RSS
 

Archive for 9月, 2011

またまた“産みの苦しみ”

20 9月

切羽詰まって絞り出す
    今週の土曜日は、村の祭りだ。昨年作り出した村の民謡『銭太鼓・片瀬豊年ばやし』を神社に奉納してから早1年が過ぎた。昨年と全く同じことをやっているのではつまらない。

   昨年は、男性は銭太鼓のバチを振り、女性は女踊りを披露した。歌は、自作のCDを使った。その後、歌は区民が歌うようになった。そして、あちこちから出演依頼も届いた。

  それまでは、他県の民謡「安来節」を使っていたために、どこからもお呼びがかからなかった。やはり、地区独自のものは違うということを身をもって知った。

七月の『ふるさとの踊り大会』の郷土芸の発表で披露した『片瀬豊年ばやし』。今回はこれをバージョンアップしたい。

   あれから早1年が経過して、今年も村の祭りが近づいた。去年のままでは情けない。そこで、米俵を使った芸をやろうと提案した。そして、米俵を老人会に作ってもらった。

   しかし、肝心の芸の中身とそのときに使う「片瀬豊年ばやし」の歌詞ができていない。これでは、本番に間に合うのかと心配になる。今日は、朝からずっと、先ずは、「俵を使った芸」の為のCDとその部分の歌詞を考えた。

  これまでも、考えようとしたが、思うように詞が出てこなかった。しかし、もうそんなことを言ってはいられない。今日は、とにかく、詞を頭から絞りだそうと一生懸命考えた。いつもそうだが、切羽詰まらないと出てこないのだ。

  そして、芸を挿入する部分の詞を3番分創り出した。まだまだ推敲しなければならないが、とにかく形にした。これで練習だけはできる。後は、本番の土曜日までに完成させればよい。

  演技の方は、昨日出演者にイメージだけを伝えたが、今からだ。作詞は7割、CDは9割完成した。演技は、1割しかできていない。今のところ私の頭の中にイメージがあるだけだ。

  村の祭りが終わると、次の週は遅羽町の「三室祭り」に出演が決まっている。その後も、あちこちから声がかかっている。これから磨きをかけて本物の郷土芸能と言われるように努めたい。今日は“産みの苦しみ”を十分味わった。

(日記 午前・午後とも『片瀬豊年ばやし』に加える新しい芸と歌詞と音楽を考えた。本当に苦しかった。午後7時半から、遅羽公民館で「三室祭り」の踊りの練習に出かけた。遅羽地区とは10数年間あれやこれやと付き合ったいる。和太鼓、民謡などだ。地区の人たちの前向きに姿勢を素晴らしく思う。この祭りには、私達「片瀬豊年ばやし」保存会も出演することになっている。)

 
 

猛練習!「じいちゃんバンド」

19 9月

若い頃できたのに
   今日は、約一ヶ月後に迫った軽音楽同好会のOB会のために集中練習をすることにした。というのも、福井組の中に、石川県、名古屋市のメンバーが加わり、練習は私のミニスタジオですることになった。遠路はるばる練習にやって来るので、今日は、たった2曲を2時間かけて練習した。

  ジャスのスタンダードナンバーとも言える「ワークソング」と「朝日のごとくさわやかに」の2曲だ。トランペット、トロンボーン、ギター(2台)、ベース、ピアノ、ドラムの編成だ。特に、トランペットは名古屋から練習に来るのだ。

「おじさんバンド」改め「じいちゃんバンド」福井組のメンバー。私と同時代に在学していた野は3歳下の一人だけ。後は4歳以上年下のメンバーばかり。私は最年長だ。

  この2曲は、いずれもテーマとなるメロディーを全員で演奏し、後は一人ずつアドリブをやるのだ。このアドリブが簡単そうで簡単ではない。でも、自分勝手にメロディーを作って演奏するのとても楽しい。

  せっかく来たのだからと、この2曲に集中した。午後1時から6時まで、この2曲を繰り返した。そして。彼は帰って行った。本当にご苦労さんなことだ。でも、やっていて結構楽しかった。

  彼が帰った後で、ロックをやった。私も2曲ドラムを叩いてみたが、早いリズムが打てない。とても悲しかった。若い頃はこうではなかったのに。でも仕方がない。あのスーパースターの長島選手や王選手でも、もっともっと早くに現役を引退したのだ。

