テレビから題材をいただいて
私達は、昼間は目を開けているので、多くのものが見えている。しかし、それは観ているのではない。というのは、何か目当てを持っていることが少ないからである。
意識がないと、毎日見ていても細かい部分がどうなっているのかは、分からない。身の回りにあるものでもそうだ。毎日見ていても、その形を紙に描くことは出来ない。
また、ものによっては、いくら真剣に観ようと思っても見えないものもある。サッカー選手が、どのように戦略的に動いているのかは、素人には見えない。
野球にしてもそうだ。プロの内野の選手が、どのような意図で動いているのか、素人にはわかりにくい。点差によって、カウントによって、アウトカウントによって、ランナーの数によって、今が何回かによって、動きが変わるはずだが、素人には理解できない。
会社や官庁での採用試験で、これまで何度か面接官をしてきたが、自分の好みは分かっても、どの人がこの仕事に向いているかを見分けることは難しかった。
「見る」と「観る」の違いは何となく分かる。しかし、ものによっては、観ようとしても見えないものがある。それは観ることが出来るレベルに達していない場合だ。
職人は、普通の人間以上にいろんなものを観ることができ、感しることが出来る人間だと思う。政治家には、国民の動きが見えるのだろうか。被災地の人たちの動きが見えるのだろうか。ものによっては、心の眼を使わなければ見えないものもあるだろう。
(日記 午前中、創作紙芝居『白山平泉寺物語』の絵を描き、脚本を修正した。白山麓の住人と三馬場の関係を調べていると興味は尽きない。平泉寺を中心に見ても、幕府との関係、越前藩との関係、牛首・風嵐村との関係、他の馬場との関係など時代と共に変化している。これらを調べることはとても面白い。逆に作業ははかどらない。午後も作業を継続。午後5時から股関節のマッサージに大野のY整骨院へ行く。行き始めよりは、股関節の可動範囲が大きくなったように思う。)