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Archive for 7月, 2012

保育のヒントを紙芝居で

11 7月

 難しいシチェーション
  今日は大野公民館で、保育に関する講座の日だだ。私達夫婦は招かれてここで紙芝居や手遊び歌を演ずることになった。講座に参加しているのは、0歳~2歳ぐらいまでの幼児とその母親、そして、保育の関係者であった。

  素人の私にとっては、今日の参加者は的の絞り難い組み合わせだ。子ども達はあまりにも幼く、私達が得意にしているストーリーのある紙芝居はできない。そこで、幼児相手に、先ず手遊び歌を3曲、私のギターの伴奏で家内が演じ、その後、「かくれんぼ」と題するオリジナル紙芝居を演じた。多少は手応えがあった。

手遊び歌を演ずる私達。楽しかった。

 紙芝居の後、手遊び歌を一曲挟んで今日初披露の保育紙芝居『ことばのちから』を演じた。団扇の表裏に、「叱るママ」と「誉めるママ」の絵を描き、これを使って家内に演じてもらった。私も「パパ」と「祖父」の絵を描いた団扇を持って応じた。今回の保育紙芝居『ことばのちから』で言いたかったことは、おおむね次のようなことだった。

                     『ことばのちから』
 1.言葉の力
  ・言葉は、時には勇気を与えるが、時には、凶器となり命を奪うこともある。

2.コミュニケージョン
 ・コミュニケーションとは、「言いっぱなし」ではなく、お互いに、想いを伝え合うことである。

3.おかたづけ
 ・同じ場面でも、言葉遣いでずい分変わるので、頭越しに叱らない。言い方を工夫する。

紙芝居の最中に、小さな女の子が寄ってきた。興味があったのだろうか。

4.テレビとの付き合い
 ・食事時、家庭が大切だと思うなら、テレビを切り、家族の会話を大切にしたい。
 ・見たいテレビを大人は我慢するのではなく、録画しておいて後から見ればよい。

5.子どもの好き嫌い
 ・子どもは、親の影響を受けて苦手になったり、好きになったりする場合が多いものだ。
  ・子どもが夢を持つことを望むならば、その前に、どんなに小さくても、保護者が夢をもつことが大切ではないか。

6.マナー
 ・駄目なことは駄目だと、はっきり言い聞かせることが大切である。
 ・叱るのは、子どもを一人前の人間にするためである。

7.子どものやる気
 ・ 子どものやる気を奪うのは親である場合が少なくない。
 ・子育てに必要なことは、忍耐力と待つことではないか。
 ・少しでも、上手にできれば、その行為を認めてやることが必要である。

紙芝居に見入ってくれた子ども達とそのお母さん達。

8.生活のリズム
  ・寝る時間がまちまちだと、起きる時間も当然そのようになる。
 ・親の生活に合わせていると、子どもは夜型になってしまい、翌朝に影響を及ぼす。
 ・幼児期から「生活のリズム」を確立したいものだ。

9.本に親しむ
 ・読書は、学業はもとより、将来、あらゆる場面で大きな力になる。
 ・読書の出発点は、幼児期の保護者による「本の読み聞かせ」ではないか。
 ・親子のふれあい、家族とのふれあいのためにも、先ずは「読み聞かせ」を始めることを勧めたい。

10.おしまい
 ・母親も輝いてほしい。そのためにも、気分転換が必要。

 以上のようなことを、紙芝居にて演じ、コメントした。その後、保護者から、質問や意見を述べてもらい、自分なりに答えさせてもらった。紙芝居を見て、何か一つでも、持って帰ってもらえればと思う。

 終わった後、保護者が寄ってきて家庭の悩みを打ち明けてくれた。子どもの両親、祖父母が心を一つにしての子育てに当たらなければ効果は出ないだろうが、なかなか難しいことだ。

「叱るママ」の顔を描いた団扇を持ってセリフを語る家内。これも私達の工夫。

(日記 午前中、子育てマイスターとして、大野公民館で手遊び歌や紙芝居を演じながら、保育に関する想いを伝えた。外食して帰宅。午後は、『かたせ瓦版』づくり。夜は和太鼓の練習日だが、瓦版づくりで出られなかった。完成したのは午後10時前だった。充実した一日だった。)

 
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コミュニケーション力

10 7月

「成り立つ会話」「成り立たない会話」
  今、子育てに関する紙芝居を作ろうとしている。「ことばのちから」をテーマにしている。その中で、コミュニケーションについて考えることになった。私のコミュニケーションの定義は「双方向に想いを伝える」ことだ。

