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Archive for 8月, 2011

川の思い出

21 8月

河川清掃
   今日は村の『河川・用水環境浄化啓発大作戦』の日だ。午前9時に集会所前へ集合。雨のため参加者はそんなに多くなかった。大人はゴミ袋、子ども達は魚等を捕まえる「タモ網」を持って片瀬地区の近くを流れる「勝山大用水」へ向かった。

  そして、ハシゴの川に降り、両岸の壁に生えている雑草を取ったり、川の中の空き缶などを拾ったりした。川の深さは長靴を超えるために、参加者はみな長靴の中にまで水が入ったようだ。私は、最初から足を切らないように古いズックで川の中へ入った。

  以前ならたくさんいた魚はあまり捕まえられなかったようだ。捕った魚やカニや水生昆虫は、生き物が住めるように新たに整備した法人の農舎の前を流れる用水に放すのだ。

  今の子ども達は、こうした行事の時ぐらいしか川に入ったり、魚を捕まえることはないだろうと思う。私たちの子供の頃は、小川でも大用水でも、九頭竜川のような大きな河川でも、大小のため池でも、みなよく遊んだものだ。

  川を見れば、どこに魚がいそうか、どうしたら魚を捕まえることができるか、そんなことばかり考えていたものだ。魚を釣る針がなければ、昆虫針を曲げて作ったりもした。えさにはミミズやイナゴのしっぽなどを使ったりした。

   特に、学校の帰りは道草をして魚を捕まえながら帰ったりもした。捕まえた魚は自分が履いているゴム製の短靴に入れて持ち帰ったりもした。また、石垣の中に手を入れて「手づかみ」で魚を捕まえたりしたものだ。

  米をとぐときに使う「そうけ(竹を編んだかご)」を川へ持ち出して草むらの中に隠れている魚を足でばたばたと動かしながらすくい取る「あしばった」もよくしたものだ。しかし、「そうけ」を持ち出したために、家の者に叱られたのは言うまでもない。

   このように自然に親しんだ子ども時代を送った者と、今の子どものようにゲームや習い事に明け暮れている者とは、大人になったときにどう違うのだろうか。

   とにかく、夏は水に関わって大いに遊んだものだ。今の子どものように、プールで泳ぐのと、魚がたくさんいる九頭竜川などで泳ぐのでは、ずいぶん違うと思う。私の次女も、一度川へ連れて行ったら、プールへ行きたがらなくて、毎日のように「川、川、川へ連れて行って」とせがむので困ったことを思い出した。

  川にまつわる思い出はたくさんある。今日、用水の清掃をしながら、昔の川との関わりを思い出した。川は、私たちの子ども時代の重要な遊び場の一つだったことは間違いがない。

(日記 午前9時より「河川清掃」に参加。その後、おじさんバンドの編曲作業。昼過ぎに、東京から帰省中の次女を家内と二人で福井まで送っていった。帰宅してからも編曲作業を継続。今日から、家内と二人だけの生活に戻った。「楽なさみしい」ということだろうか。)

 
 

紙芝居『白山平泉寺物語』を上演

20 8月

平泉寺の子ども達の前で紙芝居
   今日は、公民館の依頼で平泉寺の子ども達の前で紙芝居『白山平泉寺物語』を夫婦で上演する日だ。最初は大人の前で演ずるものと思っていたが、よくよく聞いてみると対象は子ども達だという。

家内は読み手、私はギターで音楽を入れると同時に一部男性の台詞を担当。

   私の作った『白山平泉寺物語』は、大人向けの作品だ。慌てて数日前から脚本を書き直した。平泉寺の起こりから、「神仏分離令」の出る明治の初めまでの約1300年の歴史を紙芝居にしようとすると全体が大変長くなってしまう。

  少しでも、平泉寺のことを理解してもらおうとするとたくさんの絵が必要になり、全体が長くなってしまう。全体像を分かってもらわねばという気持ちと、少しでも全体を短くしなければという相反する気持ちがあり、脚本作りにはとても苦労した。

   朝5時過ぎに起きて、家内と二人で紙芝居の最終練習。効果音をギターを使って入れたいのだが、指の動きが年々悪くなるように思う。馬の蹄の音はギターの胴を叩いて出すつもりだ。全体的にやや練習不足のまま、平泉寺の集会所へ行く。

