RSS
 

食わず嫌い

25 1月

体験の大切さ
  辞書などには、「食わず嫌いとは、ある食べ物に対して否定的な固定観念を抱き、口にする前にその食べ物を拒絶すること」とあるが、私が述べたいのは、食べ物についての話ではない。

天神講で「焼きガレイ」をお供えし、孫達が賢くなることを祈った。

  どんなことでも、「やる前から否定的な見方をして、最初から興味を示さなかったり、拒否する」者が少なくないということだ。これは集団活動においても同様だ。

  我が勝山市では、いろんな団体の活動が低調になっている。動員などが多かったり、会合が多かったりするために、多くの人から敬遠されて、連合婦人会などの連合体は、市からは姿を消し、町からも、ほとんど姿を消してしまった。

 地区からも姿を消してしまったところが少なくない。婦人会の場合は、幸い我が片瀬地区には残っているが、活動は低調だ。こうした活動が、何のためにあり、何ができるかをいっしょに考えたいと思う。

  ボランティア的な団体もそうだ。会合に参加するのが面倒だということで、団体があっても参加しない者もいる。しかし、こうした団体に参加し活動してみると、いろんな仲間ができる。一緒にいろんなことに取り組むことによって結びつきが強くなり、仲間との楽しい交流が始まるのだ。

  どんな活動でもそうだが、前向きに取り組めば、充実感もあり、いろんな仲間ができると思っている。仲間が多ければ、人生が豊かになると思っている。始めから、面白くないとか、面倒だと拒否的な態度で臨むのは、「食わず嫌い」と同じ精神状態ではなかろうか。

  貴重な体験の機会を自ら放棄していることになる。老いも若きも、地域や職場やボランティアなどの活動に積極的に取り組んでほしいと思う。きっと、最初考えていた以上に、充実感を得られるのではないかと思う。「食えばうまい」のである。

紙芝居のためのポーズを家内に頼んだ。

(日記 昨日までの三日間は『かたせ瓦版』発行のために、多くの時間を費やした。昨日の夕方、それらから解放された。事務的なことはたくさんあるが、今日は一日絵を描くと決めた。午前中は、『親鸞聖人物語』の絵を一枚描いた。午後は、童話の紙芝居の絵を一枚完成させた。紙芝居の絵を描くときには、いろんなポーズの絵が必要だが、家内にポーズを取ってもらい、それをデジカメに撮っている。そして、それを元にして絵を描いている。今日は天神講。床の間の天神様に、「焼きガレイ」お供えし、孫達は賢くなることを祈った。そして、夜はそれをいただいた。我が家では、こうした行事は必ず行うことにしている。季節の変化を味わい、生活に潤いが出ると思っているからだ。)

上のポーズからできた紙芝居の絵。手には「子すずめ」を持っている。

 
2 Comments

Posted in 未分類

 

Leave a Reply

 

 
  1. 寺田幸彦

    2013年1月26日 at 12:08 AM

    山さんのおっしゃる様に“食わず嫌い”の方は多いと思います。
    食べてみて嫌いになるのならまだしも、食べずに嫌いになるのは“もったいない”ことです。

    上丹生でも、ボランティア精神を持った多くの方が、出番を見つけられずにおられます。
    いや、自分が勝手にそう思っています。
    誰でも自ら先頭に立ち事を起こすのは、勇気がいる事です。
    しかし、何かのきっかけで参加してみたら、楽しさや遣り甲斐に気づき、いつの間にかすっかり嵌まってしまう方もおられます。

    最初の“きっかけ”作りが重要なポイントだと思います。
    その一つが人から頼まれる事、人から頼りにされる事だと思います。
    人は基本的に、他人から頼りにされることは嬉しい事です。
    自分の存在価値を認めてもらい、自分を当てにしてもらえる事は、生き甲斐にも通じると思います。
    例えばイベント等で、ある人に来て欲しい時によく使う手ですが、その人に合った仕事(役目)を作ります。
    漠然と、「イベントに参加してよ」と声を掛けるのでは無く、「これはあんたの力が無いと駄目なんや、頼むわ!」と声を掛けます。
    一度断られても、懲りずに何度かお願いをすることもあります。
    口では「そこまで言うなら仕方ないなあ」と言いながらも、参加してくれれば締めたもの。
    あとは遺憾なくその力を発揮される場面を、過去にたくさん目にしてきました。
    炭窯を作る時の過去に炭焼きの経験をお持ちの方、ツリーハウスを作る時の元大工さん、共同でさつま芋を作る時の農業経験者の方、炭盆栽を作る時の園芸に興味を持っておられる方・・・等々。
    これはイベントだけでなく、自治の運営面でも言えることだと思います。

    手間は掛かりますが、人が集まらないと嘆くだけでは人は集まりません。
    プロKの根本にあるのは、地域の一番の資源であり、財産である「人」の力を引き出す事にあります。
    お年寄りから、数は減ってきましたが子どもや若者も地域には居ます。
    全てとは言いませんが、「出番」が見出せないでいる人も大勢おられます。
    (子どもの地域での出番は、教育の面でもとても重要なことです)
    上丹生に限らず、何処の地域にも存在する一番の資源は人財です。
    リーダーには、その人財を如何に活かせるかが問われています。
    土下座してでもお願いする位の覚悟も、時と場合によっては必要なのかも知れませんね。
    自分には、そこまでの覚悟はまだありませんが・・・。

     
  2. Norio Yama

    2013年1月26日 at 7:32 PM

     『人が資源である』との考えには全く同感です。私も、市教委へ入ったときに、何かの原稿で一番最初に書いたのは『事を為すのは人である』でした。
     観光地であっても、人が一番の資源であると思っています。何をするにも、人です。小布施にも、湯布院にも、上丹生にも、……、皆仕掛け人がいるんですね。寺田さんのように。

     それと、おっしゃるように、「人は誰でも自分の存在を認めてもらいたい」と思っている生き物なんですね。
     誰も認めてくれなかったり、誰も聞いてくれないと、自分から自慢を始める人がいます。もっとも、してはいけないことですね。

     我が地区の猪野瀬公民館の壁に『老人への心訓』として「老人で一番~なのは……すること」と7つの言葉を書いた学が掲げられています。
     その中の4番目に、「老人で一番醜いのは過去にしがみつくこと」とあります。誰も認めてくれないので、「俺はあのとき~をやった。」と自慢話を始めるのです。酒を飲むたびに自慢話を始めると周りの者は寄りつかなくなります。戒めたいことです。前向きも話をしたいですね。