想定を遙かに超える東日本大震災
テレビを見ていたら、東日本大震災の『映像記録3.11』が、NHKで放映されていた。思わず引き込まれてしまった。天災の恐ろしさに恐怖を感じた。それと同時に、人は経験則によって生きている(行動する生き物だ)いうことをつくずく思い知らされた。
迫り来る津波の状況を、屋上などの高所から必死に伝える人がいても、それが見えない人はまさか今回のような大津波が来るとは信じられなかったようである。川を遡上する津波が来ても、岸辺でそれをのんびり見ている多くの人がいる。まさか堤防は越えないだろうという思いであろう。
ビルの裏側まで大津波が迫っていても、ビルの表側にいる人は、全く慌てる様子がない。所によっては津波の先端は小さな波だ。それが迫っていても、まさか自分の背丈を遙かに超えるような津波が来るはずがないと思っているのだろう、急ぐ人もいる一方、のんびり歩いている人もいる。
過去の経験から、自分の想定がその程度に見積もられているのだろうか。これまで、何度も地震が来て津波警報が出されても、小さな波ぐらいしか経験していないのだろう。過去の経験によって、人は行動するものあ。しかし、一部の人は、必死で逃げることを選択している。
過去の経験を遙かに超える事態が発生する可能性があるということを、今回の大震災で私は痛感した。過去に経験しない事態は全国至る所で発生しているのだ。それは、災害が起きた直後の、被災者の発言がそのことをよく表している。
「生まれて初めてこんなに雨が降りました」、「生まれて初めて……しました」と言う声を聞くからである。「生まれて初めて」とは、過去に経験しなかったということだ。各地で起こるゲリラ豪雨も、火山の噴火も、豪雪も、地震も、いろんな場所で起こるのだ。逆に言えば、自分の住んでいる場所でも、何が起こるか分からないのだ。今回の大震災で学ぶことは多い。
古くて新しい言葉、「災害は忘れた頃にやってくる」を噛みしめなければならない。また、「過去に起こらないことが起こるのも災害だ」と言うことも、合わせて気に留めておかなければならない。映像を見ていると、なくなられた方の無念さが胸を痛める。東日本の一日も早い復興を願いたい。政治や東電ののんびりさに腹立たし苦なる。
(日記 午前中、創作紙芝居『平泉寺物語』の追加の絵を描いた。午後も、作業を継続。)