   準備をしているうちに、子ども達がやってくる。児童館の職員も一緒のようだ。午前10時になったので紙芝居を始めた。小学校低学年には難しい内容だろうと思う。

   今後「大人バージョン」と「子どもバージョン」を使い分けなければならないだろう。この紙芝居を作ってみて思ったことだが、「平泉寺時代とはいつからいつまでだろうか」と考えてしまう。

  私は、「泰澄大師が平泉寺を開いたとされる日」から、「平泉寺が焼き討ちにあった日」、または、「顕海僧正が平泉寺を再興した日」のいずれでもなく、「平泉寺が白山神社」になった日(明治の初め)」までではないかと思う。

真剣なまなざしで紙芝居を見る平泉寺小学校の子ども達。

  江戸時代も平泉寺はそれなりに存在感があったと思っている。焼き討ち以後の平泉寺の歴史にも興味深いところがたくさんあると私は思っている。そこの所を紙芝居の中に入れ込んだが、小学生には難しかったのではなかろうか。

  それでも、何かはつかんでくれたのではとの期待がある。紙芝居の後は、子ども達が市の学芸員のMさんに平泉寺旧境内を案内してもらうことになっているので、その部分で補ってもらいたい。

     紙芝居としては、第1部「平泉寺が焼き討ちにあうまで」、第2部「その後の平泉寺として、神仏分離令によって白山神社に変わるまで」の二つに分けて、それぞれを短くして詳くしたいと思う。

(日記 早朝から紙芝居『白山平泉寺物語』のリハーサルを家内と行う。午前10時より、平泉寺集会所で紙芝居上演。昼食後、法人に預けてある自分の田んぼの「草ネム」や「ヒエ」などの雑草取り。特に「草ネム」は始末が悪い。脱穀したときに籾に混ざるからだ。午後4時より親子太鼓の練習。)

 
 

退職後の生活あれこれ

19 8月

時間の使い方と断捨離
   今日の午後6時より、勝山市の料理屋さんで『奥越春秋会(大野・勝山出身者で高校の校長を務めて退職した者の会)』を開催した。“開催した”というのは、私が幹事だったからだ。昨日までは孫の世話、今日は幹事、明日は家内と紙芝居。結構忙しい日が続く。

  私も退職してから、1年と4ヶ月が過ぎた。退職直前は、「仕事を辞めたとき、急激な生活の変化で、気持ちが変になるのでは」と心配したものだ。それまでは、すべきことが自動的に決まっていて、何も考えなくても次から次へと仕事がやってくる感じだった。

  退職したら、何から何まで自分で考えて行動することになるが、そんな生活に対応できるかという心配があったからだ。しかし、予想に反して、しなければならないことも結構あるものだ。

 幹事の特権で、「最初の間は自席を立たないで、じっくりと料理を味わっていただき、会員の皆さんの“近況や最近はまっていること”などを聞かせていただきましょう。その後は、自由に動いて下さっても結構ですから。」とお願いした。

  先輩と後輩が同席していると、何となく「あの人に酒をつがなければ」と考えてしまいがちで、ゆっくりと料理を味わっている余裕がないということになりかねないからだ。

70歳近くの私(右上)でもこの中では若手の部類に入るのだ。

  一通り、みんなの話を聞くと、それぞれが今取り組んでいたり考えていることがよくわかり、その後酒を酌み交わしながらその話題を深めることができ、話が弾むのだ。実はこの方法は、これまで何度も実験済みのやり方だ。

  退職直後は、新たな仕事に就いている者が多かった。しかし、その後は、地域の仕事や自分のやりたいことを見つけて生活している人も多かった。

  家庭菜園に取り組む者、パソコンで音楽をする者(話が合った)、山仕事に励む者、子ども達と関わっている者、身辺の整理をしている者など、それぞれが充実した生活を求めていろんなことをしているようだった。

  一方、「断捨離」について話題提供をする者も三人いた。身の回りの整理をしようにも思うようにいかないという感想を持つ者も少なくなかった。私も、身の回りのモノを捨ててすかっとした気分になりたいが、簡単にはできそうにない。

   何もない部屋にあこがれる。しかし、何かをしようとするとモノが必要になる。音楽の場合なら、いつ何時どんな楽譜が必要になるかわからない。保存してあると何かと便利だ。こんなことを考えているからいつになっても、断捨離は実行できない。

