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Archive for 8月, 2011

「これって当たり前?」

11 8月

「今の状況が当たり前か?」
   以前にも書いたかもしれないが、今、日本は曲がり角に来ているように思う。自然災害に加えて、人災も少なくないように思う。毎日繰り返される「政局」は、当たり前のことだろうか?

   この国をどうするかを問題にするよりも、首相を辞めさせることに必死になっている今の政治家の行動を、当たり前と言えるだろうか。異常であると思う人は少なくないが、こうした人達を選んだのは、紛れもなく私たちである。

   「国策」という名で国民の安全が軽視される今の世の中は、「当たり前」のことなのだろうか。異常に「電化」を進め、そのために原発が不可欠であるとの世論を作り出し、「専門家」と言われる人達が安全性をアピールしている。

   一度原発を導入すれば、何か(?)のように、最早原発から抜け出せず、さらに次の原発を導入しなければやっていけない自治体が少なくない。そこには、安全性を重視する人は少ない。

   下請けの層は非常に厚く、6次下請け、7次下請けまであるという。なぜこのような状況になっているのだろうか。これは当たり前のことだろうか。何かがあるように思われる。

   そして、何か事故が起これば、隠し通すことがこれまでにも当たり前であった。マスコミも、うかつに批判することができない。それは、広告などに跳ね返ってくるからだ。

  こうした状況って当たり前だろうか。それにしても、原発は事故が多すぎる。まだ未完の技術なのだろうか。私たちは「中国の高速鉄道事故」を批判的に見るが、「日本の原発」もよく似たところがある。それほど違いがないのではなかろうか。

  福島の原発事故の原因が十分究明されていない時期に、知事や電力会社、町長などが、原発の再稼働を支持する発言が相次いでいた。裏で、世論操作が行われていたのだ。今考えてみると、国民の安全性よりも、企業や自治体の「経営」に重点を置き過ぎているように思われる。

   これって「当たり前」のことだろうか。こんなことでは、一般の区民が何もわからないうちに、戦争が起こったり、取り返しのつかない大事故が起こることは避けられないのではなかろうか。

   最近思う。「物欲」も一定の限度を過ぎると「想定外の大事故や不幸」を招くことになるのではなかろうか。地に足をつけ、「モノ」ばかりが幸せをもたらすのでないことに気がつかなければならないと思う。

我が家のキンカン瓜。しゃきしゃきとしていて甘い。昔懐かしい味だ。孫達にも結構受けている。まだまだ収穫できそうだ。

(日記 午前中は、「おじさんバンド」の楽譜作りとCD作り。夕方までかかってしまった。午後4時半より午後9時半までおじさんバンドの練習。疲れた。それでも、一つのことに向かって頑張ることは、脳にはよいことだろうと思う。というのは、この年になると楽器の演奏はかなり困難であり、頭をフル回転しなければならないからだ。特に、曲を暗記することが困難になる。動力は若い頃の倍ほど必要になる。孫達は、母親の実家から帰って来た。また我が家は賑やかになった。)

 
 

テレビの買い時

10 8月

重なる更新時期
   いろんなものにもある程度寿命というものがあるように思う。ただ昔と違って、動かなくなるまで使うということはあまりないだろう。車一つとっても、新しく買い替えるときには、まだまだ使えるのにと思うことがある。  

  しかし、私のパソコンは、うまく動かなくなって昨年順次買い替えることになった。自宅と、事務所、そしてノートパソコンだ。テレビは、退職したら新しくしようと考えていたものの一つだ。  

  考えてみればテレビもずいぶん進化したものだと思う。中学校の頃だろうか、勝山に白黒テビが2台、大野に1台入った時期があった。勝山は、2台とも電気店が導入したものだ。  

   その頃、プロレスが人気スポーツであり、力道山の活躍するのをショーウインドウに置かれたテレビで観戦したのを覚えている。相撲のシーズンには、これまたショーウインドウの前は人だかりができて道路まではみ出す始末であった。  