  いつまで続くのだろうと思っていた大鵬、北の湖、千代の富士等の関取もそれぞれ引退していったのだ。体力や気力の限界を感じて。それでも私は心からは納得していない。

  今日は、結局午後1時から午後7時半まで練習した。本番までに練習して、もっと速く手が動くようにして、遊びとは言え、本番の演奏会では頑張ってみたいものだ。

   これからは、少しずつ、老いと戦うことになるのだろうか。それともあきらめてできることだけをすればいいのだろうか。迷うところである。デモできないながらもやっていることは楽しい。

(日記 午前中は、クラリネット型のウィンドシンセでジャズのアドリブを考えていた。午後1時から、午後7時半まで「おじさんバンド」改め「じいちゃんバンド」の練習をした。午後7時半から晩ご飯を食べないで集会所へ行き、「片瀬豊年ばやし」の追加部分の練習をした。本番の今週末の土曜日までに完成するだろうか。危ういところである。)

 
 

慌ただしい一日

18 9月

いっぱいいっぱい
  この頃何となく忙しい。容量オーバーしそうだ。自分で勝手にやっていることだが。

祭りの準備
     午前8時より村の秋祭りの準備。準備に集まってきたのは、子ども会の子供と保護者、青年団、中年会、壮年会と宮班(神社の当番)だ。祭りのちょうちんを吊るす場所を作ったり、拝殿に幕を吊ったり、舞台の準備をした。仕事の割りに人が多い感じもした。

  私は、この中で最年長だった。祭りもだんだん簡単になっていくようだ。この先ますます先細りがしそうだ。区民の結びつきがだんだん弱くなっていくようだ。そんな中で、新しい郷土芸能である銭太鼓『片瀬豊年ばやし』の存在価値は大きくなっていくようだ。

保存食のための生姜を掘る
   家内は、毎日保存食作りに忙しい。生姜もその一つだ。酢漬けを作り、紅生姜の準備をし、味噌漬けなどを作るのだ。今年は、自分の家庭菜園ではなく、組合から2畝を借りて生姜とサトイモ、ヤーコンなどを作った。素人にしては上出来だったと思う。

  1年中生姜を楽しめそうだ。生姜は健康によいと思っている。しかし、村の人はそんなにない日生姜を食べているようには思えない。私も今年は思う存分生姜を食べることができそうだ。販売はしないので、何人かにあげることもできた。人にあげるものがあるのはうれしい。

おじさんバンドに向けて
  午後は、もっぱら、おじさんバンドの練習。新しく買ったクラリネット方のウインドシンセサイザーはまだ十分になれない。テーマとなる旋律(メロディー)を服だけなら何とかできそうだが、ジャズなのでアドリブをやらなければならない。これは簡単ではない。

  それに、おじさんバンドの最終的名楽譜とCDつくり。これは膨大な時間がかかる。寸暇を惜しんでやっているが、まだできない。午前様になってしまいそうだ。

孫とウェブカム
  孫から、「ウェブカムをやろう」と電話がかかってきた。昨日送った「ふるさとの味」が到着したようだ。二人の孫と息子夫婦とパソコンの画面を見ながら、話をした。孫は国語の本も読んでくれた。算数も少しやった。急に会いたくなった。

  パソコンで孫の勉強の相手ができるかもしれない。楽しく勉強ができるかもしれない。真剣に考えてみたいと思った。便利な世の中になったものだ。電話もなかった私の子供時代を考えると格段の進歩だ。しかし、人間は何も進歩していないようだ。

『片瀬豊年ばやし』ウォン郷土芸能にするために
  来週の土曜日に行われる秋祭りに、今年も銭太鼓『片瀬豊年ばやし』を演ずることになったが、よりよいものにするために、米俵を使った芸を組み込みたい。米俵は老人会の人に作ってもらったが、そのときの歌詞がまだできていない。

  手帳を肌身離さず持って歩いて歌詞を考えているが、あわただしくて形にならない。それに、演ずる振り付けも未完成だ。それでも、明日の夜は、練習のためにメンバーを集めた。頭の中を歌詞が駆け巡る。まだ完成しない。生みの苦しみを味わっている。

(日記 午前中祭りの準備。生姜掘り。午後は、楽器練習。そして、おじさんバンドの楽譜書きとCD作り。本番まで1ヶ月を切った。少し心配になる。年齢との勝負だ。終日、祭りで演ずる『片瀬豊年林のことが気になる。)

