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労働と農薬

28 5月

能率を追い求めた農業
  かつての米作りにはとてつもなくたくさんの手間がかかっていた。米という字を「八十八」と読むとき、米作りにはたくさんの(八十八の)工程があったと言われてきたものだ。

馬による農耕作業。(写真提供:朝日印刷)

  そのかなりの部分に子ども達も関わってきた。馬で田んぼを耕すとき、時には馬の口を引いたりしたものだ。その馬の餌を作るのもほとんどが子どもの仕事だった。我が家では私の仕事だった。

 田んぼの肥料と言えば、堆肥だった。それは馬小屋に敷かれた藁と馬の糞尿で重く湿り気を持った堆積物で作るのだ。これを荷車で田んぼまで運んで堆肥枠で高く積み上げ、保存しておいて使ったのだ。それより以前は、山の草なども田んぼの肥料として使ったらしい。

  田植えや苗運び、田植えにも子ども達がかり出された。これら全てが農家の子どもなら誰もがする当然の仕事だった。田植えが終わると、除草機を回すのは子どもの仕事だった。大人達(特に女性)は、素手で田んぼの草を取ったものだ。

素手による除草作業。腰の痛い重労働だった。腰にはカンコが下がっている。(写真提供:朝日印刷)

  大人達は、稲の葉先で目を痛めないように、野球のキャッチャーのように細かい網の面を顔につけていた。また、田んぼにいるブト(ブヨ)に身体を刺されないように腰にはカンコ(ぼろ切れを細縄などで縛り、それに草などを巻き付けて火をつけ、腰にぶらさげて作業をしたのだ。

 実りの秋には、イナゴが稲に群がっていたが、それらを素手で取って一升瓶に詰めるのも子どもの仕事だった。とったイナゴは自宅で飼育しているニワトリの餌にしたり、食用にしたものだ。ヒエ取りももちろん人の手だ。

  稲を乾燥させるのは、「はさ」と言われる、竹と丸太で作ったものにつるしたものだ。その後の、脱穀も最初は足踏み式の脱穀機、その後、動力式に変わったのだ。

  また、脱穀した籾は、むしろの上に広げて乾燥させた。籾から出る埃は細かく、身体につくととても痒かったのを覚えている。乾燥も一度や二度ではなく、何度も行った。雨が降れば慌てて小屋の中へ籾を仕舞わなければならなかった。

「はさ」による稲の乾燥。手渡しで稲束を上の人に渡すのだ。(写真提供:朝日印刷)

  また、脱穀した後の藁は馬の餌や藁製品の素材となった。米を農協に供出するときには、米俵に入れたために、俵を編むのもこれらの藁を使ったが、農家にとってはかなり大切な仕事だった。

 かつては、イナゴもいたが蛍もたくさん飛び交っていた。ツバメもたくさんいたし、赤とんぼも空を埋めるくらいにたくさん飛んでいた。

 こうして振り返ると、私の子ども時代には、現在使われている農機具や肥料、農薬はほとんどなかった。かつては、全てが農家の手間暇かけた努力で為されてきたのだ。

  ところが、こうした農業では能率が上がらず、重労働であるために、手作業が機械に、堆肥などの有機肥料が化学肥料に、手で行っていた虫などの駆除には農薬が使われるようになっていった。

 その結果、いろんな弊害が出てくるようになった。それらを農家のせいにするのは簡単だが、それは酷な話しだ。こうした社会になった背景をよく理解し、今後どうすればよいかを全ての人間が考えなければならない。

足踏み式の脱穀機。(写真提供:朝日印刷)

  利益を追求し、能率や効率を重視する今の社会の仕組みがこうした結果をもたらしたのだ。このような流れはまだまだ続くだろう。果てしない欲望が原発を生んだと考えられなくもない。私達は、どこへどう流れていくのだろうか。考えてみるときだ。

(日記 午前中、エンドウとイチジクのネット張り。午後も作業を継続。その後、観葉植物の植え替え作業。帰宅して、オカリナの伴奏のためのギターの楽譜を作る。午後7時半より、オカリナの練習。今度の日曜日の自然観察会では、大師山山頂でオカリナを演奏するのだ。私は、オカリナではなく、今回はギターで伴奏するのだ。晴れれば気持ちがよいだろうなと思う。)

大師山山頂で演奏するためのオカリナの練習。今回、私はギターで伴奏するつもりだ。

 
 

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