  これは、簡単なことではない。大概の場合、一方通行になるからだ。子どもと保護者の場合、保護者から子どもへの一方通行だろうし、会社や公務員の場合には、上司から部下への一歩通行が多いだろうし、学校の場合には、教員から児童・生徒への一方通行になりやすい。

  選挙で選ばれた首長の場合には、職員への一方通行が多いだろう。話していれば、それでコミュニケーションが成立しているというものではない。上下関係があまり問題にならない者同士の場合でも、双方向に想いを伝え合うには、それぞれのテーマに双方が関心がある場合に限られるように思う。

 そうなると、単なる話し合いは浪費的時間になる場合が多い。そう思って、自分の周囲を見渡すと、コミュニケーションが成り立つ人間はそんなに多くはない。コミュニケーションが成り立たないのは、言葉を使う能力だけではなく、関心あることが共通えない場合もある。

 まちづくりに関心のある者とそうでない者がまちづくりについて話し合う場合には、一方通行になりやすい。まちづくりに関心のある者とプロレス大好きの人間がいた場合には、それぞれの話題で一方通行になりそうだ。

 親子の場合、子ども時代から、少しでもコミュニケーションが図られるようになるには、双方が前向きであることが不可欠であるように思われる。そんなことを考えながら、紙芝居を作っていた。

紙芝居の表紙

(日記 終日、紙芝居の表紙と最終場面を描き、印刷した。本番は明日。果たして、保護者や幼児に何かが伝わるだろうか。今回の相手は、私が最もやりずらいように思う。それだけにやり甲斐もある。夕方になって、初めて脚本を作り始めた。やや心配ではある。まだまだ生煮えの状態だ。)

 
 

関心を持つこと

09 7月

「言葉の力」を信じたい
   政治に関心を持っている若者はどれだけいるであろうか。自分の地域に関心を持っている人はどれだけいるであろうか。関心を持たなくても、よいような仕組みができあがっているのかもしれない。

  大人社会は、ゲームや刺激的な図書類で子ども達の関心を引こうとしている。最近制作される映画などを見ていると、ありもしない架空の世界を題材にしていたり、過激な戦いをテーマにしているものが少なくない。

  非日常的な世界でしか、楽しめないかのような状況が展開されている。そして、その裏でしっかりと利益を上げている集団がある。その結果、架空の世界と現実の世界が混ざり合ったような状況が見られる。アニメの世界がそのまま現実のファッションになったりしている。

 様々な事件を見ていると、人の命も、ゲームの世界に登場するキャラクターの命と同様に軽くなっているように思われる。現実の世界には、架空の世界では味わえない大きな喜びがあることを知ってほしい。

  子ども達の日常生活はかなり多忙である。学習塾、ピアノや水泳などの習い事、野球やバレーなどのスポーツ少年団活動……と、毎日忙しそうである。そうなると、すきまの時間は、暇つぶし的に、漫画やテレビやゲームに費やすことになる。

  それで一体全体、何に関心を持つことになるのだろうか。漫画や映画やゲームは、成長するに従ってドンドン刺激的なものを求めるようになっていく。逆に、政治に関心を持つ者はドンドン少なくなっていくだろう。

  今日も、国会答弁を聞きながら、保育紙芝居の絵を描いていた。そして、この頃つくづく思うことは、やはり政治の世界は、我々が見聞きする表の世界と、別次元での裏の政治の世界があるように思えてならない。

  そして、この世の中には「シロアリ族」がうようよしているように思えてならない。口では、国民のため、国家のためと言いながら、裏ではシロアリのごとく金(税金)に群がる多数の人間がうごめいているように思えてならない。

  今こそ、政治の世界に目を背けず、政治家の皆さんが自分たちの将来をどう導こうとしているのかに注目しなければならない時期だと思う。私は「言葉の力」の大きさを感じているが、最近政治家や専門家と言われる人達の言葉がドンドン軽くなっていくようで悲しい。

演奏会に向けて練習に励むオカリナサークルのメンバー。

(日記 朝から晩までほとんど休まず紙芝居の絵を描いた。パソコンを使っているために、キーボードを押す指が限界になってきた。それでも、一枚一枚完成すると嬉しい。今日中に完成させなければならない。またまた、一日足りなくなってきた。午後7時半よりオカリナ教室。来月の出番に向けての練習。オカリナは脳の活性化には効果のありそうな楽器だ。続けたいものだ。)

 
 

幼児教育の大切さ

08 7月

何を意味している絵かわかるでしょうか?