 
 

身内にふるさとの味を送る

17 9月

芋と生姜と旨い米
   昨日は、一昨日は里芋や生姜を、昨日は「片瀬の米(玄米)」を妹たちに送った。今日は息子達に、ふるさとの味を送ろうと、先ずは生姜を掘りに畑へ向かった。

  その後、畑でサツマイモを掘り、カボチャやオクラを取った。帰宅してから、荷造りをし、昨晩精米した「片瀬の米」、里芋、カボチャ、サツマイモ、オクラ、生姜、じゃがいもなどと共に、「おかき」や孫達の「お菓子」などを段ボールに入れた。

  家内は孫達に手紙を書いて入れていた。片瀬の特産物である「芋と生姜と旨い米」を送ることができてよかった。兄弟や子ども達にふるさとの味を送ることできてほっとした。

  「芋と生姜と旨い米」と言えば「片瀬豊年ばやし」を連想してしまう。今度の土曜日の村の秋祭りに銭太鼓「片瀬豊年ばやし」を披露するが、昨年と全く同じでは村の人たちもそんなに興味がわかないだろうと思う。

  今年は、この銭太鼓に米俵を使った演し物を加えたいと思っている。しかし、まだ、そのときに用いる歌詞ができていない。ここ数日は産みの苦しみを味わうことになるだろう。本番までちょうど一週間だ。小道具の米俵はできたというのに。 

(日記 米俵修復:午前8時から、昨日老人会の会員に作ってもらった「片瀬豊年ばやし」に使う米俵の修復を行った。郷土芸能に使うにしては重すぎるので軽くするためだ。昔は、わらを使って米俵を作りそれによって米を梱包していたのだ。私運も、子ども時代に父親が作業をするのを見て育ったので、たぶん今ならわらから作れるのではないかと思う。今日、米俵を修復していてそう思った。大根の種をまく:その後、法人から借りている畝の生姜を収穫。一部は友人に持って行った。その後家庭菜園で、第2彈の大根のためを播いた。一つのマルチの穴に5粒ずつ種をまき、順次「すぐり菜」にして食べるのだ。先日植えた第1彈の大根葉すでに芽が出ていた。種まきの後サツマイモなどを収穫して帰宅。親子太鼓教室:午後4時より親子太鼓教室。ようやく子ども達も練習曲をマスターしつつある。保護者の方はもう完全にマスターしている。11月には人前で発表できるかもしれない。新米を食べる:夜のご飯はあったが、試食用の新米を炊いてもらった。少し柔らかめであったが、「芋と生姜と旨い米」を食べることができて満足だ。里芋の煮っ転がし、新生姜の味噌漬け、そして、新米のコシヒカリのご飯。食が進む。まさに食欲の秋だ。)

 
1 Comment

Posted in 未分類

 

旨い米作り

16 9月

「片瀬の米」はうまいか?
   今日も「農事組合法人かたせ」の作業割当日。コンバインで刈り取った籾を運ぶのかと思ったが、今日の私の仕事は「臼すり(籾を玄米にする)手伝いだ。

(1)軽トラで運ばれた籾は乾燥機へ運ばれる。

  コンバインで刈り取った稲は、軽トラックに乗せて組合の農舎へ運ばれる。すると、それを機械で吊り上げて乾燥機の籾投入口へ運ぶのだ。あまり力はいらない。

  乾燥された籾は、いったん籾格納庫に収められ、順次「臼すり機」煮送られて玄米になる。そして、混入している石を取り去り、計量機で自動的に一袋30.5kgに計られ紙袋に入る。袋の口は人力でとめ、パレットに30袋(15俵)ずつ人力で乗せることになる。

  その後は、リフトでパレットごと運び、所定の位置に積み上げる。区民は、これを注文した数だけ自宅へ運ぶのだ。かなり機械化されたと思う。気がつくと、米作りのほとんどの作業は男の仕事になってしまった。

  今日の仕事が終わった午後5時過ぎに、自家用米と縁故米(親類分)合わせて8俵半を軽トラックに積んで農舎を出た。早くも新米が手に入ったのだ。昨年より早い。

(2)乾燥した籾はいったん「籾貯蔵庫」に入れられる。

  その足で、郵便局へ行き、注文を受けている九州に住む妹に4俵を送った。また、半俵(30kg)は精米した。明日、横浜に住む息子達に早速新米を送るためだ。明日は、新米を試食できる。

