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Archive for 10月, 2012

町民運動会

21 10月

区民の総力で
  今日は猪野瀬地区町民運動会。朝9時に役員は集会所前へ集合。テント三張りを軽トラに積み込んで運動会の会場となる南部中学校グラウンドへ行く。役員がテントを立て、ブルーシートを敷き、その上にさらにゴザを敷いて区民の観覧席を作った。

我が地区のテント。

  午前九時に開会式。そして競技開始。3名の体育委員は、事前にお菓子やお茶、子どもの袋詰め菓子などを準備し、今日は選手繰り出し係。3人のおかげでどの競技にもうまく選手を出すことができた。

  近年、我が地区の総合成績は低迷している。とにかく、今日は下位からの脱出を目標としたが、順位は昨年とは変わらなかった。以前には優勝の常連であったわが地区の低迷ぶりは少し悲しい。

  それは、運動会が多少地区のまとまりに関係しているからだ。ちょうど「祭りの活気は地域の活気」と言われるように、地区の元気のなさを多少なりとも反映しているからだ。

  それでも、終日、テントの中で区民が楽しく一日を過ごせたことは運動会の大きな成果だ。多くの人が、普段は話すことできない人たちと、十分に時間を取って話すことができたのではないか。

対戦中の我が地区の綱引き選手達。

  私もいろんな人たちと話すことができてよかった。今後の課題は、区民の誰もが、運動だけではなく、自分の住む地区に関心を持ってくれることだ。これは簡単そうで難しい。

  区の存在が区民の日常生活につながりを持っているように感じられないからだろう。しかし、区民の誰かが、集会所の掃除をし、公園をきれいにし、運動会にはテントを準備し、山道の草刈りを行い、防災のための組織を作り、祭りの準備をし、地区の先祖を供養を行っているのだ。

  何か事故が起こったり、災害が発生すれば、区民が協力しなければどうにもならないだろう。何もない平和なときには、区への関心も薄らぐのだろうか。やはり、こうした状況を少しでも改善するには、区民が日頃から言葉を交わすことから始めなければならないのではなかろうか。

  総合優勝や綱引き、総力リレーなどの種目別の上位入賞もならなかった。これには少し寂しい気がした。というのは、子どもた

運動会の反省会。いろんな話題で盛り上がった。(於:片瀬集会所)

ちに申し訳ないと思ったからだ。子どもたちに、「僕らの地区は何をしてもダメなんだ」とは思われたくない。

  3時半過ぎから、5時半頃まで区の集会所で反省会が行われた。来年は、今年より少し進歩すればと思う。私の仕事は、区民の皆さんに区への関心を持っていただくことから、何事も始めなければと思う。先ずは大人の私たちから始めなければならないだろう。

(日記 午前7時から運動会の準備。午後3時半過ぎから反省会。午後6時から、いつもCD吹き込みでお世話になっている旭義明氏の『27周年リサイタル』の反省会に出席。旭氏のおかげで自作の歌を作る元気をいただいている。感謝すべきは私の方だが、今日は反省会にお招きくださった。盛会だった。歌を歌う方はもちろんのこと、三味線、尺八、日本舞踊など様々な分野の人たちが集まり、とても賑やかであった。私もいろんな人と話す

大野市で行われた旭義明歌謡教室の『27周年記念リサイタル』の打ち上げ会。非常に盛り上がった。

ことができてとても楽しかった。今日は長い一日でもあった。)

 
 

音楽に縁のある一日

20 10月

慌ただしい一日
  今日はかなりスケジュールが立て込んでいる。朝一に家内とリハーサル。先ず朝一の出番は子育てマイスターとして、「子育て支援センター」で手遊び、紙芝居(幼児用と保護者用)や子育てに関する話しをする日だ。

  午前10時からは、『じいちゃんバンド』の最後の練習日だ。事務所の鍵を開けて、その足で子育て支援センターへ出向いた。午前10時半から「子育てマイスター」としての活動の本番。

子育て支援センターでの手遊び歌の実演。家内が歌で私は伴奏。

  先日、保護者の詩を編集して子育て支援センターの歌を作ったので、先ずその歌『カン・カン・カンガル』から始めた。私はアコーディオンで伴奏。家内が歌ってくれた。このアコーディオンは、退職グッズの一つとして買ったもの。