じいじにになって気がつくこと

  子育てマイスターになって、幼児教育に関して話を聞いたり、いろんな本を読む機会が増えた。振り返って考えてみると、我が子の子育て期は、余裕がなかったように思う。

  それでも自分の母親や祖母から受けた指導は時々思い出すことがあった。参観日や父兄会には、母親は一度も欠かさず来てくれたことを思い出す。この頃、改めて感ずるのは「幼児教育の大切さ」ある。

  特に、「言葉の力」が大きい。「子どもを伸ばそうとする」のか、「子どもに無意識のうちに威圧感を与えている」のか出、子どもの性格はおおきく変わりそうです。

  その他、「大人の背中による教育も大きい」と思う。直接子どもを指導するのではなく、子どもが親の背中(姿)に感化されて自ら行動するということだ。「子どもにああしろ」、「こうしろ」と直接指導することと、大人が自らの背中で示すことの両方が大切だ。

  「ほめ方」、「しかり方」も大切だ。そこで、幼児教育の大切さをなんとか、保育紙芝居にできたらと思って絵を描いた。まだまだ満足できる域に達していないが、今後、絵を描き貯めて、説得力のある紙芝居を作ってみたい。

木製プリンターを作るYさん。

(日記 朝から、ずっと保育紙芝居の絵を描いていた。何とか幼児の保護者に幼児教育の大切さの一端でも伝えられたらと思う。昼、木製のプランターを作っている役員のYさんの仕事場をのぞいた。秋花壇に使えたらと思う。午後も紙芝居の絵を描いた。夜、秋祭りに演ずる「浦安の舞」の練習はじめの会に出た。)

 
 

歌心に火がついた

07 7月

JA主催『藤あや子ショウ』を見て
  身内にJA職員がいるために、例年ジュースを買ってサンドームでの「歌謡ショウ」を見ることにしている。今年は、「藤あや子ショウ」だという。少し迷ったが、福井へ行く用事もあったので、見に行くことにした。

  予想以上に楽しいショウだった。藤あや子さんの歌もよかったが、着替えの合間に行われたバンド演奏や津軽三味線と尺八のコラボがとてもよかった。

 ショウ全体も、うまく構成されていた。三味線を聞けば三味線がやりたくなり、せっかく覚えた「津軽じょんから節」をもう一度おさらいしなければと思った。三味線の先生に個人レッスンを受けてどうにかこうにか「津軽じょんから節」が弾けるようになったが、今は、弾けないだろう。

 尺八の人間のような息づかいに感動したが、これは無理だと思った。もう20年若かったらチャレンジしていたかもしれない。バンド演奏のドラムもエレキギターもとてもよかった。これはやってみたい気がした。

 それと今度の東日本大震災を機に作られたという藤あや子さんの「わすれない」という歌を聴いて、歌を作りたくなった。東日本大震災の後、何とか大震災をテーマに歌を作りたいと思ったが、多くの犠牲者が出ている現状では、簡単に手が出せなかった。

 しかし、今日の歌を聴いて、いつまでもの大震災のことを「わすれない」というメッセージがよく伝わった。なにがしかの寄付をしてそれで「終わり」だではなく、いつまでも忘れないで自分にできることはないかを考え、自分の生き方を見直したい。

 もしかしたら、私にも東日本をテーマにした歌が作れるかもしれないと思った。行く前に予想していたよりも、はるかによかったと思う。藤あや子さんが東北・秋田の出身であること、そして東北の民謡がベースにあることが、彼女を輝かせていると思った。

 帰り際に、「わすれない」と「最新ヒット全曲集2012」を買った。帰りの車の中で、何度も「わすれない」を聞いた。忘れないは、「関心がある」につながり、東北を「愛する」気持につながっていると思った。音楽的に刺激の多い一日であった。

(日記 午前9時に家を出て越前市のサンドームで行われた「藤あや子ショウ」を見に出かけた。帰宅後、休む間もなく「親子和太鼓教室」。新しい子が見学に来ていた。音楽的にいっぱい刺激を受けた一日だった。