  そのうちに、あちこちにテレビが入り、ついに我が家にもテレビを買える時期が来た。白黒テレビではあったが、感動したのを覚えている。この頃には社会人になっていた。  

   そして、カラーテレビが売り出された。しかし、最初の頃は、番組の全てがカラーであったわけではない。白黒とカラーの番組が混在していたのであった。  

  そして、我が家にもカラーテレビが入り、映像の綺麗なハイビジョンテレビができ、地デジ化し、3Dテレビまで出てきた。今後テレビはどのように発展していくのだろうか。気になるところである。  

  しかし、ハードの発展に対して番組(ソフト)の方は必ずしも進歩していないように思う。週刊誌にもこのようなことについて書いている。  

突貫工事で完成したテレビ置き場に新しいテレビが収まった。急な作業で本当に疲れた。

テレビよ、さらば 見たい番組がひとつもない
  

   昨日の週刊誌の広告には「地デジ化と共に音をたてて崩れてゆくガラスの巨塔……テレビよ、さらば みたい番組がひとつもない……韓流ドラマと番宣と通販ばっかり」と書かれていた。  

   私は、テレビを見ているよりは、他のことをしたいので、テレビだけを見ていることはほとんどない。そういう意味では、「ながら族」かもしれない。  

   しかし、歌を作ったり、編曲したりしているときは、テレビの中の音楽が邪魔になるのでテレビのスイッチを切って作業を進めることにしている。テレビがなくてもそんなに困らない。 

    そんな私たちが、今回テレビを新しくした。退職グッズのひとつだと思っていたので、どうせ新しく買うなら画像がきれいで、これから発展するかもしれない3Dにも対応していたほうがよいと考えた。  

   そう思ってメガネも二つ買った。また、3番組同時に録画できるビデオ、ついでにラックシアターも買い揃えた。今後興味ある番組が増えることを願うばかりである。  

  自前で作ったテレビの設置場所(押入れ風)も完成し、今日、新しいテレビがその中に納まった。それにしても、昨日急に決まったテレビ納入にあわせて急いで作った設置場所に、きちんと収まった。  

   というよりも、幅110cmの設置場所に納まる大きさのテレビを買ったと言った方が当たっているかもしれない。こたつで見るにも適した大きさかもしれない。  

(日記 午前9時過ぎに電気屋さんが来て私の作った設置場所にテレビを収めてくれた。また、孫たち二人は母親の実家へ泊まりに出かけた。午後は、テレビ台の裏側に戸棚を作った。夕食後も作業を続けた。ようやく素人大工も終わった。)

 
 

突然の大工仕事

09 8月

てんやわんやの大騒ぎ
   午後3時頃、電気屋さんから電話がかかってきた。1ヶ月ほど前に注文しておいたテレビやビデオが「明日入る」という。テレビが入る前にしておきたい作業があったのだ。

  これまで使っていた今のテレビもハイビジョンだが、ディスプレイがブラウン管でやたら大きいのだ。それを今はやりの薄型テレビに替えるので、テレビを置く場所を狭くしたいと思っていたのだ。隣の部屋へ出ているからだ。

  テレビやテレビ台の大きさを計算して、それらが収まり、なおかつ無駄のない大きさのスペースを作りたい。そのうちに日曜大工でやろうと思っていたが、明日テレビが入るというので、夕方から作業を開始。

  居間の中で電動のこぎりなどを使って、これまでテレビを置いていたスペースの奥行きを狭くする作業を始めた。年末の大掃除状態になった。

押し入れの奥行きを狭くしたようなテレビ置き場を制作中。もっと早くやっておけばよかった。

  隣の部屋へ食い込んでいるスペースなので少しでも小さくしなければならない。夕食後、ホームセンターへ材料を買いに走り、突貫工事。夜の作業なので、見にくくて本当に困った。

  午後11時半に作業を中断してこのブログを書いている。完成するのは深夜になるだろう。もっと早くやっておけばよかった。なかなかテレビが入らないというので、安心していたのが甘かった。

