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戦争を考えた日

19 5月

戦艦ミズーリに体当たりしようとするゼロ戦。

戦没者慰霊祭に出席
   勝山・猪野瀬両地区の区長や戦没者の遺族の方々が、長山公園にある招魂社へ集合。慰霊祭の準備は昨日しておいたが、テントを張ったり、清掃したりして、9時半に式典が始まった。

 私は、式典後の閉会の辞を述べた。先の大戦で、勝山市からもかなりの戦没者を出したのだ。私の同級生のNさんもその一人だったし、村の同級生のOさんもそうだった。

 戦没者の方々の無念を思うと、胸が痛む。残った私達はその想いを引き継ぎ、微力ながらも地域の発展のために尽くさなければならないとの思いを強くした。

ハワイで知った戦争秘話
 この三月に家内と二人でハワイ旅行を行った。ハワイというと、どちらかというと、南の楽園というイメージが強く、平和そのものであるように感じる。しかし、戦争により傷跡が今もそのまま

ゼロ戦の飛行士のアメリカ兵による水葬。右下は米兵が急ごしらえしたという日本海軍旗に包まれた日本兵の遺体。

残されている。

 それは、真珠湾攻撃により撃沈した戦艦アリゾナが、今も多くの乗組員を乗せたまま沈んでいるのだ。そして、戦艦をまたぐように戦艦アリゾナ記念館が作られているのだ。

 そして、その博物館から海を見ると、戦艦の大部分は海底に沈んでいるが、一部はさびたまま海面上に顔を出しているのだ。船体からは、今も油が流れている。

 この真珠湾に接岸している戦艦ミズーリも見学したが、ここにも悲しい戦争の秘話が残されていた。ガイドの案内とネットの情報を合わせると以下のようになる。
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  1945年4月11日午後、日本近海で戦闘中の戦艦ミズーリに対して日本の特攻機(爆装零戦)が攻撃を仕掛けたが、そのほとんどはミズーリの砲火を浴びて墜落したのだ。

後に判明したゼロ戦の石野節雄飛行士。右下の飛行機を持っている幼児が同飛行士。

 しかし、この中の一機が砲火をかいくぐり、低空飛行で右舷甲板に突入した。突入機の右翼は第3副砲塔上にぶつかり、燃料に引火した。艦は表面に損傷を受けたが、速やかに鎮火した。(この攻撃の跡は現在も船体に残っている。)

  その後、この突入機の飛行士の遺体の一部が艦上で回収されたのだ。ミズーリの乗組員から見れば、自分たちの命を狙った憎き敵兵日本人であり、間一髪危機を逃れたのだ。

 しかし、ミズーリのウィリアム・キャラハン艦長は、乗組員からの反対もあったが、この日本の飛行士を海軍式の水葬で弔うことを決定した。そして、翌日、艦長の命により水葬が執り行われたのだ。ミズーリで行われた葬儀はこの1回のみであったという。

 艦長が、敵兵を丁重に扱ったのは、「この日本兵が名誉を持って自らの任務を全うした」というのがその理由だったそうだ。この飛行士の官姓名は長らく不詳であったが、ミズーリ記念館の調査の結果、鹿屋航空基地を出撃した第五建武隊の石野節雄二

甲板で石野飛行士の話をするガイド(戦艦ミズーリにて)。

等兵曹の機であったと判明した。

  その後、飛行士の遺族と、ミズーリーの艦長の子孫が再会したという。この件について簡単に論評することはできない。しかし、心を打たれる話しだ。二度と戦争を起こしてほしくないという気持ちを強くした。

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 以前にも述べたが、ハワイというと南の楽園というイメージだが、ハワイが王国からアメリカの50番目の州にになったいきさつ、そして、真珠湾攻撃など様々な歴史もあることに思いを致し、そうした面にも多少の関心を持って欲しいものだと思う。

(日記 午前中、戦没者慰霊祭に参加。午後は、民謡の振り付けを考える。午後4時より、子ども鼓。そして、午後7時より『さわらび会(職制買う改善推進員)』の皆さんに民謡を指導する。)

 
 

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