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Archive for the ‘未分類’ Category

情報発信

26 7月

受信と発信のバランス
 生きていくためには、いろんなバランスが必要だ。そして、昨今のような情報化社会では、「受信」と「発信」のバランスも必要だと思う。ちょうどコミュニケーションが双方向である(と私は思っている)ように、両者が必要だ。

  私の情報の「受信源」は、本・ネット・メール・新聞・テレビ、そして生身の人間などである。特に、テレビの場合、気に入った番組はDVDにして保存している。いつかどこかで何かの役に立つかもしれないと思うからだ。たぶん、使うことは少ないだろう。それでも、保存しておかないと気がすまないのだ。

  発信の方は、インターネットを使っている場合が多い。ホームページやブログが中心だ。しかし、発信においても、また「デジタル」と「アナログ」のバランスは必要だと思う。アナログでの発信と言えば、私にとっては「紙芝居」や直接話すことだろう。

  時間と能力があれば、本にしてみたいのだが、これは簡単ではない。しかし、自分勝手に原稿を書き、それらを製本するだけならできないことでもない。もしこれが叶うなら、私はいくつかのテーマで書いてみたいと思う。

  子ども達のために、『私は何を伝えたかったか』という題名で本を書いてみたい気がする。社会人になってから、いろんなところでいろんな原稿を書いてきた。その原稿をそのまま掲載するのだ。「私は○○をやってどんな成果を得られた」という自慢話ではない。

  人の自慢話など、我が子達でも読みたくないだろう。自分のそれぞれの年代に「何を伝えたかったのか」を当時の原稿を使って書き表してみるだけなのだ。結果や成果については、自分では判断すべきではないので、一切書かない。

  9月4日(火)には勝山市の『市民大学』で「想いは歌で伝えたい~自作の演歌・民謡でまちづくり~』というタイトルで話すことになっている。話をしながら、演歌や民謡や踊りを実演する予定でいる。歌を作るのにも、自分の思いがあったからだ。これも私にとっては、情報発信だと思っている。

 子ども達へ尾情報発信としては『じいちゃんの子ども時代』というタイトルで、昔、私達の年代が、遊び、働き、泣き笑いしたいろんな思い出を次の世代に伝えたいと思っている。自分で書き、印刷して、自分または印刷屋さんでで製本すればいいのだ。出版ではないので、数冊ならアナログ的に本にできるだろう。

  いずれにしても、「受信」と「発信」のバランスは必要であると私は思っている。このブログを通しても「発信」と「受信」が少しできているので、、私としては、脳の運動だと思ってこれからも、書き続けていきたい。

暑さにも負けずに元気に育つ竹プランターの中の花々。水のやり甲斐がある。

(日記  午前中、福井の済生会病院へ行き、CT検査と定期検診。数値的にはまあまあだった。午後は、『かたせ瓦版』の最終校正と印刷(コピー)。夕方市の広報誌などと共に班長に配った。昨日一日で作り上げた広報誌だ。これも区民への情報発信だ。受信として、区民の生活アンケートを実施するつもりでいる。)

 
 

温故知新

25 7月

時代の流れから読み解く
  今日は、終日『かたせ瓦版』づくり。今日は農業について、約百年前の村の先人が作った『片瀬誌』を見ながら、記事を書いた。この冊子は明治と大正の境目の時期に出版されたものだ。コン赤から、農業の部分だけを取り出し、読みやすいように対談形式にした。

  それを読んでいて、驚いたことがある。それは、百年前の農業の記事の中にも、参考になること、新しい見方のできることが含まれていたからだ。当時の農業と言えば、馬や牛で田んぼを耕したり、田んぼに堆肥を入れたり、化成肥料もあまりなくて使わなかった時代だ。

  そんな時代のことでも参考になることがあったのだ。先ずその一つは、有機肥料である堆肥や山草をあまり使わず、石灰を多用する者が出てきたことだ。これでは地力が落ちて、いずれは問題になる可能性があるので、特記して区民の熟考を促すというものだった。

