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「精神的自由」と「時間的自由」

20 12月

自由のありがたさと……
現役時代は、「時間的自由」はかなり制約を受けていたように思う。「精神的自由」もそれなりに制約を受けていた。退職し、しばらくして公的な役割もほとんど無くなり、両方ともかなり自由になった。ありがたいと思っている。

この「自由」だが、精神的にも、時間的にも自由になると、人によってはかえって“不自由”になることもあるようだ。あるとき、同じような立場の退職者に会ったことがある。彼曰く。「何もすることがないから暇やろう」と声をかけてきた。彼は退職後はそれなりに仕事をしていたが、今はそれもなくなり毎日どう過ごすか考えているとのことだった。

そう言えば、わがまち付近には人口の割合にはパチンコ店が多い様な気がする。中には、「1円パチンコ」の看板も見える。毎日喫茶店で過ごす人、パチンコ店で過ごす人、図書館で過ごす人、時間の過ごし方はいろいろあろう。しかし、そうした人たちにも本人だけが持っている知識や知恵があるように思うと、それらを生かさな手はないと思う。

数学の合間に弾くギターは格別に気持ちがよい。何もかも忘れられる。覚えてもすぐ忘れるが。まるでザルで水を汲むようだが、あきらめないで楽しんでいる。

数学の合間に弾くギターは格別に気持ちがよい。何もかも忘れられる。覚えてもすぐ忘れるが。まるでザルで水を汲むようだが、あきらめないで楽しんでいる。

農家の人は田畑があって、冬期以外はすることがいっぱいあるようだ。私も、その一人でありがたいと感じている。作物の成長を見ることは楽しみでもある。人は、現役時代のように、為すべき仕事があると、残りの時間は何をしようと負担を感じることは少ないようだ。

私も退職直前には、「全く自由になると、果たして前向きに生きていけるだろうか」と、少し気になっていた。することはいっぱいあると思っていたが、有り余り自由の中で“やる気が起こるか”ということだけが心配であった。しかし、今のところ、やる気は持続している。私の日常は、義務的なこともあれば、自ら進んでやってみたいこともある。気分転換でテレビを見ることもある。しかし、農家に生まれた者の性(さが)として、何か地域や家族のためになることをやらないとその日の晩ご飯が美味しくないという気持ちだけは今も健在だ。

(日記 午前中は年賀状の図案を考えた。と言っても、キープしてある写真の中からいくつかを選んで組み写真にし、その下に自分の近況を簡単に書いただけだが。年頭に当たって、わずかでも自分らしさを発信したいと思うからだ。午後は、事務所で数学。合間に、ギター練習。自作のカラオケで練習している。新たなメロディーを覚えようと思うと、とても時間がかかる。昔と比べると、数倍は時間がかかるように思う。それは、覚えたと思っても忘れてしまってなかなか定着しないからだ。脳の体操だと思って、諦めずに楽しみながら、やっている。)

 
 

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