  片瀬特産の“芋と生姜と旨い米”の三つとも早速味わうことができるのだ。今年から村(組合)で乾燥した米は果たして美味しいだろうか。明日分かる。上手く作って「片瀬の米は旨い」と言うことを世間にアピールしなければならない。

  春から作業を見ていると、まだまだ改善の余地があると思った。特に、雑草対策に力を入れなければならないと思う。田んぼによっては管理が悪く、雑草が生い茂っている。これでは肥料の効きも悪いだろうし、味も落ちるだろう。

(3)「臼スリ機」で玄米にされ、石抜きをして梱包。右端の黄色い帽子は梱包作業中の私。

  午前中は、「臼スリ」、午後は「籾運び」と一日肉体労働で、身体の節々が痛い。汗で体重もかなり減ったように思う。それでも、力仕事で筋肉は付いたのではないかと思う。

  後継者のいない我が村の農業が続いていくだろうか。それは、この組合のやり方にかかっている。そして、かなりの機械を導入して動き出している。私としては、「芋と生姜と旨い米」をんこれからもアピールしていきたい。

(日記 終日、「農事組合法人かたせ」の農作業の手伝い。午前夕は、「臼スリ」、午後は「籾運び」だった。午後7時半から集会所で『片瀬豊年ばやし』の練習。新しい演技を加えたい。そう思って

(4)パレットに人力で30袋乗せると、リフトで所定の位置へ運び、区民に配布される。米袋は機械で自動的に腰の高さまで上げてくれるので少しは助かる(左端の写真)。

今日は老人会の人たちに米俵を作ってもらった。この米俵を使ってユーモア溢れる芸を加えたい。)

 
 

芋と生姜と……

15 9月

ふるさとの味を送る
  昨日は、里芋と生姜の試し掘りを行った。里芋の場合、土が付き皮もあるので、どうして洗うかが問題だ。昔あった芋車を使いたいと思っても、それを回すことができるきれいな水の流れた川が近くにない。

  昔は、元町(元禄通り)を流れる川に芋車が並んでいたことを思い出す。今、近くの川には生活用水が流れていてとても芋を洗う気にはならない。わざわざ芋洗い機を買うほどのこともないし……。

  とりあえず今日は、昔ながらの方法で、桶と板を使って洗おうと思って車庫の二階を探していると、手頃な桶が見つかった。後は板だが一ひねりしたい。そう思ってノコギリや板を取り出して工作を行った。板に取っ手を付けた。

手作りの芋洗い機。桶の中でこれを動かすのだ。

  そして、桶とこの取っ手の付いた板を使って芋を洗ってみると予想外に力を入れずに芋を洗うことができた。思ったよりも簡単にできて簡単に芋を洗うことができるのだ。

  午後、家内と二人で芋と生姜の植えてある組合の畑(法人が組合員に貸し出している)へ出かけた。ここではいつもいろんな人と会う。「初めてにしては上出来ですね。」と村のYさんがほめてくれた。

  家内と二人で、今日は二人の姉妹に送る分を掘った。家内の姉は熊本の牛深に、私の妹は福岡にいるのだ。そこで、それぞれの家族に生姜と里芋を送ることにした。ついでに、サツマイモとカボチャも入れておいた。

  そして二人で急いで荷造りして夕方までに郵便局へ持って行った。ふるさとの味を少しでも送れたらとの想いで実行したのだ。他人に贈るものがあるということはうれしいことだ。きっとも、二家族ともふるさとの味を堪能してくれるものと思う。

我が家は生姜ずくし
  我が家の夕食は、先ず「生姜ご飯」に、「生姜の味噌漬け」、そして「生姜の酢漬け(ガリ)」。そして「里芋の煮っ転がし」。後は「冷や奴」と「黒瓜の漬け物」と「刺身」に「生姜のおろし」。刺身以外は全部我が家で採れたものばかりだ。

桶の中に里芋と水を入れて庫の取っ手を動かすのだ。柄が長いのでそんなに力はいらない。あっという間にきれいになった。

  今日は食べられなかったが、妻は「生姜のたまり漬け」を作ってくれた。保存食としては、「イチゴジャム」、「ニンニクのたまり漬け」、「紫蘇ジュース」、「ゴーヤジュース」、「キューチャン漬け」、「黒瓜とキュウリの奈良漬け」、……冷凍庫がいっぱいになりそうだ。