  大きな可能性を持っている幼児の健やかな成長を祈りながら、保育がらみの紙芝居『ことばのちから』を演じた。でも子育て支援センターでの活動は本当に難しい。

  なぜなら、幼児がいて保育園児がいて、その保護者がいるのだ。どこかへ焦点を合わせても、誰かには焦点が合わないのだ。例えば、全員小学校一年生とか、幼稚園児であるとか、保護者のみの集いの場合には、対象がはっきりしているの何を演じればよいか、何を話せばよいのかがはっきりする。

 約一時間で、私たちのプログラムは終わった。その後、私は事務所へ出向き、バンドの練習。12時を回っていたが、私がドラムを叩く『ウオーターメロンマン』のみを練習して、全員ソバ屋で昼食。

私たちが得意とする創作紙芝居。子どもたちが夢中になってくれたのがうれしい。

  午後も、バンド練習。午後6時頃まで練習した。音響には苦労した。自分の望む音色で大きな音を出すのはとても難しい。何度も練習しているうちに、バンドとしてうまくいく曲とうまくいかない曲がはっきりしてきた。

  今日で静岡での演奏会の全体練習は終わりだ。全員に、練習用のCDを渡してあるので、楽譜を見ながら自主練習してもらうしかない。とにかく、去年からの一年間があっという間に過ぎた。

  午後6時過ぎギターを持って大野市へ向かった。明日は、私がいつもお世話になっている歌謡教室主宰の旭義明さんのコンサートだ。旭さんに頼まれて私の作った1曲だけギターで伴奏することになっている。

  そのリハーサルが大野市の文化会館で行われているのだ。早速ステージで小型のアンプを設置し、ギターを演奏し、旭さんの伴奏を務めた。3回繰り返してリハーサルは終わった。長い一日だったが、楽しく充実した一日でもあった。

『じいちゃんバンド』の最後の全体練習。来週の土曜日は静岡のホテルで大学軽音楽部のOB会演奏会だ。

(日記 午前10時より「じいちゃんバンド」の練習。しかし、私は子育て支援センターで「子育てマイスター」として保育講話や紙芝居や手遊びなどを妻と一緒に実演する日だ。終了後、私の事務所で午後6時頃までバンド練習。午後6時半頃、大野市の文化会館へ向かった。明日、歌謡教室主宰の旭さんのコンサートにギターで伴奏するよう頼まれたので今日はそのリハーサル。3回繰り返して終わった。帰宅してからギターの練習。)

 
 

『母に捧げる歌』

19 10月

舞台でギター伴奏
  私はいろいろ演歌や民謡を作ってきたが、CD化に当たっては80%、民謡は100%、歌謡教室主宰の旭義明さんに吹き込みをお願いしてきた。まさに、旭さんは私の歌作りのよきパートナーであり、恩人だ。

  その旭さんの『歌謡コンサート』が次の日曜日に行われるのだ。ありがたいことに、私の作詞、作曲した曲を2曲も歌って下さるのだ。一つはフォーク演歌『母に捧げる歌』でもう1曲は歌謡浪曲『龍馬』だ。

  前者は私の亡き母に捧げる歌で、母の三十三回忌に合わせて作った歌でもある。早く夫(私の父)をなくした母親の生き様を見ていると申し訳ないと思うと同時に、「母は何のために生きてきたのだろうか」と考えてしまう。私の自伝的な歌でもある。

 http://song.inakamon.net/s_haha.html ←フォーク演歌『母に捧げる歌』が聴けます。

 後者は、リーダー待望論の歌だ。今の世相を見ていると、誰か真のリーダーが生まれないのかと思ってしまう。今の時代にもピッタリするが、この歌を作ったのは実は10年ほど前のことだ。「出でよ!平成のリーダー!(「出でよ平成の龍馬!)」と言う意味を込めて歌謡浪曲に発挑戦したものだ。

http://song.inakamon.net/s_ryouma_kayouroukyoku.html ←歌謡浪曲『龍馬』が聞けます。

  この2曲を旭さんが歌って下さるということだ。誠にありがたい。特に『母に捧げる歌』については、旭さんから「ギターで伴奏してほしい」と頼まれている。ギター一本では盛り上がりに欠けるだろうと考え、チェロとフォークギターなどを使ったカラオケを作った。

