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Archive for 8月, 2012

『農事組合法人かたせ』について考える

21 8月

瓦版で『法人』を特集
  先日、、『農事組合法人かたせ』の理事長のNさんに、片瀬の法人についていろいろ聞かせていただいた。少子高齢化と後継者不足の農業を組合員の力で何とか守ろうと立ち上げた法人の今後や問題点についてICレコーダーに約2時間あまり録音した。

  そして、昨日と今日の午前中一杯をかけてようやく文字化することができた。これを瓦版に掲載するためには編集し直さなければならない。文字化しながら考えたことは、区民にはこの法人の今後について関心をもってほしいということだ。

  法人ができたから、自分の田んぼを丸投げすればよいというものではない。しかし、現実には丸投げしているような人が少なくない。法人が成り立つのは、一部の理事やリーダーとそれを支える組合員の協力があってのことだ。

法人の農舎内部。これらの施設を有効に活用するためにも、法人は持続させなければならない。

  区民は、自分一人では先祖から引き継いだ田畑を守ることはできない。そこで、組合を作ったのだから、できる協力はしなければならない。水の管理をする、草刈りをするなどは,その気になればそんなに苦労することではない。私でもできることだ。しかし、これがうまくできない人もいるのだ。

 せっかく法人を作り、農舎も建て、機械も備えたのに、組織そのものが持続不可能では情けない。そのあたりを瓦版で伝えたい。みんなで守っていくという気持が今求められているのだ。

  私は予てから、こう思っている。町であれ、会社であれ、それらは「ある」のではなく、誰かが「守っている」のだと言うことだ。会社も「ある」のではなく、社長以下社員が会社を「守っている」のだ。

 同様に、我が『農事組合法人かたせ』も、「ある」のではなく、役員や組合員で守っていかなければならないのだ。残念ながら、この感覚が希薄である。持続可能にするには、代表者をもり立て、励まし、協力していかなければならないのだ。そんなことを瓦版で訴えたい。

(日記 午前中は、ICレコーダーに録音された対談を文字化した。かなり時間がかかった。午後は、同じく『農事組合法人かたせ『』苑のホームページに使うBGMを作りCD化した。また、他の法人の米価や労賃についても取材した。夜は、法人の書記のSさんに法人の経理内容について説明してもらった。)

 
 

盆踊り復活作戦(その2)

20 8月

地域から地道に普及
  私は、勝山市の『盆踊り復活作戦』をここ数年展開してきた。そして、越前大仏や市の中心部にあるはたや記念館『ゆめおーれ』でも、櫓を建てて盆踊りを実施してきた。しかし、今年は方針を変えることにした。

  それは、各地域で先ず盆踊りを普及し、ある程度の参加者が見込めたときに、再び市の中心部で『盆踊り』を実施したいと思う。今年も、平泉寺町は、町民運動会では、『全町踊り』を実施するのだ。

私の部屋での吹き込み風景。Aさんは県の民謡チャンピオンでもある。

  昨年は、平泉寺の本村の盆踊り復活のお手伝いさせていただいた。祭り前の練習会、祭り当日の指導も依頼され、喜んで引き受けた。今年も、事前練習会に呼ばれている。復活二年目なので、昨年よりは本番もスムースに行くだろう。

 また、町民運動会での総踊りだが、昨年は、公民館での練習会、小学校での練習会にも参加したが、校長以下とても協力的だった。また、公民館での練習会、運動会当日も、マイクを持って指導させていただいた。まあまあの踊りの輪ができたと思う。

  今年は、小学校での指導と公民館での指導だけで本番は地元の関係者がリードするという。このような地域での動きを精一杯支援していきたい。私の一つの生き甲斐である。慌ててはいけない、地道な活動が必要だと思っている。

『ほがらか作戦』
  さて、今年の『盆踊り復活作戦』だが、次のような戦略を描いている。私は、十数年前に『勝ち山ほがらか音頭』を作った。この歌に、踊りの師匠のSさんが振り付けをしてくれた。結構勝山ではポピュラーな民謡になっている。 