  梅干しの中に漬け込む「紅ショウガ」も美味しい。特に、生姜は体温を上げるのによいらしい。現代人は低体温になっているそうだ。体温が一度上がると病気にリスクはぐんと下がるそうだ。年がら年中、何らかの方法で生姜を取り込みたいものだ。

  毎日、絶対にご飯のおかわりをしない私だが、今日の夕食の「生姜ご飯」だけはおかわりしてしまった。味覚の秋に自分で育てた、しかも片瀬の特産物である「芋と生姜と旨い米」が食べられるのは本当に幸せなことだ。

(日記 午前中、芋洗いの道具を作った。午前11時に平泉寺公民館へ出かけ、高齢者の「ふれあいサロン」で民謡の指導を行う。そして、みなさんと一緒に昼食の弁当を食べた。食後、退職グッズとして買ったアコーディオンで伴奏し、皆さんに「ふるさと」、「赤とんぼ」などを歌っていただいた。帰宅後、芋と生姜を掘り、家内の姉、私の妹の二家族へ他の野菜と共に送った。二家族とも九州なので明後日には着くだろう。ふるさとの味を味わってほしい。)

 
 

片瀬の特産「芋と生姜」の試し掘り

14 9月

素人としては上々のでき
  神明神社の祭りが近づくと、我が片瀬では昔から「里芋や生姜」の収穫が始まるのだ。今日は家内と二人で、里芋と生姜の試し掘りを行った。生姜はこれまでも栽培してきたが、里芋の栽培は初めてだ。

  思えば、昨年の秋祭りに、それまで百年近く伝わってきた片瀬の芸能である銭太鼓を自前のものに作り替えたのだ。それまでは、島根県の民謡「安来節」に合わせて銭太鼓のバチを振り、時には「ドジョウすくい」を演じてきたのだ。

一株からたくさんの里芋がとれた。この列は私の里芋だ。

   これでは、何年経っても余興のままで、郷土芸能にはなり得なかったのだ。そこで、歌も踊りも銭太鼓の振り(伝統を活かしながら)も全て新しく作り替え、『片瀬豊年ばやし』として創作したのだ。

   この中で、「芋と生姜と旨い米」を歌詞の中に入れ、これらを片瀬の特産物として育てていきたいという願いがあった。そのためにも、理屈を述べているだけではなく、実際に自分でも「生姜(これまで少量は栽培してきた)と里芋(初め栽培)」を作り、片瀬の特産物作りを肌で体験したいと考え、法人に二畝借りて栽培したのだ。

   今日、試し掘りをしてみたが、素人にしては上々のできであった。生姜は、早速家内が酢漬けと味噌漬けにしてくれた。「生姜の味噌漬け」は私の大好物だ。今後、紅生姜などにもして子ども達にも送りたいと思っている。

  里芋は、一株だけで、小さなバケツいっぱいになるぐらい小芋が付いていた。今年は食べきれないほどの里芋を収穫できそうだ。芋や生姜も友人、知人に分けてあげたいと思う。

収穫した生姜。家内の後ろの畝は私の生姜畑。

   今後、銭太鼓『片瀬豊年ばやし』と共に、「芋と生姜と旨い米」を片瀬の特産物とするために「かたせ」をブランド化していきたいと思う。『片瀬豊年ばやし』は、男子が百姓スタイルの黒法被姿で、両襟には、「片瀬豊年ばやし」と「芋と生姜と旨い米」が印刷されている。また、背中には、「農事組合法人かたせ」のマークが印刷されている。

  「片瀬の芋」、「片瀬の生姜」、「片瀬の米」が世間に知られることを祈りたい。私は、自称「農事組合法人かたせ」の“宣伝部長”として、これらの作物の特産化に向けて行動したいと思う。

  そのために、チャレンジしてみた「芋と生姜」を、今年は思う存分食べられると思うとうれしい。栽培法を工夫しながら、来年もさらに栽培を続けたいと思う。

(日記 午前中、和太鼓の新曲作り。組太鼓とチャッパの新曲にチャレンジしている。午後も作業を継続。午後4時より、子ども太鼓の補習。遅れて仲間に加わったK君の特訓を行っ

明日から生姜をたっぷり食べられると思うと、幸せな気分になれる。

た。T君のお父さんには難しい和太鼓の楽譜を渡し、練習してもらった。夕方、里芋と生姜の試し掘り。駅は素人にしては上々だった。)