  もう一つは、40数年前まで、当区の特産物であった「生姜」について書かれた部分だ。当時は、「水菜」と共に「生姜」は、勝山市や大野市はもちろんのこと、福井市までに知られた存在だったのだ。

  私の子供の頃は、まだ生姜は当区の特産物だった。その生姜を「切り干し」にして販売すべきであると書かれていたことだった。そしてこれを特産物発展策として大いに一考すべきだとも書かれていたことである。

去年の生姜。今年は『乾燥生姜』を作りたい。

 『NHKためしてガッテン』では、乾燥生姜は『ウルトラしょうが』として推奨している。生姜は現代人に多い低体温症の改善には最良の作物である。しかし、生の生姜は一時的に体温を上げても、後には体温を下げてしまうらしい。

  ところが、低体温の改善には『乾燥生姜』がよいとのことだ。この『乾燥生姜』を『ウルトラ生姜』と言って健康には最高によいらしい。私も生姜を作っているのだが、今年は是非とも『乾燥生姜(ウルトラしょうが)を作りたいと思っている。

  このように、今の農業にも通用することがいろいろ書かれているのだ。まさに『温故知新』である。『温故知新』とは、「昔のことをよく学び、そこから新しい知識や道理を得ること」、「過去の事柄を研究して、現在の事態に対処すること」とあるが、」まさにその通りだと思った。先人から学ぶことはどんな世界でも多い。

(日記 朝からずっと『かたせ瓦版』づくり。何を記事にするか、作りながら考えた。ずっと机(椅子)に座りっぱなしで腰が疲れた。毎週第2木曜日は、A4裏表1枚、第4木曜日は、A3裏表1枚(A4換算で4ページ)の瓦版を発行するつもりでいる。見やすい紙面を作るために苦労する。夜は、和太鼓の練習だが、メンバーは今はフラダンスに挑戦している。私達の『じいちゃんバンド』との共演を目指している。3月にハワイで買ったアロハとレイを使ってみたい。)

 
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ふるさとへ戻れない人

24 7月

原発の恐ろしさ
  福島県の浪江町から越前大仏の門前町に避難して来られたWさんの家族がこの25日に福島県へお帰りになるとのことだ。そこで、区と私個人のささやかな餞別をお渡しするために、今朝、滞在先を尋ねた。

  奥さんが出て来られた。しばらく玄関先でお話をさせていただいた。それによると、福島県へ戻ると言っても、、自宅は当分の間、立ち入り禁止なので、仮設住宅へ移るとのことだった。

  仮設住宅では、全く知らない人ばかりが暮らすことになるので、不安だとのことだった。当分は自宅へは帰れないので土地や住宅を買いたいそうだが、買うことのできる物件は全くないとのことだった。

  小さなお子さんもおられるのだが、そのお子さん達は子ども時代を仮設住宅で過ごさなければならない。狭い仮設受託で、どこの誰かもわからない人達と生活を始めなければならないそうだ。

  東京電力は、こうした人達の今後について真剣に考えているのだろうか。原発事故の詳細が明らかになるにつれて「まさか大きな災害が起こることはないだろう」と甘く見ていたことがはっきりしてきている。

  多くの方々が帰りたくても帰れない「ふるさと」、いつまで続くかわからない不安の中でこれから先、生活していかなければならないのだ。先の見通しのつかない中で、働き、子育てをしていかなければならない。

  そのストレスは、私達には想像もつかないだろう。Wさんの話を聞いていて、慰めの言葉も見つからなかった。こうした人達の気持を政治家や東電の関係者は理解しているのだろうか。また、改めて、私に何ができるのかを考えた。

  昨今の日本を見ていると、いつどこでどんな災害が発生するかわからない。今日安全だと思っていても、明日何が起こるかわからない。同時代を居合わせた私達は、他人事と思わないで被災地に対して自分には何ができるか、そして災害に対してどう備えたらいいのかを考えなければならない。

