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Archive for 3月, 2023

エルパの本屋さん『AKUSHU』

11 3月

新しく生まれた本屋さん
 私は、家内と時々、エルパに買い物に行く。そんなとき、二人が別行動を取ることがあるが、私はよほどでない限り、本屋へ行くことにしていた。

 ところがその本屋がなくなってしまった。さみしいと思っていたが、新聞などで新たに本屋ができたということを知った。そこで、早速『AKUSYU』を尋ねてみた。やはり、ショッピングセンターには本屋は欠かせない。

本屋の復活をかけてできた『AKUSHU』

本を置いてもらえませんか
 早速、店内を見て回り、そこで店員さんに尋ねてみた。「ここで本を置いていただくことはできるのですか?」と。すると店員さんは、「店長に相談してみます」、「メールアドレスがあれば、お知らせ下さい」と話してくれた。

 そこで、言うとおりにして帰宅した。すると、『AKUSHU』からメールが入った。

そこには、次のように書かれていた。

「自費出版の本は3ヶ月の期間限定で一旦本をお預かり、陳列し、注文が入った場合のみ商品として仕入れさせ   ていただく方針を取らせていただいております。経理上、代金もそのときにやりとりさせていただいています。

 注文がなかった場合は、3ヶ月後に引き取りに来ていただくお約束でお預かりをしております。以上の点をご了承ください。この条件でも納得していただける場合は改めて本をお持ちいただければと思います。」

 早速、二日後、自費出版した『じいじ達の子供時代』(上巻)(下巻)を『AKUSHU』に持ち込んだ。店員さは丁寧に対応して下さった。県内の人の自費出版作品コーナーに展示されることになった。

 果たして、どなたかこの本に興味を持って下さるだろうか。気になるところだが、自分を試すいい機会にもなる。ただただ待つのみである。それでも、私にとっては、待つことは楽しいことだと思っている。 

拙著『じいじ達の子供時代』(上巻)(下巻)
 

アメリカ・セントラリア高校の今

10 3月

43年前に調べたアメリカの高校の今
 何冊か余っている拙著『アメリカの高校生~セントラリア高校の全て~』を久しぶりに出してみているうちに、今あの高校はどうなっているのだろうかと気になってきた。

 そこで、先ずはグーグルアースで学校を調べてみると、なるほど郊外にある高校だということがよく分かった。そして最近立て替えられたことも。以前は、「アメリカまで行って写真を撮ってきてほしい」と頼まなければ、学校がどのような場所にどのように建っているのか、全く分からなかった。

 ところが、今は違う。地図で頭上から眺めることができるし、まるで道を歩いているかのようにストリートビュウで眺めることもできる。学校のホームページの調べれば、様々な写真もある。今日・明日の行事も、今月の行事も、年間行事も全て知ることができる。

43年前に私が様々なことを調べて本にしたセントラリア高校の現在のホームページ

カフェテリアの今日、明日のメニューも
 日々の連絡も細かく、今日(アメリカでは9日)のことも『2023年3月9日木曜日 今日、カフェテリアはランチにピザを提供しています。 明日(学期末)は朝食にシリアルバーを提供し、正午は下校のため昼食は提供されません。』とある。他にも様々な情報がある。

日々の連絡が事細かに書かれているセントラリア高校のホームページ

過去の卒業アルバムも全ページ掲載 
 驚くことに過去の卒業アルバムも1031年(昭和6年)のものからすべて保存されていて、全ページ閲覧できるようになっている。ただし、色々個人情報を入力してログインしなければならないがそれは当然のことだろう。

 アメリカの卒業アルバムは『イヤーブック(年鑑とも訳す)』と言うだけに、日本とはかなり趣が異なる。例えば、個人写真がずらりと並んではいるが、その下に、自分がスポーツやその他の活動で写っている場所を示すページまで掲載されているのだ。

 そして、なんと懐かしいことに、私が手に入れた1979年の卒業アルバムもアップされているのだ。ここの編集部のカメラマンにお世話になったのだ。彼らは今60歳を超えているはずだ。