(日記 午前中、孫達が使ったプールなどの後片付け。その後、奥越春秋会の資料作り。午後は、明日の紙芝居『白山平泉寺物語』の子供向け脚本作り。午後6時から市内の料理屋で『奥越春秋会』を開催。私は幹事のために午後5時に料理や行く。楽しい時間を過ごすことができた。)

 
 

また遇う日まで、さようなら孫達

18 8月
大変だったが楽しかったっ日々
  7月24日に家内が、横浜から二人の孫を連れて帰ってきた。その日から、「ばあば」と「じいじ」と「二人の孫」との4人暮らしが始まった。毎日となると孫達のいろんな部分が見える。

  よい所もあれば改めさせるべき所もある。良いところは、子育ての良さが出ているのであろうが、悪い所は子ども達の責任と言うよりは、大人の責任である場合が多い。

「ばあば」とのしばしの別れ。一番面倒を見たのは「ばあば」であった。

  良くないことは、むやみに叱るのではなく、やはり大人がきちんと諭すべきであろう。知らないところも少なくないのでそれはきちんと教えるべきであろう。

  3歳までに人間としてのかなりの部分ができあがってしまうとも言われている。この時期、大人は、子ども達とどのように接すべきかをきちんと学んでおく必要があるように思われる。

  また、かなりの時間、孫達と生活してみて思うことは、親が教えるべきこと、祖父母が教えるべきこと、両者が協力して教えるべきことが多々あるように思う。

  自分の子育ての経験からも、自分が親の時代には心の余裕がなかったように思う。しかし祖父母になってみると、孫と接する場合には心の余裕があるのでいらいらしたり腹が立ったりすることは少ない。

  従って、子供をよりよく育てるには、親と祖父母の協力が必要であると思う。何はともあれ、大変ではあったが、孫達と生活してみて、普段では得られない充実感を味わったのも事実である。

  また、子ども達にはいろんな可能性があるように思う。その可能性を伸ばすには何をどうすべきか、今一度、周囲の大人達は考えるべきであると思う。間違っても成長の芽を詰み採ることだけは避けなければならない。

「じいじ」とのしばしの別れ。でも「じいじ」は「ばあば」の助手みたいなものだった。「ばあば、ご苦労さんでした」と言いたい。

  私が、現役時代に常に考えていた“背中での指導”が今周囲の大人達に求められている。言い換えれば、

 “見ています あなたの姿 子や孫が”

ということになるだろうか。大人の背中で教える部分は少なくない。

(日記 午前中、リハビリのために福井のY整形外科へ行く。真面目にリハビリしないと指がうまく動かないのではとの危機感を持つ。午後は、孫達と過ごす。午後4時半頃から親父バンドの練習。今日また一人石川県から新たなメンバーが加わった。私が卒業と同時に入学したメンバーだ。かなりの長時間練習した。前途多難なバンドである。まだまだ練習が必要だ。)

 
 

孫と過ごした夏休み

17 8月

勝山での生活を振り返って
   孫は横浜の小学1年生。福井県(勝山)の小学一年生の宿題と比べると宿題の量は雲泥の差だ。福井県の方が明らかに多い。勝山の1年生の保護者によると、勝山では夏休み帳の他に国語と算数のドリル、自由研究、絵日記、図画や工作やポスターなどかなり多い。

   それに比べて、算数と国語の手数のドリル、孫の方は絵日記がたったの1日分、朝顔の観察のみで後は全て自由とのことだ。基本的には、福井県は、学校で、都会は家庭で責任を持つように思われる。

勝山での生活を振り返って絵日記を整理する小1の孫。

  そこで、私は、絵日記を買い求め、せめて勝山で何をしたのかを書きとどめ、母親に説明できるようにしてほしいとの思いで、絵日記の絵の部分にはデジカメの写真を貼り、文章を孫に書かせた。

  どこへも提出するものではないが、横浜へ帰ってから両親に語ることができる材料にはなると思う。今日は、そんな気持ちで、勝山で生活した今日までの25日間の思い出を孫に書かせた。

