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一目置かれた平泉寺の存在

13 6月

無視できない平泉寺の存在
  紙芝居『平泉寺物語』を作っていてすごいと思うことは、「平泉寺の存在感の大きさ」だ。例えば、関ヶ原の戦いで「越前六八万石」を拝領した結城秀康は、翌年福井に入ると直ちに、平泉寺に対して二〇〇石を寄進していることだ。一向一揆に破れ弱体化した平泉寺であったが、存在感はあったということだろうか。

紙芝居『平泉寺物語』野表紙絵。ようやくここまで来た。背景の写真は私が小舟渡付近で写したもの。

  その後も、福井藩は、平泉寺に対しては手厚く扱っている。また、徳川将軍家も、平泉寺に対して二〇〇石を寄進しているし、松平氏の勝山藩時代もその後の小笠原氏勝山藩も、平泉寺に対して三〇石をん寄進している。

  さらに、平泉寺は、それまで比叡山延暦寺の末寺であったが、幕府が国家の祈願所として建立した上野の寛永寺の末寺になった。そのため、平泉寺は幕藩体制の中でもっとも権威のある後ろ盾を持つことになったのである。

  その後、越前馬場(平泉寺)系の牛首・風嵐村(白峰村)と加賀馬場系の尾添村(が杣取権(そまとりけん、伐採の権利)をめぐって激しく張り合っていたが、その後、越前藩と加賀藩の対立になり、.その裁決は幕府に委ねられることになった。

平泉寺に寄進した将軍や藩主。それだけ存在感があったということだろう。

  この結果、幕府は、牛首・風嵐を中心とする越前の「白山麓16ケ村」と加賀の尾添・荒谷の「2ケ村」を越前・加賀藩から取り上げで幕府領(天領)として越前でも加賀でもない「白山麓18ケ村」が成立したのである。

  そして、天領とな白山は、幕府から改めて朱印領二〇〇石として、平泉寺に与えられたのである。平泉寺は幕府によって、泰澄が開山した当時と同じように白山に対して絶対的な立場を占めるようになったのである。すなわち、白山三社は、平泉寺が独占することになったのである。

  幾多の変遷を経ながら、平泉寺優位で推移してきた(この間の騒動も異常に興味深いものがある)。そして、明治新政府が掲げた神仏分離が、廃仏毀釈へとつながり、平泉寺は、全ての寺領を取り上げられ、単に「白山神社」改めらることになった。

  一向一揆に破れ、全山焼失した平泉寺であったが、その後も、存在感を示していたのだ。こうした平泉寺の歴史は、非常に興味のあるところである。

オカリナ教室。今日は入会希望者のHさんが見学にやってきた。(於:山児童館)

(日記:午前、午後とも、紙芝居の仕上げ作業。夕方、畑でキュウリの消毒。トマトの脇芽取りと支柱へのくくりつけ。午後、7時半より、オカリナ教室。新たな入会希望者が見学に来た。久々のオカリナ教室であったが,楽しかった。)

 
 

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