 『勝ち山ほがらか音頭』のアドレスです。
http://song.inakamon.net/s_hogaraka.html

 この曲を使いながら、『遅羽ほがらか音頭』を作った。毎年の遅羽の文化祭である『三室祭り』には総踊りとして地元の若い衆が歌い、町民が踊っている。そこで、今年は、以前に民謡を作詞してくれた鹿谷町のTさんに『鹿谷ほがらか音頭』の作詞を依頼した。

忘れないようにたくさんのメモが張ってある私のパソコン周辺。パソコンを使ってのデジタル録音でCD を作成するのだ。

  そして、一ヶ月余り前に、作詞が完成した。今日は,予てから準備していた平泉寺町赤尾地区の銭太鼓曲『赤尾よいとこ(作詞は地元のFさん)』と『鹿谷ほがらか音頭』の二曲をAさんに吹き込んでいただいた。

 赤尾の銭太鼓曲『赤尾よいとこ』は、赤尾の皆さんが銭太鼓のための曲として生かして下さるだろう。一方の『鹿谷ほがらか音頭』の踊りは、『勝ち山ほがらか音頭』と同じにして地元の人達に是非踊っていただきたいと思う。

  この調子で、市内10地区の『○○ほがらか音頭』が完成した時には、市全体の盆踊り大会が開催できるのではと期待している。少なくとも、5地区以上の『ほがらか音頭』ができた時点で全市的な『盆踊り大会』を開催したいというのが、私の作戦だ。果たして上手くいくかどうか。男女を問わず、年齢を問わず、一堂に会して一つのことができる盆踊り大会の可能性を私は信じたい。

(日記 午前10時より2時間かけて、我が家で二つの民謡の吹き込み。正午までかかった。午後は、編集作業。そしてCDにした。できあがった歌の一つを持って作詞してくれた赤尾のFさん宅へ届けた。夕方は、ショウガの追肥。今頃やっていいのだろうかという不安があったが、有機肥料を株間に施したので大丈夫だと思いたい。)

 
 

舞台は準備できたが

19 8月

北谷地区から舞台を譲り受け
  昨年あたりから、北谷町から「組み立て式の舞台」を譲ってもらうという話ができていた。二ヶ月ほど前に、大工で農家組合長のYさんと下見をしておいた。その後役員会でいつ運搬するかを決めた。その日が今日だった。

上左:トラックで舞台を搬入 上右:組み立て方を指導する北谷町の貴重K氏(右) 下左:仮組立中の舞台 下右:礎石を置くために水を見る(水平を調べる)

 午前7時に役員全員が集会所前へ集合。早速北谷公民館へ出かけた。そして、区長のKさんの立ち会いのもと、分解してある舞台をトラックに積み込んだ。この舞台は高さ三尺(90cm)、縦2間(3.6m)、横4間(7.2m)の大きさだ。

 北谷の区長のKさんが、片瀬の神社まで来て下さり、組み立て方を指導して下さった。一度習えば、今後は片瀬区民で組み立てることができることがわかった。というのは、きちんとわかりやすい記号が付いていたからだ。

  昨年までは、拝殿の側面に特設舞台を設置したが、今年は設置の容易な広場に設置することに決めた。先ず、大工のYさんが、水を見て水平を決め、基礎となるブロックを埋め込む作業をした。

 そして、一部仮組み立てを行い、解体して、舞台の部品を倉庫にしまい込んだ。正午にようやく作業が終わった。

 貴重な舞台を北谷地区からいただいた。かつて、北谷町では夏祭りとして「北谷恐竜祭り」を開催していたが、過疎化が一段と進み、夏祭りも中止になり、舞台も何年も使わずにいたのだ。

