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Archive for the ‘未分類’ Category

“我が家あってふるさとなし”

22 6月

伝えたいこと
  来週の29日に「勝山城友の会」の総会の後、話をしてほしいと依頼された。打ち合わせの際、「私は造語が好きです。例えば、“我が家あってふるさとなし”とか……。」と話したところ、それが話のタイトルになってしまった。

  でも、私の「今、伝えたいこと」と、そんなに外れてはいないと思っている。今日の午後、話の中身を考えた。先ず、唱歌『ふるさと』の歌を聴いてもらってから話を始めたいと思っている。

          ふるさと

1.兎追ひし かの山
    小鮒(こぶな)釣りし かの川
    夢は今も めぐりて
    忘れがたき 故郷(ふるさと)

2.如何(いか)にいます 父母
      恙(つつが)なしや 友がき
      雨に風に つけても
      思ひ出(い)づる 故郷

3.志(こころざし)を はたして
    いつの日にか 帰らん
     山は靑き 故郷
     水は淸き 故郷                            (恙:病気や災難を意味する)
  私流の解釈で、今なぜ“ふるさと”がなくなったと私が考えているかを考えてみたい。先ずは、唱歌「ふるさと」の歌詞を参考にしながら私見を述べたい。

  1番では、自分が遊んだり関わりを持った山や川などの自然について述べている。漫然とそれらが“ある”のではなく、自分が関わりを持っていた地域の自然や神社や公園などがあり、そこにはいろいろな思い出があると言うことだろう。

  今の子供達には、関わりを持った自然や場所がどれだけあるだろうか。私の場合は、村の背後にある大師山(泰澄大師ゆかりの山)は、中学生時代に子供だけでキャンプをした思い出の山である。

  栗を拾い、アケビを取り、山菜を採った山でもあり、何度も足を運んだ山であるのだ。麓では、まっすぐな木をのこぎりで切り、それを剣にしてチャンバラごっこをした山でもある。薪を取りに何度も足を運んだ山でもあるのだ。

 村の神社にも多くの思い出がある。毎年夏休みには、ラジオ体操をし、ソフトボールをし、箱を並べて勉強をした思い出がある。

  祭りには、太鼓を叩き、秋祭りなどには、民謡やフォークダンスを踊った思い出の場所でもある。また、子供を背負う帯をまわしにして相撲を取った場所でもある。

孫にとっては、豪雪もふるさとの思い出になるのだろうか。

 村の中も思い出の場所である。村中を舞台に大がかりな“鬼ごっこ”や“缶蹴り”、“ポコペン”、“瓦倒し”など様々な遊びを行ってきた。防火用水は、泳ぎの場であ離、魚を釣った場所でもあった。

  季節季節に、どこにどんな果実が実るのかを知っていて、拾いに出かけたところでもある。柿、梅、桑の実、銀杏等を拾いに回ったところでもあるのだ。

  村の付近を流れる川は魚を釣った場所であり、九頭竜川も水泳や魚を捕まえた思い出の詰まったところである。自分が関わった思い出の場所なのだ。

  2番目では、父母や友達が出てくる。父母は、凛としていた。怖い存在でもあったが、よき理解者でもあった。また、遊んだ仲間も地域には多かった。また、いろんな遊びや道具の使い方を教わった先輩達がいる。将棋などを教わった大人や先輩がいる。

  私がギターに興味を持ったのも、村の先輩達が弾いているのを見て興味を持ったことがきっかけだった。このようにいろんな人たちと多くの関わりを持った自分の地域は、ここを離れても思い出すであろう。

  3番では、いつかは帰りたいと思う。それだけ、自分の居場所のあった地域と言うことになるのだろう。それが“ふるさと”と言うことではないか。

  今の子供達は、自宅と学校または習い事をする場所を行き来していることが多い・大人も、職場と自宅を行き来するだけのことが多い。家がどこかへ移っても、そんなに困らないのではないか。