 他にも、学年毎の成績優秀者などの氏名や、単位を落としそうななった場合の補習授業のことなど、事細かに掲載されている。また、生徒手帳には服装規定まである。更に、それとは別に、様々な行事での服装も定められている。

 実は、このような事を調べたのは、今の在庫品(新品)をどう処分するかを考えてのことだ。既に、既刊の拙著『じいじ達の子供時代』は上下巻ともエルパの新しい本屋『AKUSYU』に置かせてもらえることになっているので、この本もどうかと考えているからだ。

 かつては、アメリカまでの取材旅行に行かなければ何も分からなかったが、今ならネットでどんなデータでも入手できる。写真も鮮明なカラーで入手できる。

 新入生を迎える校長の挨拶だって読むことができる。そして、それらが、全て英文でも構わない。なぜなら、翻訳ソフトを使えば、瞬時に和訳されて、だいたい何を言っているのかは理解できるからだ。

 私の過去50年とこれからの50年を考えると、その変化は、想像を絶することになっているだろう。もしかしたら、宇宙へ修学旅行なんてことも夢ではなくなっているかも知れない。

 

新中学校はベターな選択、ベストな環境か?

09 3月

現在の中学校再編計画が実現したら

 現在、細長い勝山市には3つの中学校が存在している。しかし、その3校を廃校にして勝山高校に併設(グラウンドの中に1棟のみ建設)する計画が進んでいる。そして、多くの市民がそのことに疑問を持っている。

 そもそも、高校のグラウンドの中に中学校を建設しようという発想は、長年続く勝山高校の定員割れを防ぐことと、新たな敷地を求めず中学校を将来に備えて1校に統合しようということからきたものだと思う。

 元々中学校を建設する余裕のない勝山高校の敷地に、市内唯一の中学校を建設すると決めたために、面積的には校舎は一棟しか建設できないことは最初から分かっていたはずだ。

 そのため、当初、市民説明会では5階建ての中学校を建設するとしていた。勝山高校の3階建ての特別教棟(理科室・家庭科室・図書室などがある)の南側に近接して5階建ての建物を建設せざるを得ないこと自体、この計画に無理があったのではなかろうか。

 当然、中学生には5階建ては危険なこと、3階建ての南側に近接して5階建てを建てれば勝山高校の特別教棟が日陰になるなどの理由でこの案には異論が出て取り下げられた。当然であろう。

 それにしても、グラウンドの中に校舎が建つとなれば、高校の硬式野球の防球ネットが中学校の校舎に面してできることになり、教室の中から見れば、鳥籠に入ったような景色が広がることだろう。

 それに、授業中は、中学校、高校の体育の授業のホイッスルや生徒達の発する声が生徒達の耳に届くだろうし、放課後は、甲高い硬式の打球音など部活動の騒音が聞こえることになるだろう。決してベストな環境とは言えないと思うのだが。市長はマスコミに「ベターな選択、ベストな環境」と発言して新聞に掲載されている。当然のように議会ではこのことに関する質問が出ている。

次々と変わる中学校再編計画
 その後も、市教委の『勝山市立中学校再編計画(修正案)』では「勝山高校の校舎において、中高共用の理科・音楽・美術・家庭等関係の諸室を整備するとともに、中学校の校長室・職員室等を設けて中高教職員の緊密な連携を図る配置を検討します。」としている。

 中学校の校舎の中に、校長室や職員室がなければ、何か事故なり事件が起こったときにはどう対処すればいいのだろう。少し考えれば分かるはずだが、このように未熟な計画がどんどん出てきては、慌てて改めることを繰り返している。しかし、昨年度にはこうした基本計画立案のための予算が可決してしまった。

 もっと時間をかけて、中学校の統廃合問題を考えるべきではないかと私は思う。しかし、現実には、市当局はこの勝高併設案を何が何でも通そうとして、機会ある毎にそのことを説明している。