花が取り持つ縁で地域の人との会話が増えた。

(日記 午前中は、資料整理。ほぼ一日かかった。これまで探していて見つからなかったモノが見つかったりした。家内も衣装を整理していた。心を鬼にしなければモノは少なくならないことを実感した。第1次、第2次、第3次……と、断捨離を実行しなければすっきりした気持にはなれないだろう。午後は、「じいちゃんバンド」の編曲作業。同じ曲でも編曲次第では少しは聞けるものになるからだ。夕方、花に水をやっていたら村の高校1年生のK君が近づいてきた。しばらく、高校生活などについて話を聞かせてもらった。授業のこと、部活動のこと、数学のこと、将来の進路などについても聞かせてもらった。村の子と話をできるなんて幸せなことだ。これも、花が取り持つ縁かもしれない。花を植えたり、花に水をやったりしているなかで子ども達や村の人達との接点ができつつある。花のお陰だ。)

 
 

東北への道

23 7月

祭りと震災
   震災までは、「東北」と言えば私の中では、日本の原風景が残る「祭りの宝庫」というイメージがあり、いつかは全県を巡りたいと思っていた。ところが、大震災。観光することによって東北に貢献できるということもないではないが、私は、お年寄りや子ども達の役立つことはないかを考えてみた。

  高齢者の皆さんに対しては、話を聞かせていただくことを目指している。何かをしてあげるではなく、一緒に考えさせていただいたり、聞かせていただくことができればと思っている。しかし、簡単なことではない。

  子ども達に対しては、話すきっかけとして「自作の紙芝居」を披露できればと思っている。後は、子ども達と一緒に何かを作ってみたい。子ども達の持ち味を引き出すことができればと思っている。本職の数学を活用できればと思っているし、創作活動を一緒にできればとも思う。

   一緒にできる何かを身につけて、東北へ出かけたい。今は、観光は2番目になった。ここ1、2年のいちに、実現できればと思っている。この旅は、相手のためになることを目指すのではなく、自分を活かしてもらうために出かける旅かもしれない。

   そんなことを思いながら、絵を描き貯めている。実現するかどうかはわからないが、東北への道を一歩ずつ歩みたいと思っている。今の私の生き甲斐の一つである。祭りを巡る旅はその次でいいと思っている。

(日記 午前6時より、家内と二人で「にんにく」と「タマネギ」を収穫した後の畑の草取り。すでに村の二人の人が作業をしていた。「涼しいうちに仕事をしたい」ということで午前6時前から作業をしているのだ。この畑には8月末に「秋じゃがいも」を植えるつもりでいる。それまでの間は草取りをしておかなければならない。帰宅してから、朝食。その後、夕方まで部屋の資料整理。今日も、捨てるか捨てないかで悩む。午前7時半より、オカリナ練習。丸岡から新しいメンバーが加わった。夏祭りの練習をした。オカリナを何とか譜面通りに吹ける段階から、きれいな音で吹ける段階へ、そして表現豊かに吹ける段階へと先は果てしない。楽しみながらみんなで練習していきたい。)

 
 

“貯筋”しなければ

22 7月

残高ゼロ
  最近、足腰や腕の筋力が落ちたなあと思う。30歳代、40歳代には腕力はあった方だと思っている。ベンチプレスでは高校生には負けなかったと思うし、ハンドボール投げでも、野球部以外の者には負けなかったと思っている。

  しかし、最近は、自分でも腕力がなくなったと実感するようになった。腕の力を使うのは、年に10回程度だ。法人の農作業でモノを運ぶときぐらいだろう。後は軽作業かパソコンがほとんどだ。

  このままでは将来きっと苦労することだろう。最近危機感を持っている。キン肉マンにはなれないが、とっさの時に踏ん張ったり、力を入れたりできるだけの筋力なければならないだろう。放っておけば衰えてしまう年齢だ。

