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自転車操業的経済

30 3月

漕ぎ続けることの難しさ
  「自転車操業」という言葉がある。読んで字のごとく、自転車のような操業である。自転車は、漕ぎ続けなければいつかは倒れてしまう。

  漕ぎ続けることによってしか、維持できない状況、つまり、操業を止めると倒産してしまうために、売上金のほとんどを仕入れ金に当て、赤字覚悟で操業続けることを「自転車操業」といっているのだ。

  国の経済も、幾分このような傾向にあるのではないかと思うことがある。景気回復のために、消費を促すのだが、そんなに欲しくないものまでどんどん買い続け、作り続けなければ、世の中が安定しないようでは、いつか先が見えてしまう。

  今回の大震災では、どのようなことが起こるのだろうか、気になるところである。いざというときに備えて、国民の多くが、質素・倹約に励んだとしたらどうなるだろうか。

  ものが売れなくなり、作る側が立ち所に行き詰まることであろう。かといって、そんなに欲しくないものや贅沢な品を買い求めることでしか、安定しない世の中もおかしなものである。

  自動車、テレビや電化製品、パソコンなども、必要以上に高性能になっている。冷暖房も今やどこにでもある時代だ。学校までが、どんどん冷房を入れる時代だ。

  その結果、人間が耐えられる温度は限りなく狭くなっているように思う。暑ければクーラー、寒ければ暖房、それも、床暖房までが普及し始めている。

  私自身は、首から汗を流して夏休み中の課外授業をした頃が懐かしい。学校が、完全に冷房化することをよしとはしない。屋外でスポーツする子どもが減っているのだ。

  国民の要望に応えようととすると、まだまだエネルギーは足りない。しかし、エネルギーは有限だ。原発をもっともっと増やさなければ需要に追いつかないという。国の人口が減ってもだ。

補修と補強で一部解体した我が家。垂木の本数を倍にし、その上、支えを入れるので、強度は2~3倍以上になるはず。

  モノや便利さを求める時代のスピードを少しゆるめて、心の豊かさを求める時代にしないと、地球そのものが「自転車操業」的になってしまうのではないか。

  限りある資源を求めて、新たな争奪戦が始まるのではないのか。ルールを無視して「力と力」の勝負になるのではないのか。それは、やがて人類の滅亡へつながっていくのではないか。

  少しオーバーかもしれないが、日本は、赤字で国債を発行し続けなければ回らない世の中になっているようだ。今ほど政治力が求められる時代はないのではないのか。

  政治のレベルを上げられるのは、政治家を選ぶことのできる国民一人一人にかかっているのだ。鍵は私たち自身が握っていることを再認識しなければならない。

(日記:午前中は、雪囲い外しや、大工さんの仕事で出た材木のくずなどの後片付けをした。午後、少し雨が降り出したので、作業を止めて編曲作業を行った。)

 
 

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