるという。捕獲や捕殺もやむを得ないということであった。共生の難しさを改めて感じた。)

米糠のペレット(粒状)化を実演する有機農業の関係者。

『コウノトリをシンボルとし、生き物と共生するまちづくりと売れる米作りへの挑戦

三つ目の視察の平泉寺。新緑がきれいだった。

『たかしま有機農法研究会の活動について~ふるさと高島よりこころつながるお米、お届けします』

 今日の分科会に参加しての感想だが、その気になれば環境に優しい農業、つまり人に優しい農業があるのではないかと感じた。参加者の中には、動員組もかなりいたようだ。聞いて欲しい人にもっと参加してほしかったと感じた。我が地区の『農事組合法人かたせ』の役員連中には是非とも聞いてほしかった。

平泉寺公民館で開かれた第5分科会。興味ある発表も多かった。

  我が片瀬の米も、独自のブランド化をするためには、いきなり有機は無理でも、せめて“低農薬農法”で頑張ってほしいと思う。「レンゲか水菜の種を播き、それを土にすき込んで化成肥料を少しでも減らすとか、除草剤を少なくするための工夫はある」と理事長には提言しているので、少しでも早く実現してほしい。

  今日の発表した地区の米は、通常よりも5割高、または倍の価格で取引されているようである。確たるビジョンを持ち、それに向かって少しずつでも近づいていってほしいと思う。今日の分科会はとても意義深く、楽しかった。

(日記 午前、午後とも、『環境自治体会議』に参加。いろいろ考えさせられることが多かった。今日も、事を為すのは人であると思った。コメンテーターの大学教授が「補助金がなくてもやっていけますか」と発表者に質問していたが、半々ぐらいだったように思う。農家への個別所得補償がなければ苦しいだろう。やはり、本物を作らなければ今後の農業は厳しいと思った。しかし、やれないことではないとも思った。)

 
 

地に足を着けて何から始めるか

25 5月

上滑りをしていないか?
  滋賀県上丹生の「チューリップ祭り」がご縁で、「プロジェクトK」のTさんとメールを交換させていただくことになった。直接現地でお会いして知り合いになったのではなく、帰宅してしばらくしてからメールをいただいてからだ。

  二人の間に、滋賀県立大学の二人の学生さん(女性)が介在している。というのも、彼女たちは東日本大震災の復興に関わっていたからだ。私も関心があって、ブログのアドレスをメモして渡したのが全ての始まりだ。

  Tさんは理論だけではなく、実践家でおられるので、参考になることが多い。まちづくりなどで、机上の空論を交わすことは簡単だ。しかし、実践家のTさんとのやりとりでは、いつも、何か得るところがある。

  このブログにいただいた最新のメールの中から、私が感心したことをいくつかあげてみると、次のようなものがある。・印はTさんのメールを引用。( )内は私の感想。

 ・夢を叶えるには協力者が必要。所属する「プロジェクトK」のモットーの一つに、「個人の夢を皆で叶える」がある。
 ・個人でかなえられる夢もあるが、個人では叶えられない夢もたくさんある。仲間が集まらないと、どんな素晴らしい夢も夢で終わってしまう。
 ・夢を口に出し、常に前向きな言葉を発していると、それに賛同する協力者が現れる。
 (前向きに生きていれば必ず仲間はできる。私のモットーは、“DREAM & ACTION”。夢も行動を伴わなければ「幻」になってしまう。)

 ・長年の生活の習慣から抜け出せないで閉寒していく地方や田舎がたくさんある。
 ・人は誰かがしてくれるとなると、自分で考えなくなる。
 ・地域の行政は補助金に頼り、住民は同じことを繰り返す暮らしになる。
 ・結局は変えたくない、変えるのがいや、同じようにしていれば考えなくて済むから。
 ・地方と大都市部に様々な差がでるのは、この「考える生活習慣」の違い。
 (“考え泥棒(考えなくてもよいように為すべき事を教える)”は至る所にいる。政治家にも教員にも少なくない。補助金をばらまく行政、それに甘える地域。これでは考える必要もなく、いつまで経っても自立できない。補助金を使いながら、自立していく仕組みを考えなければならない。子どもの勉強でも、解答法を暗記するだけでは社会へ出ても知識が活かされない。「考える癖」は子どものうちから必要だ。補助金のたくさんある自治体では、箱物作りに精を出すのではなく、次の産業を考えておかなければならないと思うが。)

 ・講演会で良い話を聞いても家に帰れば元通り、研修旅行の帰りバスの中で一杯飲み始めたら元通り。よくある話。
(上丹生の帰りのバスの中で、マイクを回して感想を言ってもらおうとしたが、私達夫婦は会員でもなく参加しているので、行きも帰りも進行役は出しゃばりすぎではと思ってやめた。行きのバスでは「マイクをみんなに回して意見や感想を述べる」進行役を務めたが、いろんな意見が聞けて楽しかった。) 