  ラジオ体操や簡単な屈伸運動などをやってはいるが、これでは足りないような気がする。動ける今のうちに、筋力を貯えておかなければならない。お金と同じように『貯筋』が必要だ。しかし、筋力は短期間ではつくものではない。

力比べのこの余興も後輩に譲る日が近いかも……。

  そんなことから、ウオーキングや腕力を鍛える運動を復活しなければならないと思うようになった。昨年頃までは痩せたい、痩せたいと思っていたが、いざ痩せてみるとやっぱりほどほどに太っていた方がよいと思うようになった。

  若い頃はスポーツをする機会が多かったが、少しずつ選手として地域からも呼ばれなくなり、運動の機会は激減した。それでも、十数年は筋力が持ったように思う。しかし、今はその筋力を使い果たしてしまったように思う。貯金残高は0に近いだろう。

 今日からいつもの運動に加えてウオーキングを加えると決めた。三日坊主にならないようにしたい。雨の日も居間にウオーキングマシーンが置いてあるので歩くことはできる。問題は、持続しようとする意欲だ。手遅れにならないように、少しずつ“貯筋”していきたい。

(日記 終日、断捨離実行。といっても、思うようには進まなかった。まだまだ心を鬼にしなければならない。ここしばらく、やりたいことをストップしてモノの整理をしている。しかしまだまだモノが溢れている。夕食後、家内と二人で散歩をかねて、法人から畝を借りて栽培しているショウガや里芋の出来具合を見て来た。まあまあ順調という所だろうか。法人から借りて栽培していたニンニくとタマネギを収穫した後に、八月になったらジャガイモを植えるつもりで放置しておいたが、かなり草が生えていた。明日は早朝から草取りをしなければならない。一日室内にいたので、散歩は気持ちがよかった。)

 
 

バランス

21 7月

「プラスのバランス」と「マイナスのバランス」
 マイナスのバランス
 
「バランス」というと、「プラスのバランス」と「マイナスのバランス」を考えてしまいます。昨今の「いじめの問題」ですが、いじめる側の人間は、「自分の弱さ(惨めさ)など」と「弱者に対する攻撃(いじめなど)」でバランスをとっている場合があると思っています。

  親から虐待を受けたり、著しく経済的に恵まれていないなど家庭に問題がある場合、または、自分に自信を持つこと、納得できるものを持っていない場合に、その対抗処置として「弱者へのいじめ」によってバランスをとる場合もあると感じています。 

  往々にしてこの場合には、本人が自覚していない場合が多いのものです。無意識のうちに、いじめてしまう場合が少なくないのです。時には、「ねたみ」などがいじめにつながる場合もあるのではないかと考えています。

  クラスで学業もスポーツも優れた者がいて、自分はそうではない場合、自分も何かで頑張ろうと思えばいいのですが、それができない場合には、相手に対して攻撃的に出る場合があります。

  学校でのいじめの解決のためには、全ての児童・生徒に対して、いじめはよくないこと、時には犯罪になることを十分認識させることは必要ですが、それと同時に、全ての児童・生徒の生い立ちや家庭環境、学校における居場所や人間関係、種々の能力や性格など様々な部分に気を配らなければならないと考えています。

  それは、人は思わぬところで無意識にバランスをとろうとするからだと私は考えています。全ての人間がそうだというのではありませんが、一部の子どもの中には自分の弱点をカバーしようとして他者に対して攻撃的に出ることがあるからです。

  また、攻撃を受けても(いじめられても)、受け流せる子どもと重く受け止める子どもがいて、第三者がいじめであるかどうかを判断することが困難な場合が少なくありません。今回の大津の事件でも、関係者が「いじめはなかった」とか「いじめを認識していなかった」というのはそのためかもしれません。

  但し、今回の事件では、.アンケートを実施していますが、その中のいくつかの文言から「いじめがあったことを関知できない」ような感度の鈍さでは、今後もいじめを認識できないのではないかと心配になります。いじめはあるものだと考え、いじめの予兆をしっかり捉えるべきでしょう。