  もちろんギターは舞台上で生演奏するので、カラオケには入れてはいない。果たしてうまくいくかどうか分からないが、いつもお世話になっている旭さんのために、少しでもよい歌伴奏にしたいと思っている。

 

里芋収穫中。収穫した里芋が夜の食卓に上った。おいしかった。

 演奏もさることながら、お世話になった母親に孫(私の子ども)の顔を見せることもなく、別れてしまったことが悲しい。申し訳ないという気持ちでいっぱいだ。懺悔の気持ちで作ったのがこの歌だ。

  この歌が、いろんな人に愛されているのがうれしい。素人の私が作った歌ではあるが、これからもこの歌を演奏したりして歌い継いでいきたいし、いろんな人に歌い継いでいってもらいたいと思う。

  私の一日は、毎朝、仏間にかかる父母の写真に挨拶して始めるのだ。母に感謝すると同時に、恥ずかしくない生き方をしなければと思う。「親孝行 したいときには 親はなし」……誠に悲しい。

(日記 午前中、歌謡教室を主宰する旭さんの演奏会のために『母に捧げる歌』の演奏会用伴奏をCD化した。本番では、このCDに生のギター演奏を加えて旭さんの伴奏をするつもりだ。午後3時頃から里芋の収穫作業。お寺へ供出するため

実りの秋の写真ではありません。一度刈り取った稲の株から生長した稲が再び実ったものです。これを収穫できたらいいですね。

に家内と二人で里芋掘りをした。その後、家内と二人で、来年の里芋と生姜を植える場所に黒マルチをかけた。帰宅後、新米の精米にホームセンターへ出かけた。それにしても里芋はおいしい。)

 

 
 

男の料理教室

18 10月

家内にすすめられて
  午前9時より、福祉健康センター『すこやか』で、勝山市食生活改善推進印協議会主催の『男性料理教室』が開催された。メタボ予防が主なテーマであるようだ。

  最初に、「メタボ予防」について、食生活改善員が資料をそれぞれを説明して下さった。以前は私も完全にメタボだった。しかし、今は二十歳以前のスリムな体に戻った。参加者の体格はいろいろであった。

  次に、タオルを使った運動を行った。そして、全員が調理室へ移動して調理実習を行った。食生活改善推進員も含めて1グループ6人で、役割を分担しながら、『焼き鯖の南蛮漬け』、『筑前煮』、『きのこと京水菜の和え物』の3種類を作った。

  できあがった後、ご飯と一緒に試食した。味は薄めだと言うが、私はすでに薄味になれているので、何とも思わなかったが、薄すぎると思った参加者もいたようだ。

  家内には申し訳ないが、普段はほとんど料理をしていない。だからといって全く料理をしないのかというとそうでもない。というのは、家内が入院したり、息子の嫁の出産などで長期に家を空けたときには、自分で三度の食事を作った。

家内が写してくれた調理中の私。私の前にいるのは昔の職場仲間。

  外食はほとんどしなかった。ご飯を炊き、味噌汁を作り、おかずも作って生活した経験がある。作るのも大切だが、食後の食器洗いや翌日のための炊飯器の準備など、三度の食事にかなりの時間を割いたものだ。

  今日の『男性料理教室』に参加して、改めて考えた。健康を維持するには、「食事」、「運動」、「休養」の三つが大切だと思う。特に、食事は毎日のことなので、十分気をつけないと、いろんな病気になりかねない。

  病気は、遺伝などの要素もあるが、半分以上は自分の不摂生が招くものではないかと思う。前記の三つに気をつけて、健康な生活が送れるよう気をつけたい。

  そのうちに、食事の準備の一端でも担えたらと思う。嫌いではないが、今のところ、やることが多すぎて時間を使えないというところか。家内には申し訳ないと思う。退職して二年半。そろそろ潮時か。

(日記 午前9時から12時まで『男性料理教室』に参加。午後は、ギターの練習。夕方、太鼓のメンバーのSさんが、ビデオレターの撮影に我が家へやって来た。高校時代、一緒に太鼓を叩いた I さんが結婚するからだ。)

 
 

