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Archive for 9月, 2011

足羽川慕情

30 9月

フォーク演歌『足羽川慕情』
   朝から雨。天気予報通りだ。昨日までは快晴だったの家庭菜園や組合で借りた畑の作業は順調にできた。今日は、午前中は、歌作りをすると決めた。雨なので心置きなくできる。

   今作りたい歌は、来下中の15日に浜松で行われる大学の軽音楽同好会のOB会の宴会で披露する自作の歌だ。仲間には、「まだ歌はできていないが当日までには1曲作るつもりだ」と言っておいた。

   アドバルーンを上げたのだ。私は時々、アドバルーンを上げることにしている。せざるを得ない状況に自分を追い込むと、意外とできるものだ。私達は、当日午後の演奏会でおじさんバンド(or じいちゃんバンド)で、数曲披露することになっている。

   しかし、私としては、オリジナルを演奏会ではなく、宴会にでも披露できればと思っている。ところで、素人の私が歌を作るからには、「何を歌にするか」が一番の問題だ。

  当日のOB(参加者)の状況を考えてみると、多くは県外出身者だ。人生のある時期(大学の4年間、あるいはそれ以上)、福井市で過ごしたのだ。そして、それぞれが、就職、あるいは結婚し、自分のふるさと、または都会へ出て行ったのだ。

  そうした参加者の誰もが、共通しているのは、福井市で過ごしたということだ。そこで、青春時代を過ごした福井市での日々を歌にしてみたい。そんな気持ちを胸に抱きながら、歌詞の端々を口ずさみ、メロディーを紡いでいった。

   そして、今日の午前中、ようやくメロディーだけが完成した。後は、これに、歌詞を付けることだ。プロの世界では、このように、曲を先に作り、歌詞を後に付ける「曲先」の方が多いらしい。私も最近はこの方法で歌を作っている。

  メロディーを作りながら、考えたことはだいたい次のようなことだった。

  「あれ(卒業して)から何年経っただろうか。
 今、足羽川の辺を歩くと、走馬燈のように、学生時代のことがよみがえる。
   音楽があり、アルバイトがあり、恋があり、勉強もあった。
   そして、将来に対する不安と期待があり、果たせないかもしれないが、夢もあった。
   川の流れをを見ているとあの日と同じようにきらきらと夕陽が照り返り、いつまでも二人で見つめていたあの頃を思い出す。
   言葉は交わさなくても、満ち足りた時間が流れていた。
  あのときの仲間達は、今どうしているだろうか。
    あの人は今どこでどうしているだろうか。
   足羽川はあの日と同じように静かに流れているが、あの人は、今、ここにはいない。
  ……。」

    まだまだ詞にはなっていないが、こうしたことを頭に置きながら、厳しい制約の中で、詞を作りたい。産みの苦しみはあっても、楽しく充実した時間だった。

(日記 午前中、歌作り。午後は、事務所の楽器や和太鼓の衣装の整理。部屋や物置はかなりきれいになった。午後、7時より、平泉寺公民館で町民体育大会で踊る民踊の練習会。3曲、指導した。11日には、平泉寺小学校でも指導する予定。午後8時半に終わって、村の集会所で行われている「農事組合法人かたせ」の臨時総会に、家内と交代して出席。我を通す人がいて理事者側は苦労している。予定が重なっていなければ早くから出席して発言していたのにと思うと、残念だった。)

 
 

桃栗3年柿8年

29 9月

仕掛けなければ結果は得られない
 
  私は柿が大好きだ。私の家は、30ほど前には、道路から玄関までには柿の木の並木(?)があり、玄関の前にも甘柿と天文柿があった。その他、栗の木、梨の木、グミの木、イチジク、ナツメの木、桑の木などがあった。

   どの木がどこにあったかも明確に覚えている。子どもの頃は、日本全体が貧しく、我が家も例外ではなかった。柿なども、赤くなるまで待てずに、ごま(黒い点々)のふいている緑色の柿まで食べたものだ。