  この三週間あまり、二人の孫を預かり、自分の子どものように過ごした日々が懐かしい。怪我もなく事故もなく過ごせたことが一番うれしいし、田舎の生活を体験してもらえてことが何よりもよかったと思う。

  明日の夕方、迎えに来た息子と横浜へ帰るが、しばらくは寂しいだろうなと思う。下の3歳の孫もよく頑張ったと思う。上の孫に、「実物にあえてうれしい。」と抱きしめると、「じいちゃんはそう言うと思った」と返してきた。普段は、ウェブカム(テレビ電話)でしか話せないからだ。

 明日の別れはきっと悲しいだろう。きっと追いかけていきたくなるだろう。デモ、会いたくなればいつでもあえると思い直して自分の生活を充実させたい。

和太鼓チームの反省会。彼女たちの若さにいつもパワーをもらう。

(日記 午前中、孫の絵日記に付き合う。午後、明日のおじさんバンドの練習。夜に備えて少し昼寝。午後7時半より、「春駒太鼓」の反省会。会話で大いに盛り上がった。もしかしたら彼女たちが私の夢であるフラダンスをやってくれるかもしれない。そのとき、私はハワイアンを演奏したい。今練習しているおじさんバンドで。同じ店で息子達も食事会をしていた。)

 
 

『落日のテレビ』を読んで

16 8月

さらばテレビ
   この頃、「テレビがあまり面白くない」ないという記事によくお目にかかる。そんな中で、週刊誌を読んでいたら、『落日のテレビ~私はこう考える~』と言う記事に目が止まった。内容を要約すると次のようである。

「……。草創期のテレビにかかわったのは、60年安保闘争に敗れ、就職先もない“やさぐれた”人々だった。先行モデルもなく制約もない中でこの世代のテレビマンたちは高い創造性を発揮した。

  だがこの華やかな成功が結果的にテレビを破滅に導くことになる。一流大学での秀才達がテレビ界に殺到してきたからだ。秀才は本質的に「イエスマンであり、前例を墨守し、上司の命に従うことはうまいが、クリエーション(創造)にも冒険にも興味がない。

  安定した組織を維持し、高級や特権を享受することには熱心だが、危機的状況への対応や新しいモデルの提示には適さない。草創期の冒険的なテレビマンが姿を消し、成功した先行事例を模倣することしかできないイエスマンがテレビ界を独占するに至って、テレビからは創造性も批評性も失われた。

    この先テレビが復活する可能性があるとすれば、一度どん底まで落ちて、世間から「テレビマンは薄給で不安定な職業」と見なされ、秀才たちがテレビを見限った後だろう。(神戸女学院大学名誉教授    内田 樹氏)」

 上記の記事を引用させていただいたが全く同感である。 日本の原発事故の対応を見ていると、中国の新幹線事故と何ら変わりなく、危機的な状況への対応はできないように思われる。後手後手に回ってしまっているようである。

  テレビで、「専門家によれば……」と聞くと、今までは、それなりの信頼感を持ってテレビなどを見ていたが、今は、専門家にもお抱え専門家がいて、後ろで金が動いていると思わざるを得ない。

   結局、「金」という磁石によって多くの人間が動いているのだと思わざるを得ない。悲しいことだ。本当の政治家、本当の学者、本当の研究者が出ることを祈るばかりである。

(日記 午前中、紙芝居」『白山平泉寺物語』を子ども向けに書き直す。かなり時間がかかった。午後は、長女、長男の子ども(孫たち)と市営プールへ泳ぎに行く。子ども達は大喜びだった。暇を見つけて、ハワイアンギターの練習。)

 
 

恐竜を生かせないか?

15 8月

観光に力を入れるならば
  夏になると、東北の夏祭りが話題に上がる。仙台の「七夕まつり」、秋田の「竿燈まつり」、山形の「花笠 まつり」、 青森の「ねぶた祭」、そして、 盛岡の「さんさ踊り」など全国級の夏祭りが並ぶ。

   どうせ東北へ行くからには、これらいくつかの祭りをハシゴしたいと思うだろう。現役時代は全く無理であった。退職してからこれらの祭りを見に出かけるチャンスは2度あった。

  しかし、昨年も今年もこの時期は、「盆踊り復活のアクション(ふるさとの踊り大会)」でそれどころではなかった。来年は何とかしてこれら東北の祭りのいくつかを見に出かけたいものだ。

