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Archive for 1月, 2012

「ふるさと」とは

21 1月

童話サークル「かっちゃま児童文学会」
  午後3時より、図書館の視聴覚室で「かっちゃま児童文学会」の例会が開催された。会員の一人 Iさんが作品を持ってきた。

  タイトルは『ふるさとちゅうもんは』だった。作品を読んだ後、それぞれが感想を言い合った。「ふるさと」の定義だが、私は次の三つがそろっていることだと思っている。

・地域に家族以外に自分が関わった人がいる
・地域に自分が関わった場所がある
・地域に自分が関わった行事がある

  上記の三つは、私達の年代では当たり前でなかっただろうか。しかし、今の子ども達の動向を見ているとも「自宅と学校または習い事の場所」を行き来している場合がほとんどだ。

  従って、私は今の子ども達は“我が家あってふるさとなし”の状況に陥っていると思っている。私達自身が地域の子ども達の「ふるさと」の一部にならなければならないと思っている。

  私以外の会員は、皆女性であり、県外から嫁いできた人もいる。勝山の人達の閉鎖性を嘆く声が少なくなかった。子ども達は元気に挨拶できるのに、大人の中には、挨拶ができなかったり、人と出会うのを嫌っているような人が少なくないとのことだった。

  私も、時々そんな人を見かける。私はどちらかと言えば、誰とでも話せるタイプの人間だと思っている。そして、人と仲良くなるための第一歩は「挨拶だ」と思っている。

  「子ども達にふるさとを」は私の新年度の課題であり、仕事でもある。地域の人に私の願いが届くかどうかはわからないが、自分の気持ちを発信し続けたい。

(日記 創作童話の紙芝居の絵を完成させた。後は、絵と脚本の最終調整をして、印刷し、読み合わせをすればよいのだ。毎日作業を継続すればいつかは完成するものだ。午後3時より「かっちゃま児童文学会」の例会。作品の批評会を行った。私は、新作を書いていないので雑誌「家の光」の入選作をコピーして持って行き、みんなで鑑賞した。午後5時から「親子太鼓」の練習。本番まで一ヶ月を切った。はたして人前でうまくいくだろうか。多少心配ではある。)

 
 

五つのカバン

20 1月

「モノ探し」に明け暮れないために
  私は,人生のかなりの時間を「モノ探し」や「整理整頓」に明け暮れている。自分の容量を超えた多くの事に首を突っ込んでいるからだ。

  そのいくつかは頼まれて始めたものだ。今、私が定期的に関わっているものは、「オカリナ」、「親爺(じいちゃん)バンド」、「盆踊り普及(指導)」、「春駒太鼓(青年部)」、「親子太鼓」、「和太鼓(北部中学校)」だ。

  不定期なものを含めればもっと多くなる。地区の郷土芸能や夫婦で始めたバンドの楽譜、紙芝居・手遊び歌などの楽譜、「童話関係の資料(かっちゃま児童文学会)」などもある。

  童話を除いて、いずれも誰かに指導するものだ。これらを定期的に指導するには、楽譜、練習用CD、振り付け表、市販の曲集(楽譜とCD)、そして、楽器などが必要だ。時には衣装なども必要になる。

  これらを練習の度に一つのカバンに入れ手運ぶとしたら、毎日、入れたり出したりしなければならない。そこで,これまでは、「オカリナ」と「親爺バンド」と「盆踊り」は決まったカバンに入れ、残りは一つのカバンや紙袋やファイルでやりくりしていた。

  そのため、「あれはどこか」、「これはどこに片付ければよいのか」と迷うことも多く、モノ探しにかなりの時間を要していた。これらの準備物の他に、本番では、法被などにユニフォームも必要になる。

