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Archive for 7月, 2011

「おはよう」と「グッドモーニング」

21 7月

農耕文化と「おはようございます」
    午前6時頃、村のNさんから電話がかかってきた。「里芋畑に水を張ったので、ショウガに水をかけたらどうやろ」との内容だった。

  私とNさんは組合の里芋畑の中でショウガを作っている。里芋には、時々川から水を引くのだ。畝の間に水が溜まっている間に柄杓でショウガに水をかけたらどうかというのだ。そうすれば簡単に水をかけられるからだ。

  私は、6時半頃畑へ行くと、すでにNさん夫婦はショウガに藁をやり堆肥を与える作業をしていた。まさに「お早うございます」である。

  農耕文化では、隣近所が田植えをすれば自分も田植えをする。隣が稲刈りをすれば自分も稲を刈る。そして、作業は季節によっては早起きをして始めるのだ。

  遅れてきた者が早く作業を始めた人に交わす挨拶が「お早うございます」であろう。自分が早いつもりでもそれより早く来ている人があれば「お早うございます」が最初に交わす言葉であろう。

  夏などには、日中は暑いので午前4時過ぎに起きて、午後5時前には田畑へ出ていたのである。そして、昼の暑い盛りには昼寝をするのが昔の人達の習慣ではなかっただろうか。

  牧畜文化では、家族が単独で行動することが多いので、朝早く起きたら誰かが近くで仕事をしていたということは少ないのではないか。

   さわやかの朝には、互いに早く作業を始めたかどうかに関わらず、朝の素晴らしさを讃えて「GOOD  MORNING]と言葉を交わしたのではないだろうか。

  従って、「グッド モーニング」を「お早うございます」と 訳すのは正確に言えば間違いではなかろうか。これは私の意見である。

・・・・・・・・・・・・・・インターネットより・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   芸能人は業界らしく格好を付けて夜中でも「おはようございます」というが、これは実は本来の言葉の意味にかなうのだと思う。なぜなら相手に対して「早くからご苦労さんですね」「早くから精が出ますね」というねぎらいの気持ちが「おはようございます」の意味だからである。

    日常で使われる挨拶の言葉は、もともと長い挨拶文句を略したものだ。「おはよう」は「お早く起きて、健康でよろしいですね」や「朝がお早うございますね」が略されたもの。「こんにちは」は「今日はお日柄もよくご機嫌いかがですか?」や「今日は良いお天気ですね」などが「今日は」のみに略されたもの。

   そして、「さようなら」は「そうであるならば」や「左様(さよう)ならば」の略とされ、はっきりとしたお別れをいう悲しみに耐えられないといった曖昧なお別れの意味も込められている。そのほかに「こんばんは」も「今晩は寒いですが如何お過ごしですか」や「今晩はいかがですか」が「今晩は」のみに略された。
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  ショウガに肥料をやり、水をまきながらこんなことを考えていた。

(日記  午前6時過ぎに、電話がかかり、ショウガに水をやり肥料をやり、土を乗せる。Nさんから電話がかかってきてアドバイスを受けたからだ。途中で雨が降り、汗も出てずぶ濡れ。帰宅してシャワー。その後、「相馬盆歌」の三味線譜を書く。午後も続いた。午後は、途中からジャズの「危険な関係のブルース」の練習用CDを作る。午後4時過ぎに三味線のSさんと会い、「相馬盆歌」の三味線譜と練習用CDを渡す。午後5時半よりおじさんバンドの練習。今日は、「コーヒールンバ」とジャズの「ワークソング」と「危険な関係のブルース7」の練習をする。車の中で寿司弁当を食べながら「遅羽公民館」へ行き、「盆踊り練習会」に出る。遅羽の方々の他に、村岡町浄土寺の方々も参加して下さった。「千本搗」、「勝ち山ほがらか音頭」、「勝山小唄」、そして東北の皆さんの復興を祈って「相馬盆歌」(福島県の民謡。勝山には福島県の方々が避難しておられる)の練習。慌ただしい一日だった。)

 
 

母ごころ宅配便

20 7月

ふるさとの味
  昨日、妻が幼児で息子や孫達の住む横浜へ出かけていった。昨年から一人で生活する機会が多くなった。特に今の時期だと、毎日のように野菜がとれるので一人暮らしで無駄にならないようにするのは難しい。