 私も、20数年前に、この舞台で小学生だった息子達と和太鼓を叩いたことがある。思い出のある懐かしい舞台だ。貴重な舞台をいただいたが、この舞台で何をするかだ。小中学生女子による「浦安の舞」と銭太鼓「片瀬豊年ばやし」はこの舞台でかがり火を焚きながら演ずることは決まっている。

水平になるように考えながら神社の広場に15個の礎石を設置した。高くなったり低くなったりと悪戦苦闘だった。

 他にどんな芸能をこの舞台を使って発表できるかだ。特に今年は、この舞台を初めて使うのだ。何とかこの記念の年に、思い出に残る発表を区民の人がして下さることを期待する。

(日記 午前7時から正午まで、役員全員により北谷地区からいただいた舞台の設置作業。午後は、ばてて少し昼寝。その後、『かたせ瓦版』作成のため、対談のテープ起こし作業。夕方、家庭菜園作業。息子が孫達を迎えに来たが、息子の嫁や孫達は風邪で帰ることが出来ず、息子一人が車で横浜へ帰って行った。もうしばらく孫達と過ごせそうだ。)

 
 

『花のまちづくり』事業の第二彈

18 8月

花を育てる事は命を育てること
  今日は、区と農事組合法人と各種団体の協力で河川清掃を行った。川の中に投げ込まれている空き缶、農業用資材、雪囲いのビニール波板、看板など様々なモノが川に捨てられていた。それらを拾いつつ、子ども達は網を持って川の中へ入り、魚を捕まえたりした。昔、たくさん捕れた魚はほとんど捕まらず、今は、カニやアブラハヤだけであった。  

じいちゃんと三人のお孫さんのプランターづくり。子どもにドリルを使わせている。「じいちゃん、偉い!」

 この後、『四季折々の花の咲くまちづくり事業』の第2彈(秋バージョン)として、木製プランターづくりを行った。材木は、奥越森林組合勝山工場から購入した製材の後に出た木の外側(周辺材)の「コア」と呼ばれる部分を大工さんにカットしてもらったものだ。これらを子どもと父親や祖父と一緒に組み立てるのだ。もちろん、大人だけで作成した人もいる。  

  組み立てた木製の枠(プランター)の中に市販のプランターを入れて使うのだ。少しでも自分で手がけたものは愛着が湧くだろうということで企画したものだ。春は「竹」プランターづくりだが、秋は「コア(木材)」によるプランターづくりだ。  

  秋の花なので、花苗は後日配ることにしている。子ども達に望むことは、プランターづくりよりも、命(花)を育てることの大切さを学んでほしいと思うのだが。用事で村内をまわると、真夏にもきれいな花を咲かせている家庭と、枯らしてしまった家庭がある。   真夏の炎天下にも,見事な花を咲かせ続けるには毎日の水やりが必要だ。その量も花が望む量でなければならない。水のやり過ぎは、根腐れを起こさせるし、水不足では苗はぐったりして枯れてしまうい。赤ちゃんと同じように最新の注意が必要だ。 

こちらもじいちゃんと孫。じいちゃんも真剣だ。

 菊作りの名人に言わせると、真夏の水がほしいときでも、少し我慢をさせることが大切だとのことだ。我慢をさせると菊は水を求めてしっかりと根を張るそうだ。そして、立派に育った根が最後に栄養を吸い取って大輪の花を咲かせるのだという。 

 水をやりすぎると、菊は大きく根を張らないために、いざというときに養分を吸い上げる力がないそうだなんだか、人間とよく似ている。基礎体力をしっかり付けないと、いざというときに力を発揮できないのだ。 

  子ども達には、花を育てることによって、命を育てることの大切さ、難しさを勉強してほしいと願う。しかし、こちらの願いは簡単には子ども達には届かないだろう。私は、集会所前のたくさんの花に毎日朝晩水を撒いている。花に語るように。花をそれに応えてきれいな姿を私達に見せてくれている。   今では私の楽しみになっている。いつかは、子ども達もきれいな花を見たときに、「きれいだ」と感じるようになってんもらいたい。押しつけても無理だ。気づいてくれることを期待しながらの、今日は木製プランターづくりを行った。(日記 午前9時より川掃除。その後、木製プランターづくり。午後は、OB会のためのギター練習。毎日少しずつ練習しないとなかなか上達しない。午後7時半より『

さすが中学生ともなると、自分で組み立てる。お父さんは見守るだけ。これもまたよし!