家庭菜園の隅に実ったキウイ。家内がリンゴと一緒にビニール袋に入れて保管した。そのうちに熟して甘くなるだろう。

  しかし、今は我が家にはこうした果物がなる木はほとんどない。今残っているのは、柿の木が一本だけだ。その後、自宅にキウイを植えた。しかし、あまりにも蔓が茂りすぎるので事務所の後ろの家庭菜園へ移動した。

  また、家内が2年ほど前に、友人からイチジクの木をもらった。この木が毎年イチジクを実らせてくれる。今年も、たくさんのイチジクが実り、今でも毎日2、3個のイチジクを食べることができる。甘くてとても美味しい。

  今春、植木鉢用の小型のイチジクの苗木と大型の実が実るという富有柿の苗を買った。買ったこのイチジクは、当分の間、鉢で育てるつもりだが、富有柿は、今日、畑へ植えた。「桃栗3年、柿8年」という。

  いつになったら、大型の富有柿を食べることができるのだろうか。とにかく、植えなければ柿を収穫することができない。ついでに、畑のいちじくの小枝を挿し木にして育てた苗木も植えた。

  いろんなことを仕掛ければ、そこからいろんなの「もの」が生まれる。一つだけを待っているのではなく、いろんなものを育てておけば、忘れた頃に、収穫があると思っている。

   これは作物ばかりでなく、いろんなことを仕掛ければ、そこからいろんな発展があり、いろんな人と知り合いになり、人生が楽しくなると思っている。まだまだやることはいっぱいありそうである。

スタジオの隅に設置した整理棚。少し部屋がすっきりしたように思う。

(日記 午前中、イチゴを植える場所を作り、黒マルチをかけた。しばらくしたら、イチゴの苗を植えたいと思う。その後、家庭菜園の隅にイチジクと富有柿の苗を植えた。午後は、昨日に続き、スタジオの整理棚作りを作った。夕方ようやく完成した。空間を利用するために、一番下は、パイプ椅子の整理、2番目、3番目には棚を作り、和太鼓のバチなどを収納した。午後7時半より『片瀬豊年ばやし』の締め太鼓の練習。基本のリズムを練習した。 )

 
 

来年に向けて

28 9月

来年に向けての畝作り
   家庭菜園であれ、本格的な農業であれ、収穫物を得ようと思ったら、周到な準備が必要だ。結果を急ぐことはできない。しかし、現代人の生活は常に結果を求めることが多い。

   しかし、駆け足の人生、駆け足の食事に飽き足らない人が増えつつあり、ファーストフード、ファーストライフに対して、スローライフ、スローフードがもてはやされるようになってきている。

トラクターによる畝立て作業。午前中、トラクターでできない部分を人力で行った。

   昨晩、組合の理事長から電話がかかってきた。「明日、手伝ってもらえんか」ということだった。組合の畝立て作業に出て来てほしいということだった。半日ならということで引き受けた。

  午前8時に、作業に出る者が組合の農舎前に集まった。トラクターで畝上げ作業をするのだが、機械ではできない部分を人間がするのだ。来年に向けて、エンドウ、イチゴ、タマネギ、水菜など様々な野菜を今のうちから植えたり、種を播いたりするのだ。

   すでに、来年に向けての作業が始まっているのだ。夏以降、秋野菜の準備は始まっているが、秋も深まると来春のための準備も始まるのだ。今年の春は、エンドウとニンニクをたくさん収穫することができたが、全て昨秋、植えたり種を播いておいたからだ。

  子ども達にも、長いスパンでモノを育てたり作ったりするのだということを分かってもらいたいものだ。よい結果を得ようと思ったら、周到な準備と長い期間の努力が必要だということを是非とも分かってもらいたいものだ。

   美味しいものを食べようと望むならば、時間をかけて食材の良さを生かしながら、時間をかけて調理しなければならない。インスタント食品やファーストフードで本当の味を求めても無理だろう。