 ・まずはやってみる、やりながら考える、必ず壁に当たる、あきらめないで壁を押し続ける、すると壁を取り払ってくれる応援者が現れる。
・小さな社会、小さな事業では、人とのつながりでしか壁を突破する方法がない。
(人と人との協力で何かができると、楽しさは一人でやるよりも遙かに大きい。成功体験が次への推進力になる。)

 物事をよりよく進めるためには、理論と実践が必要である。そのためには、勉強しなければならない。しかし、実践が伴わなければ勉強したことが活かされない。効果は上がらない。実践しながら、理論との隔たりを少なくしなければと思う。

  理屈だけで何かをやろうとしても、上滑りをして効果が上がらない場合が多い。特に、上から降りてくる事業にそれが多い。自らの頭で考える癖をつけたいものである。形式的に物事をやることを少なくしたい。上滑りに要注意!

 「前途多難。しかし、やり甲斐大いにあり」というのが、今の私の状況だ。「地に足を着けて何から始めるか?」これが今の私の課題だ。長続きのする事を区民の皆さんと一緒にやっていきたい。

子どもや保護者の喜ぶような『子育て支援センターの歌』を作りたい。

(日記 午前中、依頼された歌作り。「子育て支援センター(未就園児とその保護者が集まる)」から「センターの歌」を作ってくれるようにと頼まれた。来月中頃にイベントの中で「制作発表」したいという。作詞は、センター利用の数名の保護者から箇条書きでいただいている。これらを繋ぎ合わせ、補い、校正して歌詞にしなければならない。半日でメロディーはできた。後は、編曲し、カラオケを作ることだ。)

 
 

前向きに生きれば

24 5月

最近できた二人のメル友
   最近二人のメル友ができた。一人は滋賀県米原市のTさん。そして、もう一人は福井のSさん。二人とも前向きの意見を述べて下さるのでとても勉強になり、刺激になる。

  私の持論、「前向きに生きればかならず仲間ができる」の言葉の通り、お互いに引き合うものがあるように思う。メールや会話で意見を交換していると、参考になることが多い。

  それと同時に、自分の考えていることがよりはっきりしてくるのでありがたい。世の中にはいろいろ意見を言う人は少なくない。しかし、行動が伴う人となると、ぐっとその数は減る。

  人は他人の行動(背中)から学ぶことは少なくない。また、行動を伴っている人の言葉は説得力がある。自分の言葉で自分の想いを語ることができるから、相手にしっかりと伝わるのだ。

  ところが、行動を伴わない人の言葉は軽い。官僚の作文を読んでいる某大臣の言葉は国民に全く伝わらず、ただ不安を与えるばかりである。政治家の中で、生きた言葉を駆使できる人はとても少ない。

  今のように混迷の時代には、必ず人材(人財)が生まれるものである。それは時代が人材(人財)を求めるからだ。ここ1、2年、政界から目が離せなくなるのではないか。

  今年前半の日本の様相を言葉で表す言葉は『不信』ではなかろうか。政治家も、電力会社も、国民の信を得ているようには思えない。そんな中で、消費税や電気料をアップできるのだろうか。

  最近、二人のメル友を得たことは私にとってはとてもありがたいことだ。新たな気持ちで物事に取り組めるからだ。特に、滋賀のTさんとは言葉を交わしたこともないのに、何年も知り合いであるかのようだ。Sさんも一度会っただけで友達のようになった。

(日記 午前中、区長の事務。昼頃、事務所でSさんと会う。いろんな話題で意見交換することができた。夕方、市の広報誌や自作の『かたせ瓦版』を班長に配る。区民に配布してもらうためだ。午後7時半から『農地・水保全管理』のための「かたせ農地保全協議会」に出る。)

 
 

地球は誰の者

23 5月

みんな自分勝手
  地球の上にいろんな国がひしめいている。そして、それぞれが勝手に自己主張している。平和になるためと途称して、せっせと新しい武器を作り、それを他国に売りつけたりしている。

  丸い地球の上で、土地を奪い合ったり、資源を奪い合ったりしている。しかし、有限の地球の上で勝手に振る舞っていては、いずれ限界が来るだろう。どのような宗教を信じようとも、結局最後は武器に頼ろうとしている。

山際の田んぼに60歳代の5人が猪よけの電気柵を設置した。

  人間とは、なんと我がままな存在なのだろう。なんと、知恵を使わない生き物なのだろう。奪い取る者と、奪われる者、どんなにあがいても、たかが百年足らずの寿命なのに。

  ところがもっと大きな目で見ると、地球は人間だけのものではないのだ。山も人間だけのものではないはずだ。カモシカも、熊も、猪もこのように生を受けた生き物は、誰でも平等に使う権利があるはずなのに、人間が、一番威張り腐っている。