 そのため、今勝山では、勝高併設案を強行突破しようとする案に賛成する人たちと、再検討を促す人たちに二分されている。市内で唯一の新設中学校を勝高に併設するということは、この細長いまちに絶妙に配置されている現在の三中学校を廃校にすることでもあるので、かなりの市民が真剣に成り行きを見守っている。

 はっきり言えることは、計画がかなり未熟であるままに、強行されていることである。予算を通して、準備委員会では、校舎の配置を考えているが、考えれば考えるほど、いろんな問題が出てきて、現在、四案だったものが七案になっている。

 それは、登下校方向が、現在の勝山高校の校門方向(西側)と、国道157を挟んだジオアリーナ駐車場方向(東側、地下通路を通って学校へ入る)とに、二分されているからである。周辺の道路が狭いことから来ている。

 それで、この三月には更に実施計画のための予算が可決しそうである。勝山市民だけではなく、勝山市出身者の皆さん、そして、勝山市に関係のない皆さん方にも是非考えていただきたい。ご意見をいただければ幸いです。ちなみに、私は再検討をしていただきたいと願うものであります。

最初、市民説明会で示された5階建の中学校校舎イメージ図
 

毎日パワー

08 3月

どんなに少しずつでも毎日続けていれば
 毎日の積み重ねが予想もしない大きな力になることは誰でも頭では分かる。しかし、実行するのなると簡単なことではない。このようなことを示すことわざは少なくない。

 〇継続は力なり
 〇点滴岩をも穿つ
 〇塵も積もれば山となる
 〇千里の道も一歩から

 コツコツ努力していれば、時間と共に、大きなものになる、または、できなかったことができるようになるということを、かつて生徒達に伝えるために、私は敢えてことわざを使わずに、“毎日パワー”という単語で説明していた。

 日々の努力はわずかでも、継続すれば「予想外のものができる」、「思わぬ成果が出る」、「自分が変われる」、「何かが身につく」、「できなかったことができるようになる」……自分でも、そう確信するようになった。

 『こんなことできそうにない』と思うようなことでも、思っているだけではなく、始めてみることが大事だと思っうようになった。

 やらずに後悔するよりも、やって失敗した方が後で悔いが残ることは少ない。そう思って、大変なことは、自分に「毎日パワー」と言い聞かせながら、先を見ず、「今日も少しできた、また明日……」とのんびり構えて日々を過ごしている。何もしなかったら、それこそ光陰矢の如しで、月日ばかりが過ぎてしまう。

 二、三日で1頁しか描けない漫画、ひどいときには半日かかって一コマという日もあったが、それでも毎日少しずつ描いているうちに二〇〇頁ほどになった。

 旧宅の修繕作業や造作なども、板を製材するだけ、鉋をかけるだけ、材料を刻むだけ、塗料を塗るだけ、クロスを貼るだけ、……と思って毎日通っているうちに、だんだん完成に近づいた。

 新年度も、日々進歩しなくても、何かを目指して、コツコツ毎日積み重ねたいと思う。焦らずに、道草を食いながら。無理せず、コツコツ、コツコツ、『毎日パワー』を信じて。今や自分に向けての言葉だ。

【左上】仏間跡 【右上】設計図 【下】作業中
仏間跡に床の間完成 材料のほとんどは森林組合の端材

 
 

自費出版あれこれ(その2)

07 3月

荷造りで嬉しい悲鳴
 全国に一斉に注文ハガキや内容の概要を示すチラシ、推薦文などを入れたダイレクトメールを発送してから数日後。毎日、少しずつ注文のハガキが届き始めた。

 注文を受けたら、その日の夜、仕事から帰ってから荷造りをするのだ。少しでも送料を安くするために、書籍小包にするのだが、段ボールで包装し、書籍であることを示すために小窓を開けなければならなかった。