  昔に比べると、地域とも、周囲の人とも、関わることが非常に少なくなっている。これでは、“我が家あってふるさとなし”と言われても仕方がないであろう。

  それなら、どうすればよいのか、ここらか持論を展開したいと思う。理屈だけではなく、自分のやってきたことをまじえて話すことができればと思っている。

太鼓のバチの振り方を練習する春駒太鼓のメンバー。

(日記:午前中、里芋の土寄せ。マルチを半分外して於いて、溝を作りそこに少し蔬菜肥料を入れ、鍬で里芋の根本に土を寄せた。非常に熱く、汗はだらだらと出て、体重も減ったようだった。その後、シャワーをして休憩し、今度は事務所横の家庭菜園を耕した。そして、ニンニクを収穫した後に黒瓜を植えるための場所を作った。とにかく今日は熱かった。午後は、パソコンで「我が家あってふるさとなし」の原稿作りをした。午後7時半から和太鼓の練習。今日も事務所の机を叩いてイメージトレーニング。新しいポジションの者だけ太鼓を使って腕の振りを練習。)

 
 

「断捨離」から思うこと

21 6月
どこで金を使うか
  最近、「断捨離」という言葉をよく聞く。「断捨離」とは、“ヨガの「断業」、「捨行」、「離行」という考え方を応用して、人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考え”だそうだ。単なる片づけとは一線を引くという。
断=入ってくる要らない物を断つ
捨=家にずっとある要らない物を捨てる
離=物への執着から離れる

  私には、「断」も「捨」も「離」も難しい。ただ、モノに対する執着は、そんなにないと思っている。ブランド品を持ちたいとは夢にも思わない。

  モノに関して言えば、毎日使うモノにはケチケチしたくないという想いはある。滅多に使わないモノは買わないか、買っても安価なものにする。そのように気持ちは変化してきている。

  午前中、家の片付けをした。温風ヒーターがたくさんあるのだ。それと昔型の電気を使わないストーブもある。もしも、冬に何かの事故で停電になってしまったら、いくら灯油があっても温風ヒーターは使うことはできないから、昔型のストーブも捨てられないことになる。

  こんなことを考えていると、捨てられそうで捨てられないものが、物置を占領してしまう。そろそろ捨ててもいいようなドラムの部品が物置にある。

数日前に買ったドラムの教則本。これではいつまで経っても、古ぼけたドラムは捨てられない。

  大学時代は石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」でのドラマー姿にあこがれて、ドラムをたたいていたが、今後、ドラムを叩くことがあるだろうか。

  70歳を目前にして、ドラムを叩くことは先ずないだろう。ところが、1週間前に、楽器店へ寄った際、ハワイアンギターの弦を2セット注文してきたが(最近では楽器店でも売っていない)、ついでにドラムスティックとドラム教則本を買ってしまったのだ。

  これでは、車庫の二階にあるドラムセットは当分の間、捨てられない。キーボードも、ギターも、ウクレレも、当分の間持ち続けることになるだろう。

  断捨離は、いつまでもあこがれのままで、人生を送ることになりそうだ。何もない、今、座敷にあこがれるが、私にはまだまだ先のことになるかもしれない。

(日記:午前中、部屋の片付け。予想以上に時間がかかった。午後は、先ず、人前で話す資料をパソコンで作る。パワーポイントと互換性のあるジャストシステムの「アグリー」というソフトで作り始めた。来週、人前で話すための資料だ。午後、3時から午後6時半過ぎまで、畑でニンニクを収穫した。家内は収穫を終えたエンドウを取り去った。今シーズンは、これまでになく何度もエンドウを食べることができた。まだ収穫したエンドウがあるので、2、3回は食べられそうだ。ニンニクとエンドウの後に、家で待機しているキンカン瓜の苗を早く植えたい。明日は、畑を耕さなければならない。取り木をしておいたイチジクを自宅の植木鉢に植えた。今日は、たくさん汗を出した。こんな日はビールに限る。)