  そこで、今日、さらに二つのカバンを買うことにした。2種類の和太鼓のためのカバンに使うつもりだ。また、それぞれのカバンにはCDも入れているのでCDケースも買った。

  月曜日は、このカバン、水曜日はこのカバン、……、土曜日はこのカバン、というように持ち歩けばよいのだ。これが今の私には最も良い方法だと思っている。しかし、まだカバンは不足している。

(日記 午前中、紙芝居の最後の絵を描いた。午後4時近くまで頑張ったが完成しなかった。目も霞むほど疲れたので、気分転換に外出。大野でカバンお買い、「あっ宝んど」へ出かけ、風呂に入る。外食した後、買いものをして帰宅。)

 
 

マリオネット

19 1月

糸の多すぎるマリオネット
   マリオネットは、日本では糸を使う操(あやつ)り人形のことだ。人形や動物の何カ所かに糸をつけてまるで生きているかのごとく操作するのだ。名人の技はとても素晴らしい。また、人形は、現実の人間では出来ないような技を繰り出したり、ユーモラスな動きをするのだ。

   見ている者は、人形の動きに引きつけられてしまう。演者は、この人形に一定の数の糸を付けて、それらが絡み合わないように操作するのだ。もしもこの人形に必要以上の数の糸が付いていたら、糸が絡み合って人形は思うようには動かないだろう。

   今の政界を見ていると、糸の多すぎるマリオネットのようだ。野田内閣は身動き出来ないように見える。演者は、「増税」という演目を演じようとしているが、人形に付いている糸が多すぎて、それらが絡まり合い、身動きできないように見える。

  「増税だ」という糸もあれば、「公務員改革が先だ」という意見もある。「国会議員の定数を減らせ」という意見に対しては、納得できる政党もあれば納得できない政党もあり、簡単に決まりそうもない。

   「原発」という演目にも悪戦苦闘している。人形を前へ動かそうとする糸(企業や電力会社、一部の議員)もあれば、「安全が確認できるまで進むな」という糸もある。与党の糸もあるが、与党の中には逆向きの糸もある。野党の糸は、常に与党の逆の動きをしようとする糸になっている。

   「安全だ」という糸(専門家)もあれば、「危険だ」という糸(専門家)もある。「運転できる期間は40年だ」という者もあれば「安全が確保されればさらに20年運転できる」といったかと思うと、細野大臣は、今日改めて「40年だ」という。

   何かを進めようとするとき、それによって「利益がもたらされる者」と「不利益を被る者」ができる。TPPもその一つだ。国会議員の中には、自分は進めたいと思ってもいても、自分の支持者が反対している場合には簡単に動けない。多方面のたくさんの糸に縛られて身動きできない状態になっている政治家は少なくない。

  いいか悪いかは別として、橋下大阪市長は、これらのマリオネットの糸を断ち切ることを宣言している。独裁とか独断とか言われるが、果たして糸  の数の少なくなった同氏はどのような改革を行う事が出来るのか、見物である。

 一方、野田内閣は、たくさんの糸が絡まって身動きが出来ない状況にある。やがて、なりふりかまわず糸を断ち切って突進するのだろうか。日本では新内閣が発足すると、いきなり足の引っ張り合いが始まる。かくして、総理の任期は1年前後となり、世界各国から信用を失っている。そして、ひんしゅくを買っている。

  立派な人間が政治家になっても、この糸のために、おかしな動きをするようになり、最後には政治不信を招くもとになっている。日本には、こうした利害関係の対立する糸を断ち切って区民のために働くリーダーは出ないのだろうか。

紙芝居の最終場面。

(日記 終日、紙居のための絵を描く。ようやく、残り1枚となった。明日は描き終えることができるだろう。完成したら「紙芝居」にして児童館か幼稚園屋小学校で演じてみたい。また、絵本にして孫達に贈りたい。)

 
 

政治とセレモニー

18 1月

公正さをいかに確保するか
   国が物事を進める場合には、自分達の都合のよいデータを使い、自分達に都合のよい手順で、特に自分たちの都合のよい委員会(メンバー)で計画し、自分達に都合のよい形で意見を聞き、全ての手順を踏んだつもりで実行することがが多い。