  妻からも、「野菜を送れないか」と連絡があった。そこで、先ず、精米して米を入れることと、今日収穫した野菜を入れることに決めた。一日で結構収穫できる。

  今日取った野菜は、トウモロコシ、キュウリ、トマト、オクラ、ニガウリ、ピーマンなどであった。段ボールにこれらを入れて荷造りした。トマトは、つぶれないで送ることができるだろうか。

  孫達は喜んで食べるだろうか。本当は一緒に収穫したいのだが、一緒に生活していないのでそれもできない。毎日ふんだんに野菜を食べられるのはありがたいことだ。

  慌てて荷造りしたので、一番送りたかったジャガイモを入れるのを忘れてしまった。荷造りしながら、私に大好きな歌手、島津亜矢さんの「母ごころ宅配便」という歌を思い出した。

精米した米と共に送った我が家の野菜。毎日これだけ収穫できるのだから、食べきれないだろう。キュウリは塩漬けにできるだろうけれど。

 母親が、都会に住む子供にいろんなものを送る歌だ。モノばかりでなく、真心や愛情も。

   母ごころ宅配便 作詞:星野哲朗(歌詞は3番)

  生まれ故郷を   忘れるなよと
  ちりめん鰯も  入れてある
  磯のかおりの 宅配便は
  街より一足 先に来る
  春を 春を 春を
  我が子に送る 母ごころ

  私たち夫婦には、有り余る作物が毎日とれる。昨年も、家内が入院している間に、黒瓜、キュウリ、オクラ、ナスなどを事務所近くの人達に貰っていただいたことを思い出した。

  今日も、和太鼓の練習の後、「誰かゴーヤいらない?」と言ったら、二人が名乗りを上げたので暗い畑の中から、ゴーヤをとって渡した。過去の経験では、苦さの余り誰もが二度と欲しいとは言わなかったけれど。

  明日、あまりの形のよくない野菜が孫達のもとへ届くはずだ。とまとはまあまあだと思うけれど。なんとか、孫達に私の作った野菜を味わって欲しい。「爺ごころ宅急便」というところか。

(日記 午前中、「相馬盆歌」の楽譜作り。途中でAさん(通う教室の先生)に携帯でキーを確認する。電話で音楽を鳴らしながら。午後はオカリナ曲の再編曲。4時頃、精米し、野菜を収穫し、横浜の孫達に送るために荷造りをした。明日中に届くはずだ。午後7時半から、和太鼓の練習。本番が近づいてきた。少しずつ、練習に熱が入るようになった。)

 
 

平泉寺公民館で『盆踊り体験会』

19 7月

広報活動をどうするか
  7月31日に『ふるさとの踊り大会』を開催する予定だが、問題は、それをどうして市民の皆さんに知っていただくかだ。その一つとして、公民館単位で『盆踊り体験会』を実施しているが、それだけでは十分ではないだろう。

   そこで、今日は、「福井新聞」の勝山支局へ出向いて、記者のSさんに新聞に載せていただくようポスターとチラシを持ってお願いしてきた。

  Sさんは、今日の平泉寺公民館での『盆踊り体験会』の取材に来てくれた。何とか、うまく記事にしていただけるとありがたいのだが。

  今日も、「おどり隊ひらり」のTさん、Kさん、Mさん、Wさんが模範演技と指導のために来てくれた。彼女たちのおかげでずいぶん助かっている。ありがたいことだ。

  今日は、「千本搗」、「勝ち山ほがらか音頭」、「勝山小唄」の3曲を練習し、勝山へ避難している福島県の方々に一日も早く平穏な日々が戻ることを願って福島県の「相馬盆歌」も練習した。

平泉寺公民館での『盆踊り体験会』で、盆踊りを楽しむ参加者の皆さん。

  復興が叶うまでには相当の年月がかかりそうなので、被災地のことをいつまでも忘れないでいることが大切ではなかろうか。そんな願いを込めて勝山の民謡の他に、福島県の民謡をみんなで踊りたいのだ。

 今日の「盆踊り体験会」に参加した皆さんは盆踊りを楽しんで下さったようだ。平泉寺地区からも盆踊りは消滅してしまったので、祭りなどでの盆踊り復活は無理なような気がする。