 ほぼ全てが高校からの注文だ。1冊、3冊、5冊と注文が届くために、段ボールをその大きさに切って箱状にし、小窓をつくるのだが、この作業がなかなか大変だった。

 20人あまりの教職員しかいない沖縄県の高校から14冊の注文が入ったときには感激した。毎日、帰宅したら、家内と二人で包装するのだが、嬉しくもあるがかなりきつい作業で、ピーク時には寝不足になるほどだった。

 段ボールを集めるだけでも大変だった。そうこうしているうちにお金が入ったことを知らせる振替用紙が家に届くことになった。 

少しずつ届いた反響
 本を発送してしばらくすると、本についてのコメントが届くようになった。あるときは、手紙で、あるときは、振替用紙の通信欄に読後の感想が届くようになった。好意的なものが多かった。

 「娘のアメリカ留学の参考になった」とか「アメリカの高校の様子がよく分かった」とか、いろんな行事に関するものなど様々だった。ただ、ここまで来るには相当の苦労があったと感じることも少なくなかった。

 出版社で本を作れば、販売に対しても専門の会社があって、全国の書店に配本してもらえるのだが、全くの自費出版ではそれはかなわない。北海道の人に、沖縄の人に届けるにはダイレクトメールしかない。

 しかし、ダイレクトメールでは不特定多数の人には届けられない。高校が精一杯だった。何とか、一般の人にも読んでいただける方法がないものかと考え始めた。

読者の感想文と書籍を東京の出版社へ
 一人では限界がある。そこで思い立ったのが、特別求めなかったのに、読後の感想を書いて送って下さる方がいたので、これらと一緒に本を出版社へ送ってみようと思い立った。一番多かったのは、振替用紙に書かれた寸評だった。

 どこの出版社がよいか、本屋でここはと思う出版社を見つけて送ることにした。それが東京の三修社だった。外国語系の辞書や教科書や様々な単行本を出版している会社だった。

 「出版しましょう」ということで、ほぼ、修正することなく、出版して下さることになった。表紙デザインは向こうにお任せすることになった。全てお任せなので荷造りの心配も何もない。1年に何度か印税が入るだけになった。

異文化を知る一冊シリーズに
 その後、拙著は三修社によって「異文化を知る一冊」シリーズに加えられた。今度は少し安価な文庫本としても出版して下さることになったのだ。

 その時点では、私はアメリカなどへ行ったことがなく、この『アメリカの高校生~イリノイ州セントラリア高校の全て~』を書いたのだが、雑誌社から原稿を書いてくれとか、引用させてくれという注文まで来ることになった。

 全くの予想外の展開だ。最初から、出版社へ持ち込んだところで見向きもされなかっただろうと思う。読者の皆さんの反響が私の背中を押して下さり、それが出版社の目にとまり、思わぬ展開になったのだ。

 その後、私は文科省の教育視察団となって、約1ヶ月間、海外の高校の教育について学ぶ機会に恵まれた。アメリカでは逆に自分の作った本の通りだろうかと思いながら視察したものだった。

 今、私は次を狙っている。今度は漫画本だ。自費出版を覚悟で、出版して下さるところがないかと思案している。そして、少し光が見えかかっている。何とか、夢が正夢になってほしいと願っている今日この頃である。

中央が自費出版したもの。左が三修社で最初に出版されたもの。右が、文庫本で出版されたもの。
 
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自費出版あれこれ(その1)

06 3月

自費出版の苦しみ
 現役時代、高校生(女子)が1年間の海外留学を終えて帰ってきた。私は、早速,彼女にあれこれアメリカの学校生活について聞いた。彼女は、自分の経験したことは、よく知っていた。

 しかし、高校生活全般、部活動、サークル活動、行事、教育行政などについては分からないことも多かった。それは当然のことであろう。日本の高校生に、2年生になったとき、これらの全てを聞いたところでどれだけ答えられるだろうか。ほとんど答えられないだろう。