   これら全てが1つのグループをなしているので「・・・村」と呼ばれているのだが、途中で新たなデータが出てきても、不都合な場合にはそれらを発表しない。また、国民に意見を聞く場合には事業を進めるのに適した意見を発表してもらうようにあらかじめ仕組んでおく。

  いわゆる「やらせ」である。もしも、正義感のある専門家(学者)が反対意見を述べようものなら、干されてしまいかねないのである(研究費をカットされてしまう)。俳優なら、番組を降ろされかねないのである。結局まっとうな意見は封殺されることになるのである。

  原子炉の運転期間について「40年」を原則として廃炉にすることにしたものの、例外規定として、「20年を超えない範囲で1回限り延長を認める」ことが盛り込まれた。原発の“寿命”は最長で60年になる。法案は今月召集の通常国会に提出される。

   原発の運転期間がなし崩しに60年に延期されそうである。なぜなら40年を迎えた原発に対して、新たな審査を行い(誰が審査をするかも問題だが)「今までの原発は危険でしたから、廃炉にします」とは言えないだろう。

   なぜなら、「そんな危険な原発を今まで動かしていたのか」ということになり、40年の運転期間さえ危ぶまれるからである。結局、審査も甘くなり、不安の中で運転継続となりかねない。そんな不安の中で東電が電気料金の値上げを計画している。 

    福島の再生はいつになることやら。原子力村の責任は限りなく重い。明らかに人災だ。想定外では済まされない。これまで何度も危険を指摘されていたからだ。

 結局、形式的な仕組みはあるが、それらがセレモニーと化してはいないだろうか。イタリアのクルーズ船の事故も同様であろう。結局避難訓練なども、「実施した」という事実を残すためのセレモニーになっているのではなかろうか。

 これからの危機管理としては、セレモニーではなく、実のあるものにしなければならない。また、公平な意見を述べることのできる仕組みを我が国では早急に作らなければならない。 津波や原発事故から学ぶことは多い。

太鼓(担ぎ桶胴太鼓)を使わないで振りの練習。当日は左義長の襦袢を着て叩く予定。(私の事務所で)

(日記 午前中は、紙芝居の絵描き。全部で23枚のうち、後2枚となった。午後も作業を継続。パソコンのモニターが霞んで見え難くなった。午後3時過ぎから、家内と二人で市民プールへ行った。目休めと体力づくりのためだ。何人かの知り合いと会った。彼らは週3、4回は来ているという。私は週1回がやっとだ。福島県から避難している人も親娘でプールに来ていた。午後7時半より、春駒太鼓の練習。担ぎ桶胴太鼓の振りの練習。曲作りは私の仕事だが、振り付けは彼女たちに任せている。出番の来月(鹿谷雪祭り)までそんなに練習日はない。親子太鼓もあるし、少し気分はせわしくなりそうだ。)

 
 

牛深ハイヤ節

17 1月

ハイヤ系民謡のルーツ
   勝山市の各町には、さわらび会(食生活改善推進員の会)があり、各町の代表(理事)が、市のさわらび会を構成している。その理事さん達が県の新年会に参加し、そこで「余興」をすると言う。

  先日、勝山市の理事さん達は、そこで私の作った『勝ち山ほがらか音頭』を踊ると決めた。そして、今日は初練習だ。皆さんがそれぞれ楽しそうに踊って下さった。実は、一昨日行われた市のさわらび会の新年会では、猪野瀬地区のみなさんが私の作った民謡メドレ-『勝山よいとこ-勝ち山ほがらか音頭』を踊って下さったのだ。

  ここで、私は『勝ち山ほがらか音頭』の中に、『牛深ハイヤ節』を参考にして「鍋ぶたを使った踊り」と「手拭いを使った踊り」を取り入れたのだ。家内の話では好評だったという。