 午後7時半より区の役員会。その議題の一つは、まちづくりについてであった。

2.まちづくり(住教育)
  (1)区民のまちづくり参画
        「愛郷心」と「無関心」について
  (2)区民の要望・生活アンケートについて
  (3)区の活性化について
 (4)区の将来ビジョン
  (5)組織について
    ・既存の組織と任意の組織について

 何のことかわかりにくい議題であったかもしれない。10年後の我が区はいっそうの高齢化が進んでいそうだ。これからもことあるごとに、考えていきたいテーマである。)

 
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生活のスイッチ

06 7月

昔は「たばこ」がスイッチだった
  「今日一日何をするか」は、前日、または当日の朝に家内と二人で決めることにしている。朝食の終わりは、コーヒーで決めている。そして、顔を洗い、仏壇へお参りしてから、一日の活動を始めることにしている。

   ここで、完全に私としては、「オフ」から「オン」に切り替えるのだ。昔は、何をするにも、たばこがスイッチになっていた。休憩の一服、休憩を終えるときの一服、授業を終えての一服、食事を終えての一服、……。たばこは生活を切り替えるスイッチであった。

 その後、禁煙を試みたが、なかなかできなかった。100回ほど禁煙しては失敗した。そして、ようやく、禁煙できた。禁煙後、しばらくの間は、禁煙に失敗した夢を見たものだ。禁煙して、10年ほど経ってようやく禁煙が本物になった。

 たばこという切り替えのスイッチを無くしてしばらくの間は落ち着かなかった。しかし、今では、一日の始まりは仏壇へのお参りを境に、動き出すことにしている。そして、途中は、家内と二人でお茶をすることであろうか。

 以前は、夕食の始まりのスイッチは缶ビールであった。しかし、健康上の理由で止めることにした。最初は寂しかったが、それも慣れてきた。「○○をしたら(○○が終わったら)◇◇を始める」と決めておくと、自分としては、行動しやすい。

  一日の終わりは、風呂へは行って、家内と二人で「梅ちゃん先生」を見て、ブログを書くことにしている。ブログを書くと一日が終わったという気がする。

パソコンに向かってタブレットで紙芝居の絵を描く作業を一日続けた。指と腰が悲鳴を上げている。

(日記 朝から夜10時頃までもっぱら紙芝居の絵描き。昨日、急に娘から紙芝居の絵を描いてくれと頼まれたからだ。休憩時間は昼食と一杯のコーヒーだけであった。腰は痛むし、目も疲れた。自分の紙芝居づくりは延期。)

 
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考え泥棒

05 7月

思い出す「ある授業」
  現役時代、新採用教員の授業を参観する機会があった。教材研究はよくしてあった。事前の研究は申し分がなかったのだ。そして、授業が始まった。準備された教材を示しながら、興味ある質問が新人教諭の口から発せられた。

  授業を受けている高校生はもちろんのこと、参観している私達教職員も一斉に考え始めた。ところが次の瞬間、その教員は解説を始めたのである。解説は丁寧でわかりやすかった。

  同じように、次の質問がなされ、みんなが考えようとすると、すかさず、答えを言い、解説を始めたのである。三度ぐらい、同じようなことが続いた後、私は授業を参観する気力が失せてしまった。教員は進度を気にしているのだろう。

  ただ、一方的に解説を聞いているだけだ。授業時間の半分も経たないうちに、私は、早く授業が終わって欲しいと思った。おそらく生徒達も同じような状況ではなかっただろうか。新人教員は、完全に生徒の考えるチャンスを奪っているのだ。

  私流に言えば、「考え泥棒」だ。そして、こんな教員は少なくないのだ。このような状況が続くと生徒は「考えるチャンスを奪われてしまう」のだ。これでは、興味を持って授業を受けることはできない。  

 これでも、教師の解説をしっかり聞いていれば、テストの点数はとれるかもしれない。しかし、しかし、学ぶことは、テストの点数を取ることではない。今の子どもが、考えることが苦手なのは、こうしたことが積み重なってのことではなかろうか。

  本当は、考えることこそ楽しいことなのだ。しかし、このような授業が続くと、考えることすらできなくなる。考えることが面倒になる。誰かの指示に従っている方が楽なのだ。

  「指示待ち族」はこうして生まれるのだろう。指示待ち族は、至る所にいる。パソコンが発達し、高度情報化社会になると、考えることなしにレポートなどは書けるようになる。

  ネットで検索し、必要な部分をコピーし、それを「ペースト(貼り付け)」すればよいのだ。これでそれらしいレポートができあがる。「コピペ族」だ。この場合には、ネットが学生の「考え泥棒」になっている。