  しかし、一人でも多くの人達に盆踊りの楽しさを味わっていただきたいと思う。もしかしたら、各地区の祭りでは盆踊り復活は叶わないかもしれないが、何かのイベントや行事での復活なら叶うかもしれない。

(日記 午前6時半頃、家内を送って福井駅へ向かう。長男の住む横浜へ行くからだ。しばらくの間、また一人暮らしだ。私も行きたいが、月末の『ふるさとの踊り大会』のための様々な日程が詰まっていて旅行はままならない。帰宅後、福井新聞勝山支局へ行き、『ふるさとの踊り大会』の周知をしていただくようお願いに行く。午後、『相馬盆歌』ノ編曲作業。午後7時半より平泉寺公民館での『盆踊り体験会』に行く。)

 
 

なでしこジャパン「ワールドカップ」優勝

18 7月

2度の逆転そしてPK戦勝利
  女子サッカーの決勝戦、日本対アメリカの試合だけは見ようと、目覚ましで3時20分に起きた。ところが、試合は始まらず、決勝戦前のイベントをやっていた。しばらくして、ようやく両国の国家に続いて試合が始まった。

  前半戦は、アメリカの怒濤の攻撃が続いた。もしかしたら負けるかもしれないと思った。そして前半戦が終わった。この調子では危ないと思った。シュートの数も精度もアメリカの方が断然上であった。

  後半戦が始まり、交代したアメリカの選手に見事に決められてしまった。ダメかと思った10分後ぐらいだろうか、日本が同点に追いついて、延長戦に突入した。

  延長戦は15分ずつ、前後半を戦うことになった。ところが、延長戦に入ってまたもやアメリカのエースストライカー、ワンバク選手に決められてしまった。もうダメかと思った延長後半13分、澤選手が決めて再び同点。

ワールドカップ女子サッカー「なでしこジャパン対アメリカ」戦(NHKBS1より)。

  誰もがもうダメだと思っただろう。私もそう思った。まさに逆転に次ぐ逆転であった。あきらめてはいけないということを多くの人が学んだのではなかろうか。

  そして、いよいよPK戦だ。日本のゴールキーパー海堀あゆみ選手が1本目のPKをスーパープレーで止めた。足を使って防いだのだ。このプレイを見てアメリカの選手は慎重にならざるを得なかったのではないかと思う。

  PK戦を制して、日本は一度も勝てなかったアメリカに勝利し、優勝したのである。表彰式も見ているうちに完全に朝になってしまった。たまたま福井から孫を連れて遊びに来ていた長女、そして東京から帰省していた次女も、途中からいっしょにテレビを見た。悲鳴や歓声をあげながらのテレビ観戦であった。

  試合が終わって表彰式。アメリカのエースストライカー、ワンバク選手の日本選手への心遣いがさわやかであった。スポーツっていいなあと思った一日であった。

表彰式で喜びを爆発させる「なでしこジャパン」のメンバー(NHKBS1)。

  「何事もあきらめてはいけない」ということを学んだワールドカップであった。震災後、あまり明るい話題のなかった日本に大きな希望をもたらした女子サッカーの快挙であった。

  被災者のコメントがいくつか紹介されていたが、いずれも「勇気をもらった」、「あきらめてはいけない」。「勇気や希望が持てた」などと語っていた。私もその気になれば何でもやれるのではと思った次第である。

(日記 午前中は、オカリナのピアノ伴奏譜を書く。昼ぎりぎりまで必死に楽譜を書いて長女に渡した。オカリナコンサートの伴奏を長女に頼みたいと思う。昼過ぎ、長女も次女も帰っていった。孫との別れがちょっぴり寂しかった。)

 
 

集団農場にて

17 7月
畑は交流の場  昔は我が村にも畑専用の場所があった。土地は必ずしも平面ではなく、傾斜していたが、畑としてはどうということはなかった。子供の頃ここで手伝いをしていると、友達も来ていた。 

  畑専用の場所は、大人にとっても子供にとっても交流の場であった。その後、この地域は、工場誘致で売り渡すことになった。我が家のこの場所には畑と共に、大きな柿の木もあった。 