 
 

『ふるさとの踊り大会』実施に向けて

20 6月

いつか盆踊りが復活することを夢見て
  今年も盆踊りの準備のシーズンがやってきた。私は盆踊り復活に意義を認めている。しかし、おおくの人には理解しがたい行動に見えるかもしれない。

  健康の上からも、人と人との出会いの上からも、大いに価値があると思っている。そのため、ここ数年間必死で盆踊り復活のアクションを続けている。

  問題は、今の若い人たち(60歳未満)の人たちのどうして盆踊りの楽しさを味わってもらうかが最も大きな問題だ。経験したことのない人に経験してもらうことは大変なことだ。

『ふるさとの踊り大会』のポスター

  八尾や郡上八幡では子供時代から盆踊りに親しんでいるので、男女とも小中学生から高校生、青年層、壮年層まで誰もが民謡の楽しさを知っている。

  勝山では、先ずは60歳以上の人に50歳以下の人たちを引っ張っていただきたいと思っている。我が家では、息子の嫁と当時幼稚園児だった子供(孫)も見よう見まねで盆踊りの輪に加わってくれた。

  今は、息子の仕事の関係で都会へ出てしまったが、こうした年代の者が参加してくれるとありがたい。勝山では、まだまだそのレベルに達していない。大野の方が先を行っている。

  今日も、盆取りに先立って行われる芸能発表についていろいろお願いの電話をかけた。また、実行委員長の所へポスターを持って行って、「食(手打ちそば)」について相談しようとしたが、不在。後で電話で相談させていただいた。

  ほかにも、民謡伴奏隊で尺八グループを引っ張るUさんのお宅へもお邪魔して、芸能発表時のキー(歌の音程)について打ち合わせを行った。

じいちゃん、ばあちゃんと村岡での盆踊り(中:孫、前:家内、後:私)。

  一人でも多くの人が盆踊りに顔を出して下さることをお願いしたい。そのためにも、民謡の練習会を開催したいし、練習会に参加できない人のために、DVDでも作れればと本気で思っている。

  ここ1ヶ月はまだまだすることがある。一人でもこの「盆踊り復活」のアクションに賛同して下さることを願いたい。わずかに協力者が増えていることはありがたい。

  夕涼み会や祭り等で盆踊りをやってみたいという地区があれば、出かけて行って盆踊りを教えてあげたいと思う。あちこちで、民謡の楽しさが広がることを期待して。

見よう見まねで盆踊りを楽しむ孫(当時幼稚園年中組)。

  踊りの場は、出会いの場であり、世代間交流の場であり、地域活性化の場でもある。それらが盛り上がったとき、多少は観光にもつながるのではなかろうか。まだまだ先のことだが。

(日記:午前中、盆踊りのポスター作成。午前11時半から北部中学校で選択音楽の『和太鼓』指導。かなり上手になってきた。そろそろ2学期の初めに行われる文化祭のための練習も始めなければならない。北部中学校の帰りに、尺八のUさん宅へ寄り、『ふるとの踊り大会』について打ち合わせ。その後、実行委員長宅へポスターを届ける。午後、100万ボルトでプリンターのインクを買いに行く。7色あるが常に各色3本はスペアを準備している。その後疲れて1時間昼寝。最近疲れているのだろうか。退職してから数回しかしてないが。目を覚ましたあと、草刈り機を持って午後6時過ぎまで畦の草刈り。途中で知り合いに会い、立ち話をする。楽しい。汗びっしょりになったのでビールがうまい。)

 
 

半年、一年後の楽しみ

19 6月

実りを手に入れるには
  私は、結構家庭菜園に力を入れている。と言うよりも楽しみでやっているのだ。それぞれの野菜の育ちを見るのは楽しいものだ。今実りを得ようとしたら、半年または一年ほどまえから準備しなければならない。