   平日、作業に出られる人間となると、ほとんどが退職者で60歳代から80歳代までだ。このような年齢になると、作業も大事だが、自分の身体と相談しながら作業をしなければならない。無理は禁物だ。私も、作業は半日だけにしてもらった。

スタジオの整理棚作り。二つのライトを付けながらの作業。(午後8時過ぎ)

(日記 午前中、「農事組合法人かたせ」の畝立て作業に参加。午後は、事務所の整理棚作り。夜9時まで作業を続けた。7時半から、和太鼓の練習。今は新曲作りの真っ最中。ある程度の枠組みを作ったら、後はメンバーに任せている。時々練習を見ながら、整理棚作りを続けた。)

 
 

健やかに育て!子ども達

27 9月

子育てマイスターに
   人に勧められて「子育てマイスター」になった。と言っても、私が「子育ての専門家」であると言うのではない。自分の子育て、あるいは、三十数年の教員生活、そして、9年間の市教委勤務を通して、いろんな子ども達を見て来た。

  そうした経験から、少しは子育てのヒントを述べることができるかもしれない。そんな軽い気持ちでこの役目を引き受けた。私の初の公の出番は、来月の29日だ。

   3歳未満児とその保護者の前で、何かパフォーマンスをやり、保護者には子育ての簡単なメッセージを送るのだ。自分としては、楽しみにしている。3歳児をどうして夢中にさせるかだ。

  ただ、私の場合、これからの人生は家内と二人合わせて「1+1は1.5」の生活を送りたいと思っている。自分一人では1だが、夫婦合わせて1.5になればと思っている。

   今の年齢で夫婦が「1+1は2」や「1+1は3」にしようとすると大変だ。二人合わせて1より大きくなればそれでよいのだ。一人では1のままなのだから。

乳幼児とその保護者の前でオカリナ演奏。アコーディオンは私で、左から3番目は妻。(於:遅羽児童館)   そこで、今度の「子育てマイスター」の出番でも、妻と一緒に出演するつもりだ。人形も使った創作紙芝居と手遊び。私はアコーディオンで妻が歌と手遊びを指導するのだ。創作紙芝居は二人で演ずるつもりだ。

  さて、今日は子育てマイスターのSさん(オカリナ仲間)が遅羽児童館で3才未満児とその保護者を集めて「移動子育て支援センター」として、パフォーマンスをするのだ。

  そこで、平日でも時間の融通がつけられるオカリナ仲間が集まって遅羽児童館へ出かけた。Sさんお読み聞かせ、そして、我らオカリナ隊の伴奏で手遊び(指導は子育て支援センターの職員)。私はアコーディオンで伴奏。そして、最後にオカリナ演奏。

  3歳未満児を夢中にさせることができるかが課題だ。私には一つのアイディアがある。創作紙芝居「だれがいるのかな?」を作って夫婦で演ずるつもりだ。保護者への短いメッセージも決めてある。

   幼児期こそ、子育ての基本となる大切な時期だ。先ずはそのことを伝えたいと思う。親子のコミュニケーションの大切さも伝えたいと思う。果たして、3歳未満児とその保護者に受けるかどうかは未知数だが、楽しみである。

(日記 午前中、「遅羽児童館」で子育て支援センター事業に参加し、アコーディオンとオカリナを演奏する。午後は、昼食後、事務所(山児童館)で日曜大工と整理・整頓、清掃。午後4時から、ショウガを収穫した畑を耕し、すぐり菜のための大根とカブの種をまいた。しばらくしてすぐり菜が食べられるだろう。午後7時半より、遅羽公民館で「三室祭り」のための民謡指導。82歳のおばあさんも参加していた。彼女の動きを見ているとみんなの励みになる。自分も元気で頑張らねばと思う。)

 
 

前期最後の『和太鼓授業』

26 9月

「あかおやま」と「毎日パワー」
   北部中学校の平成11年度の選択音楽『和太鼓』は今日が最終日。これまでも中学生に言ってきたことは、「和太鼓を教える」のではなく「和太鼓で教える」のだということだ。