  こうして、村の畑が集中していた場所は、工場や福祉施設ができてなくなってしまった。それからはみんなが集まる出会いの場所はなくなった。

  数年前に、農業の後継者不足から村で『農業組合法人かたせ』が発足した。それと同時に、組合が、集中的に野菜の作れる場所を確保するために、沢山の畝を準備して組合員へ貸し出すことにした。

家庭菜園で実り始めた坊ちゃんカボチャ。棚を作ったので、頭上で実ることになる。

  私も、今年からこの場所で2畝を借りて、村の特産物である里芋とショウガを作っている。夕方、この場所へ来て作業を始めた。

  周囲を見ると、午前中、ゲートボールをしていたTさんとMさんも来ていた。他にも、何人かがこの場所へ来ていた。普段滅多に話さなかった人達とこの場所では、挨拶だけではなく、いろんな話をするようになった。 

  早々と、二人の人が大根や白菜などを育てる場所を作っていた。また、水をやっている人などいろんな人がいた。私は、里芋の余分な茎を切り落とす作業を行った。また、ショウガに切り藁をまいた。 

  他人と作物のできを比べられることはあるが、それ以上に、この場所へ来ると、いろんな会話ができ、時間がゆったりと流れているように感ずる。昔の畑作の場所はなくなったが、今風の畑作の場所が組合のおかげでできた。一人でも多くの人が利用することを期待したい。 

自宅で苗を育て、ジャガイモの収穫と同時に植えたキンカン瓜。黄色の瓜になるのはもうすぐだ。

(日記 午前中、ゲートボール大会。我がチームは2戦2敗。午前11時半より近くの飲み屋で反省会。生ビールを飲みながら、3時間交流を深める。帰宅して昼寝。夕方、家庭菜園へ出かけてポンプで川から畑に水を汲み上げた。晴れが続いて如雨露や水道では追いつかない。その後、法人から借りている畑のショウガに切り藁をまき、里芋の余分な茎を切る作業を行った。汗びっしょりになった。それでも気持ちがよかった。)

「猪野瀬地区ゲートボール大会」の開会式(於:弁天ゲートボールグランド)。

 
 

前途洋々

16 7月

遙かなる「盆踊り復活への道」
  ここ数年、盆踊り復活のアクションを展開している。今年も、平泉寺町、遅羽町、そして地元、猪野瀬町、そして、片瀬町(猪野瀬)で「盆踊り練習会」を展開することにしている。

  今日は片瀬町での2回目の練習日だ。参加者は少なかったが、収穫は子供が二人来てくれたことだ。一人は、小学2年男子で一人は小学4年女子だ。

  大人の踊りの輪には加われなかったが、輪の外側で一生懸命練習していた。片瀬町は最近できた町なので住民同士もお互いに顔も名前も知らないようだ。

  こんな地区だからこそ、いろんな機会に住民同士が顔を合わせることは大切だと思う。ほとんど盆踊りの経験者のいない地区で盆踊り復活を目指そうとすること事態が大変なことだけれど。

  慌てずに、子ども達の頃から盆踊りに親しむ機会を持つことから始めた方が良さそうだ。八尾の風の盆にしても郡上踊りにしても、子供時代から練習しているのだ。

片瀬町の盆踊り練習会。小学生も二人参加してくれた。

  勝山の左義長も子供時代からやっているのでどの年代の者も櫓へ上ることができるのだ。今年は、芳野の練習に参加させてもらったが、幼児、小学校低学年、高学年、中学生、高校生、そして青年から壮年までが、時間を決めて、連日、お囃子や太鼓の練習に打ち込んでいた。

  今の状態が続く限り、左義長はいつまでも続いていくだろうと思った。しかし、それ以外の地区には、こうした取り組みはあるだろうか。

家の前で水遊びをする長女の孫たち。

  村部では、盆踊りをその一つにしてもらえればと思う。しかし、この取り組みは容易ではない。前途洋々たるものがある。諦めることは簡単だが、何とか少しでも盆踊りの楽しさを知ってもらいたいと思う。

  片瀬町の住民ではない私でも、2回の練習会で片瀬町の皆さんと知り合うことができた。小学生とも知り合いになった。どこであっても、挨拶ぐらいはできる関係になったと思う。一つの輪を囲んで一定の時間共に盆踊りを楽しんだ仲間だから。