 
1 Comment

Posted in 未分類

 

原発事故からの復興

13 9月

原発は未完の技術では
 原子力発電の利点はいくつかあるが、それよりも、毒性が強く放射性物質である核廃棄物を作り出し、これを処分する技術が確立していないと言われていることが大きな問題だ。「トイレなきマンション」などと」言われる所以である。

   一方、化石燃料は有限である。特に我が国のように資源のない国では切実な問題である。原子力発電に頼るのはある程度やむを得ない側面もあり、原子力発電の推進は国策であったのである。

   しかしながら、技術の確立していない原子力には、これまで様々な事故がつきまとう。そのたびに、御用学者などが「安全性」をアピールしている。かなり前のことだが、「そんなに安全だというのなら新宿に原発を作ったらどうか?」という意見まで出たほどである。

  また、全国の原発で事故隠しも頻繁に行われてきた。原発の地元説明会では原発の必要性を発言してもらうような働きかけ、いわゆる「やらせ」が各地区でも行われてきたことが明らかになっている。

   原発には、見えないところで大きな金が動いているようである。今や原発の交付金は、自治体の独自予算のように、何にでも使えるようになっている。交付金という名前の、甘いアメを用意して、原発を誘致してもらおうという考えでしょう。   

   個々の自治体にどれくらいの交付金が支払われるかということだが、出力135万kwの原発が建設される場合には、
   ◎運転開始10年前から、10年間で391億円。
   ◎運転開始後10年間で固定資産税も入れて計502億円。
になるとのことだ。

  原発を誘致した地区と誘致しない地区が存在するのは何故だろうか。やはり命・安全と引き替えに、危険性と隣り合わせの財源を、住民が受け入れない地区と、莫大な交付金に魅力を感じて地域の活性化を図ろうとする住民の多い地区によって考え方が異なるからだろう。

  原発が賛成か反対かを言う前に、政府も電力会社も「原発に対する正確な情報」を発してこなかったことが最大の問題ではないだろうか。莫大な補助金が出るということは、それだけ危険で環境に負荷を与え、住民の安全を脅かす可能性があったからではなかろうか。

   こうしたとき、専門家と言われる学者は安全性をアピールし、原発推進の先兵になってきたようだ。ここでも大きな金が動いたことは容易に想像できる。

   今の状況を考えると、福島県の方々は非常に不幸であったと思わざるを得ない。また、我が福井県もいつ何時どのような原発事故が起こるかわからないし、近隣の地域は、原発があるなしにかかわらず被害を受ける可能性は十分にあるのだ。

   原発の安全性に対して正しい情報を発信し、電力会社に対しても明確に問題点を指摘できる組織が今ほど求められていることは言うまでもない。福島原発の事故からの復興は今後何年かかるか想像もできなし。補償には莫大の金額が必要になる。

  野田内閣が、果たしてこの問題に対処できるのか、ここでは、政党間の争いなど醜くて小さな問題だ。国会議員の皆さんには、政治家を目指した原点に返って「オールジャパン」で事に当たっていただきたいと願わずにはいられない。

(日記 午前中、コンバインで刈り取った稲わらを束ねて軽トラックで運んだ。家庭菜園の材料として稲わらは貴重だ。今日も残暑が厳しく汗だくになった。その後、ウインドシンセサイザーの練習。午後は、家内と久々にプールへ行く。プール内を歩き、少し泳いだ。何人かの知り合いに会った。その後、事務所でハワイアンギターとエレキギターの練習。)

 
 

「片瀬」をブランドにできるか?

12 9月

「片瀬豊年ばやし」にかける夢
   今日は、朝から「農事組合法人かたせ」の稲刈りの補助員を務めた。午前8時から午後6時まで、コンバインで刈り取り、脱穀した籾を軽トラックでJAのカントリーまで運ぶのだ。その他、コンバインが刈り残した稲の刈り取りも行った。今日は残暑が厳しかった。
 
  今刈っている稲はコシヒカリだ。このコシヒカリだが、全国的にもかなり作られている。今日、カントリーで順番を待っていると、片瀬以外の集落の人たちもどんどん籾を運んでくるのだ。これらの米は全部混ざり合って乾燥され、玄米にされるのだ。