私が編集長で彼女は記者のようなもの
 そこで、彼女に、「春休みに、もう一度アメリカへ行って取材してきてくれないか?」と頼むことにした。すると、彼女は「嬉しい、もう一度アメリカへ行ける。ホームステイした家族と会える」ということで、私の申し出を快諾してくれた。

 彼女は、100以上の質問(取材項目)と私のカメラを持ってアメリカへ向かった。彼女がアメリカにいる間中、ずっと無事だろうかと案ずることになった。ほどなくして、彼女は取材を終えて、無事帰国してくれた。

 そんな中で、一番の収穫は、アメリカの『イヤーブック(日本で言う卒業アルバム)』の編集部からカメラのネガをもらってきたことだ。これは、編集部の写真担当の生徒10名あまりが一年間かかって写した写真のネガだから、とても貴重なものだった。 

 個人が一年間アメリカへ留学したからと言って、写せる量と種類ではない。一級の貴重品だ。ナイターのフットボールや野球の試合などもあるのだ。インタビューの録音テープもある。

膨大な英語資料をどうするか
 今と違って、翻訳ソフトもない時代だ。膨大な英語の資料を訳さなければ原稿など書けない。そこで、わら半紙にハガキ大の英文を張り付け、1枚200円で訳してもらう作戦に出た。

 日本人が必死になっても分からない部分がある。それは、アメリカ独特の行事などだ。例えば、「ホームカミングウイーク」など何のことだろうと思うかも知れない。

 そんなときは、当時、福井県にただ一人の外人英語講師が毎週木曜日の午後には教育研究所におられるということで尋ねていって質問させていただいた。幸いその時期は定時制勤務だったので、上司の許可を得て出かけることができた。

 原稿の校正は、1年先輩のY先生に我が家で泊まっていただいて、ウイスキーを飲んでいただきながら作業をお願いした。あるときなど、食事の後、蛍を捕ったりして遊んだ後、ウイスキーを飲んでいたら、その日は眠くなって作業なしということもあった。

 こうして1年がかりで要約原稿ができあがった。印刷は行きつけの印刷屋さんだ。予算もないのに、印刷して下さった。あるときに払えば良いという寛大なものだった。そして、3,000冊の本ができあがった。

どうして注文を取るか
 玄関に積まれた3、000冊の『アメリカの高校生~イリノイ州セントラリア高校の全て~』を前に呆然とした。これをどうして売りさばくか。地元や福井の本屋へ置いてもらったところで知れているだろう。

 全国の書店へ送るルートは個人にはない。ダイレクトメールで全国の5,000の高校の英語科と図書館へ送ることにした。と言っても、A2版の宣伝のチラシを郵送するのだ。

 10,000通の手紙の切手代が70円×10,000通=700,000円だ。三色刷のチラシ印刷代も馬鹿にはならない。それに、10,000通の宛名を家庭で書けるずがない。

 チラシを封筒に入れるためには相当折り曲げなければならず、それに、推薦状や振替用紙なども入れなければならない。高校生数人を弁当付きのアルバイトで雇い、必死に宛名を書いてもらった。郵便番号がない時代なので大変だった。

  結局、1、000,000円ほど、ダイレクトメールのために費やすことになった。お金が羽を生やして飛んでいく。これで本が売れなければ、大変な赤字だ。果たして注文は来るだろうか。  (その1 終わり)

 結局、1、000,000円ほど、ダイレクトメールのために費やすことになった。お金が羽を生やして飛んでいく。これで本が売れなければ、大変な赤字だ。果たして注文は来るだろうか。  (その1 終わり)

自費出版した『アメリカの高校生』(表紙に使った写真は全て卒業アルバム制作スタッフが撮影したもの)

 
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通信教育っておもしろい!