(日記 午前中、和太鼓のCD作り。そして歯医者へ行き、「ふるさとの踊り大会」に使う音響機器を頼んできた。午後、長女の孫たちがやってきた。家の前にブルーシートを敷き、その上に大きなたらいを並べ、パラソルを二つ準備した。孫たちはかなり長時間、水遊びを楽しんだようだ。午後7時半から片瀬町で「盆踊り練習会」。参加者は少なかったが、子供が二人参加してくれた。9時に練習を終わっ

片瀬公園でのゲートボールの最後の練習。右の写真は私。

て、すぐ公園へ向かった。ゲートボールの練習をやっていた。第4ゲームだけ練習試合に参加することができた。ゲートボールよりも、みんなと雑談できるのが楽しい。よく汗をかいた一日だった。)

 
 

臨場感

15 7月

傍観者には見えない震災の悲惨さ
  戦時中、補給も滞るジャングルの中を行進する前線の兵士の苦労を、国内にいる政治家や指揮官には理解できたであろうか。

  武器も食料も十分でない兵士達に、現場を無視した作戦を実行するよう命令を下す上層部の現場感覚のなさが若い人達の命を失わせたのではないか。

  今の震災の悲惨さを、クーラーの効いた部屋の中であれこれ議論ばかりしている連中に理解できるのだろうか。おそらく、仕事を失い、身内を失い、瓦礫と化した町の中で苦労している住民の気持ちを政治家はあまりわからないのではないか。

  震災から4ヶ月が経ってると言うのに、段ボールで仕切られた蒸し暑い避難所で暮らしている人達の気持ちを理解できるのだろうか。あまり理解できていないように思う。

  満ち潮になれば、海水が入り込むまちの中、ウジがわき、ハエが飛び交い、悪臭が漂い、ライフラインも十分復旧していない中で、明日の暮らしの見通しさえ立たない人達の気持ちを政治家の皆さんは理解しておられるのだろうか。

  テレビで語っていた被災地の住民の「政治家も一度ここに住んでみてから復興を考えてほしい」という発言を聞くにつけ、あまりにも時間がかかりすぎる政治家の決断の遅さに憤りを感じる。

  福島原発の事故の全体像が明らかにならない中で、早々と玄海原発の再稼働の方向性を決めた佐賀県の知事や町長などの危うさ、そして九州電力のやらせメール。

  国策という名の下に、企業の利益が国民の安全性よりも優先されているようで腹立たしい。町長の兄弟が原発の仕事の多くを受注していたとう記事が新聞に載っていたが、やっぱりと思ってしまう。

  今日も、原発がなくなったら食べていけないと県内の民宿経営者が語っていたが、町そのものが、原発によってしか成り立たないと言うのも、悲しいことだ。

  そして、こうした現実が、福井県にもっとも当てはまるというのも悲しい。せめて原発のあるうちに、原発以外で地域が生きていける道を模索すべきであろう。

  机上の空論ではなく、被災地の皆さんの苦労を理解して、政策を立案してほしい。今のままでは、次から次へと新たな問題が発生し、復興の見通しが全く立たないのではないか。

  被災地の皆さんが、希望の持てる復興案を早く作り、一日も早く実現してほしい。それには、東京ではなく、現地で復興計画を立案しいてほしいと願う。「出でよ!、真のリーダー!」

法被の背中のデザイン

(日記:午前中は、和太鼓の練習用CD作り。村の郷土芸能である『片瀬豊年ばやし』の法被のデザインを考えてネットで注文した。あくまでも、「農」をイメージした衣装にしたい。午後は、ジャズの練習用CD作り。夜は、ゲートボールの練習。今度の日曜日に試合があるのだ。それにしても暑い一日だった。)

法被の襟の文字

 
 

音楽って間口が広い

14 7月

時代と共に変わる音楽の好み
  音楽って種類が多いとつくづく思う。子供の頃は、特に音楽が好きでもなかったが、中学になって、村の道場で先輩が弾くギターの存在を知った。当時は、.ギターと言えば、古賀メロディーだった。