じいじの部活動

17 10月

7時間近くのバンド練習
  静岡での軽音楽部OB会の演奏会まで、あと10日となった。私たち福井バンドは、ハワイアンとジャズの2バンドで出ることになっている。今日はハワイアンバンドの特訓日。しかし、メンバーの一人が病気で欠席。

  午前10時から午後6時前まで、7時間ほど私の事務所で練習。一人は石川県から来ているN君だ。とても楽しいが、かなり疲れた。まるで部活動だ。いつも思うが、出きるようになるまで若い頃の5~10倍は時間がかかると思っている。

  一つは、思うように手が動かないこと。一つは、なかなか覚えられないこと。今日はハワイアンギターとクラシックギターを使ったが、若い頃とは手の動きが悪くなった。それは当たり前かもしれない。

  しかし、音楽を楽しむ気持ちは全く変わっていない。いつまでこんなことを続けられるか分からないが、できる限り仲間とのハーモニーを楽しみたい。年を取っても影響しないものの一つに歌を作る作業がある。

  今回、2曲のオリジナルを演奏するつもりだ。1曲はフォーク演歌で『足羽川慕情』だ。日本各地から福井大学へ集まってきた仲間達の共通の想い出の場所の一つに「足羽川」があると思っている。足羽川の堤防を歩いたものは少なくないだろう。

  もう1曲は、『SIXTIES』だ。♪おれたちゃ sixty(60歳)、sixty ……」で始まるウェスタン調のオリジナル曲だ。当日集まるメンバーのほとんどは、60歳代だ。初代のメンバーのみが70歳になっているのだ。ちなみに私は2代目。70歳まで時間の問題だ。

  60歳代のメンバーにエールを送りたいと思って作ったものだ。今日初めて練習した。私にとっては、音楽は表現活動の一つだと思っている。

  他人の作ったものを自分流に解釈して演奏したり、ジャズのアドリブのように自分でメロディーを作るのも面白いが、初めから自分の言いたいことを歌にするのも、また楽しいことだと思っている。

去年の浜松での軽音楽部OB会演奏会で演奏する福井バンドのメンバー。

  問題は聞いている人に何かが伝わるかどうかだ。とにかく、当日は、午後1時過ぎから午後5時過ぎまでいろんなバンドがいろんな曲を演奏するのだ。この午後の演奏会が終わるまでのんびりくつろぐことはできない。しかし、夜の懇親会はいろんな話題が出て楽しい。

  この年になって、まさか、昔の仲間とバンド活動をするとは夢にも思わなかった。オカリナバンドに属し、若い子達と和太鼓をやっているが、私はどちらかというと、今ではそうした中で、編曲したり、創作したりする方でこれからも関わっていきたいと思う。

  とにかく、今日は部活動のごとく、音楽に取り組んだ。「曲のメロディーとコード(和音)とべースの音がかみ合うととても気持ちがいい。」石川県から来たN君の言葉だがその通りだ。今日は私の頭のコンピューター(脳)はフル回転だっただろう。

(日記 朝起きるなり、バンドのCDづくり。午前10時から,午後6時近くまでバンド練習。途中で、そば屋で昼食。疲れたが楽しい一日だった。雨が降っていたので、心置きなく練習することができた。)

 
 

つながり

16 10月

何が何につながっていくのか?
  私「片瀬」では、地区の伝統として銭太鼓をやっている。完全に他県のもの(島根県の『安来節』で銭太鼓をする)を伝えてきただけだが、それでも、百年ほど続いてきた。それを一昨年全く新しいものにした。

  さて、この銭太鼓だが、真剣に取り組めば、地区の活性化から、農業振興につながっていくと私は信じている。そう思って、歌詞から法被のデザインや襟に入っている文字まで吟味してきたのだ。

  片瀬をブランド化する一つの手段になるとも思っている。それに、一緒に練習することによって人間関係が深まり、普段は会うこともなく、会っても車の中から頭を下げるだけの存在だった人が一緒に練習をすることによってかなり親しい関係になったと思う。

  平泉寺地区では、運動会に町民総踊りとして、民踊を踊るという。小学生から、その保護者、そして、地域の人たちが一緒に一つの踊りの輪を作るという。

  私は、こうした踊りは、健康につながり、人と人との関係をより親密にし、さらに発展すれば地域の活性化、そして、地域の経済にも好影響が出てくるように思う。いざというときのためにもなると思う。人はいつどこで、誰に助けられるか分からない存在だ。