  和太鼓を教えながら、人として大事なことを教えたいというのが私の願いだ。最終日の今日は「前半は話、後半はみんなで最後の太鼓を楽しむ」と決めて出かけた。

   話の中身は二つ。「あかおやま」と「毎日パワー」だ。人として、これから先の人生に於いて「あかおやま」は大切だということをいろんな例をあげながら話した。「あかおやま」とは、あ:挨拶、か:感謝、お:思いやり、や:約束を守る、ま:マナーのことだ。

   また、人はいくつになろうとも、何か目標を定めて、毎日毎日努力すれば必ず、進歩・向上するということを話した。これは、スポーツでも、学業、例えば英会話でも、音楽でも何でもいいが、毎日毎日努力すればいつか大きな力になるということを伝えたかった。

前期最後の和太鼓授業。(写真は意識的にぼかしてあります。)

 これが「毎日パワー」だ。これは生徒達に言っているようであるが、実は私自身に言っていることでもある。「継続は力なり」と言い換えてもいいかもしれない。

   この二つを伝えたかった。私がモノを教えるときに大切にしている言葉だ。これを言い換えると、「DREAM & ACTION」にもなる。夢を持ち、それに向かって行動するという意味であり、「毎日パワー」にもつながることでもある。

   若い中学生達の前途は大きく広がっている。無限の可能性がある。焦らず、一歩ずつ歩めばいつかは夢に近づけるということを知ってほしい。「毎日パワー」を信じて毎日努力すれば、たとえ夢が実現しなくても、夢に近づくことはできるのだということを。

  こんな話をして、最後に全員で文化祭に発表した2曲を演奏した。文化祭の時ほど上手く演奏できなかったが、とにかく前期の授業は終わった。次回からまた、新しいメンバーで授業が始まるのだ。前期のメンバーの洋々たる前途に幸あれと祈りたい。

(日記 午前中、昨日に続いて歌作り。午前11時半より北部中学校で前期最後の『選択音楽・和太鼓』の授業を行った。帰りに本屋で『日本中枢の崩壊』を買った。経済産業省の現役幹部である古賀茂明氏の書いた本だ。帰宅して、午後は家庭菜園作業。サツマイモを掘り、イチゴを植える場所とすぐり菜やカブを植える場所を耕した。午後7時半より『オカリナ教室』。明日の出番の練習をした。)

 
 

久々の歌作り

25 9月

意外と慌ただしい毎日
   私にとっては、翌月以降のカレンダーはかなり空白の部分があるのに、その月になってみるとカレンダーには予定がびっしりと入ってしまう。従って、のんびりと創作活動などはできない。

   それでも、昨日の祭りで一段落したので、今日は、午後4時頃から1時間あまり当たらし歌作りを始めた。先ず、何を歌にするかを決め、おおざっぱに曲想が決まったら、リズムを決め、あれこれ頭の中で断片的に歌詞を思い浮かべながら、メロディーを紡いでいくのだ。

   そして、全体のメロディが決まったら、ある程度編曲して詞を完成させ、最後に、編曲して、誰かに歌っていただき、CDにするという手順だ。今日は最初の部分のメロディーを考えた。

演奏会でハワイアンを演奏する仲間。左端がスティールギターの私。

   来月の15日に静岡県で大学の軽音楽同好会のOB会があるのでその日までにできればと思っている。できればその日の宴会に披露できればと思うが、完成の見込みは今のところ、五分五分だ。

   今から、約50年前、私は大学生で寮に住んでいた。そして、バンドを作ろうとしていたところ、工学部の1学年上の先輩達に誘われてが、一緒に「福井大学軽音楽同好会」を創設したのだ。

  その頃、生活していた福井市内をテーマに歌を作れたら、OB会に花を添えることができるのではないかと考えたのだ。タイトルは仮題だが、足羽川をテーマに『足羽川慕情』にするかなあと今は考えている。