  それと同時に、「禁じられた遊び」も弾く人がかなりいたように思う。高校になると、日本の歌謡曲と共に、外国の歌手の歌も流行っていた。ポールアンカやプレスリーに興味を持つようになった。

  大学へ入ると、外国の音楽に接することが多くなった。ジャスなどにも興味を持った。それと同時に、スティールギターの存在を知った。ハワイアンにも興味を持った。そして、大学で軽音楽同好会の創設に関わった。

  その頃は、ドラムにもあこがれて大学では主にドラムを好んで演奏していた。その後、エレキ音楽が流行り、ビートルズの時代になり、グループサウンドが流行り、フォークソングが流行り、ロックにも興味を持つようになった。音楽の分野もどんどん広がっていった。

  社会人になっても、しばらくはこうした音楽に接していた。そして、パソコンに興味を持ち、コンピューターミュージックにも興味を持つようになり、曲を作るようになった。  特に、演歌をよく作るようになった。

パソコンで和太鼓の曲を作り高校生達が演奏してくれた。この曲も最近は新しく作り変えた。バチの持ち方は、韓国の高校生にも習った。いい思い出だ。

  また、地域の人達と接しているうちに、また、和太鼓にも興味を持つようになったし、民謡にも興味を持つようになり、自分でも我流に和太鼓曲や民謡を作るようになった。

  現在は、音楽であれば何でもいいようになっている。親父バンドに関わるようになってからは、ジャズにも再び関心を持つようになった。

  音楽って、本当にいろいろあると思う。分野を気にせずに、その時、その時に興味を持った音楽を楽しみたいと思う今日この頃である。

  お袋の味というのは、「生まれてから15歳前後までによく食べたもの」になるそうだ。そういえば、その頃までによく食べたものは野菜などの煮物や漬け物だ。今それらが大好きである。

  音楽も、年をとると、15歳までよく親しんだものが懐かしくなるのだろうか。もしそうだとすると私の場合歌謡曲になるのだろうか。とにかく、音楽は自分の生活に彩りをそえる存在であることだけは間違いなさそうである。

(日記:午前中は民謡とハワイアンの楽譜を書いていた。午後、民謡の楽譜を三味線の師範代であるSさんに渡した。「ふるさとの踊り大会」の芸能発表に演奏していただくためだ。午後5時半から、親父バンドの練習。今日はもっぱらジャズの「ワークソング」の練習。曲の中心はトロンボーンだ。今日は主にテーマの部分を練習した。次回までに各自がアドリブを考える課題を出した。バンドの後、自宅へ帰らず、夕食も食べないでゲートボールの練習に出かけた。作戦とメンタルが影響しそうなゲームである。ふらふらに疲れた一日だった。)

 
 

楽譜を書きまくり

13 7月

民謡とジャズと和太鼓と……
  今日は朝から楽譜を書きまくった。特に、ジャズが面白かった。「おじさんバンド」のおかげだ。メンバーの中にジャズ好きがいて、2曲はジャズをやることになった。

  テーマとなるメロディーがあるが、それ以外はアドリブだ。と言っても、素人の私たちは、和音に合わせてメロディーは試行錯誤を繰り返しながら、考えなければならない。

  考えようによってはこれが楽しいのだ。今回のキーはFmだ。フラットが四つもついている。みんなは私にピアノをやれと言う。もしそうなったら丸暗記をするしかない。

  後輩達のおかげで、何十年ぶりかにジャズをやることができるのだ。練習用のCDを作ったが、ドラムの編曲は楽しい。昔はドラムをやっていたので血が騒ぐ。

  また、今日は「ふるさとの踊り大会」の芸能発表に使う曲の三味線譜を書いた。明日、三味線を担当してくれるSさんにCDといっしょに渡すためだ。

  その後、これも芸能発表に使う和太鼓曲の練習用CDを作成した。週に一回しか練習できないが、このCDがあればメンバーは一人で練習できるからだ。

  朝から晩まで、楽譜を書き、編曲をし、CD作りをしたので、目や腰が本当に疲れた。外へ出て運動をしたいと思った。楽しいけれども身体には限度がある。短時間の家庭菜園作業の他は音楽三昧の一日だった。

猪野瀬の各家庭に回覧していただくためのちらし。

(日記:朝一に「盆踊り練習会」のチラシを猪野瀬公民館長に預ける。猪野瀬地区の各家庭に回覧していただくためだ。午前中、脇芽で育てたトマト畑の支柱作り。黒瓜の植え付け。その後は、午後も含めて楽譜を書き、CD作り。夜は、村の人達とゲーとボールの練習。その後、和太鼓の練習に顔を出す。今回は脱法被で新しいユニフォームを作るので、楽しみだが、23歳の娘達と70歳近くの私が同じユニフォームで似合うのだろうか。嬉し恥ずかしである。)

 
 

「年をとる」ということは?