(日記 午前中、家内が定期検診で医科大へ出かけたので、二人の孫の子守。10時にプールへ連れて行った。二人ともプールが大好きだからだ。午後、『ふるさとの踊り大会』の会計処理のために、あちこちへ出かけた。ところが、「明日注文のテレビが入ります」との電話が入り、大慌て。突然、居間で大工仕事。もっと早くやっ

孫達は遊びの天才!?狭い廊下を区切って個室にしてままごと。出入り口は先日買った家型のプール。風通しが悪いので家内が見るに見かねて扇風機を差し入れ。

ておけばよかった。)

 
 

孫との過ごし方

08 8月

はや2週間
   家内が横浜から孫二人を連れて帰って来てからはや2週間が過ぎた。これから私たち夫婦(祖父母)と孫とがどのように過ごせばよいのだろうか。家族の一員として自然体で過ごさなければと思う。

   テレビやゲームだけで過ごしては、時間の無駄だと思う。思い出は作ってやりたいと思う。特に、小学校1年生の上の娘には、家族(私たち夫婦)戸だけ過ごすのではなく、地域の人や同級生とも過ごさせてやりたいと思う。

南幼稚園時代の同級生と南小学校のプールサイドで記念撮影。(個人情報保護のため写真の明瞭度を落としてあります。)

   夏休みならではの経験もさせてやりたい。そんなことを考えているうちに、はや2週間が過ぎてしまった。私たち夫婦が同時に出て行くときには、当然二人もいっしょに連れて行かなければならない。

  先ず市営プールには何度か連れて行った。そのたびに、退屈しないように小さな目標を設定し、遊びの合間にチャレンジさせた。両手を前方で組み足をばたばたさせて進む「けのび」で子供プールを横断できる目標を立てた。

   何度かのチャレンジの後、達成することができた。その後は、呼吸なしのクロールで泳くこともできるようになった。小1の姉の指導で3歳の妹はビート板を使ってバタ足で前へ進むことができるようになった。

   海へも連れて行った。これまでもそうだったように夏休みに1度ぐらいは海へ行くことも子供にとっては大切なことだと思う。我々夫婦がやっている「盆踊りの普及活動」にも連れて行ったし、「オカリナ教室」に連れて行った。

  そして、今日は、小学校にお願いして学校のプールへ連れて行った。当然、成器南幼稚園時代の同級生も来ているだろうとの予測の元に、出かけたのだ。

  最初は、全く知らない子ども達の間でひっそりと泳いでいたが、かつても仲間が現れてそこからは、友達と楽しそうに泳いでいた。私も、少し泳いだが、子ども達が「いっしょに遊ぼう」というのには参ってしまった。

  プールへ連れて行ってよかったと思った。学校のプールは芋の子を洗うように混んでいた。泳ぐというよりも、水に浸かって遊んでいるだけという感じだ。それでも、子ども達は楽しそうに遊んでいた。

  夜は、我々夫婦が参加している「オカリナ教室」へも連れて行った。二人の孫は、隣の部屋で遊んだり、我々の練習を見たりしながら過ごしていた。

「オカリナサークルてんとうむし」の伴奏で元気よく「さんぽ」を歌う二人の孫。(於:山児童館スタジオ)

  最後に、孫達の知っているとなりのトトロ」の挿入歌「さんぽ」を演奏し、孫達似歌ってもらった。二人とも大きな声で元気よく歌った。そして、みんなでお茶を飲み今日の練習を終えた。

   野菜を採ったり、家の前で水遊びをしたり、地域の人達と交わりながら、田舎でよい思い出を作って帰って行って欲しいと思う。夏休みも半分が過ぎた。明日は「絵日記」でも書きながら夏休み前半を総括し、後半に向けて思いで作りをしたいと思う。