  今年は、エンドウをたっぷりと食べることができた。終わりに近づいているがまだ収穫できる。しかし、今、このエンドウを食べることができるのは、昨年暮れにエンドウの種をまいておいたからだ。

ジャガイモの収穫後に畑へ植えるため、自宅で出番を待つキンカン瓜や黒瓜の苗。

  今日は、イチゴの株をいただいた。昨年まで毎年イチゴを育てていたが、昨年の工事で全て株ごと枯れてしまったからだ。そこで、今年は〇から始めようと、収穫の終わったイチゴの株をいただいたというわけだ。

  数日前から、堆肥を入れ、耕しておいた畑にいただいた収穫を終えたイチゴの株を植えた。イチゴは蔓(ランナー)を出し、次々と子孫を残そうと、着地しては根を出し、そこから芽が出るのだ。これを後日,植え替えればイチゴの苗ができるのだ。

  法人の集団の畑へ行くと、いろんな情報が入り、足りないときには里芋の種芋をもらったりすることもある。今日いただいたのも、法人の畑でイチゴを作っている80歳のNさんからいただいたものだ。

畑で使う麦わらをとるためコンバインはわらを細かく切らないで脱穀してくれるのだ。

  これで、来年の6月にはイチゴを食べることができるだろう。毎日作業をするわけではないが、ずいぶん先の話だ。里芋も半年以上はかかるだろう。今年植えた富有柿はいつ収穫できるだろうか。

  「桃栗三年、柿八年」と言うからずいぶん先のことかもしれない。今収穫し、食べているニンニクも昨年11月に植えたものだ。今、まもなく収穫できるジャガイモは、春に植えたから比較的早く収穫できるものだ。数日で収穫できるものでないから、それだけに楽しみがある。

  このように「時間をかけることによって成果を得ることができる」という体験を子供達にもしてもらいたいと思う。昨日の紙芝居『白山平泉寺物語』にしても、絵を描き始めてから紙芝居として完成するまでには5年はかかっている。

  今、制作している『数学のホームページ』も、ある程度完成するまでには数年はかかりそうだ。完成すればそれなりに値打ちがあると思うのだが。

  自宅には、出番を待っている黄色の「キンカン瓜」や奈良漬け用の「黒瓜」の苗がたくさんある。ジャガイモが終われば、直ちに畑へ移動するのだ。山菜講座でいただいた2本のウドの苗も、鉢の中で元気に育っている。

  ウドは、近々、庭の一角に植えようと思う。このウドから食べるためのウドを収穫できるようになるには1、2年はかかるのではないか。こうして、次から次へと「次のための準備」をしておけば、いつでも収穫が得られるというわけだ。

  イチゴの株を植えながら、先ずは多くの立派な苗を育てること、そして、来年の6月頃には真っ赤なイチゴを収穫することを想像していた。

  私は、自分で米を作ってはいないが、米はこの辺りでは1年に1回しか収穫できないから、いくら頑張っても生涯に数十回しか収穫できないということになる。それだけ時間がかかる作物というわけだ。

家の前で遊ぶ長女の子供(孫)達。カブトムシ模様のTシャツを着てカブトムシのおもちゃを引っ張り回して遊んでいた。

(日記:午前中、部屋の片付け。紙芝居に利用した白山や平泉寺関係の資料などを元の位置へ納めた。午前11時頃、長女が二人の子供(孫)を連れ、仕事を持って福井からやってきた。妻は、子守。二人のヤンチャ坊主達が結構家の中を荒らしてくれた。午後、苗を取るためにイチゴの株をいただいて自分の菜園へ植えた。その後、畑のショウガにかぶせる麦わらを取りにコンバインで麦を刈っている田んぼへ出かけた。自宅で、鉢植えのイチジクの植え替え。シャワーをして久々の昼寝。こんな時に限って来客があるものだ。長女達は午後6時に帰って行った。)

 
 