05 3月

漫画の通信教育
 私は小学校時代から漫画を描くことが好きだった。クラスには他にもマンガの得意な者もいた。中学校になってから、マンガの通信教育を受けることにした。そこではデッサンをやったり、絵を真似たり、実際に4コマ漫画を描いたりと、色々課題が出てそれらを郵便で送ったりしていた。

 漫画に関しては、高校時代には、親戚のおじさんが勤めていた学校の卒業生が漫画家(主に貸本漫画を描いていて、時々大手出版社の付録漫画なども描いておられた)だということで、色々漫画の指導だけでなく、漫画界の裏話なども聞かせていただくことができた。

 ただ、この時期は、数多くの月刊雑誌が季刊雑誌になり、最後に次々と廃刊になるというような状態で、漫画界「冬の時代」と言われるような時期だった。それはテレビが出現したからだ。私の師匠の漫画家も、転職して仲間と看板屋を開業するような時代だった。頂点に君臨しておられた手塚治虫先生なども「これからは一部の実力者しか生き残れない」と言っておられたそうだ。師匠も、私に「他の道に進んだら」とアドバイスをして下さったりした時代だった。

 その時期、厚かましくも、政治の一コマ漫画を描き、地元の新聞社へ送ったりもした。「絵はかなり達者だが、社会風刺が弱い。大人になったら、もう一度挑戦して下さい」というような返事をいただいたりもした。今もチャンスをうかがっているのだが。

 考えてみたら当然だろう。高校生が政治漫画を描くなんて世の中を甘く見すぎていたかもしれない。アメリカのアイゼンハワー大統領とソ連の最高指導者フルシチョフ氏を扱ったものだった。そのことだけは今も覚えている。

【左】紙芝居『大野はげっしょ鯖物語』 【右】出版物の挿絵

作曲の通信教育
 その後、有名な作曲家の名前を冠した作曲の通信教育を受けることにした。小学校時代はハーモニカ、中学校時代から、ギターに触れていたので音楽には興味があったからだ。

 それに、親父に感化されて和太鼓にも触れていたので、大学時代は軽音楽クラブでドラムをやったりもしていた。ここまでは音楽も遊びでよかったのだが、2度目に赴任した小中学校(の中学部)では、音楽を指導するように頼まれてしまった。小学校にも中学校にも音楽の先生がいなかったのだ。

 かといって、私はピアノのピの字もできないド素人。お礼の「♪ボーン、ボーン、ボーン♪」さえも知らない。最初に赴任した学校の女先生にお礼の弾き方だけは習って以後使ったのを覚えている。

 そして、今でも、手が震えたことがあったことを覚えている。卒業式の時のことだ。教頭の号令「一同敬礼!」で私が「ボーン♪ボーン♪ボーン」、それに合わせて全員がお礼をするのだ。すかさず教頭の「君が代斉唱」で私の前奏が始まるはずだったが、一瞬、白黒の鍵盤が均等に見えてしまって、「どこを押さえればいいのだ~~」と手が震えている。何とか、少しの間合いで前奏開始。冷や汗ものだった。

 二年後に、音楽の得意な先生が小学校に赴任してきて式典からは解放された。しかし、中学校の音楽の授業は続き、連合音楽会では合唱の指揮。慣れないことの連続。でも、小規模校ならではの経験をいろいろさせてもらった。

「親の意見と茄子(なすび)の花は千に一つも無駄がない」と言うが
 その後も、いろんな通信教育を受けた。『挿絵』の通信教育。『建築パース(透視図)』などだ。途中で挫折したものもある。挫折しても、どこかで何かの役にたっている。

 長い間、数学の教員をやっていたが、そんな時、立体的な図を描く場合には少しは役に立ったのではないかと思う。退職してから、特に日曜大工をやるようになったが、完成図を描いたり、途中で木組みの立体図を描いたり、様々なところで役立っている。

 音楽も、地域に伝わる民謡の採譜を行ったり、なければ新民謡をつくったり、歌をつくったり編曲したり、CDをつくったり、バンド活動を行ったりと、退職後の人生を活き活きしてくれている。

