今年は選挙の年だという
ただ投票率を上げようとする呼びかけが、今年も統一地方選挙を前に始まっている。選挙権を持つ高校生のために
学校を投票所にすることが過去にはあった。
しかもそれは、選挙運動の初日にだったように記憶している。選挙運動期間中に、候補者が何を訴えるかを聞く前に、投票をしてしまえというのだろうか。これでは、市民のレベルはいつまでも上がらない。
高校生も三年生になれば、順次18歳になって選挙権を持つようになる。しかし、その前にすべきことはないのだろうか。それは自分も社会を構成する一員だということを自覚するように、大人たちが指導する必要があるのではなかろうか。
急に選挙権を持っても、社会に関心を持たなければ棄権するか、選挙に出かけても誰に投票するかわからず、適当に投票するというのでは、ただ選挙に行ったという経験しか得られない。これでは、社会をよくするためにはつながらないのではないかと思ってしまう。
世界のどの国の人も戦争は望んでいないはずなのに
ウクライナの人も、ロシアの人も、アメリカの人も、中国の人も、生まれながらにして、他人を憎んだり、敵味方を決めつけたりはしないし、できないだろうと思う。
ところが、指導的な対場の人間が何も知らない大衆を教育し、互いにいわれのない対立を生み出すようにしているように思えてならない。それらが増幅して、互いに敵・味方を作りだしてしまうように思えてならない。
そして、敵を憎み、味方を守るために、話し合いではなく、武力を使っているように思える。そしてこのようなリーダを選んだのは、教育された一般大衆であるところに、この歯車がいつまでも回り続ける原因があるのだろうか。
選挙の年に当たって、この歯車を止めなければと思うのだが、簡単ではない。でも、この歯車をより速く回す方には組しないでいたいと思う。今日は、書きたいことをうまく書けないもどかしさがある。