紙芝居『白山平泉寺物語』初演

18 6月

さつきの見える部屋で
  勝山城博物館の館長である深谷館長のお宅で、花中会の研修会があり、そこで紙芝居『白山平泉寺物語』を初めて演じた。読み手と絵の入れ替えは妻春美が、私はギターでBGMを入れることと、一部の男の会話部分を担当した。

  平泉寺850年あまりの繁栄の歴史とその後の平泉寺を紙芝居にしたが、皆さんに理解していただくにはかなり苦労した。紙芝居だけに上演時間は30分が限度と考えて場面を構成した。

  自宅で二度練習し、六時から本番だった。終わった跡、いろいろ感想を聞かせていただいた。皆さん好意的に捉えて下さったようで安心した。

頼朝、信長、秀吉、家光、朝倉義景など、そうそうたる歴史上の人物が登場する紙芝居『白山平泉寺物語』のポスター。

  紙芝居を制作しながら考えたことは、平泉寺の存在感の大きさだった。信長や秀吉、徳川幕府等も、平泉寺にはそれなりの扱いをしていたようである。もちろん福井藩や勝山藩も同様であった。

  平泉寺が一向一揆に破れたあとでも、江戸時代の間は、それなりの扱いを受けていたようだ。それまでの平泉寺の存在を無視できなかったのではないかと思われる。

  紙芝居を見ていただいた後の参加者の皆さんの感想は、「平泉寺というとこけが素晴らしい」、「菩提林が素晴らしい」等しか思いつかなかった人でも、「平泉寺の知らなかった部分が少し分かってきた」と言って下さった。

 また、上演時間は三〇分ちょっとだったが、「夢中で見ていたのでとても短く感じた」と感じたと言っておられた。もう少し改善して、これからも夫婦で紙芝居『白山平泉寺物語』を上演していきたいと思う。世界遺産を目指す平泉寺なのだから。

(日記:午前中、妻・春美と紙芝居の練習。午後も一度練習して、午後3時過ぎに会場となる深谷邸へ準備に行く。午後6時から元町周辺の女性の会・花中会で紙芝居『白山平泉寺物語』を初上演。その後、会員の皆さんと会食。途中で、皆さんと歌を歌った。私はアコーデオンで伴奏をした。楽しい時間を持つことができた。途中でみなさんの“最近はまっていること”を聞かせていただいた。興味深かった。充実した一日だった。家内もそう思っただろう。デジカメを持って行ったが、写すことができなかった。どなたかが写しておられたので、データをいただけたらと思う。)

 
 

紙芝居『白山平泉寺物語』の総仕上げ

17 6月

念願の退職プロジェクト
  昨年3月の退職に当たり、いくつか自分のやりたいことを考えてみた。それらを総称して「退職プロジェクト」と名付けてその実現に努力してきた。「地域のため、家族のため、自分のため」に何かしたいと考えてのことだ。

  紙芝居を作ることもその一つだった。紙芝居で演じたいことは、いくつかある。自作の童話、平泉寺関係の物語、そして、教育的な内容のものだ。

朝倉景鏡が主君朝倉義景を大野へ誘う場面。

  平泉寺物語関係のものは、平泉寺の歴史と泰澄大師の伝記だ。どちらも絵のほとんどは完成していた。しかし、いざ紙芝居にしてみようとすると、場面は増えるばかりだ。

  元教員の性か、とにかく「相手に分かっていただきたい」ということで、話が長くなることだ。今回も、全部で47枚の絵を使うことになった。読み手は、家内の春美で、私は時々台詞を言うこととギターで音楽を入れることだ。

  今日は、二人で紙芝居の練習をしてみた。結構時間がかかりそうだ。見ている人が退屈をしないだろうか、気になるところだ。夜は、実際に紙芝居の箱に絵を入れて練習してみた。

  今回は、相手が大人なので、ロングバージョンで進めるので、三〇分ほどかかりそうだ。果たして興味を持って見ていただけるだろうか。

  子供向けは、15分前後で、再編集してみたい。平泉寺の歴史は、ほぼ勝山の歴史であり、日本の歴史の一部でもあると思う。平泉寺時代が800年あまりも続いたことが奇跡だ。もっと、もっとわかりやすい紙芝居『白山平泉寺物語』にしなければと思う。

