捨てることの難しさ
「モノ」のない部屋って本当に気持ちがいいと思う。しかし、自分に当てはめてみると、次々に増える書籍類、いつかどこかで何かの役にだ立つのではないかと思うと、雑誌以外は簡単に捨てられない。
今日は、事務所(山児童館)の屋根裏を片付けることにした。ここには、捨てられる直前の楽器類がたくさん保管すてあった。ゴミとして捨てられる直前の楽器を、もしかして何かの役に立つのではないかと思ってもらってきたものだ。
保管に困って、屋根裏に保管しておいた。しかし、この十年ほど全く使うことはなかった。そこで、今日はこれらを処分することにした。まだまだ使えそうだったが、私自身は使わないだろうと思って、心を鬼にしながら処分場へ持って行った。
それにしても、まだまだ捨てたいものがある。しかし、簡単には捨てられない。それは、自分が使うかどうかは別として、まだまだ使えるものが多いからだ。そうしたモノの多くは、たぶん自分は使わないだろうと思うのだが。
使えるモノを捨てるというのは、戦後の物不足の時代を生きた私には、非常に困難なことだ。どうしても「もったいない」という気持ちが働くからだ。
・・・・・・・・・・インターネットより・・・・・・・・・・・
断捨離とは、ヨガの「断行」、「捨行」、「離行」という考え方を応用して、人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考え。
断=入ってくる不要なモノを断つ
捨=家にずっとある不要なモノを捨てる
離=モノへの執着から離れる
従来の「もったいない」「まだ使える」というモノを軸とした考え方ではなく、「このモノは私に相応しいか」と問いかけてみる……つまり、主役はモノではなく「自分」。「モノと自分との関係性」を軸に取捨選択していく技術のこと。
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私は、モノに対して「もったいない」とか「まだ使えるのではないか」と考えている。これではいつになっても断捨離は実行できない。これは、モノに心をとらわれているからだろう。
「もしかしたらいつか自分に必要になるのではないか」と思っているうちは断捨離は困難だ。もっと、シビアに考えて今の自分に必要かどうかを判断し、不要となれば心を鬼にして実行しなければならない。
「モノのない部屋に住めたら気分がいいだろう」と思いながら、簡単になモノを捨てられない自分が情けない。それでも、今日のように「今の自分に必要か」と問いかけたとき、必要ではないということで、少しだけだがゴミ処理場へ持って行くことができた。
しかし、捨てる瞬間、モノに対しては「申し訳ない」という気持ちが心のどこかに湧き上がっていた。断捨離は、私にとっては、まだまだ「言うは易く行うは難し」というところだ。
(日記 午前9時頃から、事務所の屋根裏の楽器類を整理し、軽トラックでゴミ処理場へ運んだ。その後、事務所の台所なども整理。昼前に、生姜を10株以上取ってきた。そして、家内と二人で1mmぐらいの厚さにスライスし、並べて乾燥した。生姜の粉末を作るからだ。午後も、断捨離実行。しかし、思うほどの成果が上がらなかった。まだまだ、モノに対する執着心がある。もう一押し、二押ししなければならない。)