12 7月
全てが衰えるのか? 
  「年をとると、体力が衰える、記憶力が衰える、体力がなくなる、持久力がなくなる、姿勢が悪くなる、……と、全てが衰えるのでしょうか?」

  ある講演会で、講師の先生が集まった人たちにこう問いかけた。確かに多くのものは30歳前後をピークに衰えるが、経験や知恵はどんどん増えていくのだと。

  しかし、こうした年長者の経験や知恵はそれぞれの地域で活かされているだろうか。長年の生活で培われた様々の経験や知恵は、ほとんど「ゴミ」のように捨て去られてしまうのではなかろうか。

  こうした多くの人たちに経験や知恵は、地域のためどころか家族のためにも活かされていないのではなかろうか?これらを活かす仕組みがほしいとつくづく思う。

   テレビがこんなにきれいに見えるのも、誰か一人の知恵でできたものではない。多くの人たちの長年の知恵や経験の積み重ねの結果可能になったものであろう。

  今や当たり前のように空を飛ぶ飛行機も100年ほど前の1903年の暮れにライト兄弟が世界で初の有人動力飛行に成功したことに端を発し、多くの人たちが改良を加えた結果であろう。

  4回の実験の飛行結果は、12秒、12秒、15秒、59秒であったという。ライト兄弟の失敗を恐れない挑戦が空への扉を開けたのであろうが、その後も、多くの人たちの研究者がこれらの研究を活かして、さらに改良を加えた結果であろう。

じゃがいもを掘り、そのあとに黒瓜を植えるための耕耘作業。今日は本当に暑かった。

   各家庭で、各地区で、各自治体で、各県で、各国で、高齢者の経験や知恵を活かす仕組みを考えたら、世の中はもっと改善されるのではなかろうか。

  何もかも新しくなることだけが進歩ではない。原発で世の中は進歩したと言えるだろうか。国策、企業、自治体、政治家、国民、様々なものが、経験や知恵を軽視して進んだ結果ではなかろうか。

  教育の世界でも、新人が0からスタートし、先人の知恵を活かさないまま、遅々として指導力を向上させられない場面を多く見て来た。子供達は、教員の前に次から次へと現れるが、自ら教師を選ぶことができない。

横浜の孫たちとウェブカム。私は途中でゲートボールの練習に行ったが、家内は1時間半ほど孫たちと話していたとのことだった。

  高齢者の知恵を活かす仕組みを作ることが大切だとつくづく思うこの頃である。もちろん、家庭においても、自分の集落においてもそうである。考えてみたいテーマだ。

(日記:午前中、家庭菜園作業。ジャガイモ掘り。そして、堀とった畑を耕した。自宅には、黒瓜の苗が待っている。それにしても、今日は暑かった。熱中症に気をつけながら水分をたくさん摂っての作業であった。来ているものは、まるで大雨にあったように汗で濡れてしまった。シャワーをして、午後は、編曲作業。親父バンドのジャズの編曲である。昔ドラムをやっていた頃の血が騒ぐ。考えてみれば、最近は演歌や民謡の創作ばかりに時間を取られていたからだ。遅羽公民館のOさんから「民謡練習会」の練習について電話があった。先ずは、7月21日に遅羽公民館で行うことを決めた。また、猪野瀬地区の回覧板で回していただく「民謡練習会」のチラシを

雇われ人足としてゲートボールの練習に参加。区民と親睦を深めるにはよいことだ。

班の数である45枚印刷した。午後7時から横浜の孫達と久々のウェブカム。話の途中で、電話が入り、「ゲートボールの練習に来て」と誘われる。1年に一度だけ、「雇われ人足」として地区の大会に出場。今週は毎日練習することになっているのだ。)