紙芝居練習をする読み手の妻・春美。私は、音楽と台詞の一部を担当。

(日記:午前中、紙芝居の脚本校正と練習。午後は、畑でイチゴの苗を育てる場所を作る。空いている場所がないので、ニンニクをかなり掘り取った。小振りのものが多かったが、それでも、数が多いので満足だ。その後、紙芝居の絵の最終仕上げ。インターネットでニンニクの食べ方を調べたら、天ぷらがあった。家内が夕食に作ってくれた。家内も「ホロホロしていておいしい」と言っていた。私もそう思う。毎日でも食べられそうだ。夜も、紙芝居の練習。)

 
 

指を酷使か

16 6月

腱鞘炎で両指を手術
  私は、指を酷使しているように思う。先ず、パソコンだ。絵を描くし、字を書くし、歌を作る。いずれも、パソコンを指で操っているのだ。

  他にも、ギターや三味線を弾くし、時々キーボードにも触れる。オカリナもそうだ。指の能力を超えて、酷使しているように思う。

  おかげで、左手の親指が音を上げてしまった。ギターを弾こうにも、左の親指で弦をはじくことはないが、支えになっているので、苦労する。最近では、親指は能力の2割くらいしか機能していないように思う。

  これでは、10月のOB会で満足にギターを弾くことができない。思い切って手術をしていただくことを決めた。また、右手の中指は、放っておいたために限度を超えて少し曲がってしまったようだ。

 不便さと痛さが限界に達したので、今日福井のY病院へ行った。自ら手術して下さいとお願いした。一週間に一本ずつ手術していただくよう決めて帰宅した。

  片手ずつ手術をすると、長期間を要するので、帰宅してから思い直して、一度に手術していただくよう電話でお願いし聞き入れてもらうことができた。妻の協力は不可欠だ。

  特に、抜糸までの一週間は、水を使えないので苦労しそうだ。すでに、左手の中指はこのY 病院で手術していただいていて痛みがとれているので、今度も痛みから解放されることを期待している。

  少し指を休めたいが、なかなかそうもいかない。音声入力を考えているが、うまくいくのだろうか。研究してみたいと思う。

(日記:午前8時から11時まで、法人の畑の里芋の草取りと里芋の余分な茎を切る作業に出た。男女10人あまりが参加した。平日に出られる人ばかりだった。いろんな話をしながらの作業でとても楽しかった。その後、自分の畑の里芋も同じように草取りと茎をとる作業をした。私が借りている畝のショウガは少し芽が出ていた。午後は、福井のY病院へ出かけて腱鞘炎の手術をお願いしてきた。今月末に2本の指の手術をすることになった。痛みと不便さから早く解放されたい。帰りに楽器屋へ寄ってハワイアンギターの弦を2セットちゅうもんしてhw) 

 
 

「にんにく」豊作か!?

15 6月

「にんにく」初収穫
  私はかねてから、家庭菜園でニンニクを栽培しようと考えていた。しかし、昨年、種(球根)を購入することを忘れてしまった。時期が遅かったのでどこにもニンニクの種は売っていなかった。そこで、スーパーへ行って食用に売っている中国産ニンニクを買って、家庭菜園へ植えたのだ。

我が家の家庭菜園で育ったニンニク。

  知人に聞いてみると「食用のニンニクは芽が出ないような処理がしてあるので植えてもだめでしょう」という返事が返ってきた。しかし、もう種は売っていないので、その食用ニンニクを畑に植えるしかなかった。

  ところが、昨年暮れに次ぎ次々と芽が出てきたのだ。もしかしたら収穫できるかもしれないと思った。そして、雪が降り冬になった。雪が解けると、ニンニクは成長を始めた。植えた個数は200個以上はあるだろう。

