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「ある」と「ない」

07 11月

どちらがよいか
  「ある」と「ない」ではどちらがよいかを簡単に決めることができない。例えば、金を考えてみると、「そりゃぁある方がいい」という答えが多いかもしれない。

  古典落語の『芝浜』の主人公の魚屋に金があった方がよかったのかなぁ。

・・・・・・・・・・・・・・・インターネットより『芝浜』のストーリー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  

 毎日飲んだくれて仕事に行かない魚屋に女房が小言をたれる。明日から商いに出るから今夜を最後にたらふく飲ませろと、飲んだ翌朝、女房に起こされて、渋々商いに出かけた。

 芝浜で日の出を眺めて一息付いていると皮袋の財布を見つけた、覗くと大金が入っている。慌てて家に戻り数えてみると四十二両、こんだけの金がありゃ稼ぐことぁねえ、酒だ酒だと飲み明かす。

  翌朝目を覚ますと、女房が商いに行けとせっつく。あの金はどうした? と聞くがそんな物は知らない。納得出来ないが、夢でも見たかと心を入れ替えて真面目に働き、三年後には店を構え、使用人を雇うまでになった。

 年も暮れて一息ついて女房が語りかけた。三年前の財布は夢じゃなかったんだ、あたしが隠しておいた。ここまでりっぱになったのはあんたの稼ぎのおかげ、もう大丈夫、さあ一杯おやりよ。 「いやよそう、また夢になるといけねえ」

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   金がありすぎて、道を踏み外した芸能人の子息は少なくない。某社の御曹司もギャンブルに大金を使い、とうとう犯罪者になってしまった。一般論だが、金がないために、汗水垂らして働いた者の方が金のありがたみもよく分かり、大切に金を使うように思う。

  また、「悪銭身につかず」と言うこともある。簡単に稼いだ金は安易に使いやすいものだ。「ある」と「ない」のどちらがよいかの答えは簡単には出ない。

  これは、何もお金ばかりの問題ではない。「もしも、世の中にテレビがなかったら~」、「もしも世の中にゲームがなかったら~」、「もしも世の中に自動車がなかったら~」(私たちの子ども時代にはこれらはなかった)私たちの生活はどうなっていただろうか。

  携帯電話は、どんどん進化して、今や人間から考える機会を奪いつつあるし、自ら調べる機会を奪いつつある。知識で世の中が動くだろうか。世の中を豊かにするために、知識は必要条件ではあっても、十分条件ではない。

 今は、文明の発達が子どもたちからいろんな「モノ」を奪っているように思えてならない。スマートフォンの新型が発売されると前日から行列を作って並ぶ人がいる。テレビがそうして新型の機器を手に入れた人にインタビューしている。

  それによると、「早く家へ帰って、使ってみたい。遊びたい。」との答えがよく返ってくる。そんなとき、うらやましくも何ともない。問題は何に使うかだ。安易に手に入れたモノは、おそらくその「ありがたみ」が分からないだろう。

 「どんどん、大人も子どももおもちゃを手にして生きていくんだなあ」と少し寂しくなる。大宅壮一さんがテレビの出現に対して「一億総白痴化」と言ったことがある。

  これは、「テレビいうメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いの言葉だそうだ。

  私は、テレビにより白痴化するというばかりでなく、これらに多くの時間を割かれて“体験したり、想像(創造)したり、考えたりする時間が奪われてしまう”ことの方が心配だ。

  スマートフォンなどについても同様だ。生活の中での少ない自由時間がこれらを扱うことによってどんどん奪われていくことの 方が心配だ。「おもちゃ(を持った)人間」がどんどん増殖するのが怖い。

 「ある」と「ない」はどちらも大切だが、子どもたちにとっては、「ある」ことによる創造力や思考力の低下、体験の不足等の方が心配だ。子どもたちには、降り積もった真っ白な雪道に自分の足跡をつけていくように、自らの力で道なき道を歩んでほしいと思う。

 『雪の朝 二の字二の字の 下駄の跡』(田捨女)・・・関係ないか(苦笑)。

 何事も、自分でやるような子どもに育ってほしい。他人の作ったもので楽しむ人間にはなってほしくない。大人は、子どもの考える機会を奪う「考え泥棒」にならないようにしたいものだ。

    特に、教員はこの傾向強し。児童・生徒に質問しておいて、子どもが考えている最中に、突然懇切丁寧な説明(解答)をすることだ。解答を暗記して正解を出しても、本当の学力は身につかない。注意!注意!

  余談ながら、朝テレビを見ながら、仕事をしていたら、某コメンテーターが田中文科相の発言のあやふやさに「自分で考えて書いた答弁書ではない(官僚の書いた作文)ので肝心なことを言い忘れる。紆余曲折を経ながら自分で考えた答弁なら肝心なことは忘れない。」と。納得。何度も何度も訂正していた。

(日記 午前9時過ぎより、午後3時半までもっぱら広報誌『かたせ瓦版』作成。雨が降っているのでのんびり作業ができる。編集は昨日の夜から始めた。今回はA4で2ページなので発刊日より一日早くできあがった。そのうち1ページは組写真だ。しかし、写真ばかりとは言え、少しでも多くの写真を入れようとすると、記事を書くよりも遙かに時間がかかる。)

10月に行われたOB演奏会の写真。ハワイアンバンドの写真は1枚も撮れなかったが、今日先輩からメールで送られてきた。音楽も、腕は落ちても自分でやるのが一番だ。

  

 
 

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