(日記 指の使い過ぎか、とても指が痛いので、福井のY整形外科へ行って看てもらった。午後は上の孫を連れて南校のプールへ出かけた。孫は、幼稚園時代の同級生との再会を楽しんでいたようだ。夜は、オカリナ教室。孫を連れて出かけた。)

 
 

大師山

07 8月

「大師山」とは
   子供の頃から村の入り口に標柱があったことを覚えている。そこには、「泰澄大師旧跡地登り口」と書かれていたように思う。私たちは単に「大師山」と呼んでいた。

   この山は、私たちには縁のある山だった。ワラビやゼンマイなどの山菜や栗、アケビ等を採った山であり、薪をとった山でもあった。中学校時代には、キャンプをしたり、鳥を捕まえた山でもあった。生活に密着した山であった。

   私たちの地区に、多くの関わりを持った山であったので、昨年私が作った『片瀬豊年ばやし』の1番にはこの山についての歌詞を考えた。

       『片瀬豊年ばやし』 

1.(前歌)村の後ろにひかえし山は
 
        越の白山(しらやま)開いた御仁(おかた)
 
      泰澄ゆかりの 大師山 大師山             
  (本歌)ハア アーアーアー
       春は桜で 秋もみじ
       季節彩る 守り神 守り神
      「ワラビ ゼンマイ 山の芋 薪に材木 山の幸」(ラップ調)
      山の麓(ふもと)にゃ 大仏と
      団子まきする 佛母寺(ぶつもんじ)
      山を守るにゃ 道づくり 道づくり ヨホ ホィー

大がかりに樹木を伐採したために、大野方面の視界が大きく開けた。(大師山山頂にて)

  今日は、この大師山の「道作り」だ。草刈り機で道の両側の草や灌木を切り、場所によっては木で階段を作ったり、水抜きを作ったりするのだ。この作業は昔から続いていたものと思われる。私は、父親が早くなくなったので、高校時代からこの作業に参加している。

   私たち5班は、午前6時に集会所前に集合して、二手に分かれて出発した。一グループは歩いて出発、もう一グループは車で頂上まで行き、登山道の上と下から作業を始めるのだ。

  私は、歩きのグループだが、草刈り機を担いで作業現場へ行くまでにかなり疲れてしまった。今年は、私たち5班は「宮番」なので、頂上や頂上手前の神社を含む山道の担当だ。

  8月13日には「大師山たいまつ登山」があるので、私たちの班は、当日、山頂近くの神社で登山者を迎えたり、たいまつの後始末をしたりするのだ。

  今年から、頂上の眺めは格段によくなった。これまで、大野方面は全く見えなかったが、業者を頼んで木を伐採したので、頂上からは、勝山市や大野市がよく見えるようになった。

  特に、毎年8月13日には大野市の花火大会があるので、山頂からもよく見えるはずだ。この「山道作り」は、歌詞にも書いておいたように山を守る第一歩であるが、近年作業に出る人が高齢化しているので、これから先少し考えなければならないだろう。

(日記:午前5時起床。大師山の山道作り。帰宅してから、子ども達とプールへ行く。6歳の姉にはクロール(息継ぎなし)を、3歳の妹にはビート板を使ってバタ足を教えた。二人ともかなり上手になった。なかなか帰ろうとしないので、2時間半以上をプールで過ごした。子ども達はプールが大好きだ。午後は、親父バンドの最後の曲の楽譜を書いていた。)

 
 

和太鼓教室

06 8月

太鼓を教えてもらえませんか
  「太鼓を教えてもらえませんか?」 この一言から太鼓教室が始まった。聞いてみると子どもは保育園の年長組だという。私が募集したのではないので、広がりは全て口コミだ。

   太鼓を始めるにあたって一番大切なことは、練習開始時期が早いので太鼓を嫌いにしないようすることだ。他人と競い合うのではなく、他人と協力して一人ではできないことができるとのだということを知ってほしいと思う。