   久々に足羽川の堤防を今歩いてみると、青春の日々がよみがえる。将来に期待と不安を抱きながら、遊び、アルバイトをし、音楽に明け暮れ、時には、女性のことを想ったあの頃。

   足羽川の流れは昔も今も変わらずに静かに流れているが、あの頃の仲間達は今どこでどうしているだろうか。そして、あの人は……。そんなことを頭に描きながら、メロディーを作り始めた。

   曲はややフォーク調だ。私個人の経験と言うよりも、全てのOBに共通する部分を歌にできたらと思っている。今度のOB会は楽しみである。私の先輩は1学年上に数人、同級生が一人いるだけで、後は全て後輩だ。後輩は三学年下までしか分からない。

   大部分が知らないと言った方が当たっているかもしれない。しかし、不思議なもので、同じ部のOBと言うだけで何となく親しみが湧いてくる。とにかく、歌を完成させたい。

(日記 午前中、トマトの雨よけなどを解体し、片付けた。いよいよ夏野菜はシーズンが終わり、秋野菜や来年の準備が始まっている。昼過ぎ、祭りに来ていた長女親子が福井へ帰っていった。下の娘は明日東京へ戻るという。私の若い頃、あこがれた東京で長男と次女は働いている。夢は、親子2代で叶うものなのだろうか。午後3時から、祭りの後片付けだ。あっという間に祭りは終わってしまった。午後4時頃から歌作り。夜、たまっている朝ドラのビデオを見た。『江』のビデオははまだ数回しか見ていない。たまる一方だ。)

 
 

片瀬の秋祭り

24 9月

余興から郷土芸能へ
   今日は片瀬の秋祭り。天候に恵まれた。今日は私達『片瀬豊年ばやし』保存会が子ども達の『浦安の舞』と共に神社に芸能奉納を行う日だ。昨年のこの祭りで誕生したこの『片瀬豊年ばやし』を今日も披露するのだ。

白山神社拝殿横の特設ステージで『片瀬豊年ばやし』の奉納。

   昨年は、歌はCDで、銭太鼓と女踊りだけを披露したが、今年は、歌はカラオケを使い、実際に歌ったことと銭太鼓の合間に今年の豊年を祝って『米俵芸(米俵を使って力比べをする)』を加えた。

   まだまだ余興の域を出ないが、今後磨きをかけて『郷土芸能』と言われるように持って行きたいと思う。私の頭の中には、余興というと“たた受ければよい(面白ければよい)”というような軽い芸を連想し、芸能というと“一つ一つの仕草に意味があり、その技のすごさで見ている人に感動を与える”者だと思っている。

  今回は、まだ余興の域を出ないと感じているが、今後練習し、磨きをかけて「芸能」になるよう努力したい。来週は、三室祭り、その後も出番が続くがよく練習して、感動を与えるものにしたい。もちろんドジョウすくいの伝統を活かし、ユーモアもあるようにしたい。

米俵芸に使う米俵の入場。この米俵を持ち上げて力比べをする芸能を今年は加えたのだ。

   指導している時間がなかったので、私も出演することにした。我ながらまだまだ改善の余地があると思った。それでも、皆さんに喜んでいただけてよかったと思っている。

(日記 午前中、「片瀬の祭り」のために里芋と生姜を掘り取り、里芋は桶で洗った。その後、祭りのために、「片瀬豊年ばやし」の舞台用のカラオケCDを作った。家内は、私の“米俵芸の衣装”である継ぎの当たった法被や金太郎腹掛けを作ってくれた。午後1時よりおじさんバンドの練習。午後5時半までみっちり練習した。夕方は子福井へ嫁いだ長女や東京から帰省した次女達を祭りの食事。そして、午後8時半過ぎから、子ども達の“浦安の舞”に続いて、米俵芸入りの銭太鼓「片瀬豊年ばやし」を奉納。絶えず、歌は流れていた。特に、米俵芸のバック音楽は、“片瀬の里芋と生姜と旨い米”を讃える歌詞だ。まだまだ推敲の余地がある。しかし、まあまあのできだった。村の人が喜んで下さったのが救いだった。これで、また一つ創作が終わった。)

