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考え泥棒

05 7月

思い出す「ある授業」
  現役時代、新採用教員の授業を参観する機会があった。教材研究はよくしてあった。事前の研究は申し分がなかったのだ。そして、授業が始まった。準備された教材を示しながら、興味ある質問が新人教諭の口から発せられた。

  授業を受けている高校生はもちろんのこと、参観している私達教職員も一斉に考え始めた。ところが次の瞬間、その教員は解説を始めたのである。解説は丁寧でわかりやすかった。

  同じように、次の質問がなされ、みんなが考えようとすると、すかさず、答えを言い、解説を始めたのである。三度ぐらい、同じようなことが続いた後、私は授業を参観する気力が失せてしまった。教員は進度を気にしているのだろう。

  ただ、一方的に解説を聞いているだけだ。授業時間の半分も経たないうちに、私は、早く授業が終わって欲しいと思った。おそらく生徒達も同じような状況ではなかっただろうか。新人教員は、完全に生徒の考えるチャンスを奪っているのだ。

  私流に言えば、「考え泥棒」だ。そして、こんな教員は少なくないのだ。このような状況が続くと生徒は「考えるチャンスを奪われてしまう」のだ。これでは、興味を持って授業を受けることはできない。  

 これでも、教師の解説をしっかり聞いていれば、テストの点数はとれるかもしれない。しかし、しかし、学ぶことは、テストの点数を取ることではない。今の子どもが、考えることが苦手なのは、こうしたことが積み重なってのことではなかろうか。

  本当は、考えることこそ楽しいことなのだ。しかし、このような授業が続くと、考えることすらできなくなる。考えることが面倒になる。誰かの指示に従っている方が楽なのだ。

  「指示待ち族」はこうして生まれるのだろう。指示待ち族は、至る所にいる。パソコンが発達し、高度情報化社会になると、考えることなしにレポートなどは書けるようになる。

  ネットで検索し、必要な部分をコピーし、それを「ペースト(貼り付け)」すればよいのだ。これでそれらしいレポートができあがる。「コピペ族」だ。この場合には、ネットが学生の「考え泥棒」になっている。

  既存のゲームのほとんどは、大人が考え、それを子ども達にやらせるのだ。昔は、何をして遊ぶかを子ども達が考えたものだ。今は、大人が考えてくれるので、考えたものを使うだけでよい。

  大人社会にも、社長や首長が考え、職員があまり深く考えないで、それを実行している場合が少なくない。今望まれているのは、誰もが、「考え泥棒」を止め、他人の考える機会や楽しさを奪ってはならないということだ。

田んぼの畦の草は、年に最低3回は刈らなければならない。

(日記 午前中は、草刈り機で田んぼの畦の草を刈った。田んぼは組合に貸し、会社組織で米作りをしてるが、草取りと水管理は、原則、田んぼの持ち主がやることになっている。もちろん手間代は出る。それらができない場合は、組合でやることになっている。私も、退職してからは、草刈りだけは自分でやることにしている。午後は、創作保育紙芝居の絵を描いた。半日で一枚がやっとだった。来週、幼児と保護者の前で演ずるためだ。保護者の役立つものになるかが問題だ。)

 
 

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