  こうして、和太鼓教室が始まった。保護者が同伴してくれるので、ありがたい。保護者も一緒に太鼓を練習してくれるのでもっとありがたい。子どもに和太鼓を習いなさいと言うよりも、大人が楽しそうに太鼓を叩けば子どもも太鼓に親しんでくれるであろう。

  これは太鼓に限らず、いろんなことに通じるのではなかろうか。恥ずかしがっていた子どもも、親が楽しそうに太鼓を叩くのを見て少しずつ太鼓になじんできたように思う。

私のスタジオで練習する親子太鼓の皆さん。今日も口コミで一組の母子が練習に加わった。私の孫も一緒に練習。

   ところで太鼓の効用は何だろうか。先ずは、一心不乱に太鼓を叩くことは楽しいこと。そして、身体を動かすことの爽快感。仲間と力を合わせることの充実感。地域作りにも役立つこと。そして、子どもなら何かを身につけることによって自信が付くこと。仲間作りができること。リズム感を身につけることができること。

  また、ある程度上手になってステージに立つことになれば、日常生活では味わえない“緊張感”を体験できる。そして、上手く演奏できれば充実感が、失敗すれば今度こそと“向上心”を持つことができる。

   今日の教室に、また新しい親子が加わった。最初、子どもは恥ずかしがって見ていたが母親が太鼓を叩くのでそのうちに子ども藻太鼓を叩くようになった。

   また、横浜から帰省している孫も太鼓に誘った。直前に少し太鼓を教えていたので、みんなと一緒に太鼓を叩くことができた。住んだ後、「楽しかった」と言ってくれたのでよかった。帰宅してから3歳の妹に教えていたのできっと楽しかったのだろう。

   今練習している親子には、できれば11月頃に何らかのステージに立ってもらいたいと思う。この3ヶ月で人前で叩けるように計画的に練習したいと思う。

   子ども達には、例によって、「あかおやま」を理解してほしい。あ(挨拶)、か(感謝)、お(思いやり)、や(約束)、ま(マナー向上)の五つを和太鼓以上に身につけてほしい。

夕食のハンバーグ作りの手伝い。夕食ではもりもり食べていた。

(日記 午前中先ず一番に田んぼの畦の草刈り。これで自分の田んぼの草刈りを3回終えたことになる。午後は精米。そして、子供太鼓の練習用鉢作り。午後4時より「親子和太鼓教室」。新しいメンバーが加わる。孫も練習に参加。孫達は夕食準備の手伝い。)

 
 

海水浴と福井花火

05 8月

何をできるようにするか
   せっかく夏休みに孫達が帰省したのだから、やはり一度ぐらいは海へ連れて行ってやりたい。そう思って、今日海水浴へ行くことにした。家内は、いざというときに海の中で子ども達を助けることはできない。

浜茶屋で先ずは腹ごしらえ。

  そこで、長女も息子一人を連れて一緒に海水浴へ行くことにした。3人で二人の子どもを見るということだ。それから、家内は撮影係と砂浜から子ども達を見守るのが役割だ。とにかく、安全でなければならない。

   昼近くに自宅を出て、長女宅へ寄り、鷹巣海水浴場へ向かった。やや曇り気味であった。先ず、昼食をとり、水着に着替えて海へ入った。長男の次女(孫)は海を怖がって、最初は両手で私をつかんでいて離さない。

  昨年は、椅子のように座っていることができる乗り物的な浮き輪を使っていたが、今年は、普通の浮き輪だ。両手を離したら浮き輪が身体から離れてしまう。

  これでは、.海の楽しさを味わうことができないだろう。なんとか、私から少しでも離れて自由に動き回らせてやりたい。最初は1m位、そして、2mと距離を伸ばして私から離れることができた。また、水の中で浮き輪をぐるぐると右回転でも左回転でも回すことができるようになった。今日もまた、できないことが一つできるようになった。

海の中で記念写真。

「ここまでおいで。上手、上手。」 3歳の次女は、海の中でもバタ足ができるようになった。

   最初できないことが少しできるようになった。きっと、恐怖心があったのを少しずつ克服できたのではなかろうか。長女の長男も昨年よりは格段の進歩で海水浴を楽しんでいた。回りの者の方がはらはらするくらいであった。