  普段から、気楽に話せる関係を作っておくことは、防災上も極めて有効だと思う。「祭りの活力は地域の活力」という言葉を聞いたことがある。全くその通りだと思う。人と人との関係が希薄な地域では祭りなど簡単には盛り上がらないだろう。

  祭りの意義を見いだせないのだろう。だから、今では、多くの地区では、抽選会でもしないと人が集まらないのだ。ものにつられてしか、人は集まらないとは悲しいことだ。

  どんなことでも、真剣に取り組めば、まだまだ予期せぬ方向に発展していく可能性がある。そこのところを理解できる人が増えないと、祭りなどは活性化しないだろうなと思う。一つの鍵を握るのは時代を託す子ども達だ。子どもたちが参加するイベントは将来につながる可能性が大きいと思う。

 

平泉寺公民館での踊りの練習。私も一緒に踊りを楽しんだ。

(日記 午前中、田んぼの畦の草刈り。稲刈り前に刈ったが、それでも畦の草がかなり伸びていた。考えてみれば、農業は、草と病気と害虫(人間から見れば)との戦いかもしれない。人間は、草も、病気も害虫も、全て農薬で片付けようとしている。しかし、その影響はいつか人間に帰ってくるかもしれない。午後も3時まで畦草借りを行った。その後は、ハワイアンギターの練習。そして夜は平泉寺公民館で民謡の練習。運動会で、町民が踊るための練習だ。去年もやったので、練習に来なくても踊れる人は少なくないだろう。今年は平泉寺のグランドでどれくらいの大きさの踊りの輪ができるか楽しみだ。)

 
 

盆踊り復活アクション

15 10月

今年も平泉寺地区で
  平泉寺町の関係者から「今年も運動会で民謡を踊りたいので指導してください。」と依頼された。去年は初年度というので、小学校と公民館で指導し、さらに本番の運動会でもグランドの真ん中でマイクを持って指導した。

  しかし、「今年は、本番は自分達地元のものでやります」ということで、小学校と公民館のみで指導することになった。私は、盆踊り復活を自分のライフワークの一つとしている。老若男女が一つのことに取り組める盆取りは取り組む価値があると思っている。

  今の世の中、どこ野地区でも、住民の一人一人がばらばらになりかねない状況にある。テレビがあり、雑誌があり、車があり、集団で何かをする機会が激減している。こうした楽しさを味わうことなく成長して子ども達が成長して大人になったら、どんな世の中ができるだろうか。

  今なら、仕事や冠婚葬祭で協力し合った経験者が60歳以上の人の中にはかなりいると思う。もしかしたら、各階各層が一つのことに取り組むことができるラストチャンスかもしれない(少し大袈裟か)。

平泉寺小学校での盆踊り練習会。先生方も、地区の人たちも参加して楽しく踊ることができた。

  今日は平泉寺小学校で、盆踊りを指導する日だ。午後3時から、体育館には、校長、教頭以下全職員と全校児童、そして地域の一部の人や公民館主事が集まった。指導する曲目は、2つ。

  1曲は私の作った『勝ち山ほがらか音頭』で、もう1曲は民謡ではないが、氷川きよしの『ときめきのルンバ』だ。2曲目は、若者や子どもたちを意識している。昨年やっているので、約1時間内に全員が何とか踊れるようになった。

  本番でも大きな輪になることを期待したい。少しずつだが、この輪を勝山全地区に広げられたらというのが、私の願いだ。簡単そうで難しいテーマだ。この輪が大きくなったら、エコノミーにもつながるだろうと信じている。

(日記 朝からずっと、『じいちゃんバンド』の楽譜書きとCDづくり。昨日まではオカリナだったが、今日は私たちのバンドの練習用のCDづくりと編曲だ。午後3時から平泉寺小学校で町民運動会のための踊りの練習。大きな輪になることを期待したい。平泉寺本村では、昨年から秋祭りに盆踊りが復活したのだ。そして、同じく昨年から町民運動会では町民が踊ることも決めたのだ。すばらしいことだ。平泉寺の数年後に期待したい。帰ってからも、もっぱら歌作り。)