かたせ瓦版』の取材として、理事長のNさんと会計のSさんに法人の今後について話を聞いた。片瀬の米作りが持続可能になるには、やはり組合員一人一人の協力が不可欠である。今日聞いた話を瓦版に載せて、みんなで片瀬の農業を守っていくことをアピールしたい。)

製材した後の周辺材である「こあ」を使ったプランター。木の表面が出ているので面白い。

  

横浜から帰省した息子もプランターづくり。子ども達は見守っているだけ。息子や孫達の代わりに、このプランターに花を咲かせたいと思う。

 
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稲の草取り

17 8月

次の世代には草取りは無理かな
   昨日、急に法人の理事長から電話がかかってきた。「明日ヒエ取りに出てもらえんか」とのことだった。私は、退職してからは、よほどでない限り法人の作業には出ることにしている。今朝、午前4時半に起床。午前5時半に法人の農舎前へ行ったら誰もいない。日にちを間違えたのか。

  携帯で理事長に電話をすると「午前6時から作業開始だ」とのこと。30分間違えて早く来てしまった。朝の30分は貴重だ。昼の1、2時間に相当する。午前6時に10数人が集まってきた。

たくさんのクサネムが生え、悪戦苦闘。それでもたくさんの人数で刈り取るのでしばらくするときれいになった。

  法人が預かっている田んぼの中で草の最も多いと思われる所から作業を始めた。法人が同じように除草剤などを撒布しているのに田んぼによって草の生え方はかなり異なる。関係者によれば、除草剤を撒布した直後の水管理によるのだと言う。

 特に最初に入った田んぼは、「クサネム」が多かった。コンバインで稲を刈ったときに、籾の中にクサネムの種が混ざり込むのでとてもやっかいだと言う。場所によっては、群生しているような感じだった。

 ところで水管理だが、我々の法人の場合では、原則、田んぼの持ち主が行うことにしている。しかし、水管理に自信のないものは、法人が隣の田んぼの持ち主など適当と思われる人に管理を任せているのだ。私も、水管理には自信が無いので他の人にしてもらって、畔草取りだけは自分でやっている。

  いろいろ雑談をしながらの作業は楽しい。しかし、午前9時が近づくと暑くなってきた。そこで、今日の作業は終わりとなった。汚れるのでゴムのカッパを着用している。そのため全身汗でびっしょりとなった。こんな作業を次の世代はするだろうか。

 今日作業に参加している人達は、50歳代から70歳代の者だ。子ども時代から何らかの形で農作業を経験したことのある者ばかりだ。未経験の者が、この作業を引き継いでくれるかはいささか疑問が残る。米作りの大部分は機械化されているが、一部にこうした作業が残っている。克服すべき課題だ。

花火を見ていると、何となく夏が終わるという一抹の寂しさを感ずる。少しずつ、秋、そして、冬へ向かうのだ。

(日記 午前4時半起床。午前6時より法人の田んぼの草取り。クサネムが多く閉口。次の田んぼはヒエが多かった。午前9時過ぎに作業終了。その後、帰宅して新曲の楽譜とカラオケCDづくり。月曜日に吹き込みをするからだ。完成したCDを大野市のAさん宅まで持って行った。その帰り明日の木製プランターづくりの材料を揃えた。孫達は、あと2日で20日あまり過ごした我が家から横浜へ帰ることになる。長女家族が来たり、次女が東京から帰省したりしたが、いよいよみんな帰ってしまう。昨日、横浜から息子も帰ってきたので、孫達は大喜び。家族で夏の名残の花火を楽しんでいた。まもなく、夫婦だけの静かな日が始まる。「楽な寂しい」とはこのことか。)

 
 

世界は力に頼るのか?