  5時近くまで海に入っていた。その後、長女宅へ寄り、夕食をとってから、福井花火を見るために足羽川の河川敷へ向かった。約1時間福井花火を見て帰宅した。

(日記 草刈り機で畦草を刈る。たくさん汗が出た。約b40年ぶりに体重が60kgをわずかながら割った。その後、鷹巣海水浴場で海水浴。その後福井花火を見る。10時過ぎに帰宅。)

初めて見た福井花火。

シートを敷き、長女夫婦と二人の子ども(孫)、そして我々夫婦と二人の孫が花火見物。最初は怖がっていた孫達もだんだん慣れて花火を楽しんだようだ。

最初は怖がっていた孫達も、だんだん慣れて花火を楽しんでいたようだ。

 
 

福島県の方と立ち話

04 8月

『ふるさとの踊り大会』が取り持つ縁
  昨夜は、早朝田んぼの畦の草刈りをしようと思っていたが、よく考えると、私の田んぼの周囲には家があるのだ。そのため、朝早くからエンジン音を響かせて草刈りをしたら騒音公害になってしまう。

  そう思って、午前6時過ぎに車庫の前で草刈り機を調整していると、向こうの方から散歩している年配の夫婦が近づいてきた。見慣れない人だが、「おはようございます」と挨拶すると、挨拶が帰ってきた。

  ちょうど私の車庫の前を通りかかったとき、男性の方から「この前、お城で笛を吹いていた方ですか?」と言われた。少し、訛りがある。「そうです。この前、勝山城博物館へ来られたのですか」と尋ねると「行きましたよ。」とのこと。

  そして立ち話が始まった。福島県から越前大仏の門前町へ避難して来られたWさんであることが分かった。「ソバを食べられましたか」と尋ねるとご夫婦から「食べました」との返事が返ってきた。

紐型の刃の草刈り機は草を粉砕して吹き飛ばしすために完全武装しなければならい。

  福島県の方々のために、私は『ふるさとの踊り大会』で「手打ちソバ」の無料券を発行したのだ。そして、このご夫婦をその券を使って下さって勝山の手打ちソバを召し上がって下さったのだ。やってよかったと思った。

  また福島県の方々の復興を願って、当日は、同県の「相馬盆歌」を生で演奏して盆踊りを行ったのだ。そのこともご存じらしく、「とても懐かしかったです」とうれしそうに答えて下さった。これも企画してよかったと思う。

   私は、『ふるさとの踊り大会』には、なるべく勝山の民踊で踊ることを続けている。地元を大切にし、地元に縁のない他県の民謡はなるべくこの日は演奏しないことにしている。しかし、福島県は別だ。勝山に福島県の方々がかなりおられるのだから。

  その後、祭りの話しや獅子舞の話等を聞かせていただくことができた。Wさんは福島原発から10kmの所に住んでおられたらしい。また、Wさんは獅子舞の舞手だったという。そして、「写真を持ってきているので見せてあげましょう」ということになった。かなりの時間話すことができた。

今日は家で平凡に過ごす日。でも、孫達は、午前も午後も家の前で水遊び。昨日買った家型のプール。

  今後も、Wさんと話す機会が持てたらと思う。こちらが一方的に、何かをしてあげるのではなく、私の方からいろんなことを聞かせていただくことで本当の対話がはかれるのだと思う。『ふるさとの踊り大会』を開催してよかった。

(日記 午前8時より、田んぼの畦の草刈りをした。これで3度目だ。よく草が生えるものだ。午前10時を過ぎるとじりじりと太陽が照りつけ、日射病にならないかと心配になり、作業を止めた。午後は、「おじさんバンド」のためにCD作り。孫達は昨日買った家型のプールで遊んでいた。暑い日には水が一番だ。午後5時から福井、春江、大野からメンバーがやってきて「おじさんバンド」の練習。午後9時近くまで、雑談しながら「ジャズ2曲」、「ハワイアン1曲」、「ラテン1曲」の4曲を練習した。変化に富んだ一日だった。)