じいさん役の私の演技。どうしても持ち上がらないので、法被を脱いで俵を持ち上げているところ。途中でギックリ腰になるところがミソ。最後にオチがある。

神社の拝殿と特設ステージを使った子ども達による「浦安の舞」。

 
 

災害が多い日本

23 9月

地球は生きている
  最近どうも地球の様子がおかしい。日本でも災害が後を絶たない。地震、津波、ゲリラ豪雨、台風、噴火などが次々と日本列島を襲う。災害があるたびに、その地域に住む人たちの多くは、「生まれて初めての災害だ」と言う。

   次から次へといろんな場所で災害が発生する。「生まれて初めての災害だ」ということは、いつどこで災害が発せするか分からないということだ。「生まれて今日まで災害が起こらなかったから、これからも起こらないだろう」とは言えないのである。

  長いスパンで地球の歴史を考えると考えてみると、元々地球は火の玉だったのだ。そして、生物は全くいない世界だったのだ。大陸も、今のような形ではなく、一つの大きな塊だったのだ。

  それが、長い期間をかけて大陸が移動して現在の形になったのだ。そして、この動きは現在も続いている。これが、地震を引き起こすのだ。私達は、長いスパンで考えると、動く大陸の上で生活しているのだ。いつ何が起こっても不思議ではないと考えた方が良さそうだ。

   時には、いざというときのために、「どう行動すればよいのか」、「何を準備しておくべきか」を、何も起こらない今のうちに考えておくべきだと思う。もし真冬に停電になったら、どうなるだろうか。

   暖房は、食事は、食料は、……と、大災害ではなくても、停電ぐらいは起こる可能性が十分ある。真夏の停電、真冬の停電、それぞれ対処の仕方は変わるだろう。ある程度の期間の停電に耐えられるだけの準備はしておかなければならないだろう。

  我が家も、伝記を使わない、旧式のストーブも何台かは保存してある。普段はIHを使っているが、カセットコンロも準備してある。生水は飲めないかもしれないが、井戸は冬の融雪などに使っている。電気がなければバケツか何かで汲み上げなければならないだろう。

  米や少しの野菜は常時あるが、食料の備蓄は十分ではない。動く地球の上にいるのだということ、温暖化などの影響からか、ゲリラ豪雨がいつやってくるか分からない。裏山が崩れないとも言えない。

  昨今の、連続する災害を見ていると、人ごとではない。時には、いつ我が身に降りかかるか分からないと言うことを頭に置いて、生活しなければと思う昨今である。

(日記 午前中、事務所の清掃。ジャズのアドリブ練習。譜面に書いてみた。しかし、書いたようには弾けない。午後は、事務所の片付け。午後7時半より集会所で、明日の祭りで演ずる『片瀬豊年ばやし』の練習。途中で、本番で演ずる神社の舞台で練習。少し狭いが、何とか演ずることができそうだ。)

 
 

残るは餅米のみ

22 9月

「コシヒカリ」の乾燥・臼スリ(玄米化)終了
   今日は、稲刈りの補助員があたっていたが,雨のため餅米の稲刈りは中止。「午後だけ、臼スリに来てほしい」とのことだった。午後3時過ぎに臼スリは終わってしまった。これで、「農事組合法人かたせ」のコシヒカリの刈り取り・乾燥など一連の作業は終わってしまった。

   明日から、餅米の刈り取りに移るのだ。そこで、今日は機械の清掃を行った。餅米にコシヒカリが混じらないようにするためだ。機械の清掃には高圧の圧縮空気を使うので、ほこりが舞い上がり、首などに付着した。

  今年は、例年よりも、組合の農作業に関わることが多かった。大型機械化されて能率も上がったが、一方では、改善点も多く見つかった。個人でやるよりも効率はよいが、田んぼの水や草の管理には個人差がかなり出ていたように思う。

