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居場所

27 7月

人は誰でも居場所があるだろうか
  
私の定義では、「居場所」とは、「自分が必要とされているところ(自分が役割を持っているところ)」か、「自分の存在が認められているところ」か、それとも、「自分が生(活)かされているところ」か、「自分が心地よく感じることができるところ」だと思っている。

  少なくとも、「ただ居るだけのところ」ではなさそうだ。この「居場所」を持たない者は少なくないと思っている。家庭で、職場で、地域で何となく存在しているだけではさみしい。居場所は周囲の配慮でできることもあるし、自分の言動によって作ることもできると思っている。

 子どもにとっては、居場所は不可欠であると思っている。そしてその第一番目の居場所は家庭であろう。そして、次が学校であろうか。そして地域や自分の所属する団体へと続くのだろうか。

  家庭での居場所を作るには保護者の配慮が必要である。客人として扱っているうちは本当の居場所はつくれないであろう。そういう意味では、私は「手伝い」と「役割分担」を区別して考えている。

  子どもといえども、家庭ではそのレベルに合わせた「役割」を担わせるよう配慮してはどうかと思っている。自分のことを少しずつできるようにすることは、当然のことであって、ここで言う役割とは、家族のために役に立っていることである。

 今なら、「花に水をやる」でも、「玄関の掃除をする」でも、「読み終わった新聞や広告を整理する」でも、「食後の食器を片付ける、または洗う」でも、何でもいいのではないか。どんな小さなことでもよい。

  「手伝い」との違いは大きい。手伝いには、本来は誰かがやるべきことを“応援(支援)する”というイメージがある。やらなくても、自分の役割ではないので責任は軽い。逆に言えば、家族の一員としての役割を担っていないとも言える。

  子どもと家庭の関係で考えるよりも、個人と会社の関係で考えてみるとわかりやすいのではなかろうか。ある若者が会社では、「上司の人の手伝いだけをやっている」のと、「自分に任された役割がある」のとの違いは大きい。

  前者は、会社にいるだけというイメージが強く、後者は会社の一員であるというイメージがある。当然、「居場所がある」のは、後者の方だろう。前者は、たとえ辞めても会社に対するダメージは少ない。その分「軽い存在だった」ということであろう。

  地域では、居場所をどのように考えればいいだろうか。特に、高齢者の場合、ある時期まで地域を支えてきた存在だった。それが、年齢と共に存在が軽くなっていくのは好ましいことではない。敬われる存在であろう。若者にはない豊富な経験や知恵があるからだ。

 それらを次代を担う若者達に伝えてほしいのだ。 しかし、このことは簡単ではない。区民の理解がないと、単なる弱者に扱われて仕舞いかねない。私達は、「高齢者は豊富な知恵や経験を持つ“地域の宝”であり」、「子ども達は次代を担う地域の宝である」との認識を持つ必要がありそうだ。

  そして、これらの宝を生かしたときこそ、地域が活性化されるのかもしれない。「居場所」は本人の努力で作ることができるものであり、周囲の配慮によってもできるものであると思っている。

  これらを引き出す鍵は、言葉であり、コミュケーションであるかもしれない。そして、誰もが気軽に話せることができれば、区民の間に「絆」が生まれるのではなかろうか。たまたま、同時に同じ場所に居合わせた者同士が、自然に心を通わせることができる地域になってほしい。

  最近の「いじめ問題」も、「居場所」と無縁ではないと思っている。いじめられる側にも、いじめる側にも本当の「居場所」がほしい。居場所がない人間は、想定外の行動を起こす可能性あるからだ。

銭太鼓の練習をする鹿谷町のおばさん達。

(日記 午前中、部屋の整理。午前10時より、鹿谷町のおばさん達の銭太鼓指導のために鹿谷公民館へ出かけた。少し、振りを変えてリズミカルにすれば、とてもよくなるはずだと思ってこれまで練習につきあってきた。70歳前後の人達が一生懸命練習する姿に頭が下がる。午後は、資料や紙芝居などの整理。この頃、やや『断捨離』疲れ。思っているほどモノを捨てられない。「もったいない」が身体に沁みついているからだ。夜メールを見ていたら、高校時代に教えた生徒の子どもが高校生になったと書いてあった。「昔の数学ノートがあったらほしい」とのことだった。山オリジナルノートだ。何かの役に立てたらと思う。)

 
 

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