幸福の尺度
国民の豊かさを表す指標として「国民総生産(GNP=Gross National Product)」や「国内総生産(GDP=Gross Domestic Product)」が使われてきたが、はたしてこれらの指数で国民の豊かさが測れるだろうか。
これらの指標に対して、最近、「国民総幸福量(GNH=Gross National Happiness)」が脚光を浴びている。
このGNHとは、1972年にヒマラヤの小国、ブータンのワンチュク国王が提唱した「国民全体の幸福度」を示す”尺度”である。GNPなどのように、金銭的・物質的豊かさを目指すのではなく、精神的な豊かさ、つまり幸福を目指すべきだとする考えから生まれたものである。
なぜこのような考えに至ったのかは、おおよそ想像することができる。1960年代から70年初頭にかけて、ブータンでは先進国の経験やモデルを色々研究したそうです。
その結果、「経済発展は、南北対立や貧困問題、環境破壊、文化の喪失につながり、必ずしも幸せにつながるとは限らない」という結論に達したというのだ。(私も、近年の日本を見ているとその通りだと思うことが多い。)
そこで、GNPなどで表される物質的豊かさを追い求めるのではなく、人々の「幸せ度」を増やすことを目指すGNHという考えを打ち出すことになったそうです。
ところで、人は何によって幸福を感じるのだろうか。それは、国によっても異なる。
日本では、どちらかと言えば、個人が恵まれることに重きを置いているのに対し、ブータンでは、家族や隣人などと仲良く暮らすことに重きを置いているように思われる。
ブータンでは、家族も、友人も、近所の人とも仲良く、いわば地域が一つの家族のように支え合っているそうだ。 経済的な発展一つとっても、日本や欧米では「自由な競争」を尊ぶが、ブータンでは「国民が等しく恵まれること」を目指すということで、一部の人間のみが恵まれる社会をよしてはしないようである。
GNPでは、およそ日本の20分の1のブータン王国の国民の95%が「自分は幸福と感じている」そうだが、目指すものが異なればそうなるのかもしれない。
ブータンの首相の言葉、「幸せとは、今、自分が手にしているものに感謝すること」も、意味深い言葉である。次から次へと「モノ」を追い求める私たちには、耳の痛い言葉であろう。
私の子ども時代は、一家に1台しか自転車がなかったが、今、大人の人数だけ車のある時代だ。電化は際限なく進み、エネルギー不足を補うためにどんどん原子力発電所を作り続ける。ひとたび、事故が起こればパニックになるのだ。
ブータンではないが、モノを追い続ける生活スタイルを少しは改め、あるモノに感謝してもう少しゆったりと暮らせる社会を作らない限り、世の中は豊かで平和にならないような気がする。
誰のために、24時間店を開け続けなければならないのだろうか。コンビニも深夜は休めばいいのではないのか。エネルギーの無駄遣いではないのか。
モノを作り続け、モノを買い続けなければ持続しないような社会はどこかおかしい。電話もなかった昔が、テレビもなかった昔が、必ずしも「今より不幸な社会」ではなかった。むしろ、逆であったかもしれない。
豊かになるにつれて、貧しい時代にはなかった「無縁社会」なる言葉が生まれるのはどこかおかしい。よくよく考えてみると、ブータンの社会とは、昔の日本そのものではなかろうか。
「GNPではなく、GNHを目指す」と公言するブータン国王こそ、21世紀のリーダーであるかもしれない。実際、世界を動かす100人の一人に選ばれているのだ。 物質に対する欲望を少しは押さえ、心の豊かさを目指していきたい。
(日記:午前中、家や車庫や事務所にある古いパソコンを引き取ってもらうために大野へ行った。広告に無料とあったからだ。本当に助かった。午後、編曲作業をしたり、孫と遊んだりして、のんびりと過ごした。夜、家内と孫が家内の作ったアンパンマンなどを使って「アンパンマン遊び」をしていた。)