マザーテレサの言葉
「“愛する”の反対は何?」と問われたら、なんと答えるだろうか。「憎む?」それとも……。一瞬迷う。あのマザーテレサの言葉は「無関心」だそうだ。
そう聞いて「なるほど」と思ったものだ。しかし、最近、その通りだと実感するようになった。地区で何かしようとするとき、「地区を愛する」気持ちが弱いと何事にも無関心になるのだ。
「愛郷心」という言葉があるが、「故郷に対して無関心である」はまさに対極にある言葉かもしれない。ということは、故郷を愛してもらおうと思ったら、故郷に関心を持ってもらわなければならない。
言うのは簡単だが、ふるさとに関心を持ってもらうことは簡単ではない。自民の住む地域に対しては、まるで空気のような存在で、関心があるかないかを考えもしないのではなかろうか。
さまざまな行事などを通して、地域に関心を持ってもらいたい。それには、今住んでいる地域がどんなところだったのか、過去の興味ある歴史を紹介していきたい。そんなわけで瓦版を作っている。
「見える化」も大切かもしれない。そんなわけで、「四季折々の花の咲くまち」づくりも進めているつもりだ。きれいな花を見て、その運動に参加してみたいと思うか、それとも、そんなことには全く無関心でいられるのか、どうだろう。
花に無関心であってもかまわないが、皆さん、毎日何に関心を持って生活しておられるのかは知りたい。それぞれの関心事が、まちづくりや地域の活性化につながればいいのだ。
「愛する」の反対を「無関心」と語ったマザーテレサの気持が、私には今になってよくわかる気がする。大切で重い言葉だ。何事にも関心を持つ、そんな次世代を育てなければと思う。
(日記 午前中、創作育児紙芝居の絵を描いた。たった一枚の絵に半日かかった。午後は、ネギを植える場所を耕した。その後、藁を細かく切ってしょうがにかけた。そして、田の畦の草刈り。午後7時半より、和太鼓の練習。午後9時過ぎに、太鼓のメンバーと家内といっしょに蛍を見に、浄土寺川へ出かけた。昔なら、どこででも見られた蛍が今では特定の場所でしか見られなくなった。かなりの数の蛍が川岸や川の上を飛び交っていた。しばし、眺めながら昔を思い出していた。)
寺田幸彦
2012年7月5日 at 12:19 AM
心象絵図の考案者でもある滋賀県立大学の上田洋平先生からいただいた嬉しいお言葉です。
今でもメンバーが大事にしている宝物です。
【ふるさとを愛するということは、どういうことでしょうか。
それを知りたければ上丹生に行きなさい、と私は人に言いましょう。
上丹生に行って、誰でもいい、そこに住む人の顔を見てご覧なさい、と言いましょう。
たとえば、上丹生プロジェクトKにかかわる人々に出会って、その話を聞き、その顔を見る。
すると誰でも、あ、この人は、誰かに恋をしているナ、とすぐに感づくはずです。
いったい誰に恋しているかというと、自分たちのふるさと上丹生に恋をしているのです。
皆さんそういう顔をしておられる(プロジェクトKの面々はとくに重症ですね)。
人はだれでも自分のふるさとを愛しているもの。
「私の村には何もない」という人々にもたくさん出会いますが、私はそれも郷土への愛と誇りの裏返しだと思います。
そんななかで、ふるさとを愛するということにかけて、こんなにひたむきで、愉快そうで、あからさまな人々に出会うことはなかなかありません。
そしてそれはとても素晴らしいことだと思います。
さらにうれしいことは、私のようなヨソモノが、そこに交じって、そこの人々と一緒になって、上丹生を共に愛するのを許してもらえているらしいことです。
というよりも、上丹生の人たちの隣にいると、私のような者も、あっという間に、その郷土愛に感染してしまう。
上丹生も相当歴史ある集落ですから、酸いも甘いもそこはいろいろあるでしょう。
昨日今日のヨソモノには到底分かりえない人情の機微もあるに違いない。
だから私のようなヨソモノが、上丹生を愛するなどと言うのは大変おこがましいのですが、気がつくと、誰か遠くから来た客人に向かって、当地の素晴らしさを、まるで自分のふるさとのことででもあるかのように、宣伝したりしているのです。
さて、大学やマスコミでは地方の疲弊が伝えられ、それを何とかしようとさまざまな論評がなされ、議論が繰り広げられている。