 この『牛深ハイヤ節』だが、実際の踊りは、全国高校総合文化祭で「牛深高校(何度かこの大会で優勝している)」の皆さんが踊ったのを見ているし、家内の姉が牛深へ嫁いでいるのでその長男の結婚式でも見ている。

  私は、この『牛深ハイヤ節』にとても興味を持っている。風待ちやシケ待ちのため牛深に寄港した船乗りたちは、陽気な「ハイヤ節」を肴に酒宴を開き、その思い出を「牛深三度行きゃ三度裸、鍋釜売っても酒盛りゃしてこい」と唄い、次の港へと伝えていったと言われている。

 それが、全国各地40ケ所以上の地方へ伝わり、その土地土地の民謡にハイヤを取り入れた事から「牛深ハイヤ節」は全国各地のハイヤ系民謡のルーツと言われている。

 当時熊本を中心に唄われていた「二上がり甚句」を奄美から伝わった「六調」という南国特有の熱狂的なリズムで味付けをしたものが『牛深ハイヤ』であると言われている。ハイヤという名前の由来は、元々”南風”のことを九州で”ハエの風”と呼んでいることが起因している。

  江戸時代、北前船などの舵取りは眠らないようにするために、一晩中唄うことが義務付けられていたらしい。シケなど時に寄港した港での酒盛りは、船頭たちにとっては唄を仕入れる格好の場となっていたと言われている。その逆もあり、『牛深ハイヤ節』が各地に伝わる場にもなっている。

  私が言いたいのは、民謡は各地のものが相互に影響し合って出来たということだ。私達が各地のよいところを自分の地区の民謡に取り入れることは大いにありだということである。左義長に演奏される『しっちょう目』は三国祭りの屋台囃子としても使われている。

   歌い継がれているうちに、最も安定した形で現在に伝わっているのだろう。勝山伝統の『長柄節』は、長崎の『馬頭節』が能登へ伝わり、勝山へ伝わったのだと町の歴史家から聞いたことがある。

   昔は、楽譜がなかったので、伝わっているうちにどんどん形が変わっていったのだろう。今は、楽譜もあり、レコードやテープやCDなどの電子媒体で保存することが出来るのでどんどん形が変わるなどということはない。

恐竜と葦に化けたタヌキと狐が堤防の決壊を防ぐ場面。

(日記 午前中は、紙芝居の絵描き。途中で、明日の紙芝居実演はインフルエンザのため中止という連絡を受けた。急に作業ペースはダウン。絵はあと3枚なので、毎日描いて早く紙芝居を完成させたい。午後1時半から、福祉健康センター「すこやか」で、さわらび会(食生活改善推進員)の皆さんに『勝ち山ほがらか音頭』の踊りを指導。帰宅して、絵描き作業を継続。夜の作業は今日からやめることにした。)

 
 

「むかし君」と付き合わないでどう過ごすか

16 1月

人間とは悲しき動物
   年をとると周りにたくさんの「見習うべき人」と「反面教師」がいる。そこで、それらの姿を見ながら、自分の軌道を修正して生きていくのだ。そうしたことから学んだことは少なくない。

   聞かれもしないのに昔の自分の体験や自慢話をしない。「あれは俺がやった」「あれは私がした」と自慢話を繰り返す人は少なくない。聞いている者は「勝間さん」ではないが、無駄な時間(浪費的時間)を過ごすことになる。酒の席では特にひどくなる人がいる。そんな人は避けている。

  そんなことをうまく言い当てた演歌がある。作詞/阿久悠、作曲/宇崎竜童で「都はるみ」さんが歌っている『ムカシ』だ。歌詞の一部を紹介すると次のようなものだ。

   ムカシ
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 君の部屋にオバケが住みついていないかい
 ほんの小さな 掌(てのひら)にのるくらい
 可愛いオバケの名前はムカシという
 こいつにうっかり住みつかれたら
 君も駄目になってしまうぞ
 何故ってそいつはムカシ話で
 いい気持ちにさせるオバケなんだ

