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政治とセレモニー

18 1月

公正さをいかに確保するか
   国が物事を進める場合には、自分達の都合のよいデータを使い、自分達に都合のよい手順で、特に自分たちの都合のよい委員会(メンバー)で計画し、自分達に都合のよい形で意見を聞き、全ての手順を踏んだつもりで実行することがが多い。

   これら全てが1つのグループをなしているので「・・・村」と呼ばれているのだが、途中で新たなデータが出てきても、不都合な場合にはそれらを発表しない。また、国民に意見を聞く場合には事業を進めるのに適した意見を発表してもらうようにあらかじめ仕組んでおく。

  いわゆる「やらせ」である。もしも、正義感のある専門家(学者)が反対意見を述べようものなら、干されてしまいかねないのである(研究費をカットされてしまう)。俳優なら、番組を降ろされかねないのである。結局まっとうな意見は封殺されることになるのである。

  原子炉の運転期間について「40年」を原則として廃炉にすることにしたものの、例外規定として、「20年を超えない範囲で1回限り延長を認める」ことが盛り込まれた。原発の“寿命”は最長で60年になる。法案は今月召集の通常国会に提出される。

   原発の運転期間がなし崩しに60年に延期されそうである。なぜなら40年を迎えた原発に対して、新たな審査を行い(誰が審査をするかも問題だが)「今までの原発は危険でしたから、廃炉にします」とは言えないだろう。

   なぜなら、「そんな危険な原発を今まで動かしていたのか」ということになり、40年の運転期間さえ危ぶまれるからである。結局、審査も甘くなり、不安の中で運転継続となりかねない。そんな不安の中で東電が電気料金の値上げを計画している。 

    福島の再生はいつになることやら。原子力村の責任は限りなく重い。明らかに人災だ。想定外では済まされない。これまで何度も危険を指摘されていたからだ。

 結局、形式的な仕組みはあるが、それらがセレモニーと化してはいないだろうか。イタリアのクルーズ船の事故も同様であろう。結局避難訓練なども、「実施した」という事実を残すためのセレモニーになっているのではなかろうか。

 これからの危機管理としては、セレモニーではなく、実のあるものにしなければならない。また、公平な意見を述べることのできる仕組みを我が国では早急に作らなければならない。 津波や原発事故から学ぶことは多い。

太鼓(担ぎ桶胴太鼓)を使わないで振りの練習。当日は左義長の襦袢を着て叩く予定。(私の事務所で)

(日記 午前中は、紙芝居の絵描き。全部で23枚のうち、後2枚となった。午後も作業を継続。パソコンのモニターが霞んで見え難くなった。午後3時過ぎから、家内と二人で市民プールへ行った。目休めと体力づくりのためだ。何人かの知り合いと会った。彼らは週3、4回は来ているという。私は週1回がやっとだ。福島県から避難している人も親娘でプールに来ていた。午後7時半より、春駒太鼓の練習。担ぎ桶胴太鼓の振りの練習。曲作りは私の仕事だが、振り付けは彼女たちに任せている。出番の来月(鹿谷雪祭り)までそんなに練習日はない。親子太鼓もあるし、少し気分はせわしくなりそうだ。)

 
 

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