 私自身も今で言う「いじめ」を受けたことはあり、不愉快に思ったことは少なくありませんが、それが不登校につながることはありませんでした。それは自己満足できる部分を少しは持っていたからではなかったのかと考えています。

  自分の昔の自慢話をする人がいますが、これも無意識のバランスかもしれません。本人は無意識にバランスをとっているつもりでしょうが、これを何度も聞かされる者には、これほど無駄な時間がありません。こうならないように気をつけたいものです。人間とは難しい存在ですね。

プラスのバランス
  幅広く、心豊かな人間に成長するためには、バランスのとれた人間になることが必要ではないでしょうか。人間は一芸に秀でていることは大切ですが、バランスのとれた成長も大切ではないかと考えています。

  理科系の人間にも文科系の力が必要であると考えていますし、スポーツのできる人間も、文化的なことにも興味を持ってもらいたいと思います。デジタル時代ですが、アナログ的な部分も忘れてはいけないと考えています。

  自分自身や自己の所属する団体の利益を考えて行動することも大切ですが、他者のことも考えられる人間になってほしいものです。最近の政治の世界を見ていると、このバランスが欠けているように感じているのは私だけでしょうか。

  教師は教える立場と子どもの立場に立って指導しなければならないのではないでしょうか。結果を急ぎすぎると教える立場の力が強くなりすぎてしまいます。短期的な成果は出るでしょうが、社会へ出たときにも身についている力になっているかどうかは怪しいものです。

  多少テストの成績が劣っていても常に自らの頭で考えることを学んだ生徒と、ペーパーテストの成績がよくなるように答えの出し方(能率的な解法)を学んだ生徒とでは、社会へ出たときには大きな差が出るのではないでしょうか。

  理論と実践のバランス、男女のバランス、自国の発展と他国の発展、世の中にはいろんなバランスが考えられます。私達は、より平和的に、より前向きに生きるためにもこのバランスを大切にしたいものです。

(日記 最初に、区の各種団体合同委員会の案内を書き、各種団体長に配って歩いた。その後、雨が降っているので部屋の片付け始めたが、途中からCDの整理になってしまった。捨ててもいいようなCDがたくさんあったが、わずかしか捨てられなかった。終日整理をしたが、部屋はほとんど変化はなかった。心を鬼にして捨てないと、モノを少なくできない。私のような「もったいない」型の人間には、捨てることは精神的に非常に疲れる。明日も作業を継続だ。夜は四十数年前に作った曲の編曲作業を行った。 ) 

 
 

『断捨離』と“もったいない”

20 7月

捨てられない世代
  悲しいかな、私は“モノを捨てられない世代”の人間だ。どんなモノを見ても、「いつか何かで間に合うのではないか」と思ってしまう。そこで捨てないで保存することになる。しかし、いざ使うとなると、それらが即座に出てこない場合がほとんどだ。

  図書館に走るかネットで調べれば出てくるものも多い。例えば、音楽関係の楽譜だ。「いつどこでどんな曲の楽譜が必要になるかわからない」と思う気持ちがあるので、なかなか捨てられない。演歌から、外国の曲、民謡、童謡・唱歌までいろんな本を保存することになる。

  バンドをするかもしれないと思うので、バンドの楽譜も捨てられない。ざっと本箱を覗くと『ビートルズ』、『サザンオールスターズ』、外国の『○○年代ヒットパレード』などがたくさんのバンド関係の楽譜(本)がある。ギターやピアノの他、サックスやフルート、オカリナなどの本も多数。

  滅多に使わないんだから、捨ててしまえばいいのに、捨てられない。じいちゃんバンドをやろうとすると、時々これらが役立つからだ。これに、パソコン関係のマニュアル……、これは使わないうちにバージョンが上がってしまって新しいのを買い換えなければならない。

  どうすればいいのだろうか。結論は出ない。はっきりしているのは、捨てられないモノに囲まれているとストレスがたまるということだ。上手く整理ができればいいのだが、次から次へといろんなことをやろうとするので、きちんと整理する時間をとることができない。

