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Archive for 8月 13th, 2011

後の子もおくれじものを……大野高校同窓会

13 8月

大野高校普通科「文系・理系」合同同窓会
 
今日の午後6時から大野市の料亭で大野高校の「文系・理系」合同の同窓会が開かれた。昭和63年卒業の生徒達の同窓会であった。この頃は、1・2年次は文理合同のクラスであったが、3年次に文系と理系にクラス分けを行ったのであった。

  この学年を3年間担任をしたが、3年次には私が「理系」で同僚のSさん(私より2日若い)が文系の担任であった。1・2年を担任した生徒の約半分が文系へ移り、隣のクラスの半分が理系の私のクラスへ移ってきたのだ。

  私たち教員は、どちらのクラスにも自分の教えた生徒がいたし、生徒達も同じクラスだった者が隣のクラスへ移ったので、よく知っている。ということで合同の同窓会になったのだ。

    同窓会開会に先立ち、亡くなった仲間と東日本大震災で亡くなった方々のご冥福を祈り黙祷を行った。そして、開会の挨拶や乾杯の音頭で楽しい同窓会が始まった。

  年齢は42,3歳で、社会では最も脂ののりきった時期ではなかろうか。医者、県職員、教員(小・中・高・大学)、放送局勤務者、大学研究者、火力発電所の設計者、大企業の外国派遣社員等様々であり、女性の中には子育て中の主婦までいる。多彩な顔ぶれであった。

  彼らの話を聞いているだけでもわくわくする。本当に楽しいひとときを送ることができた。彼らの高校委時代には、巷では「大野高校へ入っても医者にはなれない」等という噂もあり、実際、大野高校へ入らずに福井の高校に入学した者もいたのだ。

   そんな中で、我がクラスから7人の医者が誕生したのだから頼もしい。6人は国立、1人が自治医科大学であた。そして、彼らの中の一人が先月ふるさと大野市で開業したのだ。

   この中には、私が仲人を務めた生徒も二人いて、印象に残っている学年でもあった。もっともっと話したいと思ったが、50人あまりの者全てと話すのは困難であった。

大野高校同窓会。私のテーブルの記念写真。

  2次会にも参加したが、とても気持ちのよい学年であった。大野高校の校歌にあるように次の世代も育っているなあと感じた。大野藩では、山国でありながら「大野丸」を所有し、商業活動を行う傍ら樺太探検まで行っていたのだ。

  今風に言えば、勝山市が単独で南極探検をするようなものであろう。三好達治の作詞には、この大野丸のことが歌われているのだ。私も大野高校在職中にこの校歌を8年間歌ったが、特に3番が大好きであった。

  進取の気性に富んだ先人に続けと歌っているように思う。今日のこの同窓会に参加していると、次の世代が立派に続いているように思え、参加者の顔が光り輝いているように見えた。

  元気をいただいた同窓会であった。最後の挨拶で私は述べた。
 「まさに脂ののりきった皆さんを見て入りと頼もしい。私たちも、昔を偲んでいるだけではなく、今をよりよく生きたいと思う。今日は皆さんからたくさんの元気をいただいた。皆さんの何十分の一でもよいから、一歩ずつ前へ進みたい。」

  何人かと楽しい約束をすることもできた。今日が終着駅ではなく、出発点でもあると思う。みんなの元気にあやかりながら頑張っていけたらと思う。 

 

大野高校「文系・理系」合同同窓会。中央にいる私たちを囲んで記念撮影。

大野高等学校校歌
       

作詞/三好達治 作曲/清水 脩

1. 古志の奥 大野が原は
   風清ら 水清ら 山も清らに
   おのづから 通ひて子らが
   萌えいづる 心ごころに
   ふふむらむ 夢さへ清ら
   額高く 誇りかに さやけ 清ら

2. 古志の奥 大野が子らは
   眉清ら 智慧清ら 心清らに
   おのづから結ぶ 友垣
   学び舎に み雪ふる日も
   玉しきの 学びの道を
   わけ尋はな 見のはるけ たぬしはるけ

3. ふる国の ふるき郡の
   名もゆかし 二帆前
   大野丸 波のりゆきし……
   後の子も おくれじものを

(日記 午前中は、部屋を片付けながらパソコン作業。昼頃、横浜から長男が帰省した。孫達は大喜びであった。午後もパソコン作業。午後6時より大野市で大野高校時代の生徒達の同窓会。同時に私の村ではたいまつ登山があった。私の班が当番であったが、息子が代わりに出てくれた。ありがたかった。私は同窓会の2次会を中座してタクシーで帰宅したが、家に着いたのは午後11時であった。)

 
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