16 8月

日本近海の不穏な動き
  日本近海が領土問題で揺れている。領土問題は、もはや話し合いで解決しない様相だ。力でしか問題は解決しないのだろうか。それとも、経済と引き替えに決着を先延ばしするのだろうか。

  こうした問題で難しいのは、それぞれの国民によって考え方が全く異なることだ。冷静に判断する場所はないのだろうか。公平に判断できる代三者機関ははないのだろうか。

 物事の判断の基準は国の成り立ちにも大いに関係しているように思う。他から、隔絶された我が国と、国境を接している国では全くものの考え方が異なるだろう。領土の場合、そのうちに「既得権」と言うことで所有権が固定してしまうのが怖い。

 結局の所、歴代の政権が、その場しのぎの先延ばしで物事を曖昧にしてきたツケがいろんな問題を発生させているように思われる。しっかりと、一つ一つの問題のけじめを付けて次世代に渡さないといつまでも同じ問題を繰り返しそうだ。

 それともう一つ困るのは、特に近隣諸国では、政権交代時、あるいは選挙の行われる年には強い指導者のイメージを作らなければならないために、必要以上に外国を刺激することだ。

 また、内政の失敗や矛盾点、国民の不満を外部に向けるために、近隣諸国にプレッシャーをかけることも少なくない。そんな中で、毎回繰り返される不穏な動きを地道な外交努力によって解決できないものか。

 しかし、政治家の皆さんは、今それどころではないだろう。政策よりも、政局だ。もっと言えば、次回の選挙で自分が当選するかどうかだ。当選する自信のある政治家は、過半数をとれるかどうかが気になるところだろう。

 過半数をとることはどの政党にとってもハードルは高そうだ。当分、この不安定な政治が続くことだろう。「大阪維新の会」の存在も既成政党に与える影響は少ないだろう。一般国民は、誰に日本を任せることができるのだろうか。

 こうした一連の動きと、オスプレイの配備はどこかではつながっているのだろう。この頃、力による解決が前面に出て来ているように思う。いつか来た道に戻らないためにも、ここ一番知恵を出し合い、穏便に解決してもらいたい。

(日記 朝は宗教の勉強。浄土真宗について調べている。紙芝居の次回作のためだ。午前11時頃、市営プールで一泳ぎ。午後は、比較的のんびり過ごす。音楽を聴いたり、区長の雑務をこなしたりした。午後7時半頃息子が横浜から帰省。一足早く帰省していた息子の嫁や孫がこの週末に横浜へ帰るために迎えにきたのだ。)

 
 

「関心を持つ」と「楽しむ」

15 8月

まちづくりのキーワード
  マザーテレサさんは本当にうまく言ったと思う。「愛する」の反対を「憎む」などではなく「無関心」と。最初は「そうか」程度の理解だったが、今では、「まさにそのとおり!」という感じだ。

 何か具体的を例にあげてみるとよくわかる。「ふるさとを愛する」に対して、その反対は「ふるさとに無関心である」ことの方がよく当てはまる。

 そんな人はいないと思うが、もしも「ふるさとを憎む」人がいたとしたら、その原因を調べ、改めるべきところを改めればよい。憎むと言うことは関心があるのだから。しかし、関心のない人に関心を持ってもらうことは簡単ではない。

 関心を持ってもらうためには、いきなり「まちづくり」などという難しい言葉を持ち出すのではなく、仲間の力によって「楽しくなること」を実施し、それを積み重ねていく方が近道かもしれない。

 「成功体験」や「満足な体験」は次へのステップになる可能性が大であるからだ。次への意欲につながるからだ。仕掛けた人の頭の中にはその先のビジョンが描かれていることが望ましい。

