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Archive for 11月 3rd, 2010

無縁社会の到来

03 11月

なるべくしてなった社会
  最近、ラジオやテレビで「無縁社会」という言葉をよく聞く。かつてはこんな言葉を聞くことはほとんどなかった。今はいつでもこの言葉を聞くことができる。

  家族からも地域からも職場からも孤立した人が増えているそうだ。その結果、人生の終末期を誰からも見守られることなくなくなる人が増えていることが問題になっている。

  私は、人生に“いいとこどり”はないと思っている。便利のよいモノの裏には不便や害のあるモノが多い。どんなに都合のよいモノにも不都合な部分があると思っている。

  パソコンや携帯を考えても、明らかに両面はあると思っている。有用性を強調する人が少なくないが、直接・間接的に我々を蝕んでいる部分は少なくないと思う。使い方に気をつけなければならないと思う。

  最近は必要以上に、個人情報の管理を問題にしているように思う。学校では子供達の緊急連絡網さえうまく作れない状況にある。やがては、それぞれの家から表札が消えるのではないかと私は考えている。

  マンションやアパートでは、すでに表札のない家庭がほとんどである。隣人と干渉しあわない生活は楽かもしれないが、挨拶さえ交わさない隣人同士というのもどうかと思う。これでは、いざというときには助けを求めることは困難になるであろう。

  世の中の景気が悪化しているために、好むと好まざるにかかわらず、家族の生活を維持するために身を粉にして働かなければならない人も少なくない。

妻が友人からいただいたサボテン(?)が玄関先で白い花を咲かせています。何という名前でしょうか?

 そのために、子供達を保育・教育施設に預けなければならない。問題は、子供を育てることは、本来保護者が一番先に考えなければならないはずだが、これが後回しになっている場合も少なくない。子どもをみる時間の長短ではないと思う。

  問題は、自分の楽しみのために子供達の養育を後回しにしているような保護者が最近増えているということだ。

  その延長として、親の身体が不自由になったら安易に施設へ預けるなどして、少しでも多くの自由な時間を確保しようとする人も少なくないという。

  また、子供の遊び方にも変化が起きている。友達同士で交わらなくても、自分一人で楽しく時間を過ごせると感じている子供が増えているようだ。

 さらに、子供達が子供だけで過ごす時間が激減している。常に大人が介在して放課後の時間を過ごしているように思われる。塾、スポーツ活動、児童館等の施設での活動、子供会活動など、大人の“指導”という名の関わりの中で放課後の時間のほとんどを過ごしている。

  子供同士が、競い合い、協力し合い、時には身体をぶつけ合いながら、折り合いをつけ、生きる術を獲得するといった活動は激減している。

  コミュニケーションをはかる機会が激減しているともいえよう。車社会や情報化社会がこれらに拍車をかけているように思われる。過剰なモノもこれらに追い打ちをかけている。

  その結果、家族や地域とのつながりが希薄になり、人と人とが交わる機会が少なくなっているようだ。経済活動が優先され、少しでも多くのモノを手に入れることが豊かさであるような勘違いしている人が増えているのではないか。

  いずれにしても、自分が高齢者になり、身体が不自由になったらどうどうなるだろうか。子供達から同じような扱いを受けることは自然な成り行きではなかろうか。

   チリの落盤事故では、「過酷な条件の中でごくわずかな食料を分け合っていたときには、争いは起きなかった。しかし、モノが地下へ届くようになってから、争いが起こり始めた」と生還者がテレビで発言していた。今も心に残っている。

  今更、昔の生活に戻ることはできないが、昔の生活から学び、それらを今風にアレンジして「無縁社会」という言葉が死語になることを期待したい。今こそ、知恵の働かせどころだと思っている。

(日記:午前中は、数学のホームページ作り。午後も3時までは継続。その後、家の内外の清掃や整理整頓。)