   まちを上げてのこれらの祭りは、スケールも大きく、魅力もある。「どこどこの何々」と言われるようになってしまっている。それと同時に東北各県之夏祭りに魅力があるので相乗効果で東北全体の魅力がアップしている。競争と協力が上手く機能しているのだ。

  さて、我が勝山市は、全国のどこにも真似のできない「恐竜」という観光資源がありながら、これを生かし切っているように思われない。現状は恐竜博物館頼みになってしまっているように思われる。市民が真剣に考えたことがあるのだろうか。

お盆に長男と長女の家族がそろった。孫達は非常に賑やかであった。

   他市からは、恐竜博物館があり、恐竜発掘地があることを非常にうらやましがられている。しかし、これを活かすと知恵はないように思われる。東北の3大夏祭りのように「勝山の恐竜」を活かした全国的イベントを全市民が考えてみる必要がありそうだ。

   他市の2番煎じ、3番煎じでは観光に力を入れているようには思われない。「左義長まつり」に匹敵する市外県外から観光客を呼べるものとして、恐竜を生かしたイベントをみんなで考えられたらと思う。

   それには、「観光を意識したイベント」か「市民文化祭イベント」かの区別を意識することが必要ではなかろうか。少なくとも、「恐竜」は全国級の観光資源であるので「全国級の観光イベント」として捉えなければならないように思う。 

夏休み定番の花火。孫達は大はしゃぎであった。(自宅前で)

(日記 午前中、長男と孫達のお墓参りに付き合い、再度、お墓参りに出かける。帰宅し手から、家内の実家の平泉寺のお墓参りに出かける。午後は、先日購入したクラシックギター用のマイクテストのため事務所で過ごす。調整はなかなか難しい。それでも、マイクを通してギターの音を大きくすることができた。しかし、気に入った音にはまだ設定できない。夕方、長女夫婦と二人の孫がやってきた。長男の家族と長女の家族と一緒に食事をした。食事の後、両家の子ども達が花火を楽しんでいた。)

 
 

『中庄小三郎音頭』制作発表会に招かれて

14 8月

盛り上がる盆踊り
  「親父バンド」の練習が縁で春江町中庄地区のSさんと知り合いになり、民謡創作のお手伝いをした。そして、いつものコンビでCDを創作させていただいた。そうした関係で、今日の創作民謡『中庄小三郎音頭』の制作発表会に招かれた。

式典前に『中庄小三郎音頭』を踊る中庄地区の皆さん。そろいの浴衣で踊っている人も多かった。

  家内と二人でナビを頼りに春江町中庄地区の八幡神社へ向かった。神社へ着くと、飾り付けがしてあり、レコードがかかっていて盆踊り会場の周辺には模擬店などが並んでいた。

  6時半過ぎに、参加者全員で神社に参拝、その後、主催者の区長の挨拶があり、県会議員のY氏、坂井市教育長K氏の挨拶があった。後で坂井市のS市長も来られた。

  お二人に続いて、私にも挨拶の機会を与えられた。「区民一同が集い、こうして一つの輪になって盆踊りをすることのすばらしさ」を話した。続いて来賓紹介があり儀式的なことは終わった。

式典で挨拶をさせていただいた。

  そして、『中庄小三郎音頭』の制作発表が行われた。私の作ったカラオケに合わせて子ども達が前歌を歌い、本歌の1番から5番を女性(カラオケを指導している方)が歌った。私は、即興的に太鼓で拍子を取った。そして、中庄地区の皆さんが踊った。

  次の6番から10番は、前歌は同じ子ども達だったが、本歌は地元の男性が歌った。会場には浴衣を着ている方がたくさんおられた。自前の浴衣で踊っている方もおられたが、40数着の浴衣は、温泉で使った浴衣を譲り受けたとのことだった。背中に自前で書いた文字の入ってる浴衣もあった。

  『中庄小三郎音頭』の他は、昔から踊り慣れた各地の民謡や氷川きよしの『ズンドコ節』等を参加している男女が踊っていた。踊っている人たちは本当に楽しそうだった。うらやましくも感じた。