  既存のゲームのほとんどは、大人が考え、それを子ども達にやらせるのだ。昔は、何をして遊ぶかを子ども達が考えたものだ。今は、大人が考えてくれるので、考えたものを使うだけでよい。

  大人社会にも、社長や首長が考え、職員があまり深く考えないで、それを実行している場合が少なくない。今望まれているのは、誰もが、「考え泥棒」を止め、他人の考える機会や楽しさを奪ってはならないということだ。

田んぼの畦の草は、年に最低3回は刈らなければならない。

(日記 午前中は、草刈り機で田んぼの畦の草を刈った。田んぼは組合に貸し、会社組織で米作りをしてるが、草取りと水管理は、原則、田んぼの持ち主がやることになっている。もちろん手間代は出る。それらができない場合は、組合でやることになっている。私も、退職してからは、草刈りだけは自分でやることにしている。午後は、創作保育紙芝居の絵を描いた。半日で一枚がやっとだった。来週、幼児と保護者の前で演ずるためだ。保護者の役立つものになるかが問題だ。)

 
 

「愛する」の反対は?

04 7月

マザーテレサの言葉
 「“愛する”の反対は何?」と問われたら、なんと答えるだろうか。「憎む?」それとも……。一瞬迷う。あのマザーテレサの言葉は「無関心」だそうだ。

 そう聞いて「なるほど」と思ったものだ。しかし、最近、その通りだと実感するようになった。地区で何かしようとするとき、「地区を愛する」気持ちが弱いと何事にも無関心になるのだ。

 「愛郷心」という言葉があるが、「故郷に対して無関心である」はまさに対極にある言葉かもしれない。ということは、故郷を愛してもらおうと思ったら、故郷に関心を持ってもらわなければならない。

  言うのは簡単だが、ふるさとに関心を持ってもらうことは簡単ではない。自民の住む地域に対しては、まるで空気のような存在で、関心があるかないかを考えもしないのではなかろうか。

  さまざまな行事などを通して、地域に関心を持ってもらいたい。それには、今住んでいる地域がどんなところだったのか、過去の興味ある歴史を紹介していきたい。そんなわけで瓦版を作っている。

  「見える化」も大切かもしれない。そんなわけで、「四季折々の花の咲くまち」づくりも進めているつもりだ。きれいな花を見て、その運動に参加してみたいと思うか、それとも、そんなことには全く無関心でいられるのか、どうだろう。

  花に無関心であってもかまわないが、皆さん、毎日何に関心を持って生活しておられるのかは知りたい。それぞれの関心事が、まちづくりや地域の活性化につながればいいのだ。

  「愛する」の反対を「無関心」と語ったマザーテレサの気持が、私には今になってよくわかる気がする。大切で重い言葉だ。何事にも関心を持つ、そんな次世代を育てなければと思う。

太鼓の練習の後、蛍を見に出かけた浄土寺川で「パチリ!」。

(日記 午前中、創作育児紙芝居の絵を描いた。たった一枚の絵に半日かかった。午後は、ネギを植える場所を耕した。その後、藁を細かく切ってしょうがにかけた。そして、田の畦の草刈り。午後7時半より、和太鼓の練習。午後9時過ぎに、太鼓のメンバーと家内といっしょに蛍を見に、浄土寺川へ出かけた。昔なら、どこででも見られた蛍が今では特定の場所でしか見られなくなった。かなりの数の蛍が川岸や川の上を飛び交っていた。しばし、眺めながら昔を思い出していた。)

 
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できない理由

03 7月

探したい「できる方法」
  何か物事をやろうとすると、人は大きく二通りに分けられる。「できない理由を探す人」と「どうしたらできるかを考える人」の二通りだ。

  現役時代も、いつも仲間に話したのは、「できない理由は問題を提示されなくても、述べることができる。」次の三つを言えばよい。「金がない」、「時間がない」、「人がいない」と言えば、だいたいできない理由になるだろう。

  民主党のY大臣が講演で述べた「個別の案件については、お答えは控えさせていただきます。」と「法と証拠に基づいて適切にやっております」さえ述べれば法務大臣は務まると言ったようなものだ。

  どうせやるなければならないことなら、心を込めてやった方が、一生懸命やった方が、悔いは残らないだろう。また、その方がよい結果が出るだろうし、よい結果が出れば「またやろう」ということになるだろう。

