RSS
 

「川」から連想するもの

02 3月

「この川にどんな魚がいるのか?」
  私達の子供の頃、川の近くを通った場合には、「この川にどんな魚がいるのか」、「あの水草の中に魚がいそうだ」、「どうして捕まえようか」などと必ず考えたものだ。この気持ちは今も変わらない。

  米を研ぐ「そうけ(竹で編んだかご)を持ち出して、川岸に沈め、足をばたばたさせながら魚を追い込んだりした。私達は、この魚の捕まえ方を「足バッタ」と称していた。足をばたばたさせたからだろう。

  また、村の貯水池や小川では魚を釣ることもあった。釣り針は、昆虫採集に使う針だ。釣り針状に曲げて使うのだ。ミミズやイナゴの尻尾などを付けて釣ったものだ。鯉や鮒やアブラハヤなどがよく釣れた。

  こうした道具が何もない場合には、魚のいそうな石垣に手を入れて捕まえる「手づかみ」だ。魚の姿は見えないが、指先に魚が触れた場合にはワクワクしたものだ。逃げないように強くつかんだために、魚はかなり弱ってしまったが。

  九頭竜川では、手作りの「鉄砲ヤス」などで魚を捕まえたりもした。「手づかみ」や石で囲って作った池(状の囲い)に魚を追い込むことなどでも魚を捕まえたりした。川は、その大小によっていろんな遊び方があったのだ。

  今、周囲の田んぼの間を流れる川は、ほとんどがコンクリートブロックで作られている。三面張りの場合が多いが、所によっては、トンネル状になっている。こうした川の近くを通った子ども達が魚の有無に関心を持つことはなかろう。機能性を重視するあまりに潤いをなくしているように思われる。

  これでは、子ども時代の「創造性」や「想像性」を育むことは困難であろう。生き物の「命」について学ぶ機会も少なくなるであろう。時代が進み、モノが豊かになり、科学が発達し、生活は便利になっても、幸せには直接つながらないのだ。

夢中になって魚とり。(提供:宇野 博氏)

  我が村にも少しだけ(200mほど)、魚の住みそうな河川改修が行われているが、ままごとのようなものだ。効率ばかりを追い詰めた反省から生まれたアイディアだろうが、こんな事では何も変わらないだろう。

  連日、報道される詐欺事件、殺人等の犯罪、孤独死。時代が進むにつれてますます多くなるように思われる。先進国のそのような状態を知った先代のブータン国王が「国民の幸せ」とは何かを考え、「国民総生産」ではなく「国民総幸福度」を重視するようになったと言われている。よい選択ではないか。

  一方我が国では、犯罪以外にも心配なことが広がっている。今や人と人との関係を自ら持とうとしない人が増えているそうだ。そんな人たちを相手に商魂たくましい人たちが「お一人様ビジネス」を展開している。

  一人カラオケ、一人焼き肉、一人喫茶店、一人居酒屋、……など、最初から「お一人様」を相手にしたビジネスが盛んになっているのだ。この先にあるものはなんだろうか。この先に何が来るのだろうか。大震災にあった人たちは、以後「絆」を求めているというのに。

  先日の党首討論を見ていると、政治家の皆さんは、一見、政策を考えているようだが、実は、自分の生き残りばかり(政局)を考えているように思えてならない。いつも「貧乏くじ」を引くのは国民だ。しかし、そろそろ国民の「怒」が限界に達しているのではないかと思われる。

九頭竜川右岸での水泳風景。向こうに勝山橋が見える。(提供:宇野 博氏)

  「能率」、「機能」、「利益」、「勝ち負け」ばかりを優先せず、何が人の幸せに繋がるのかを考え、多少無駄に見える「あそび」を入れなければ人は幸せにならないのではなかろうか。原発村を生み出したのは誰か。考えると悲しい。

(日記 風邪気味だ。朝、医者へ行き薬をもらう。帰宅してから、午後もずっとこたつの中で「平泉寺」に関する本を読んでいた。その中から見えてくるのは、宗教という「人の心を扱う」もののなかに、権力者や政治の力が大きく作用し、人の欲得が見え隠れし、攻めたり攻められたりしている。今も昔も、人の業は変わらないのだろうか。)

 
 

Leave a Reply