  今日、初めて掘ってみたところ、予想外に立派なニンニクがとれた。この調子なら、1年に使うニンニクの何倍も収穫できそうだ。非常にうれしかった。

  ニンニクと言えば、子供の頃に、焼いて食べたのを覚えている。おいしい。臭いがきついので、いつも祖母から言われたものだ。「明日学校へ行くんなら食べたらあかん」と。ニンニクを焼いて食べることができたのは、長期の休日や土曜日だけだった。

家庭菜園横の土管に植えた花。信号で止まった車の運転手さんに見てもらえるだろうか。

  今年はたっぷり食べることができそうだ。ニンニクを消す方法があると、昔、体育の先生から教わったことがある。それは、すり下ろしたに卵黄を入れてフライパンで煎るという方法だった。スタミナがつくし、あまり臭わないという。

  何度かやったことがある。今は退職しているので、翌日、特別に用事がないときには、ニンニクを食べることができそうだ。今日収穫したニンニクは、家内が「醤油漬け」にしてくれた。ニンニクの醤油漬けはスーパーで今でもよく買うが、カリカリとおいしい。

  中国の食用ニンニクを種にして植えたニンニクって「国産?それとも中国産?」。私は、農薬を全く使っていない。国産だと思って安心して食べることができそうだ。

和太鼓のイメージトレーニング。先ずは、曲目を頭の中へインプット。私の事務所にて。

(日記:午前中、家内と紙芝居『白山平泉寺物語』の読み合わせ。校正。「おしまい」の画面を印刷。午後は、ニガウリの支柱立て。ナスの苗の植え替え。トマトの脇芽を取ってきてポットに指した。富有柿の苗を買ったので、とりあえず、大きめの植木鉢に植えた。家内は、児童館の土管に花を植え替えた。そして、キウイの摘果をしている。キウイ棚の下は、小さなキウイでいっぱいだ。かわいそうにと思うが仕方がない。摘果しないと大きな実にならないからだ。午後7時半から和太鼓の練習。若い者と練習するのは本当に楽しい。)

 
 

ようやく紙芝居の絵が完成

14 6月

絵物語にしなければ
  数年前、せいぜい10枚ぐらいの絵を描けば、紙芝居ができるあろうと思っていた時期があった。しかし、いざ話を考えてみると、それでは平泉寺の素晴らしさが全く伝わらない。そこで、絵の枚数を30枚ほどに増やした。

  しかし、それでも平泉寺のすばらしさは、十分伝えられない。それほど、平泉寺物語の話は中身が濃いのだ。今回、紙芝居を制作するに当たって、絵を増やして、全部で43枚にした。そして、ようやく最後の絵を描くことができた。

牛首・風嵐村(越前馬場)と尾添村(加賀馬場側)との争いが福井藩と加賀藩の対立に発展し、幕府の裁定に委ねた場面。

  しかし、最後の部分は相当省略して話を書いた。いつの日か、『泰澄和尚伝記』も含めて、絵物語を描いてみたいと思う気になった。絵をたくさん入れて文字数を制限されずに自由に描いてみたい。

 今日は、朝から午後6時まで、もっぱら絵を描きまくったが、たった2枚にしか描くことができなかった。一枚は、越前馬場側の牛首・風嵐村と加賀馬場側の尾添村の争いから、福井藩と加賀藩の対立に至る部分の絵と、最終部分の絵だ。

  白峰など「白山麓16ケ村」が福井藩に属していたこと、それが幕府に取り上げられて「天領」となり、その後、石川県になってしまったことは興味深かった。それと同時に、平泉寺が、徳川幕府に保護されていたことも、同様に興味深い話だ。

  しかし、明治政府の神仏分離令によって平泉寺は、寺領の全てを取り上げられてしまったのだ。その背景には、明治政府が、江戸幕府と密接に結びつき、政治に大きな力を及ぼしてきた仏教の各宗団を排除し、日本古来の神道を重視する政策を強力に押し進めたからである。

最終場面。泰澄・秀吉・信長・将軍家光・後醍醐天皇・朝倉氏などの登場人物が記念撮影!?