バアバが日記を書き始めると、孫も隣に座り算数のドリル。

 
 

『紙芝居展』を見に「県立子ども歴史文化館」へ

03 8月

紙芝居に興味あり
   私は現職時代から「紙芝居」には興味があった。中・高生時代は漫画家志望であったので絵を描くことはそんなに苦ではない。先日初めて、深谷邸で「花中会」の皆さんを前にして『白山平泉寺物語』を上演したばかりである。

  自分で脚色し、夫婦で演ずるのだが、なるべく臨場感があるように音楽なども入れて実演してみた。見ていただいた方から「知らないことが分かった」とのお声をいただいた。

  そして、この『白山平泉寺物語』だが、今度は8月20日に平泉寺集落センターで演ずることになっている。私自身も是非とも平泉寺の方々に見ていただきたいと思っている。

  平泉寺が一向一揆による焼き討ちにあって8百数十年の歴史を閉じたかに思えたが、顕海僧正が規模を大幅に縮小して再興したのである。その時期から明治の初めまでの4百年あまりの歴史もまた興味深いものがあり、紙芝居ではこの部分を強調したいと思う。

「県立子ども歴史文化館」で紙芝居の実演を見る
  昨日の福井新聞で今、「紙芝居展」が開かれていて、午後2時と3時の2回、紙芝居の実演もあると書かれていたので、二人の孫を連れて出かけることにした。また、私たち夫婦はこれからも紙芝居を上演したいという希望を持っているので、勉強という意味もあった。

「拍子木の会」による紙芝居の実演。中央にいるのは二人の孫。左端は家内。(於:「県立子ども歴史文化館」)

  12時半頃、家を出て午後1時半に文化館に到着した。先ずは館内を見学して回った。私はこの施設を初めて見るので興味があった。子ども達にとってはどうであっただろうか。

  午後2時から、実演が始まった。市販されている紙芝居を3本見た。読み方、特に間の取り方、声の大きさ、絵の描かれた紙の引き方やスピードなど学ぶことが多かった。見学していた何人かの子ども達も、真剣に聞いていたようだ。

  「読み手」と「聞き手」が一体となっていることが素晴らしかった。緊迫した場面では、会場は水を打ったように静まりかえり、子ども達はじっと画面を見ていた。紙芝居のアナログなところがよいと思った。

 私としては、「紙芝居は、同じ絵でも、見ている年代によって筋書きを変えることができる良さがある」と思っている。私自身も練習して先ずは、『白山平泉寺物語』をうまく演じられるようにしたい。

  また、私自身は、先ずは『泰澄大師物語』の紙芝居を完成させた後は、自作の童話を紙芝居にしたいと思っている。これまで書きためた童話に自分で絵を付け、それを紙芝居にするつもりでいる。

買い物で立ち寄ったエルパでゲームに興ずる二人の孫達。

   ここ2ヶ月は『ふるさとの踊り大会』の準備のために時間がとれなくてできなかったが、今後は、紙芝居を退職プロジェクトの一つとして優先させて取り組みたい。

(日記 午前8時頃、平泉寺のOさんが我が家へ来た。何の用事だろうと考えながら出てみると「8月27日の祭りに踊りをやりたいのでお願いします」とのことだった。自分としては、喜んでお役に立てればということで了解した。かつては平泉寺の祭りはとても賑やかであった。大人の相撲、子どもの相撲があり、踊りの輪もできていた。露天商も数軒来て賑やかであった。しかし、近年、相撲もなくなり、踊りの輪もできず、寂しいものになっていた。それを復活させたいというのだろうか。その後、剪定したり伐採したりした木の枝などを持って大野市にあるゴミの処分場へ行った。その後、家庭菜園へ寄り、伸びた作物を支柱にくくりつけたりした。昼食後、二人の孫をつれて家内と「紙芝居展」を見るために福井の「県立こども歴史文化館」へ行った。子ども達には楽しいだろうし、紙芝居をする私たちにも参考になるだろうと思った。「紙芝居展」を見た後、エルパへ寄り、家型の子供用プ