 
 

まだまだ……

14 10月

日々精進
  今日は、はたや記念館『ゆめおーれ』での「繊維祭り」。私たちは、10時からの野外ステージでオカリナを演奏することになった。午前9時に私の事務所へ集まり練習。特に、編曲し直した「上を向いて歩こう」を練習した。

「繊維祭り」に「ゆめおーれ」の野外ステージでオカリナ演奏。

  そして、『ゆめおーれ』へ。午前10時過ぎから演奏が始まった。「エーデルワイス」から「赤とんぼ」まで8曲を演奏した。まあまあのできだった。演奏の後、何人かが声をかけてくださった。

  せっかくだからということで、オカリナを持って野向町の『コスモス祭り』に出かけることにした。コスモス畑で演奏しようということになったからだ。コスモス畑近くの神社で「豚汁」などをいただきながら、しばし太鼓の演奏などを見ていた。

  ところが、話の行きがかり上、「コスモス祭り」のアトラクションに飛び入り出演することになった。「ゆめオーレ」で演奏した曲目をそれぞれ紹介しながら順番に演奏を始めた。神社の前での演奏はとても気分がよかった。

野向の「コスモス祭り」に飛び入りでオカリナを演奏。

 その後、居合わせたアマチュアカメラマンに「コスモス畑で演奏してほしい」と頼まれた。私たちは元々コスモス畑で演奏しようと思ってやって来たので、了解した。撮影後、メンバーはコスモスを持ち帰るために、たくさん切り取っていた。

 これからも、いろんな人たちに楽しんでいただけるよう練習しなければと思う。「まだまだ……」上達するノビしろはあると思う。そんな中で、編曲作業も重要だと思った。特に、最近、メンバー達が3種類の管を手にしたので、高音、中音、低音のオカリナを生かして幅のある演奏を目指したい。この方面でもまだまだ……である。

(日記 午前9時に私の事務所(山児童館)へ集合し、練習して「ゆめおーれ」での「繊維祭り」にオカリナを演奏。その後、野向町で行われている「コスモス祭り」に出かけ、飛び入りで演奏を行う。帰宅して、午後2時から始まるプロの和太鼓集団『倭(やまと)』の演奏会に出かける。かつて私が顧問をしていた『郷土研究会・和太鼓

模擬店のテント前でのオカリナ演奏。

班』のOBが『倭』の中心メンバーになって活躍していた。さすがにプロだけあって迫力があった。和太鼓でも、私たちは「まだまだ……」であると思った。だから練習があるのだろうし、上達の喜びも得られるのだろう。音楽三昧の一日だった。)

アマチュアカメラマンの求めでコスモス畑へ行く。

 
 

ウルトラ「しょうが」

13 10月

体を暖めて健康に
  NHK『ためしてガッテン』を購読している。『ためしてガッテン』のテレビもよいが、時間がかかるので、雑誌の方を愛読している。その中に、「しょうが」の効用についての記事があった。

 特に、免疫力をアップ『体を温めて健康になる!』という特集に注目した。それは、「しょうが」の効用が書いてあったからだ。その中に、「しょうが」を乾燥させると体暖め効果は2.5倍になると書いてあった。

  体温がわずか1°か2°下がるだけで免疫力は大きく低下し、病気になる確率は非常に大きくなるとのことだった。それは、ウイルスを退治するリンパ球の活動が低下するからだそうだ。感染症にかかりやすくなったり、重い心臓病になったり、出血が止まりにくくなったりするそうだ。

家の前で、「しょうが」を乾燥させて『ウルトラしょうが』づくり。粉末にするとごくわずかになる。

  ところで、我が片瀬の特産の一つに「しょうが」がある。この「しょうが」を生かさない手はない。村の人でも、「しょうが」は「紅しょうが」にして利用している人が多いらしい。私も大好きだが、塩分が強すぎ健康にはあまりよくないだろうと思う。

  さて、この「しょうが」だが、『ためしてガッテン』では、乾燥させたものを『ウルトラしょうが』と呼んでいた。それは生の「しょうが」と区別するためだ。生のショウガは、一時的には体温を上げるが、1時間後には体温を下げてしまうらしい。