  片付ける時間があったら、他のことをやるという今までのやり方を改めなければならない。実は、パソコンの中も、同様にいろんなファイルを捨てられないでいる。いつかどこかで間に合うのではないかと思うからだ。

紙芝居に登場する歴史上の人物。いつでも呼び出すことができる。一度描いた絵は何度でも使えるようにパソコン内に保存してある。

  外から見えないだけに、よほど上手く整理しておかないと、情報はどんどん増えるばかりだ。一度時間を取って、検索しやすいように整理しなければ、使いたいときに使えない。これもストレスのかかることの一つだ。

  全部捨てて何にも無い部屋にあこがれる。何にもしないならそれでもいいだろうが、あれこれ使用という気持があるので、捨てられない。
私の中には、『断捨離』と“もったいない”が常に闘っている。

(日記 赤尾地区のFさんから頼まれた銭太鼓の曲の作曲作業。近々CDを作るまで進めなければならない。午前中いっぱいかかったが、詞と曲が噛み合っていなかったので、詞を書いたFさんに少し書き直してもらわなければならない。久々の雨だ。パソコンのファイル整理。結構時間がかかる。)

 
 

“人間とは自己の存在を認められたい生き物”

19 7月

自然体か無理をするか
  長い間、子ども達の様々な姿、直接接した多くの大人、テレビなどで見た大人の姿、……、様々な人達の姿を見てきて、私が思うことは、“人間は自己の存在を誰かに認めてもらいたい生き物”だと確信するにいたった。

  そのために、他から見ていると、奇異な行動に映ることでも本人は真剣である場合が多かった。自分の存在を他に認めさせるために、まっとうな行動をとる場合は、時には素晴らしい行動として賞賛される事も少なくない。

  負け続けたアスリートが、一念発起して過酷なトレーニングに耐え、成果をおさめるということはよくある話で見習う点も多かろう。自分の存在をアピールすることは人が生きる馬力になることもある。しかし、度を過ぎると見苦しい。

 ところが、自分に他と勝負できるもの(特技、趣味、アイディア、包容力など)を持たない者が自分の存在を認めさせるとなると話は簡単ではない。どこかに無理が入ってしまう。そうなると、どこかで破綻してしまったり、信頼を失ってしまう時もある。

  かつて、学業でもスポーツでも文化的なことでも、何にも自己の存在を他に認めさせる者を持たない(と本人が思っている)子どもがいた。彼は、家の金を持ち出したり、時には他人の金を盗んだりして、金を手に入れていた。しかし、彼はそうして得た金を自分の飲食や遊びには使わなかった。

  そのお金で、毎日菓子や飲み物を購入して、友達に配ったのだ。彼が金を持っている限り、周りには仲間が集まり、その時間帯だけは彼が主人公になり得たのだ。そのポジションを維持するためには、彼は金を集め続けなければならなかった。

  別の話。親に対して「いっぱい働いてたくさんゲームを買って下さい。」と親への手紙に書いた子どもがいた。普段彼にはほとんど友達がいない。しかし、新しいゲームを買ったときだけは、彼の周りに友達が集まってくるのだ。

  しかし、ゲームに飽きると友達は彼の周りには集まらなくなるのだ。そこでまた、新しいゲームを買わなければならない。こうして、ようやく彼は仲間と遊ぶことができるというわけだ。いずれの例も実話であるが、子どもの世界では、いつまでもこのような話が通用するわけがない。どこかで行き詰まってしまうのだ。

  上記2例は子どもの話だが、大人の世界にこのような例はないだろうか。テレビで連日報道される政界の離党問題にも同じ要素がないとは言えない。常に金が必要であるという点では、構造は全く同じでではかろうか。常に政治には金がつきまとう。

  自然体で行動し、それを第三者が認めるというのであればそれはそれでいい。しかし、自分の存在を他に認めさせるために、無理な行動をとれば、当座はよくてもいつかは信頼を失うであろう。私もこうした気持がなかったと言えば嘘になる。

