「頑張って下さい」
今年二回目の中国人研修講座に講師として出かけた。午前9時から午前11時半まで男性1名を含む17名の受講生に日本について話すのだ。他の講師は日本での生活や、規則や、日本語について話しているらしい。
彼らは、約一ヶ月ここで日本語や日本のいろんなことを学んで、各職場へ配属されるのだ。名札には派遣先の会社名が書いてあった。一人一人がいろんな会社で日本人とまじって働くのだ。
私の講義は、ある程度自分に任されているので気楽だ。大きく分けると次の三つだ。『社会人として必要なこと』、『日本の四季・日本の農業・奥越の観光地などについて』、そして、『歌と踊り』だ。
講義開始に先立って、自己紹介から始めた。名前は、日本流の読み方だ。これは日本と中国の関係で、中国では日本人の名前を中国流に読みで、日本では中国人の名前を日本流の読み方で呼ぶのだ。
どちらも本人の名前とは別の言い方だ。本当の読み方ではない。両国とも頑固だ。韓国とはそうではない。自国で呼んでいるように発音するのだ。アメリカで日本をジャパンといい、日本でアメリカを米国というようなものだ。
彼らは、教えられたとおりに日本流の呼び方で紹介してくれた。「趣味」も付け加えるよう求めた。彼らは自己紹介の時に、自分の家族も紹介してくれた。そこで分かったことだが、既婚者が半分以上だった。
既婚者は、6歳ぐらいまでの我が子を中国に残して日本へ来ているのだ。相当の覚悟がないと、そんなことはできないだろう。毎回思うことだが、本気になって日本へ来ていることがよく分かる。
何か話すたびに、書き留めているのだ。堅い話の続く講義の中では、私の講義は息抜きのできる柔らかいものかもしれない。しかし、私としても、何か一つか二つは、いつまでも心に留めておいてほしいと思う。
どんない苦しいときでも、夢や希望があれば乗り越えられる。自分がそうであった。無ければ作ればよいのだ。知恵は無限にあるのだから。彼らのひたむきな姿勢は、きっと同僚の日本人にも好影響を与えるだろうと思った。
彼らに、期待しながら、話を続けた。途中の歌の時間だけ、家内の応援を頼んだ。毎回そうだが、『ふるさと』と『四季の歌』を教材にしている。通訳におおよその歌の意味を伝えてもらい、後は元気に歌ってもらえればそれでよいいと思っている。
おそらく彼らと一生会うことはないだろう。それでも、彼らに、何かを伝えたいと、私の方もいろいろ気を遣う。最後に、みんなで踊りを踊って別れた。通訳の先生は、私とは初めてのコンビだが、真面目でとても穏やかな方であった。
講義を終えるに当たって、「彼らの前途に幸多かれ」と祈らずにはいられなかった。まもなく、日本の会社で、研修生として働くのだ。身体に気をつけて、何かをつかんで帰国してほしい。彼らの素朴な笑顔が心に残った。
(日記 午前中、中国人研修センターで研修生17人に日本文化や仕事に取り組む姿勢などを語った。私にとっても楽しく充実した時間だった。午後は、村の広報誌『かたせ瓦版』を仕上げた。区民が読んでくれる瓦版にするために、自分では工夫したつもりだ。今日から、我が家のイチゴが食卓に上るようになった。おそらく二人では食べきれないだろうから、ジャムにしなければならない。そうすれば、子どもや孫達、そして知り合いにプレゼントすることができるから。)