  予想とは別の効果が出るらしい。体温を温めるなら、『ウルトラしょうが』がいいらしい。それは、普通の「しょうが」には血行をよくする「ジンゲロール」のみが働くが、『ウルトラしょうが』には、「ジンゲロール」に加えて胃腸を刺激し体の中から温める「ショウガオール」も働くからだそうだ。

  私の「しょうが」の食べ方で大好きなものは、生の「しょうが」を3~5mmにスライスして味噌の中に漬けたものを翌日以降に食べる「味噌漬け」だ。続いて「紅しょうが」だが、いずれも塩分が気になる。下ろしていろんなものにかけるのも大好きだ。

  そこで、今年は、この『ウルトラしょう』作りにチャレンジした。2~3mmにスライスした「しょうが」を天日で乾燥させるのだ。このままにしようと思ったが、カラカラに乾いた直後にこれを粉末にするのだ。こうすると何にでも使える。

  食卓の上に置いておけば、味噌汁、漬け物、しょうが湯。そして、これからは湯豆腐や水炊きなど何にでも使えるのだ。しかし、乾燥させると「しょうが」は、10分の1以下になってしまうのではなかろうかと思われる。

  「しょうが」の産地の人間が、その「しょうが」を生かせないのでは悲しい。『ウルトラしょうが』作りには晴天は欠かせない。今日と明日は晴れるだろうと思って、三度目の『ウルトラしょうが』づくりを行った。

(日記 今日は『ウルトラしょうが』作りをしようと思って、朝食後、畑へ「しょうが」を取りに行った。早速スライスして家の前へ並べた。その後、部屋の掃除。そして、オカリナのカラオケづくり、午後1時頃、光福寺のお坊さん達が『報恩講回り』に来られ、読経してくださった。)

 
 

平成の「結」

12 10月

人と人との絆
  昔は、単純作業を能率よくするために、農家ではお互いに助け合う「結(い)」が行われていた。「結」は「ゆい」と言う地域が多いが、我が片瀬では短く「い」と呼んでいた。

  近所の人が集まり、日数を決めてお互いに、作業をいていたのだ。例えば、今日我が家が田植えだとすると、近所野人たちが手伝いに来てくれたのだ。そして、数人で、効率よく作業を行っていたのだ。

組合の田んぼでの里芋の収穫作業。

 当然、別の日には今度は来てくれた家の田植えに出かけるということだ。一人で作業をするよりも、能率も上がり、世間話をしながら作業をするのは楽しいものだった。早朝から作業をするので、途中で、「こびり(小昼)」が出るのだ。

  「こびり」の定番は、黄な粉の「おにぎり」だった。それに、たくあんや山菜の煮物などが付いていた。疲れた体には、黄な粉の甘さはありがたかった。隣近所が、農作業などを協力してやって来たのだ。

  村の生活は一変した。それぞれが機械を持ち、他人に頼むことはできるだけ少なくしてきたのだ。そこへ車社会が到来し、テレビなどが普及し、報恩講などの諸行事も取りやめることが多く、人と人との交わりは激減した。

  車社会では挨拶を交わすことさえも少なくなった。そんなとき、後継者不足を解消するために、『農事組合法人かたせ』が組織され、共同で作業を行うことが多くなった。

里芋収穫作業に集まった区民が集まり休憩。配られたパンを食べ、ジュースを飲みながら歓談。楽しい時間だ。

 一つは、今日のように、里芋を掘り取る作業では十数名が集まって世間話をしながら、楽しく作業をするのだ。もう一つは、法人から畝を借りて作用をするのだ。一つの場所に多くの人の畑が集中するので、常にいろんな人と話し合うことができる。

  この集団農場(私はそう呼んでいる)では、常に誰かが作業をしているのだ。そこでいろんな人たちと農作業について情報交換を行うことができるのだ。

 このような状況は、平成の「結」と呼んでもいいかもしれない。昔と同じようにいろんな人たちが集まって作業をするので、村の人たちと話す機会はたくさんある。こうしたつながりを大切にしていきたい。

(日記 午前中、組合の里芋収穫作業。楽しく作業をすることができた。午後は、日曜日に「ゆめおーれ」へ出演する「カラオケサークル」のための編曲作業。市販の楽譜をそのまま使えばよいというものではない。その後、CDづくり。夜までかかった。)