  しかし、今はそうした気持も薄らいできている。自分の存在を他人に無理に認めさせる必要もない。自分に納得のいく行動をすればそれでいい。今を生きていればそれでいいのだ。過去にしがみつくのは見苦しい。

  大人子どもの区別なく、意識する、しないの区別もなく、“人は自分の存在を周囲の者に認めてもらいたいと思うやっかいな生き物”だ。評価は第三者がするもの。自分の信ずる道を自然体で進みたいものだ。これって年をとったからか。

私の栽培している片瀬特産の里芋とショウガ。最後まで順調に育ってほしい。

(日記 午前中は、補助金申請など事務的な処理。その他自分の持っている各種資料の整理。午後2時半から、南小学校の『見守り隊感謝の集い』に出席した。見守り隊の皆さんにお世話になっていると言いことで学校側が開催したものだ。帰宅してから、家庭菜園へ行き、その後、里芋の余分な茎を切り、ショウガの畝の雑草を取り除いた。片瀬特産の里芋とショウガがうまくいくだろうか。夜は、例によってゲートボールの練習。最終ゲームは全くうまくいかなかった。年齢に関係なく上手な人はいるもんだ。今日も一日暑かった。)

いつも竹プランターにいる雨蛙君。朝夕水やりをするので居心地がいいのだろうか。

 
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「いじめはありません」!?

18 7月

人のいるところには“いじめ”あり
  「私の学校にはいじめはありません」という学校関係者がいますが、それは私には「原発は安全です」と言ってるのと同じに聞こえる。そういうことを言う人の言動は全く信用できません。

  今回の大津市の事件では、アンケートに出てきた言葉だけでを聞いても「ただことではない」と学校関係者は思うべきです。アンケートにあれほど様々な意見があったのにもかかわらず、いじめはなかったと断言する教育長の言動も真剣みにかけています。

  従って、マスコミに責められる度に「市長も教育長も学校関係者」も意見を変えています。悲しいことですね。文科省も、他人を責める立場にはありませんね。なぜなら、原発事故が起こった際に様々な事実の隠蔽に力を貸してきたのですから。

 そして、今また、今後の原発のあり方について国民に意見を求める公聴会で、電力会社の関係者が原発推進の意見を述べたり、「放射能で死んだ人は一人もいない」などと脳天気な言動を吐いているのは情けないですね。

  どちらも、自分に都合のよい発言しかしないという点では共通しています。当時の政府も電力会社の幹部も同じような思考回路ですね。ブログを書いている今、『ゼロ』のニュースで教育長が「家庭にも問題がある」というような発言をしています。この期に及んで何を言おうというのだろうか。

  即刻辞めた方がよいだろう。「値上げは権利だという東電の社長」と同じような“KYな人達”だ。結局、彼らは。自分や組織を守ろうとしていちばんかんじんな「信頼を失う」ことになるのだ。それが気がつかないのだろう。

  いじめに話を戻せば,学校にはいじめは存在するのだ。いじめによってしかバランスのとれない者が、子どもにも大人にもいるのだ。それをいじめはなかったと言い張る教職員の神経が理解できない。

大学の軽音楽部のOBで組織した「じいちゃんバンド」のメンバー。もちろん私が最年長だ。みんな音楽が大好きだ。

(日記 午前中は、バンド練習用のCDづくりのために家内にハワイアンソングを吹き込んでもらった。これを使ってバンドのメンバーもフラダンスのメンバーも自主練習ができるのだ。午後2時から、じいちゃんバンドの練習。福井、春江、三国、石川県からメンバーが集まってきた。私のスタジオで午後7時まで練習をした。楽しい時間を持つことができた。午後7時半過ぎから村のゲートボール練習に参加。第1ゲートがなかなか通らなかった。結構忙しい一日だった。)

 
 

