たかがオカリナされどオカリナ
極論を言えば、子どもが好きで大学(これは必要条件ではない)さえ出ていれば、誰でも教員になれるのではないかと思う。大学で学んだかどうかはそんなに問題ではない。
「明日から、教壇に立て」と言われたら、誰だって必死になるだろう。子どもの前では恥をかきたくいないから、それなりに教材研究をするだろう。こうした状況に2~3年置かれれば、だれでも立派な教員になれるのではないか。
それは、教えざるを得ない状況に置かれれば学ばざるを得ないからである。学ぶことに必然性があるからである。ただ、受け身的に学んでいたのでは、何年経っても知識は身につかないであろう。
そういう意味では、「教えることは学ぶことである」と言える。私も、このような状況に置かれていろんなことを学んで来たように思う。
「英会話を勉強したい」と思う人は少なくないと思う。しかし、長続きする人は少ないだろう。特に、勉強する目的が曖昧だと勉強に集中できず、そのうちに諦めてしまう。
もしも、明日から生徒の前で英会話を教えなければならない状況に置かれたら、事態は一変するだろう。学ぶ動機がはっきりしているので、勉強せざるを得ない。
また、海外で働かなければならない状況に置かれた場合も同様であろう。私も、ある時期、一生懸命英会話を勉強した時期がある。しかし、海外長期研修(一ヶ月)を終えたとたんに英会話熱は冷めてしまった。
そんな中で、オカリナを吹けたら と思って購入し、練習した時期がある。しかし、長続きはしなかった。ところが、今から2年あまり前に、「オカリナを教えて下さい」と知り合いから頼まれた。
私は、人に何かを頼まれた場合、ほとんど断ることをしない。オカリナも同様だった。別にこの楽器の経験者でもないので、気は楽だ。こうして、みんなと一緒にオカリナを練習することになった。家内も練習に参加した。
みんなのお陰で今もオカリナの練習を続けている。いろんな楽譜を探し、編曲し、練習用のCDを作ったりしている。最近ようやくオカリナの楽しさがわかってきた。時々人前でやるので練習にも気合いが入る。
何かを学びたいと思ったら、学ぶ目的をはっきりさせるか、学ばざるを得ない状況に身を置くかのどちらかだ。私は意思の弱いところがあるので、後者の方が自分に適しているように思う。
(日記 午前中、オカリナの編曲。その後、親父バンドの編曲。午後は、しょうがの土寄せ。その後、田んぼの畦の草刈り。春に一度草を刈ったのにかなり伸びている。年に三度は刈らなければならない。午後7時半からオカリナ教室。8月の「ゆめおーれフェスティバル」に出演するための練習だ。今日はみんなも乗っていて楽しく練習ができた。出番があると、気合いが入るものだ。)