 狭い地球の上で、人間がいつまでも威張り腐っていると、そのうちに、その災禍はいずれ自分に戻ってくるだろう。だからどうしろというわけではないのだが、もう少し、他者に配慮して生きられないのだろうか。

 猪の侵入を防ぐ『電気柵』を田んぼの周囲に設置しながら、こんなことを考えていた。せめて人間同士が狭い地球上で「自分さえよければ」と勝手に振る舞うのだけはやめてほしいし,やめたいものだ。

区長会で挨拶する市長。

(日記 午前中、『農事組合法人かたせ』の理事長より頼まれて山際の田んぼに猪よけの『電気柵』を設置する仕事を行った。午後は、市の区長連合会の総会があった。総会の後、市長の話と質疑応答があった。帰宅してから、ハワイアンソングの吹き込み。家内に吹き込んでもらった後、編集してCDを作った。午後7時半より、和太鼓の練習と言いたいところだが、今日はフラダンスの練習。全員にCDを配った。自宅で練習するためだ。本番が近くなった。)

先生なしでフラダンスの練習。私は教材作り。本番では「おじさんバンド」でハワイアンを流せたらと思う。

 
 

中国人研修講座

22 5月

「頑張って下さい」
 今年二回目の中国人研修講座に講師として出かけた。午前9時から午前11時半まで男性1名を含む17名の受講生に日本について話すのだ。他の講師は日本での生活や、規則や、日本語について話しているらしい。

 彼らは、約一ヶ月ここで日本語や日本のいろんなことを学んで、各職場へ配属されるのだ。名札には派遣先の会社名が書いてあった。一人一人がいろんな会社で日本人とまじって働くのだ。

 私の講義は、ある程度自分に任されているので気楽だ。大きく分けると次の三つだ。『社会人として必要なこと』、『日本の四季・日本の農業・奥越の観光地などについて』、そして、『歌と踊り』だ。

私の伴奏と家内の歌に合わせて、みんなで『ふるさと』を歌いました。(於:大野市の中国研修センター)

   講義開始に先立って、自己紹介から始めた。名前は、日本流の読み方だ。これは日本と中国の関係で、中国では日本人の名前を中国流に読みで、日本では中国人の名前を日本流の読み方で呼ぶのだ。 

 どちらも本人の名前とは別の言い方だ。本当の読み方ではない。両国とも頑固だ。韓国とはそうではない。自国で呼んでいるように発音するのだ。アメリカで日本をジャパンといい、日本でアメリカを米国というようなものだ。

 彼らは、教えられたとおりに日本流の呼び方で紹介してくれた。「趣味」も付け加えるよう求めた。彼らは自己紹介の時に、自分の家族も紹介してくれた。そこで分かったことだが、既婚者が半分以上だった。

 既婚者は、6歳ぐらいまでの我が子を中国に残して日本へ来ているのだ。相当の覚悟がないと、そんなことはできないだろう。毎回思うことだが、本気になって日本へ来ていることがよく分かる。

 何か話すたびに、書き留めているのだ。堅い話の続く講義の中では、私の講義は息抜きのできる柔らかいものかもしれない。しかし、私としても、何か一つか二つは、いつまでも心に留めておいてほしいと思う。

 どんない苦しいときでも、夢や希望があれば乗り越えられる。自分がそうであった。無ければ作ればよいのだ。知恵は無限にあるのだから。彼らのひたむきな姿勢は、きっと同僚の日本人にも好影響を与えるだろうと思った。

  彼らに、期待しながら、話を続けた。途中の歌の時間だけ、家内の応援を頼んだ。毎回そうだが、『ふるさと』と『四季の歌』を教材にしている。通訳におおよその歌の意味を伝えてもらい、後は元気に歌ってもらえればそれでよいいと思っている。

畑のイチゴと収穫したイチゴ。初物は先ずお仏壇へ。私達方画食べるのはその後だ。とても甘かった。

 おそらく彼らと一生会うことはないだろう。それでも、彼らに、何かを伝えたいと、私の方もいろいろ気を遣う。最後に、みんなで踊りを踊って別れた。通訳の先生は、私とは初めてのコンビだが、真面目でとても穏やかな方であった。

  講義を終えるに当たって、「彼らの前途に幸多かれ」と祈らずにはいられなかった。まもなく、日本の会社で、研修生として働くのだ。身体に気をつけて、何かをつかんで帰国してほしい。彼らの素朴な笑顔が心に残った。

(日記 午前中、中国人研修センターで研修生17人に日本文化や仕事に取り組む姿勢などを語った。私にとっても楽しく充実した時間だった。午後は、村の広報誌『かたせ瓦版』を仕上げた。区民が読んでくれる瓦版にするために、自分では工夫したつもりだ。今日から、我が家のイチゴが食卓に上るようになった。おそらく二人では食べきれないだろうから、ジャムにしなければならない。そうすれば、子どもや孫達、そして知り合いにプレゼントすることができるから。)