『中庄小三郎音頭』の前歌を歌う子ども達の横で、即興の太鼓を叩かせていただいた。

  会場の周囲には、無料のソバやかき氷のテントがあり、ビールなども売られていた。私も『中庄小三郎音頭』を見よう見まねで踊ってみた。50数年前を思い出した。

  すでに、他地区の盆踊りでも『中庄小三郎音頭』を踊ってくれという依頼が来ているとのことだった。オリジナルの良さであろう。楽しい一日だった。今後とも、この盆踊りが地元に根付いていくことを願いたい。

(日記 朝食前に、墓地の掃除。朝食後、家庭菜園の草取り。午後、お墓参り。夕方、坂井市春江町中庄地区の招きで同区の八幡神社で行われる『中庄小三郎音頭』の制作発表会に出席。午後10時に帰宅。孫達は父親(息子)と芝政へ泳ぎに出かけた。夜遅く帰宅した。)

夜になると踊りは一段と盛り上がったようだった。

 
 

後の子もおくれじものを……大野高校同窓会

13 8月

大野高校普通科「文系・理系」合同同窓会
 
今日の午後6時から大野市の料亭で大野高校の「文系・理系」合同の同窓会が開かれた。昭和63年卒業の生徒達の同窓会であった。この頃は、1・2年次は文理合同のクラスであったが、3年次に文系と理系にクラス分けを行ったのであった。

  この学年を3年間担任をしたが、3年次には私が「理系」で同僚のSさん(私より2日若い)が文系の担任であった。1・2年を担任した生徒の約半分が文系へ移り、隣のクラスの半分が理系の私のクラスへ移ってきたのだ。

  私たち教員は、どちらのクラスにも自分の教えた生徒がいたし、生徒達も同じクラスだった者が隣のクラスへ移ったので、よく知っている。ということで合同の同窓会になったのだ。

    同窓会開会に先立ち、亡くなった仲間と東日本大震災で亡くなった方々のご冥福を祈り黙祷を行った。そして、開会の挨拶や乾杯の音頭で楽しい同窓会が始まった。

  年齢は42,3歳で、社会では最も脂ののりきった時期ではなかろうか。医者、県職員、教員(小・中・高・大学)、放送局勤務者、大学研究者、火力発電所の設計者、大企業の外国派遣社員等様々であり、女性の中には子育て中の主婦までいる。多彩な顔ぶれであった。

  彼らの話を聞いているだけでもわくわくする。本当に楽しいひとときを送ることができた。彼らの高校委時代には、巷では「大野高校へ入っても医者にはなれない」等という噂もあり、実際、大野高校へ入らずに福井の高校に入学した者もいたのだ。

   そんな中で、我がクラスから7人の医者が誕生したのだから頼もしい。6人は国立、1人が自治医科大学であた。そして、彼らの中の一人が先月ふるさと大野市で開業したのだ。

   この中には、私が仲人を務めた生徒も二人いて、印象に残っている学年でもあった。もっともっと話したいと思ったが、50人あまりの者全てと話すのは困難であった。

大野高校同窓会。私のテーブルの記念写真。

  2次会にも参加したが、とても気持ちのよい学年であった。大野高校の校歌にあるように次の世代も育っているなあと感じた。大野藩では、山国でありながら「大野丸」を所有し、商業活動を行う傍ら樺太探検まで行っていたのだ。

  今風に言えば、勝山市が単独で南極探検をするようなものであろう。三好達治の作詞には、この大野丸のことが歌われているのだ。私も大野高校在職中にこの校歌を8年間歌ったが、特に3番が大好きであった。

  進取の気性に富んだ先人に続けと歌っているように思う。今日のこの同窓会に参加していると、次の世代が立派に続いているように思え、参加者の顔が光り輝いているように見えた。

  元気をいただいた同窓会であった。最後の挨拶で私は述べた。
 「まさに脂ののりきった皆さんを見て入りと頼もしい。私たちも、昔を偲んでいるだけではなく、今をよりよく生きたいと思う。今日は皆さんからたくさんの元気をいただいた。皆さんの何十分の一でもよいから、一歩ずつ前へ進みたい。」

  何人かと楽しい約束をすることもできた。今日が終着駅ではなく、出発点でもあると思う。みんなの元気にあやかりながら頑張っていけたらと思う。 

 