(インターネットで検索すれば全部分かります。)

  さすがは阿久悠さんだ。今を生きよ、前向きに生きよというメッセージだと思う。我が家でも、ムカシのことを言い出すと、家内が「むかし君になっている!」と戒めてくれる。ムカシの自慢話をするということは今を生きていないことなのだ思っている。人から嫌われても好かれはしないだろう。

  私自身は、昔は過ぎ去ったことであってそんなことを人に話すより、自分は今を確かに生きていきたいと思う。前向きに生きていれば、必ず仲間は出来ると確信している。今年は特に、地域に関わる仕事をすることになるので、このことを肝に銘じておきたい。

(日記 終日、紙芝居の絵描き。明日までに完成させなければなたない。明後日、野向保育園で実演したいのだ。肩は、バンバンにこっている。昼頃,北部中学校の選択音楽『和太鼓』の授業に出たが、それ以外は、机に座って絵を描きっぱなし。肩は、バンバンに肩が凝っている。何が何でも明日までに紙芝居を完成させたい。)

 
 

臨時総会

15 1月

役員選挙と講演会
村の臨時総会で役員選挙が行われ、その後、勝山市の環境保全推進コーディネーターの前園泰徳氏の講演が行われた。

演題は、『地域の自然環境の特性・保全』であり、話の内容は「1.身近なものを見直す」「2.勝山の魅力とは?」「3.みなさんへのお願い」であった。

地区の集会所で環境保全の大切さを話す前園氏(勝山市環境保全推進コーディネーター)

その中で、教育の重要性を述べた部分は同感だと思った。特に、次のような部分が印象に残った。
・「ヒト」として生まれても「教育」を受けて「学ぶ」ことがなければ「社会で生きられる人間」になれない。・現在の社会は「持続不可能な社会」である。
・持続可能な社会は「自分や子孫が健康で末永く幸せに暮らせる社会」であり、これが理想的な社会である。
・こうした社会を実現するためには、今の大人の常識を変える教育が必要である。
・子ども達に新しい常識を教える教育が必要である。
・自然も人もみんな幸せになる暮らし方がよい。

講演の後、質疑応答が行われた。環境問題は、自分自身の問題であるとの認識が必要である。何か、自分と無関係であるように思っている人も少なくないように思われた。

(日記 午前10時より地区の集会所で臨時総会が開かれた。最初に役員改選が行われた。そこで区長に推薦された。選挙の後、挨拶することになった。私としては、子供も大人も皆,片瀬区民であるという自覚を持って貰いたいと思う。それぞれが年齢に応じて区のために何ができるかを考えて貰いたいと思う。また、私たち大人は、次世代を育てるための努力が必要である。全ての区民に「片瀬は自分の(誇れる)村である」と自信を持って言えるようになってほしい。そんなことを話した。その後、懇親会が行われ、ここでは乾杯の発声。懇親会では区民の皆さんと色々雑談。その後、旧役員の一部と近くの飲み屋へ。帰宅後、直ちに紙芝居の絵描き。紙芝居上演の水曜日までにできるかどうかの瀬戸際だ。今日は3枚描きたかったが、2枚と少しで終わってしまった。)

 
 

子どもは地域の宝

14 1月

 子ども達に今の世はどう映るか?
   最近の大人達の無責任な言動の多さが気にかかる。このような大人達の言動を見ている子ども達はどのように育っていくのだろうか。大人の背中で子どもは育つと言うが、先行き心配だ。

   はっきりしていることは、10年、20年経ったときには、今よりももっともっと少子高齢化が進んでいくだろう。以前までは、過疎化は山村・漁村部が中心であったが、今は、それらが町の中心部に向かっているように思われる。

   都会では、かつての団地で過疎化が進み、商店街はシャッター通りと化し、町をコンパクト化しなければやっていけない所まで来ている。これらを救える者がいるとすれば、それは今の子ども達だと思う。