いつもの銭太鼓『片瀬豊年ばやし』の中に、米俵を使ったユーモア溢れる芸を加えるのだ。片瀬オリジナルとして。かつての銭太鼓「安木節」でドジョウすくいをしたように。

   原則的に、水と畦草やヒエなどの管理は、田んぼの持ち主に任されている。しかし、集団化しているために、管理の不十分な田んぼもかなり見られた。

   もっと作業をしやすくするために、改善すべきことはいくつも見つかった。後継者不足の地区の農業をこれからも続けていくためには、作業のしやすい環境を作るべきだと感じた。

   昨年の退職以来、肉体労働が多くなったおかげで、体重は減り、標準体重になった。デスクワークは体力を弱くすると感じた。これからも、「晴耕雨パソ」で頑張りたいと思う。

(日記 午前中、済生会病院へ薬をもらいに行く。定期検診日を大幅に返変したために、毎日の薬がなくなったからだ。薬を新しくしてる野で、次回の定期検診日にはどのような結果が出ているか、気になるところである。午後、組合の臼スリ。作業の後、次の餅米のために、機械をきれいの掃除した。夜は、祭りのための練習を行った。今日初めて、新しい芸のシナリオを、みんなに示し、新しい「米俵芸」を加えて練習した。これは以前のドジョウすくいの伝統を引き継いでいるもので、ユーモア溢れる芸を考えた。本番の祭りで受けるだろうか。気になるところである。)

 
 

最近とても慌ただしい

21 9月

芸の難しさ
   昨日も考えていたが、今日も銭太鼓『片瀬豊年ばやし』に加える芸の部分を考えていた。パソコンでYOUTUBEの様々な芸を見ていると、わずかな動きで見る人を惹きつけていることがよく分かる。

   雨が降ったせいもあって一日中「芸」のことを考えていた。そして、ようやく夕方になってシナリオが決まった。しかし、この通りに仲間が動いてくれるかどうかは別問題である。

   これまで我が村に伝わっていた銭太鼓や安来節、ドジョウすくいは私もやったことがある。ドジョウすくいの場合、上手な人は歩くだけでも面白い。その仕草はまさに「芸」そのものである。

メンバーと和太鼓の新曲づくり。4つの太鼓を扱う新曲を考え中。

   「豊年ばやし」の名の通り、農作業に関わる芸を加えたいと思っている。田植えや稲刈り等の動作も銭太鼓や女踊りの中に多少組み込んであるが、もっと、面白く入れ込みたいと思っている。今回は、豊かな実りの象徴である米俵を使った芸を入れるつもりでシナリオを書いた。

   今後、餅つきなども芸の中に加え、施設慰問などのときには、実際に餅をついて入所者の皆さんに振る舞いたいと思っている。いくつか出番があるので、そのうちには少しでも見られるものにしたいと思っている。

   「産みの苦しみ」は、完成したとき、あるいは見ている人に少しでも感動を与えられたり、喜んでいただけた場合には、たちまちに「何物にも代え難い喜び」に変わるのである。

   それで、飽きずに次から次へと、何かを生み出そうとしている自分がいる。あまりの忙しさに「何もしなければどんなに楽だろう」と思うことがあるが、もしそうなれば「きっとむなしくなる」だろうと思う。

チャッパの新曲を考え中のメンバー。楽譜を見て、手をたたきながら曲を作り上げていく。(私の事務室で)

   週末の祭りには、区民の皆さんに喜んでいただけるかどうかが問題だが、私一人でやることではないので、どうなるかはわからない。しかし最善だけは尽くしたいと思っている。

(日記 終日、郷土芸能づくり。どんな芸能でも、はじめがあったと思っている。どんな芸能でも、最初は伝統芸能ではなく、第一歩を踏み出しているのである。この「片瀬豊年ばやし」がいつまでこの村に残るか分からないが、少しでも、次の世代がやってみたいと思うものにしたい。午後7時半より、「春駒太鼓」の練習。今、メンバーと新しい演目を考えている。)