 私は、自分の住む片瀬が、豊かでいつまでも気持ちよく暮らせる地区として存続することを願っている。しかし、少子高齢化が進み先ずは農業が持続不可能になりかけた。

 外部(村以外)の人に、丸投げする人が出始めた。私も、知人にお願いしてきたが、それもままならなくなった。これから先もこんな人が増えるのは目に見えていた。

  そんな中で、地区では数年前に『農事組合法人かたせ』を組織した。そして、会社組織で米や里芋を栽培している。昨年から乾燥施設も導入し、直接米を消費者に販売する体制も整え始めている。

 そうなると、今後は、「かたせ」をブランド化しなければならない。「片瀬の米」を売り出そうとしても、宣伝費はかかるだろうし、私達素人ではなかなか知名度を上げることは困難だ。

 それにTPPにでも加盟したら、米の値段は劇的に下がるだろう。アメリカ産の米には7倍ほどの関税がかかっていると言うが、それがなくなったら、日本の米作りは経済的には成り立たなくなる。

 そこで、一昨年新たに片瀬オリジナルとして創作した『片瀬豊年ばやし』の活用だ。この芸能は、もちろん郷土芸能の一環として伝えていくものでもあるが、一方では、『農事組合法人かたせ』の主題歌としての位置も持ち合わせている。

左 : 『農事組合法人かたせ』のマーク  右 : 『片瀬銭太鼓保存会』のマーク 

 衣装も、「百姓スタイル」だ。あちこちへ出かけてこの「銭太鼓」を披露するということは、一方では「かたせ」と言う名を知っていただく効果もあるのだ。

  法被の両襟には、「芋と生姜と旨い米」と「片瀬豊年ばやし」の文字が書かれている。背中には、「農事組合法人かたせ」のマークが印刷されている。

  楽しみながらも、「かたせ」をブランド化し、それが農業を持続させ、最終的には村を存続させることにつながるという寸法だ。私は演技を終えるといつも謝辞の中で、芋と生姜戸旨い米について触れることにしている。

 とは言うものの、「地域」に関心を持ってもらうことは至難の業だ。そんなことに関心を持たなくても、村を意識しなくても、みんなそれなりに楽しく暮らしていける(と思っているだろう)からだ。

 先ずは、楽しむことから何事も始めなければと思っている今日この頃である。その先をどう進むかはあまり表に出さない方がいいかもしれない。最初は胸に秘めていればいいのだ。

(日記 5人の孫が来ている。家の中は保育園状態だ。午前中、ぶらぶらと過ごした。昼頃福井の長女家族が帰っていった。午後、二人の孫を連れて図書館へ出かけた。私は10冊、孫達も二人で10冊の本を借りた。幸いにも孫達は本好きだ。これは、とてもよいことだと思う。本から様々な知識や知恵を得られるからだ。)

 
 

「お盆」に思う

14 8月

「お盆」と「ふるさと」
  お盆の3、4日間だけ帰省する人達は、「ふるさと」を味わうことができるのだろうか。家族との再会や孫達との再会を果たし、先祖のお墓参りをすることはできるだろう。それは「我が家」でのできごとで「地域との関わり」とは言えないような気がする。

  望む人には「ふるさと」を味わってほしいと思うが、今のままではそうはならないだろう。田舎の家族が高齢化したり、親が亡くなった頃には都会へ出た者達は帰省する足が少しずつ遠のくかもしれない。

  地元を離れて市外や県外へ出た者が、帰りたくなる「ふるさと」とはどんなところだろうか。何度もここに書いてきたが、それは「ふるさと」とは何かというその定義だ。

 私の「ふるさと」の定義は次の二つだ。
   ・家族以外に関わった人がいる所
   ・我が家意外に関わった場所や行事がある所

 家族の他に、温かく迎えてくれる隣近所のおじさん、おばさんや仲間がいる。そして、互いに世間話を交わすことができればと思う。また、村の内外には、自分が遊んだり関わった場所があったり、参加した行事があったりすればなおよい。