   私達は、子ども達に次の時代を託さなければならないのだ。その子ども達を私達は「次世代の担い手」として育てているだろうか。「点数さえとればそれでよい」、「スポーツさえできればそれでよい」と、バランスを欠いた子育てをしてはいないだろうか。

           見ています あなたの姿 子や孫が

  今こそ私達は、自らの背中で次の世代を育てなければならない。しかし、現実には、大人達の見せる背中は無責任や見当外れがとても多い。子ども達には生き生きとした背中を見せたいものだ。

  今日は、総理の出演した番組、県内の国会議員が出演した番組を見た。いずれも言動に説得力はあまりなかったように思う。そして連日起こる、あってはならない種々の殺人事件、「自分さえよければ」という自己中心の詐欺事件、・・・こんな背中を見ていたら、子ども達は大人達を信頼しないであろう。

  地域の宝である子ども達に、私達大人は夢と希望を与えるべく、些細なことからでも行動しなければならないと思う。どんなことで子ども達に夢を与えることができるだろうか。真剣に考えてみたい。

平成24年の親子太鼓の初練習。出番はもうすぐだ。

(日記 午前中、自作童話の紙芝居の絵描き。来週火曜日までに完成したいので急ピッチ。しかし、思うように筆が進まない。 午後も作業を継続。午後四時から親子太鼓教室。今年最初の和太鼓練習。子どもは全員参加。帰宅してから、紙芝居制作業を継続。完成できるkどうか微妙になってきた。)

 
 

「政治主導!?」

13 1月

「増税暴走内閣!」「増税猪突猛進内閣!」との声が聞かれるが
  今日、野田総理は内閣改造を行った。新たに入閣したのは5人。そして、12人が留任した。最優先課題である「社会保障と税の一体改革」を進める副総理兼一体改革担当相には、民主党の岡田克也前幹事長を起用。

  問題の多かった防衛相には、田中真紀子元外相の夫で小沢一郎元代表にも近い田中直紀参院議員を登用。ニュースに寄れば防衛問題については素人のようだ。

  しかし、評論家によれば、増税に批判的な小沢氏の配慮を見せながら、小沢氏と真紀子氏の分断を狙っているのではないかとのことだった。

  いずれにしても、増税へ向けて突進しそうな布陣である。一方、テレビなどでは「公務員制度改革を含む行政改革」をやって、政治家自らも努力している姿勢を見せないで、増税路線を突っ走ろうとしても無理ではなかろうか。

  24日に召集予定の通常国会は、消費税増税をめぐって衆院解散・総選挙含みの厳しい政局が予想される。前途洋々である。

  大臣とは何か?素人目にもそれぞれの省庁を仕切るだけの能力はなさそうである。それは、ここ数年の大臣の発言を見てもよくわかる。官僚のおかげで辛うじて対面を保っているだけの人が少なくない。

・・・・・・・・・・(インターネットより)・・・・・
政権交代後の民主党の目玉事業として注目された行政刷新会議による「事業仕分け」 が行われ、財務省管轄の「国家公務員宿舎」が税金の無駄遣いであるとして 事業仕分けの対象となり、緊急を要する建て替えを除いては「凍結」という結論が出ました。
しかしそこで凍結されていた公務員宿舎建設はいつの間にか凍結解除。埼玉県朝霞の米軍基地跡での公務員宿舎建設は、2011年9月1日にあっさりと着工してしまいました。凍結解除を了承した時の財務大臣は、このたび新しく総理大臣となった野田佳彦氏です。
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  官僚の世話にならなければ、何もできない多くの大臣が「政治主導」を叫んでも、実際には事はそんなに簡単には運ばない例のようです。