「農事組合法人かたせ」の農舎に備え付けた乾燥機、籾保管庫、臼スリ機など。今日から自家用米の乾燥を自前で始めた。「片瀬の米」誕生が近い。

  極端に言えば、勝山市内の米が混ざり合って勝山産のコシヒカリとなって出荷されるのだ。従って、以前のように全てを自分でやらない限り「片瀬産のコシヒカリ」は存在しないのだ。JAへ運び込む限り、猪野瀬、平泉寺、遅羽……等の米が混ざり合ってしまうからだ。

  しかし、我が「農事組合法人かたせ」では、今年から実験的に、「村の人たちやその親類に販売する自家用米」は、自前で乾燥し、臼スリを行って玄米にするのだ。今年から、「片瀬の米」を作り出すのだ。

  そのために、組合では、農舎にそのための機器や設備を導入したのだ。乾燥機を買い、籾保管庫を作り、臼スリ機を購入し、リフトなども購入し、安全で能率よく作業ができるようにしたのだ。

  今年は、少なくとも、組合員は片瀬の米を食べることができる。そして、近いうちに、「片瀬ブランド」の米を生産するのだ。そのためにも「かたせ」をブランド化する必要があるのだ。

  農事法人では、 「芋と生姜と旨い米」がキャッチフレーズである。昨年、100年近くの伝統ある銭太鼓を片瀬オリジナル「片瀬豊年ばやし」として創作しなおしたが、この歌の歌詞にも「芋と生姜と旨い米」を入れてあるのだ。もちろん銭太鼓のバチを振る技のいくつかはこれまで村に伝わるものを利用しているが。

  この銭太鼓「片瀬豊年ばやし」が「かたせ」をブランド化するのに役立てばと思っている。そして、「片瀬の里芋」、「片瀬の生姜」、「片瀬の米」が固有名詞となり、多くの人に認知され、販売できればと思っている。

  その第一歩が今日始まったのだ。先ずは、区民が美味しいと思える米が食卓に上ることを願いたい。そして、第2彈として片瀬に縁のない一般の人たちにも「食べたい」と思える米に育っていくことを願っている。

(日記 午前8時から午後6時まで稲刈りの補助員。残暑が厳しかった。午後7時半よりオカリナ教室。幼児の前で演奏する曲目を練習した。その他、「上を向いて歩こう」と「また君に恋してる」も練習した。長い一日だった。)

 
 

指先と頭の体操

11 9月

年齢に逆らって
  ここしばらくはかなり忙しかった。そして、明日は稲刈りの補助員(籾運び)。そこで、今日は一日完全休養。と言ってもじっとしていられる性分ではない。こんな日は、おじさんバンドの練習。

   昔、簡単に弾けたエレキギターの練習。指が思うように動かない。最近クラシックギターばかり触っていたので、エレキギターとの弦の幅の違いに指の感覚がついて行かない。

  ある意味では、指先の運動であり、脳の活性化には役立っているかもしれない。エレキギターを担いで約1時間必死でギターの練習をした。うまくいったりいかなかったりだ。

  OB会で演奏する楽器は、ハワイアンギター、クラシックギター、エレキギター、ウインドシンセサイザー、そしてドラムだ。一つの楽器でも自信が持てないのにこんなにたくさんの楽器を演奏するのだから、大変だ。

    事務所では、ハワイアンギターとエレキギターの練習。帰宅してから、約1時間ウインドシンセサイザーの練習。他の仲間もそうだが、若い頃とは違って指が思うように動かないという。

   私もその通りだ。まさに年齢に逆らってギターを弾いているようなものだ。ドラムもそうだ。細かいリズムも50年前には簡単に打てたが、今は必死でやらないとうまくいかない。後1ヶ月後に迫った「OB会」での演奏に間に合うのだろうか。

  今日は肉体労働はほとんどやらなかったが、指の運動と曲を覚えるために脳の運動(頭の体操)はかなりやったように思う。肉体労働に劣らす疲れた一日だった。

(日記 午前10時より、私の事務所で、村の若い衆(25歳)に銭太鼓『片瀬豊年ばやし』を練習するように勧めた。どんな思いでこの歌を作ったかを説明し、村の明日を担う若者に銭太鼓を継承してほしいと頼んだ。分かってくれたようであった。その後、事務所でエレキギターの練習。帰宅してからは、ジャズのアドリブを考えながら、ウインドシンセサイザーの練習をした。夜は九州からやって来た妹夫婦と食事。)