大野高校「文系・理系」合同同窓会。中央にいる私たちを囲んで記念撮影。

大野高等学校校歌
       

作詞/三好達治 作曲/清水 脩

1. 古志の奥 大野が原は
   風清ら 水清ら 山も清らに
   おのづから 通ひて子らが
   萌えいづる 心ごころに
   ふふむらむ 夢さへ清ら
   額高く 誇りかに さやけ 清ら

2. 古志の奥 大野が子らは
   眉清ら 智慧清ら 心清らに
   おのづから結ぶ 友垣
   学び舎に み雪ふる日も
   玉しきの 学びの道を
   わけ尋はな 見のはるけ たぬしはるけ

3. ふる国の ふるき郡の
   名もゆかし 二帆前
   大野丸 波のりゆきし……
   後の子も おくれじものを

(日記 午前中は、部屋を片付けながらパソコン作業。昼頃、横浜から長男が帰省した。孫達は大喜びであった。午後もパソコン作業。午後6時より大野市で大野高校時代の生徒達の同窓会。同時に私の村ではたいまつ登山があった。私の班が当番であったが、息子が代わりに出てくれた。ありがたかった。私は同窓会の2次会を中座してタクシーで帰宅したが、家に着いたのは午後11時であった。)

 
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マナー低下

12 8月

難しい「注意するタイミング」
   昼食後、二人の孫と家内の4人で市営プールへ泳ぎに出かけた。いつものように、最初は、幼児用の浅いプール、次に同じく幼児用の少し深いプール、そして浮き輪を付けて大人のプールと4人で移動しながら、泳ぎを楽しんだ。

   ところが、大人のプールで水しぶきを上げて騒ぎまくる小学生高学年と中学生がいた。プールの中をウオーキングしている人達に大きな水しぶきがかかり、困惑顔であった。

  我々が、幼児用プールへ移ると、小中学生は今度は幼児用プールで我が物顔に暴れまくって遊んでいた。本人達は楽しいだろうが、周囲の幼児やその保護者は大迷惑であった。皆困惑した顔をしてはいるが、注意はできない。

  私は、こういうとき、注意したいと思うがそのタイミングは難しい。というのは、サンドームでサーカスを見ていたときのことだった。3人の子供を連れた親子がいた。

   子ども達は、奇声を上げ騒ぎまくるので注意したところ、母親が言い返してきたのだ。家内は「止めなさい」と私を制止するが、そう簡単には引き下がれない。周囲に迷惑をかけていることを理解して貰わなければならないと続けて注意した。

  今日も、注意するタイミングをはかり、先ずは学年を聞いた。小学高学年もいる。我が物顔で幼児用プールでものを投げたり、水面を叩いたりして周囲に大きな水しぶきを上げている。

  「おーい、君ら、ここは幼児用のプールや。もう少し静かにしなさい」

  子ども達は私の言葉で、再度大人用のプールへ移動した。そして相変わらず、周囲に迷惑をかけているようだ。監視のための男性もいるが、注意できないようだ。お客さんだからだろうか。

孫達とお好み焼き屋さんへ。妹の方は少し食べると眠ってしまった。姉の方は沢山食べて満足そうだった。

   また、幼児用の浅いプールと深いプールに別れてビーチバレーをしている母子もいた。時々強打するので幼児達に当たりそうになる。空気が読めないのだろう。しばらくすると、別の小中学生もビーチバレーを始めた。

   幼児用プールで、大の大人が幼児に迷惑をかけるなんて話にならない。子供が気付かずに他人に対して迷惑な行為をするならまだしも、大人となると情けない。大人がこれではきちんと子供を指導できないだろう。。

   こんなことで時々いらいらすることがある。でも、注意しないでいることの方がもっといらいらする。これからも、言葉を選びながら、注意したいものだ。

(日記 起床と共に、新聞を見ると、『中庄小三郎音頭』のことが書かれ、私の名前も載っていた。少しは役に立ったのだろうか。午前8時過ぎに自宅を出て、指のリハビリのため、福井のY整形外科へ行く。昼過ぎに帰宅。昼食後、孫達と市営プールへ泳ぎに行く。帰宅して、事務所や家庭菜園の周囲の草を取りに行く。汗びっしょりになった。家庭菜園の敵の一つは雑草だ。これからも雑草は生えてくるだろう。帰宅後シャワーをして外食。孫とお好み焼きを食べに行く。)