・・・・・・・・・・(インターネットより)・・・・・
報道によると、柳田法相は14日に広島市で開いた国政報告会で、こう述べたという。「法相はいいですね。(国会答弁では)二つ覚えておけばいいんですから」具体的に挙げたのは
・「個別の事案についてはお答えを差し控えます」
・「法と証拠に基づいて適切にやっております」
というフレーズ。特に、「個別の事案については…」という言葉については、「これはいい文句ですよ。分からなかったらこれを言う」と話していた。この答弁でだいぶ切り抜けた、とも自慢げに語った。
実際に、柳田法相はこの二つのフレーズを国会答弁で39回も使ってきたことが、自民党議員によって明らかにされている。
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  当然このときも、野党や国民からひんしゅくを買い辞任に追い込まれた。政治指導など夢のまた夢だと思ってしまう。このような状況が続くと、政治家は官僚の手のひらの上で辛うじて踊っているようにしか見えない。

  これでは、「大阪維新の会」が躍進するのも無理はない。“増税に関しては、政治が信頼を取り戻したときにやって貰いたい。それができないうちは、増税なんてとんでもない。”

  最近のテレビや国民の論調はこのようなものではなかろうか。

人助けをするトリケラトプス(狸のタン吉)

(日記 終日、紙芝居の絵を描いていた。肩と目と腰がおかしくなったので家内と二人で市営プールへ。少し、凝りがほぐれたようだ。途中で、一度描いた絵を消してしまい、泣く泣く書き直した。おかげで今日のノルマの3枚は不可能になってしまった。)

 
 

おもちゃを持った大人達

12 1月

おもちゃを持って歩く大人達
最近の携帯は、ある種“おもちゃ”になっているように思う。メールによってコミュニケーション能力は 保たれていると思っているかもしれないが、実際には人と人とが顔を合わせて対話をする能力は確実に衰えていると思う。

こんなおかしな話がある。下校途中の高校生男女。一緒にいると会話が進まないので、「あとでメールで話をしよう」ということでその場は別れたという。目の前では言いたいことも言えないのだ。メールの方が楽だというのだ。

生身の人間同士のコミュニケーションで、人は人として成長するのだが、こうした文明の利器によってそれが阻害されているのは大きな問題だ。

こうした傾向は、いろんな弊害を招いているように思われる。草食系男子の増加も無関係ではないように思われる。

メールと実際の会話は大きく異なる。双方向で意見が交わされているように思うが、実際には一方向の積み重ねにしかなっていない。

この頃、携帯はスマートフォンに変わりつつある。そして、これを所持するものが増えている。しかし、46時中、これをいじくっている者は少なくない。さながら、おもちゃを持った大人だ。

パソコンにしろ、携帯にしろ、実用に使う以上の機能を持ち、おもちゃと化しているが、この傾向は今後ますます進んでいくのではなかろうか。

青年期に、身につけておくべき地道なことがおろそかになり、快楽主義、刹那主義、利己主義がはびこり、自己中心的な人間がどんどん増えていく。

地域では、自分を生かす術を見つけられず、とにかく都会へ出たがる。そして、地域は過疎化の一途を辿る。

おもちゃでは味わえない本当の楽しさを若い人達に味わって貰いたいと思う。それには、自ら何かを仕掛けない限り、本当の生き甲斐が見つけられないのではなかろうか。

願わくば、おもちゃ(デジタル)と実生活(アナログ)のバランスをとって貰いたいものだ。昔へ戻ることはできないのだから。

人助けをしようと大きな恐竜(ブラキオサウルス)に化けたが、役に立たずに慌てる狸のタン吉。

(日記 今日は終日、自作童話の紙芝居化のための絵を描き続けた。目は痛くなり、腰も痛くなった。できることなら、この一週間で完成させたい。と言うのも、来週の半ばに保育園で子育てマイスターとして手遊びや紙芝居(自作童話)をやりたいからだ。それには1日3枚の絵を描かなければならない。これはかなりハードなノルマだ。可能性は少ないが、とにかく頑張ってみたい。)