 『親の意見と茄子の花は千に一つも無駄がない』ということわざがではないが、『若い頃の道草は、いつか人生の花と咲く」と言いたい。若い頃、真剣に取り組んだことは、第一、第二の人生に大いに役立つと思う。仕事にも、退職後の生き甲斐づくりにも、まちづくりにも大いに役立っている。どこかで他人の役にも立っていると実感している。

 レベルは低いが、数学と漫画の二刀流、漫画と音楽の二刀流、それぞれが新たな価値と楽しみを生み続けていると思っている。若い頃学んだことは、本当に無駄がなく、日々の活力に繫がっている。

【左】OBバンドの練習 【右】卒業式でのピアノ担当……「式次第」には「開式の辞」「一同敬礼」
「君が代斉唱」……の文字が見える。

  

 
 

我がまちをどうするか

04 3月

現行中学校再編案がベストか?
 今回は、下のイラストマップを見て、「現行の3中学校を廃校にして、勝山高校の敷地に新しい中学校を建設する案がベストなのか?」をよく考えていただきたい。今が、考え直す最後のチャンスかもしれません。

勝山は九頭竜川に沿って細長く伸びているまちです。中央部は山に挟まれて狭く、両端が広がっている地形です。

まちづくりの観点から見てどうでしょうか
 〇子育てのしやすいまちになるでしょうか?
 〇いつまでも住み続けたくなるまちになるでしょうか?
 〇誰もが夢や希望のを持てるまちになるでしょうか?
 〇他の地域から住んでみたいと思えるようなまちになるでしょうか?
 〇子ども達が地域と繫がって楽しく暮らせるまちになるでしょうか?
 〇誰もが、いつでも、子ども達の生き生きした姿に出会えるまちになるでしょうか?
 〇バスや自家用車でしか通えない学校をつくって、将来の子ども達に誇れるまちになるでしょうか?
 〇コンパクトに教育施設を一カ所に集めることによって子ども達が伸び伸び育つまちになるでしょうか?

慌てずに、今一度、考え直してもよいのではないでしょうか?

一度決めたら、簡単には引き返せないのですから

 

 

K君との出会い

03 3月

プログラミングで遊ぶ
 一昨年から1年あまり、小中学生のプログラミング教室に付き合った。そして、子ども達の活動の様子をいろいろ見てきた。2020年から日本の学校でプログラミング教育が始まった。しかし、それらが始まる前から会社を経営しているMさん達が勝山でプログラミング教室を開いていた。

 勝山市は細長いまちだ。そんなまちでやや最初は、北部寄りにプログラミング教室が一カ所あるだけだった。そこで、南部地区にもということで、一昨年から私の建物(山児童館)を使って、2カ所目のプログラミング教室が開かれることになった。

 そんな子ども達の一人に6年生のK君がいた。彼は、プログラミングについては、小学生ながら高校級の能力があるように思えた。他の子ども達とは段違いの能力があったのだ。

 他の子ども達は、基本的なBASIC言語でどうにかプログラミングをやっている程度だったが、彼はいくつかのコンピュータ言語を操り、いろんなゲームをつくったりしていた。また、コンクールにも入賞したりしていた。

 彼を見ていると、プログラミングは創造的な活動だということがよく分かる。モノ作りの一つだ。そして、プログラミングで遊べる域に達しているのだ。時々私が「こんなモノ作れる?」というと、彼は必死でそれらを形にするのだ。すごいと思う。

 そして、私たちは、彼が中学校に入学すると同時に、中学校にプログラミング部ができるよう学校側にお願いして部ができた。といっても、なかなか生徒が集まらないのが悩みだ。プログラミングで遊べる域に達するまでにはかなりの努力が必要だから、簡単に入部しないのだろうか。

 そうこうしているうちに、北部寄りの教室が場所の都合で閉鎖することになり、南北一つになって私の建物を離れ、昨年4月から、市民活動センターに移った。

 フリーになった私は、小学生、先生方、新たにプログラミングを始める方々の何かのお役に立ちたいということで、昨年1年間はもっぱらプログラミングの漫画を描くことに専念し、ようやく完成したのだ。