   おそらく、阿波踊りや、郡上踊り、おわら風の盆、ねぶた、秋田竿灯祭り、博多どんたく、……などはそうした行事だろう。参加しなかったら一年のけじめができないと感ずるのではなかろうか。我が勝山の左義長なども関係する町内出身者にはそうした意味を持つのではなかろうか。

  パソコン、スマートフォン、ゲーム機などが進化し、それらに夢中になる人が増え、人と人とが触れ合う機会がどんどん減っていくような気がする。オリンピックは終わってしまったが、人と人との関係の濃いイベントではなかっただろうか。「誰もが私一人で取ったメダルではない」と述べているように。

玄関先で孫達と花火を楽しむ。少しずつ夏休みが終わっていく。秋の稲刈りももうすぐだ。

  地域がふるさとが、少しずつ消えていくような気がする。気がついた頃にはもう戻せない。そして、最後は施設で静かに余生を送る時代が来るのだろうか。墓参りの道中、脇目も振らずゲーム機に夢中になっている子どもを見たが、何となくやりきれない気がした。ご先祖様はどう思っておられるだろうか。

(日記 午前6時過ぎに家内とお墓の掃除で出かける。午前中、帰省してきた娘の家族や息子の家族と雑談したりしながら過ごす。午後家族や孫達と墓参り。夕方5時半より共同墓地にある延命地蔵尊の年次法要。夕食後、孫達は花火。雨が降ったり止んだりの不安定な天候だ。自宅にいたら花火の音。勝山の夏祭りの花火の音だ。孫達と、よく見える集会所前へ移動。遠花火を楽しむ。)

 
 

天候だけは……

13 8月

主催者はヤキモキ
  屋外での競技やイベントは、天候が気になる。勝山市でも、市民体育大会が何度か中止になっている。私も何度か市の夏祭りの盆踊りを主催したが、天候には悩まされた。

  昨年の例で言えば、午後6時過ぎから盆踊り大会を開催する予定だった。屋外で行うのか屋内で行うのかの判断は、午後1時頃に行わないと櫓を組むなどの準備は間に合わない。天気予報では夕方は雨となっていた。

  しかし昼頃は青空。すでに応援を頼んだ「ソバの会」の皆さんは外でやると自ら判断して、外でテントを立て、準備を始めた。そんな中で、私の下した判断は「屋内で盆踊り大会をやる」というものだった。

  「なんで?」という人も少なくなかった。午後は晴れが続いている。アトラクションで頼んだ「よさこい」の皆さんも一度外で踊り隊と申し出てきた。放送設備は屋内に設置してしまった。

 もしかしてこのまま晴れ続けるのだろうか。そう思ったときだ。天気予報通り、夕方から雨が降り始めた。それも土砂降りだ。内心ほっとした。盆踊りが終わった時間も土砂降りが続いていた。皆さんは納得してくれたようだ。さすがに、この日は、何度天気予報を見たことだろうか。

開会式を終え、大仏殿より登山開始。しかし、この時点では10分後には退却とは誰も思わない。

 さて、今日は大師山たいまつ登山だ。すっきりしない天気が続いている。決定は午後3時だ。この時点では雨が降っていないので、「実施」と主催者の猪野瀬青年会は決定していた。開会式の会場は越前大仏の本殿。大仏様の真ん前だ。

  大仏殿内で、予定通り午後5時半に私が息子やその仲間達と作った簡易アニメ『泰澄大師物語』の上映。そして、開会式。地元区長として歓迎の挨拶。そして、消防団を先導に登山開始。10分ほど山を登ったところで中止決定。

  大粒の雨が降ってきた。昨年の盆踊り大会と同じだ。山頂で行うはずの「護摩焚き」を大仏殿内で行う。また、抽選会も大仏殿内で実施。今年の『大師山たいまつ登山』は、悪天候のために曖昧なままに終わってしまった。

 明日も、勝山市の夏祭りで、屋外での行事がたくさんある。そして、花火大会も行われるのだ。これも天候によって大きく左右されることになる。主催者は大変だ。いくら、科学が発展しても、天候だけはコンロトールしようがない。