  こうした幾多の歴史を秘め、最盛期には、四十八社・三十六堂・六千坊といわれる栄華を誇った平泉寺境内の多くは今も静かに地中に埋もれているのだ。

(日記:紙芝居の絵を描く。ようやく、最後の絵を描くことができた。途中で、春江町中庄地区の新民謡『中庄小三郎音頭』の女性用カラオケCDを作った。男性用は、キーが少し高いからだ。春江からSさんがわざわざ勝山までカラオケを取りに来た。家内は、終日、入院している孫の付き添いに出かけて一人だった。畑を見るとかなり雑草が増えてきた。しかし、家庭菜園のおかげで好物のエンドウが毎日食べられるのがうれしい。キュウリも毎日とれる。これからが野菜の本番だ。)

 
 

一目置かれた平泉寺の存在

13 6月

無視できない平泉寺の存在
  紙芝居『平泉寺物語』を作っていてすごいと思うことは、「平泉寺の存在感の大きさ」だ。例えば、関ヶ原の戦いで「越前六八万石」を拝領した結城秀康は、翌年福井に入ると直ちに、平泉寺に対して二〇〇石を寄進していることだ。一向一揆に破れ弱体化した平泉寺であったが、存在感はあったということだろうか。

紙芝居『平泉寺物語』野表紙絵。ようやくここまで来た。背景の写真は私が小舟渡付近で写したもの。

  その後も、福井藩は、平泉寺に対しては手厚く扱っている。また、徳川将軍家も、平泉寺に対して二〇〇石を寄進しているし、松平氏の勝山藩時代もその後の小笠原氏勝山藩も、平泉寺に対して三〇石をん寄進している。

  さらに、平泉寺は、それまで比叡山延暦寺の末寺であったが、幕府が国家の祈願所として建立した上野の寛永寺の末寺になった。そのため、平泉寺は幕藩体制の中でもっとも権威のある後ろ盾を持つことになったのである。

  その後、越前馬場(平泉寺)系の牛首・風嵐村(白峰村)と加賀馬場系の尾添村(が杣取権(そまとりけん、伐採の権利)をめぐって激しく張り合っていたが、その後、越前藩と加賀藩の対立になり、.その裁決は幕府に委ねられることになった。

平泉寺に寄進した将軍や藩主。それだけ存在感があったということだろう。

  この結果、幕府は、牛首・風嵐を中心とする越前の「白山麓16ケ村」と加賀の尾添・荒谷の「2ケ村」を越前・加賀藩から取り上げで幕府領(天領)として越前でも加賀でもない「白山麓18ケ村」が成立したのである。

  そして、天領とな白山は、幕府から改めて朱印領二〇〇石として、平泉寺に与えられたのである。平泉寺は幕府によって、泰澄が開山した当時と同じように白山に対して絶対的な立場を占めるようになったのである。すなわち、白山三社は、平泉寺が独占することになったのである。

  幾多の変遷を経ながら、平泉寺優位で推移してきた(この間の騒動も異常に興味深いものがある)。そして、明治新政府が掲げた神仏分離が、廃仏毀釈へとつながり、平泉寺は、全ての寺領を取り上げられ、単に「白山神社」改めらることになった。

  一向一揆に破れ、全山焼失した平泉寺であったが、その後も、存在感を示していたのだ。こうした平泉寺の歴史は、非常に興味のあるところである。

オカリナ教室。今日は入会希望者のHさんが見学にやってきた。(於:山児童館)

(日記:午前、午後とも、紙芝居の仕上げ作業。夕方、畑でキュウリの消毒。トマトの脇芽取りと支柱へのくくりつけ。午後、7時半より、オカリナ教室。新たな入会希望者が見学に来た。久々のオカリナ教室であったが,楽しかった。)