それは大事なことです。
大事なことですが、その一方で、たとえば学生は、もっともっと、上丹生のような地域に出かけ、ふるさとのことを本気で愛し、悩み、楽しんでいる大人たちと出会ったほうがいい。
先生の教えに感染する前に、その土地に住む人々がその土地にそそぐ郷土愛、その熱に感染したほうがよいと思っています。
残念なことに、いまの若者たちには、ひたむきにふるさとを愛する大人たちの姿に接する機会が極めて少ない。
それどころか、かえって、自分の親から「この町はなんにも良いところがないよ」と聞かされ続けて育ったりする。
大人たちがあきらめている場所に、子供たちはすすんで愛を注ぎ続けられるものでしょうか。
しかし上丹生はそうではない。
当地の人々は、「ふるさとはこうして愛するものだ」というお手本を、私たちに示してくれる。
それを思い出させてくれる。
現代人、とりわけ若者はいま、「所在無さ」に立ちすくんでいます。
たとえば、「からだ」をつくる材料はグローバル化しています。地球の裏側から食料を譲ってもらっている。
「100%国産の日本人」というのは、もはやいないのではないでしょうか。
では毎日「いただきます」というときに、ちゃんとその地球の裏側のことまで思って手を合わせているかというと、あんまり相手が遠すぎて、そのありがたさが実感できない。
それどころか、「外国産? 信用できないなあ」と疑ってかかってさえいる。
「こころ」はどうか。
こころはのっぺらぼうで百面相です。
都会のアパートでは、隣の人はどんな人か知らない、お互いに顔が見えないような、いわゆる無縁社会。
そうかと思えば一人ひとりはその場その場でいくつもの顔を使い分けて、それで「本当の自分はどこにいるのだろう」と言っている。
「空気を読む」のにへとへとになって「自分はここにいてもいいのだろうか」などと悩んでいる。
そして「たましい」は「千の風」です。
お墓にはいない。あちこちを気ままに吹きまわっている。先祖も子孫もありません。
私たちの「からだ」や「こころ」や「たましい」は、いま、どこに根ざしているのでしょうか。
私たちはいま「からだ、こころ、たましい」の「在所」を見失って「所在無い」のです。
「ふるさとを愛する」と言っても、そのふるさとのイメージさえ描き得ない人たちが増えている現代にあって、「ふるさととはいかなるものか」、「ふるさとを愛するとはどういうことか」を私たちに思い出させ、教えてくれる「郷土愛の感染源」。
上丹生は、上丹生の人々は、私たちにとって、そんな存在だと思います。】
坂川慶介
2012年7月5日 at 12:48 AM
この前ヘルマンヘッセの「少年の日の思い出」を読みました。中学生の時以来だと思いますのでかなり久しぶりです。その中で印象に残ったのが、少年の日珍しい蝶を探し出しあの息を飲んでつかまえるなんとも言いようのない何ものにも変えがたいどきどきわくわくした気持ちの表現が蝶の詳細な描写と共に書かれていた部分です。
先日、模型屋さんに行った時に色々な模型作りのパーツを見て「ヘッセの蝶をとらえる感動」と比べる訳にはいきませんが自分なりのかなりのわくわく感を覚えました。
サミュエル・ウルマンの「青春」も頭に浮かびました。
マザーテレサのお話大変興味深く読ませて頂きました。
「無関心」からは何も生まれず、人の行動の原動力は「ヘッセの蝶をとらえる時のあの感動の気持ち」に代表されるようにも思いました。地域の人が子供からお年寄までみんなで何か一つのことに感動出来たらそんな素晴らしいことはないと思いました。
Norio Yama
2012年7月5日 at 9:23 PM
上丹生は私の集落のかなり先を走っていますね。
そして、外部(よそ者)の目がそれらを後押ししているように思えます。
そのレベルに達するまでには多くの人達の努力があったのだろうと思います。
私達は、これからです。勉強させて下さい。
Norio Yama
2012年7月5日 at 9:34 PM
ワクワク感があるというのはいいことですよ。うらやましいです。
私も昔は、「あれもしたい」、「これもしたい」ということで早く明日になってほしいと願ったものです。
そんな気持をこれからも味わいたいですね。それには、.自分から動かなければ駄目だと思っています。