(日記 午前中、田んぼの畔の草刈り。自分の田んぼの畔の草刈りは私がすると法人で決めてあるのだ。但し、私の田んぼの水管理は他の人にお願いしてある。畔に除草剤を撒く人がいるが、私はそうはしない。畔が崩れるから

大仏殿内で護摩焚き。家内完全を願う。手を合わせてるのは私。友達に写してもらった。

だし、健康にもよくないと思うからだ。午後は、まもなく吹き込む赤尾地区の『銭太鼓』の編曲。全く感覚的な作業だ。今日は大師山たいまつ登山。3時に実施と決め、午後6時に開会式も行い。午後6時半に登山を開始したが、まもなく中止。残念だった。天候に勝てない。)

 
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バンド仲間

12 8月

音楽の夢の一つが実現
  私は音楽が好きだ。その中で一つの夢を抱いていた。それは、ハワイアンバンドを編成して、フラダンスチームとコラボすることだった。 ハワイアンバンドは、去年の大学軽音楽部のOB会演奏会で知り合った仲間と組むことができるとわかった。

   しかし、フラダンスを誰に踊ってもらうかだ。そこで我が和太鼓チームのメンバーに持ちかけた。ついでに『フラガール』のDVDも渡した。彼女たちは協力してくれることになった。次の問題はフラダンスを誰に習うかだ。

『ハルコマ・ハワイアンズ』と『ZBハワイアンズ』のコラボ。親子のような年の差の共演だった。楽しかった。

  先生に習うと経費も必要だし、いろいろ派閥的なものがあって、動きがとれにくそうなので、誰にも習わずに独学で進めることにした。パソコンで検索しながら、踊りを研究し、ところどころはメンバーの創意工夫を乗り越えた。

  今日の午前中、私の事務所のスタジオで『じいちゃんバンド』と『フラダンスチーム』のメンバーが初めて顔を合わせて練習した。何とかなりそうな感触がつかめた。楽器を積んでみんなではたや記念館『ゆめおーれ』へ向かった。いろんなバンドがステージで演奏を行っていた。

  そして私達の出番だ。バンドのテーマ曲に選んだハワイアンソングを演奏し、フラダンスによるステージが始まった。太鼓メンバーの女性達も、楽しそうに踊ってくれた。一度やりたいと思っていた音楽の中の夢の一つが実現した。

 今回のバンド活動を通して思ったことは、暗記をする力が衰えていることだった。考えてみれば、若い頃に比べると、いろんな力が衰えている。私はハワイアンギターを担当しているので、曲を暗記しなければならない。これはかなり苦痛だ。

親子ほども年の違うチームのコラボ。これも音楽のお陰だ。楽しい一日をありがとう。感謝。

 若い頃の10倍は時間がかかるようだ。それでも、みんなとバンド活動をやることは楽しい。石川県から参加しているN君などは、午前4時半から「トウモロコシの収穫」を行い、帰宅してシャワーをし、それからはるばる勝山まで来て練習し、ステージに参加してくれたのだ。

 好きでなければできることではない。こんな仲間と一緒なので、本当に音楽をすることが楽しい。終わった後もしばし、歓談した。別れがたかったが、メンバーは、松任(白山市)や三国、春江、福井へ帰るので途中で切り上げた。私は、結構練習したが、一部細かなミスもあった。

 でも、楽しい一日だった。練習したお陰で、あれこれできるようになった。この年になると、なおさら練習しなければ新しいことはできないが、時間の許す限り頑張ってみたい。

(日記 午前9時より、私の事務所でバンド練習。その後、フラダンスのメンバーと合同練習。歌は、家内が歌ってくれた。そして、午前11時に会場のはたや記念館『ゆめおーれ』の野外ステージへ。12時に本番。「生バンドでフラダンス」を実現することができた。今後も機会があればコラボしてハワイアンを楽しみたいと思う。)