最初に価値あり

17 7月

二番煎じでは情けない
  世の中アイディア勝負の時代だ。しかし、アイディアの世界では、最初に考えたものに一番価値があるように思う。近隣(近県)のアイディアを真似ても価値は半減どころか、ほとんどないであろう。

  考えることは無限にあるのだ。しかし、それを考え出そうとするかどうかが問題だ。あまりにも、“指示待ち”で生活していると、考えることなしに毎日を送ることができる。しかし、それでは、進歩はないであろう。

  かといって、どこかのまちのアイディアを真似ても本家以上にはなりにくい。仕組みや組織は真似ても、アイディアは自分たちで考えなければならない。考えて実践し、実践しながら考える事を続けていけば、いつかオリジナリティーの溢れるものになるのではなかろうか。

勝山ニューホテルのロビーで、『住みよいまちづくり(住教育)』について話し合う5人。(左から県職員二人、私、勝山市の建築士会の二人)

  今日、午前11時よりニューホテルのロビーで、県の土木部の二人の職員と、市の建築士会のMさんと、同会員でまちづくりに長年取り組んでいる I さんと私の五人で「住みよいまちづくり(住教育)」について話し合った。

  「住みよいまちづくり」と言うとソフト的な面とハード的な面があろう。住民の意見をいかに汲み上げ、それらを吟味しながらどのようにして実現していくのかということが問題だし、ハード的な面では、何か作ったものを区民の誇りや自信にどうつなげていくかが問題だ。

  そこで、問題は「何をするか」だ。取り組み甲斐のあること、少しでも多くの人が取り組めることを考えなければならない。そして、それらは、独創的であることが望まれる。時間がかかっても、少しずつ賛同する者が増えていくことが望ましい。

  5人でいろんなことを考えた。建築士会の会長さんが勝山で製材所を経営しておられるので、大きな木材を製材した際に出てくるコア(柱や板をとった残りの部分。木の表面部分が含まれてる。)を活用して何かができないかということだ。

  私も、コアを使ったプランターづくりを考えている。材料はそろっている。村の大工さんの協力も得ている。夏休みに子ども達の工作として木製のプランターづくりを企画している。

  コアの活用はまだまだいろいろあるだろうと思う。絵を描いたり、字を書いたり、彫刻したりして、活用できないかということだ。廃物にするのではなく、木の命を最後まで活かしきりたい。そして、それが地域の人に夢や勇気を与えることにつながれば最高である。

  5人であれこれ考えながら、最終的には試作品を作ろうということを約束して、解散した。楽しみながら、何ができるかを考えてみたい。雪囲いぐらいにしか役立たなかった、コアに新たな命を吹き込むことによって、森林の多い勝山をアピールすることができ、まちづくりにつながればと思う。

親を呼んでいるのかピーピーと鳴き続けていた。竹の先端に置いて親の助けを待ったが、駄目だった。そこで、屋根瓦の上に置いたらさっと親と思しき雀が飛んで来た。次の瞬間二羽は飛び去っていった。

(日記 午前中、ハワイアンソングの練習用CDづくり。午前11時より勝山ニューホテルで『住みよいまちづくり(住教育)』について話し合う。楽しい時間であった。昼過ぎにいったん別れた。午後2時半に再び県職員の二人がやって来た。そこで、奥越森林組合勝山工場へ出向き、製材した杉の端材であるコアを手に入れた。これで、絵か文字か彫刻を彫ってくることをお互いの課題とした。帰宅すると、家内が小雀を持ってどうすればよいかと思案していた。巣から落下して路上にいたらしい。自然保護センターに問い合わせると「落下した辺りに置いて下さい。親が助けにくるかもしれません。」とのことだった。竹の先端に置いたが、親が助けに来るような気配がしなかった。付近には親と見られる雀が鳴いていたので、小雀を屋根の瓦の上に置いた。ところが、間髪入れずに親と思われる雀が飛んできた。そして二羽は飛び去って行った。親が助けたのだろうか、そう信じたい。ほっとした。)

 
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