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牛深ハイヤ節

17 1月

ハイヤ系民謡のルーツ
   勝山市の各町には、さわらび会(食生活改善推進員の会)があり、各町の代表(理事)が、市のさわらび会を構成している。その理事さん達が県の新年会に参加し、そこで「余興」をすると言う。

  先日、勝山市の理事さん達は、そこで私の作った『勝ち山ほがらか音頭』を踊ると決めた。そして、今日は初練習だ。皆さんがそれぞれ楽しそうに踊って下さった。実は、一昨日行われた市のさわらび会の新年会では、猪野瀬地区のみなさんが私の作った民謡メドレ-『勝山よいとこ-勝ち山ほがらか音頭』を踊って下さったのだ。

  ここで、私は『勝ち山ほがらか音頭』の中に、『牛深ハイヤ節』を参考にして「鍋ぶたを使った踊り」と「手拭いを使った踊り」を取り入れたのだ。家内の話では好評だったという。

 この『牛深ハイヤ節』だが、実際の踊りは、全国高校総合文化祭で「牛深高校(何度かこの大会で優勝している)」の皆さんが踊ったのを見ているし、家内の姉が牛深へ嫁いでいるのでその長男の結婚式でも見ている。

  私は、この『牛深ハイヤ節』にとても興味を持っている。風待ちやシケ待ちのため牛深に寄港した船乗りたちは、陽気な「ハイヤ節」を肴に酒宴を開き、その思い出を「牛深三度行きゃ三度裸、鍋釜売っても酒盛りゃしてこい」と唄い、次の港へと伝えていったと言われている。

 それが、全国各地40ケ所以上の地方へ伝わり、その土地土地の民謡にハイヤを取り入れた事から「牛深ハイヤ節」は全国各地のハイヤ系民謡のルーツと言われている。

 当時熊本を中心に唄われていた「二上がり甚句」を奄美から伝わった「六調」という南国特有の熱狂的なリズムで味付けをしたものが『牛深ハイヤ』であると言われている。ハイヤという名前の由来は、元々”南風”のことを九州で”ハエの風”と呼んでいることが起因している。

  江戸時代、北前船などの舵取りは眠らないようにするために、一晩中唄うことが義務付けられていたらしい。シケなど時に寄港した港での酒盛りは、船頭たちにとっては唄を仕入れる格好の場となっていたと言われている。その逆もあり、『牛深ハイヤ節』が各地に伝わる場にもなっている。

  私が言いたいのは、民謡は各地のものが相互に影響し合って出来たということだ。私達が各地のよいところを自分の地区の民謡に取り入れることは大いにありだということである。左義長に演奏される『しっちょう目』は三国祭りの屋台囃子としても使われている。

   歌い継がれているうちに、最も安定した形で現在に伝わっているのだろう。勝山伝統の『長柄節』は、長崎の『馬頭節』が能登へ伝わり、勝山へ伝わったのだと町の歴史家から聞いたことがある。

   昔は、楽譜がなかったので、伝わっているうちにどんどん形が変わっていったのだろう。今は、楽譜もあり、レコードやテープやCDなどの電子媒体で保存することが出来るのでどんどん形が変わるなどということはない。

恐竜と葦に化けたタヌキと狐が堤防の決壊を防ぐ場面。

(日記 午前中は、紙芝居の絵描き。途中で、明日の紙芝居実演はインフルエンザのため中止という連絡を受けた。急に作業ペースはダウン。絵はあと3枚なので、毎日描いて早く紙芝居を完成させたい。午後1時半から、福祉健康センター「すこやか」で、さわらび会(食生活改善推進員)の皆さんに『勝ち山ほがらか音頭』の踊りを指導。帰宅して、絵描き作業を継続。夜の作業は今日からやめることにした。)

 
 

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