ゴミ焼却場で順番を待つ私の軽トラック。

ールを買い、午後6時半に帰宅。)

 
 

『ふるさとの踊り大会』を終えて

02 8月

変わる各集落の祭礼
   『ふるさとの踊り大会』の会計処理などのために、実行委員長のKさんの事務所へ出向いた。そこには村岡ソバ会の方々もおられた。先ず、ソバ券の処理をした。

   福島県の方々のために発行した「おろしソバ無料券」は全部で23枚だった。福島県の方々が23来られたということになる。それから、出演者のための「100円割引券」は15枚発行されていた。

  会見処理の後、雑談ながら、今回のイベントについて意見交換を行った。天候の問題、ソバ券の発行のあり方等の後、秋祭りのあり方についての話しが出た。

「ふるさとの踊り大会」のために急遽集まった民謡伴奏隊。

  秋の祭りはどの集落も年年寂れているようだ。昔は、相撲があり、踊りがあり、露天もいくつか出て、どの地区の祭りも盛り上がっていたようだ。しかし、先ず、ほとんどの集落から踊りが消え、相撲も消え、子ども達の楽しみの露天も激減した。

   「秋祭り」に親類を招くこともほとんどしなくなったという。そうなると、祭りならではの料理もしなくなってしまった。秋祭りの食事と言えば、「赤飯」、自宅で作る「笹寿司」、「昆布巻き」があり、料理屋の刺身や煮付けなどが付いていたものだ。

   雑談で出た話しだが、「このままでは祭り料理は消えてしまうだろう。もしそうだとするならば、集会所でこれらの料理を作ってはどうだろうか」という意見も出た。それを神社で食べてはどうかというものだった。

  一方では、秋の祭りに替わって地区のレクレーション大会である「夏祭り(夕涼み会)」は、盛んになっているようだ。ただしこれは、地区住民参加の限定的なものだが。

  こうした地区の「夏祭り」が盛んになるにつれて、神社の「秋祭り」は廃れてしまったというのだ。ほとんど人の集まらない神社にレコードだけがなっているという集落が増えているとのことだった。

  そこで、地区のお楽しみ会である「夏祭り」と神社の「秋祭り」について棲み分けるべきであるとの意見も出た。夏のお楽しみ会は、「育成会・青年会(~45歳)」と「壮年会(45~60歳)」が、秋の神社の祭りは「実年会(60歳~75歳)」と「老人会(75歳~」が中心になって担当するというものだった。

盆踊りに花を添えてくれた『春駒太鼓』の皆さん。

  地区の組織そのものもずいぶん弱体化しているという意見も出た。女性組織に至っては、組織そのものが存在していない所もあるなど様々である。このような状況下で災害にあったら、ずいぶん動きにくいだろうなあと感ずる。

  「盆踊り」はこうした希薄な地区の人間関係を少しでも改善するために、役立つのではないかと私は信じている。老若男女が一つの場に集い、一つの輪(和)を作ることってそうそうあるものではないと私は信じている。楽しい雑談だった。

(日記:朝飯前に、家庭菜園の作物に化成肥料を与える。午前中、博物館や音響などの費用を支払いに行った。また、芸能発表や盆踊りの中心となって下さった親和会のリーダーのOさん宅へわずかな謝礼を持ってお礼に出向いた。昼食後、私たち夫婦と二人の孫とで「市営プール」へ泳ぎに行く。約3時間プールで遊びの相手をした。帰宅して、庭木の剪定。夕食直前に、『ふるさとの踊り大会』で写真を撮っていたYさん宅へお礼に出かけ、写真のデータをCDに焼いていただく。私は、写真どころではなかった。)