 このマンガの中で使われる『イチゴジャムベーシック』の開発者、福野泰介氏がこのマンガの監修をして下さることになった。近いうちにどこかで出版できればと思っているが、ダメなら自費出版もやむを得ない。

プログラミングを始める前の基礎の基礎

 

プログラミングの第一歩

K君との久々の再会
 今日、久しぶりにK君と会った。昨年はあまり接する機会がなかったが、今年は時々会おうかと話している。私は、プログラミングに関しては基礎の基礎も怪しいレベルだ。しかし、彼と話していると、次のマンガを描く参考になるし、いろんなアイディアを形にしてくれるのでとても楽しい。

 彼は、昨年、福井県の『カニロボコン』で念願の優勝を果たした。私は、プログラミングでは全く遊べないが、彼の作品の感想ぐらいは話すことができる。それが、彼の作品をよくすることに繫がればと思っている。

 14歳と80歳だが、プログラミングに於いては仲間同士だ。いや、彼の方がはるかに私の前を歩いている。私は、今からプログラミングを始めようとする超初心者のお手伝いでもできればと思って、次回作のマンガのアイディアを練っている今日この頃である。

 1+1が3になるようになればと思う。次回作は『ゲームで学ぶプログラミング』にしたいと思っている。そして、これらを卒業して、本格的なプログラミングを始めてほしいと思う。プログラミングの世界で遊んでほしい。

 プログラミングに関係のない人も、困りごとやアイディアを若い人たちに伝えていってほしい。きっと、プログラミングはその解決の一助になると確信している。

 
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「高校の先生の移動が楽だ」に違和感

02 3月

中学生の移動はもっと大変ですよ
 中学校再編に関して、市の関係者や準備委員の発言を聞いていて、いつも違和感を感じるのが次の発言だ。
「中高を併設すれば、高校の先生が簡単に中学校の教室へ行くことができる」というものだ。

 現在の計画では。英語と数学の授業で中高の教員のTT(チームティーチング)を実施するという。中学3年になったら、週に一度実施するとのことだ。高校の教員に事前の説明があったのだろうか。

 TTなどでは、高校の教員が簡単に中学校の教室に出向くことができるとの考えからの発言だろう。もちろん、他の場合もあるだろうが。

 中高併設すれば教員は容易に移動できるが、その裏では、併設によって遠距離通学を強いられる生徒がその何十倍も生まれるのだということに想いを馳せてほしい。毎日、数百人の生徒がバスや家庭の送迎、自転車で学校へ通うことになるのが統廃合によって生じる現実なのだ。 

 文科省の規定では、「中学生の通学距離は6km未満であることが望ましい」としている。しかし、特例としてそれを超えても認めるとある。あくまでも、特例によって認められるということだ。

 今回の再編によって、通学距離が6kmを超える生徒達がたくさん生まれる。6km未満でも通学は大変だろう。3kmを超えたらバス通学をしてもよいと決めてるそうだが、それは3kmを超えても通学は大変だからだろう。

 距離の遠近にかかわらず、中学生の多くは日々の登下校に対しては苦労するだろう。施設を共有しなければならないので、時間的には、何もかも高校生に合わせなければならないからだ。特に下校となると、季節によっては早く暗くなり、寒くなって心細いことだろう。

 大人は、5kmや10kmの距離は、車で10分程度で移動できるだろう。今後、間違っても、「併設によって、高校の先生の移動が楽になる」などと発言してほしくない。説明会などで、こういう言葉を市の幹部から何度も聞いたが無神経なことだと思う。これは他の人たちからもよく聞くので、一度書いておきたいと思う。

 それと同時に、事ある毎に、「併設すれば高校の先生の授業を受けることができる」とメリットとして繰り返すのもどうかと思う。義務制の教員に対して失礼ではないかと、少なくとも私は感じる。両方を経験しているから尚更だ。

勝山南部中学校の周囲には住宅地や田んぼが広がる。