  最近の子ども達は、自分で物事をやった経験が非常に少ないのではなかろうか。何もかも、大人達が先回りして用意してあるように思われる。おまけに、全てのことに大人達が関わっているのだ。

  これでは自主性が育つわけがない。私達大人は、いかに子ども達の持っている能力を発揮する環境を設定できるかにかかっている。大人達は、見かけの良さや形式にこだわって子ども達を無理矢理一つの方向に導びこうとしているように思われる。

  子ども達にも、自由にやらせてみるだけの余裕がほしい。そうでないと、大人になったとき、自ら考え、自ら行動できる人間になれないのではなかろうか。

  そうは言っても、物事を進めるのは簡単ではない。個人的なことならいざ知らず、集団を動かそうとすると、自ら動くことはもちろんのこと、やはり同志が必要ではなかろうか。何事にも地道な努力が求められる。

(日記 午前中、済生会でエコーと内視鏡検査。最近体調がよくないので検査をしてもらった。結果はまあまあだった。身体は自分持ちだ。取り替えがきかないので大切にしなければならないと思った。いつまでも若くないんだから。午後は、幼児と保護者向けの紙芝居を作るために、図書館へ本を借りに行った。帰宅後、資料づくり。来週大野公民館で子育てマイスターとしての出番があるからだ。幼児(未就園児)とその保護者が相手なので、なかなか難しい。)

 
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教えることは学ぶこと

02 7月

たかがオカリナされどオカリナ
  極論を言えば、子どもが好きで大学(これは必要条件ではない)さえ出ていれば、誰でも教員になれるのではないかと思う。大学で学んだかどうかはそんなに問題ではない。

  「明日から、教壇に立て」と言われたら、誰だって必死になるだろう。子どもの前では恥をかきたくいないから、それなりに教材研究をするだろう。こうした状況に2~3年置かれれば、だれでも立派な教員になれるのではないか。

  それは、教えざるを得ない状況に置かれれば学ばざるを得ないからである。学ぶことに必然性があるからである。ただ、受け身的に学んでいたのでは、何年経っても知識は身につかないであろう。

 そういう意味では、「教えることは学ぶことである」と言える。私も、このような状況に置かれていろんなことを学んで来たように思う。

  「英会話を勉強したい」と思う人は少なくないと思う。しかし、長続きする人は少ないだろう。特に、勉強する目的が曖昧だと勉強に集中できず、そのうちに諦めてしまう。

  もしも、明日から生徒の前で英会話を教えなければならない状況に置かれたら、事態は一変するだろう。学ぶ動機がはっきりしているので、勉強せざるを得ない。

  また、海外で働かなければならない状況に置かれた場合も同様であろう。私も、ある時期、一生懸命英会話を勉強した時期がある。しかし、海外長期研修(一ヶ月)を終えたとたんに英会話熱は冷めてしまった。

オカリナの練習風景。月に2回の練習でも続けることによってみんな上達するものだ(今日の写真ではない)。

  そんな中で、オカリナを吹けたら と思って購入し、練習した時期がある。しかし、長続きはしなかった。ところが、今から2年あまり前に、「オカリナを教えて下さい」と知り合いから頼まれた。

  私は、人に何かを頼まれた場合、ほとんど断ることをしない。オカリナも同様だった。別にこの楽器の経験者でもないので、気は楽だ。こうして、みんなと一緒にオカリナを練習することになった。家内も練習に参加した。

  みんなのお陰で今もオカリナの練習を続けている。いろんな楽譜を探し、編曲し、練習用のCDを作ったりしている。最近ようやくオカリナの楽しさがわかってきた。時々人前でやるので練習にも気合いが入る。

 何かを学びたいと思ったら、学ぶ目的をはっきりさせるか、学ばざるを得ない状況に身を置くかのどちらかだ。私は意思の弱いところがあるので、後者の方が自分に適しているように思う。

(日記 午前中、オカリナの編曲。その後、親父バンドの編曲。午後は、しょうがの土寄せ。その後、田んぼの畦の草刈り。春に一度草を刈ったのにかなり伸びている。年に三度は刈らなければならない。午後7時半からオカリナ教室。8月の「ゆめおーれフェスティバル」に出演するための練習だ。今日はみんなも乗っていて楽しく練習ができた。出番があると、気合いが入るものだ。)